世界はあまりにも残酷だった。
十五年前に身を持って知っていたはずのその事実を、一瞬でも忘れかけていたことを私達が気付かされたのは、その日の夜のことだった。
東京へは人目を避ける為に夜行バスで向かうことになっていた。23時40分発。バスのロータリーまでは私達の滞在しているホテルから徒歩で三十分程かかるらしく、その二時間程前から私は荷物を纏めていた。由奈が悲鳴にも似たような「えっ」という声をあげたのは、そんな時だった。
「由奈、どうした?」
翔太が声をかける。由奈の声色から瞬時に只事ではないと察した私と先生も由奈に目を向ける。
「い、ま、あのアカウントから呟かれた内容がどれくらい見られてるのかなと思ってみたら四百回くらいリポストされて、て」
「……嘘だろ」
「それで、何でこんな事にってXを遡ってみたら、これ」
由奈に携帯を手渡される。その開かれていた画面をみて私は愕然とした。
昨夜呟かれたポストを引用するかたちで、〈今、ぼうっとXみてたらいきなりこれあがってきて、名前検索してみたら本当に死んでるよ。これ、この五人生きてたらまじでやばくない!?〉と書かれていた。それも、それを呟いていたのはフォロワーが十一万人もいる女性のインフルエンサーだった。佐藤秋穂。アカウント名はそう表示されており、これからバズるであろう食べ物やゲーム、それからまだ陽の目を浴びていないアイドルグループやバンドグループなどをXに取りあげている人物のようだった。その女性が私達のことを呟いたポストは既に四百回もリポストされており、どれだけそのポストが見られているのかを把握する数字であるインプレッション数は六十八万に達していた。
「ポストされたの一時間前……なの」
たったの一時間で、これだけの数の人にみられていた。ということは、これが数時間、数日、と経てばこのポストの勢いは更に加速するはずだ。それに女性のコメント欄には、こいつらですよ、と私達の顔写真まで貼り付けられている。
「……先生」
縋るような目で、翔太が先生をみる。先生は携帯に目を落としたあと、ふぅっと息を吐いた。それは、落胆や悲壮感を孕んだようなものではなかった。言うならば、覚悟だったのかもしれない。由奈に携帯を手渡し、胸ポケットから自らの携帯を取り出す。素早く指を滑らせ、「皆さん」と普段よりも幾分大きな声で言った。
「今から一時間後にバスがあります。それに乗りましょう」
「えっでも、23時のやつは?」
「時間がありません。あのポストがこれ以上拡散される前に一刻も早く東京に向かい、陸斗くんを見つけだしましょう」
先生はこうなることを既に予測していたのかもしれなかった。昨夜のように取り乱すことなく、的確に指示を出していく。
「沙結さんはこの部屋についた全員分の指紋や毛髪を出来るだけ綺麗にして下さい。それから由奈さん」
一度は取り乱していた由奈も先生に声をかけられ背筋を正す。
「うん、なんでも言って」
「由奈さんは沙結さんのサポートをしつつ、全員の荷物を纏めて下さい。こうなってしまった以上はホテル側の従業員ですらも僕たちが生きているという情報提供者になりかねません。すなわち、何か一つでも痕跡を残すことは許されません。出来ますか?」
由奈は大きく頷き、鞄を手に取った。それを見届けてから先生は翔太に目を向けた。
「翔太くん、この十五年で能力はどれくらい引き伸ばせましたか?」
「たぶん五分くらいは」
「たぶんでは困ります。先程由奈さんにも言いましたが、この状況でミスは許されません。確実な時間を教えて下さい。大丈夫です、その時間の範囲によって計画を考えるだけですので」
私はベッドを拭きながら二人のやり取りをみていたが、責めているような雰囲気ではなかった。十分に翔太が考える余白が残されている。翔太もそれを感じ取ったのか、目に強いひかりを宿しながら言った。
「五分間は確実に大丈夫です」
「分かりました。五分で一階のエントランス周辺からホテルの入口に至るまで、怪しい人間がいないかみて回ることは出来ますか?」
先生がそう声をかけた瞬間、はい、と翔太の身体が薄くなっていく。身に纏っていた白いシャツが、ジーンズが、身体の輪郭が、まるで元からその場所には翔太が存在していなかったのようにその全てが透明になっていき、あっという間に翔太の姿はみえなくなった。程なくして扉の開く乾いた音だけが鼓膜に触れた。
「二人とも聞いて下さい」
先生は私と由奈の肩にそっと手を置いた。
「SNSで話題になっている僕たち四人が一緒に行動するにはあまりにも目立つので、104便には僕と翔太くん、105便には由奈さんと沙結さんでバスには二手に別れて乗って頂きます」
「それは嬉しいけど、なんで由奈と沙結なの?」
問い掛けられ、「能力の配分を考えました」と先生は短く答える。首を傾げている由奈をみて、先生は眼鏡にそっと手を添え持ち上げた。
「万が一咄嗟に身を隠す必要性が出てきた場合、沙結さんや翔太くんの力は大いに役に立ちます。僕や由奈さんの力は殺傷能力はありますが、その分人の目につきます。いや、人前で使うことなど決して許されません。そういったことを諸々考慮した結果僕は翔太くんと、由奈さんは沙結さんと行動を共にすることが一番理想的なかたちだと考えました」
端的なうえに的確に説明され、由奈は納得したようだった。「由奈の能力を人混みなんかで使ったら爆弾を落とすようなもんだもんね」とポケットからライターを取り出した。その火が、由奈の目が青く染まるのと同時に生き物のように揺れ動く。ゆらゆらと動きながらも、ライターの先端で人の形を模したものが何かのダンスをしている。
十五年前のあの日、私達の肉体には天使の魂が宿り不老不死の力を授かった。だが、それだけでは無かった。
──君たちの身体にはある変化が起きているはずです。きっと、今の君たちの頭の中には不老不死が浮かんだと思いますがそれだけではありません。たとえば、僕の場合だとこうなります。
先生は右手で一本の薔薇を手にしていた。艶のある綺麗な赤い花弁が、先生の手の中で咲いていた。だが、先生の目が宝玉のように青く染まったその瞬間、薔薇から微かに湯気のようなものが立ち昇り、白く染まった。「沙結さん、どうぞ」と手渡され、その薔薇に何が起きたのか分かった。茎は氷のようにつめたく、そしてそれは何かの金属のように固くなっていたのだ。
──これが僕の能力です。あともう一つありますが、それは危険過ぎるので追々としましょう。天使にはそれぞれ特異な力があります。世間一般でいう超能力のようなものでしょうか。どんな能力が芽生えているのかそれは分かりませんが、天使の魂が宿った皆さんも使えるようになっているはずです。
結果、翔太には自らの肉体や触れたものを透過させる力が、由奈には火や水や土などの五大元素を自在に操る力が、私は人に幻覚をみせ、陸斗には一度触れた人間の身体を自由自在に操る力が宿っていたのだ。このような特異な力が使えると分かった時、今更驚きはしなかった。私は一度死に、息を吹き返した肉体は、老いることも死ぬことも出来なくなっていた。例えるなら、欲しくて買った雑誌にちいさなトートバッグが付いてきた、というような感覚だった。ただ、もう私は人ではないんだな、という考えは、音もなく押し寄せてきた。
ひとりでに扉が開いたかと思えば、気付いた時には翔太が私の隣に立っていた。
「ホテルの周りを二周しましたが怪しい人はいなかったように思います」
翔太のその声に、先生はちいさく頷いた。
「この部屋から出たその瞬間から別行動をとりましょう。東京に着いたら僕と翔太くんは一先ずホテルに向かいますので、二人は後から来て下さい。場所は追って連絡します」
ちいさく頷いた私達をみて、先生は微かに笑みを浮かべた。
「翔太、気をつけてね」
先生の隣に立つ翔太に声をかけると、「うん。沙結も」とぽつりと呟き、廊下に出ていった先生のあとへと続いた。だが、程なくして再び部屋の中へと戻ってきた翔太は一枚の紙切れを私に握らせた。
「バスに乗る前にみて」
耳元で囁くようにそう言われていたが、私は翔太が部屋から出ていってからすぐに手のひらの中に収まっていたちいさな紙切れを広げた。その瞬間、私は目を見開いた。
〈東京には行くな〉
紙にはそう書かれていたのだ。肩を叩かれ振り返ると、「翔太から何貰ったの」と由奈に問い掛けられる。
「ううん、なんでもない」
翔太から貰った紙は、ぐしゃぐしゃに丸めてポケットに仕舞った。
十五年前に身を持って知っていたはずのその事実を、一瞬でも忘れかけていたことを私達が気付かされたのは、その日の夜のことだった。
東京へは人目を避ける為に夜行バスで向かうことになっていた。23時40分発。バスのロータリーまでは私達の滞在しているホテルから徒歩で三十分程かかるらしく、その二時間程前から私は荷物を纏めていた。由奈が悲鳴にも似たような「えっ」という声をあげたのは、そんな時だった。
「由奈、どうした?」
翔太が声をかける。由奈の声色から瞬時に只事ではないと察した私と先生も由奈に目を向ける。
「い、ま、あのアカウントから呟かれた内容がどれくらい見られてるのかなと思ってみたら四百回くらいリポストされて、て」
「……嘘だろ」
「それで、何でこんな事にってXを遡ってみたら、これ」
由奈に携帯を手渡される。その開かれていた画面をみて私は愕然とした。
昨夜呟かれたポストを引用するかたちで、〈今、ぼうっとXみてたらいきなりこれあがってきて、名前検索してみたら本当に死んでるよ。これ、この五人生きてたらまじでやばくない!?〉と書かれていた。それも、それを呟いていたのはフォロワーが十一万人もいる女性のインフルエンサーだった。佐藤秋穂。アカウント名はそう表示されており、これからバズるであろう食べ物やゲーム、それからまだ陽の目を浴びていないアイドルグループやバンドグループなどをXに取りあげている人物のようだった。その女性が私達のことを呟いたポストは既に四百回もリポストされており、どれだけそのポストが見られているのかを把握する数字であるインプレッション数は六十八万に達していた。
「ポストされたの一時間前……なの」
たったの一時間で、これだけの数の人にみられていた。ということは、これが数時間、数日、と経てばこのポストの勢いは更に加速するはずだ。それに女性のコメント欄には、こいつらですよ、と私達の顔写真まで貼り付けられている。
「……先生」
縋るような目で、翔太が先生をみる。先生は携帯に目を落としたあと、ふぅっと息を吐いた。それは、落胆や悲壮感を孕んだようなものではなかった。言うならば、覚悟だったのかもしれない。由奈に携帯を手渡し、胸ポケットから自らの携帯を取り出す。素早く指を滑らせ、「皆さん」と普段よりも幾分大きな声で言った。
「今から一時間後にバスがあります。それに乗りましょう」
「えっでも、23時のやつは?」
「時間がありません。あのポストがこれ以上拡散される前に一刻も早く東京に向かい、陸斗くんを見つけだしましょう」
先生はこうなることを既に予測していたのかもしれなかった。昨夜のように取り乱すことなく、的確に指示を出していく。
「沙結さんはこの部屋についた全員分の指紋や毛髪を出来るだけ綺麗にして下さい。それから由奈さん」
一度は取り乱していた由奈も先生に声をかけられ背筋を正す。
「うん、なんでも言って」
「由奈さんは沙結さんのサポートをしつつ、全員の荷物を纏めて下さい。こうなってしまった以上はホテル側の従業員ですらも僕たちが生きているという情報提供者になりかねません。すなわち、何か一つでも痕跡を残すことは許されません。出来ますか?」
由奈は大きく頷き、鞄を手に取った。それを見届けてから先生は翔太に目を向けた。
「翔太くん、この十五年で能力はどれくらい引き伸ばせましたか?」
「たぶん五分くらいは」
「たぶんでは困ります。先程由奈さんにも言いましたが、この状況でミスは許されません。確実な時間を教えて下さい。大丈夫です、その時間の範囲によって計画を考えるだけですので」
私はベッドを拭きながら二人のやり取りをみていたが、責めているような雰囲気ではなかった。十分に翔太が考える余白が残されている。翔太もそれを感じ取ったのか、目に強いひかりを宿しながら言った。
「五分間は確実に大丈夫です」
「分かりました。五分で一階のエントランス周辺からホテルの入口に至るまで、怪しい人間がいないかみて回ることは出来ますか?」
先生がそう声をかけた瞬間、はい、と翔太の身体が薄くなっていく。身に纏っていた白いシャツが、ジーンズが、身体の輪郭が、まるで元からその場所には翔太が存在していなかったのようにその全てが透明になっていき、あっという間に翔太の姿はみえなくなった。程なくして扉の開く乾いた音だけが鼓膜に触れた。
「二人とも聞いて下さい」
先生は私と由奈の肩にそっと手を置いた。
「SNSで話題になっている僕たち四人が一緒に行動するにはあまりにも目立つので、104便には僕と翔太くん、105便には由奈さんと沙結さんでバスには二手に別れて乗って頂きます」
「それは嬉しいけど、なんで由奈と沙結なの?」
問い掛けられ、「能力の配分を考えました」と先生は短く答える。首を傾げている由奈をみて、先生は眼鏡にそっと手を添え持ち上げた。
「万が一咄嗟に身を隠す必要性が出てきた場合、沙結さんや翔太くんの力は大いに役に立ちます。僕や由奈さんの力は殺傷能力はありますが、その分人の目につきます。いや、人前で使うことなど決して許されません。そういったことを諸々考慮した結果僕は翔太くんと、由奈さんは沙結さんと行動を共にすることが一番理想的なかたちだと考えました」
端的なうえに的確に説明され、由奈は納得したようだった。「由奈の能力を人混みなんかで使ったら爆弾を落とすようなもんだもんね」とポケットからライターを取り出した。その火が、由奈の目が青く染まるのと同時に生き物のように揺れ動く。ゆらゆらと動きながらも、ライターの先端で人の形を模したものが何かのダンスをしている。
十五年前のあの日、私達の肉体には天使の魂が宿り不老不死の力を授かった。だが、それだけでは無かった。
──君たちの身体にはある変化が起きているはずです。きっと、今の君たちの頭の中には不老不死が浮かんだと思いますがそれだけではありません。たとえば、僕の場合だとこうなります。
先生は右手で一本の薔薇を手にしていた。艶のある綺麗な赤い花弁が、先生の手の中で咲いていた。だが、先生の目が宝玉のように青く染まったその瞬間、薔薇から微かに湯気のようなものが立ち昇り、白く染まった。「沙結さん、どうぞ」と手渡され、その薔薇に何が起きたのか分かった。茎は氷のようにつめたく、そしてそれは何かの金属のように固くなっていたのだ。
──これが僕の能力です。あともう一つありますが、それは危険過ぎるので追々としましょう。天使にはそれぞれ特異な力があります。世間一般でいう超能力のようなものでしょうか。どんな能力が芽生えているのかそれは分かりませんが、天使の魂が宿った皆さんも使えるようになっているはずです。
結果、翔太には自らの肉体や触れたものを透過させる力が、由奈には火や水や土などの五大元素を自在に操る力が、私は人に幻覚をみせ、陸斗には一度触れた人間の身体を自由自在に操る力が宿っていたのだ。このような特異な力が使えると分かった時、今更驚きはしなかった。私は一度死に、息を吹き返した肉体は、老いることも死ぬことも出来なくなっていた。例えるなら、欲しくて買った雑誌にちいさなトートバッグが付いてきた、というような感覚だった。ただ、もう私は人ではないんだな、という考えは、音もなく押し寄せてきた。
ひとりでに扉が開いたかと思えば、気付いた時には翔太が私の隣に立っていた。
「ホテルの周りを二周しましたが怪しい人はいなかったように思います」
翔太のその声に、先生はちいさく頷いた。
「この部屋から出たその瞬間から別行動をとりましょう。東京に着いたら僕と翔太くんは一先ずホテルに向かいますので、二人は後から来て下さい。場所は追って連絡します」
ちいさく頷いた私達をみて、先生は微かに笑みを浮かべた。
「翔太、気をつけてね」
先生の隣に立つ翔太に声をかけると、「うん。沙結も」とぽつりと呟き、廊下に出ていった先生のあとへと続いた。だが、程なくして再び部屋の中へと戻ってきた翔太は一枚の紙切れを私に握らせた。
「バスに乗る前にみて」
耳元で囁くようにそう言われていたが、私は翔太が部屋から出ていってからすぐに手のひらの中に収まっていたちいさな紙切れを広げた。その瞬間、私は目を見開いた。
〈東京には行くな〉
紙にはそう書かれていたのだ。肩を叩かれ振り返ると、「翔太から何貰ったの」と由奈に問い掛けられる。
「ううん、なんでもない」
翔太から貰った紙は、ぐしゃぐしゃに丸めてポケットに仕舞った。