フルリを出たのは夜の八時を回った頃だった。店の前に停めていた自転車に跨り、潮風を全身で受け止めながらペダルを漕ぐ足に力を込める。胸元まで流している私の髪がふわりと広がり、優しく後ろに引っ張られる。

 並木道を抜け、防波堤沿いを突き進んでいく。辺り一帯は、既に夜が溶け落ちていた。私が住んでいるこの町は、ちいさな港町だからか街灯もあまり多くない。自転車のライトだけを頼りに足を動かし続けた。

 私は店から自転車で十分程の距離にあるアパートに住んでいる。築年数が古いうえに年中潮風にさらされているせいか、外装は剥げている。でも、十五年も住めば愛着も湧くもので住心地は良かった。自転車を停めてから、二週間ぶりにポストへと向かった。私宛に届くものなど何もないと分かっている為に、ゴミの処理をするような感覚で私は月に二度だけポストを開く。一枚ずつすっと目を通してから足元のゴミ箱へと放り込んでいった。手にしていたチラシの束だったものが残り数枚足らずになった時だった。チラシの間に一通の白い封筒が混じっていることに気付いた。裏返してはみたが、差出人の名前が書かれていない。

「なにこれ」

 思わず呟いてしまう。なんだか気持ち悪かった。階段を昇りながら封を切った。金属を踏み鳴らす音が、かつかつとちいさく鳴る。だが、中に入っていた紙切れを取り出したその瞬間、私は衝撃のあまりに「いやっ」と上ずった声をあげたのと同時に紙を投げ捨て、咄嗟に手すりを掴んでしまった。反対の手で階段に落ちた紙切れを拾い上げる。指先が微かに震えていた。なにかの見間違いかもしれない。いや、そもそも私宛ですらないかもしれない。今の自分の早鐘のように打ち始めた鼓動を宥めるように、現実から目を逸らす思考を頭の中に幾つも張り巡らせた。

 だが、再び手紙に目を落としたその瞬間、それらは全て音もなく砂のように崩れ落ちていった。

〈東堂沙結|《とうどうさゆ》 様

 あなたが今も当たり前のように息を吸い、この世界で生きていることを知っています。〉

 硬い材質の、その紙には確かにそう書かれていた。それは、私の名前だった。今の、佐久間美月|《さくまみつき》という名を名乗る前の、私の名前だった。気付いた時には手紙を強く握り締めていた。

 あり得ない。なんで? その名で生きていた頃の私は、この世界ではもう死んだことになっている。だけど、少なくとも、この手紙を私に充てた人物は私が生きていることを知っている。そう思った瞬間、全身の肌が粟立った。手すりの隙間から外を見渡す。そこには、夜の纏う闇が広がっているだけだった。だが、それは私の知っている夜ではなかった。あたたかくも、つめたくもない、温度の無い深い闇が、触れただけで呑み込まれてしまいそうな闇が、音もなく押し寄せてきているように感じた。

 怖い。そう思った時には、階段を駆け出していた。すっと立ち上がることが出来なくて、這うようにして自分の部屋へとなだれ込んだ。鍵を閉め、チェーンをかける。玄関で靴を脱ぎ捨て、今朝家を出た時のままの状態であった事になど今さら安堵を覚える事など出来なくて、リビングにある鏡台の引き出しを片っ端からひっくり返した。十五年間、この町で生きてきた間に私の傍に置いてきた雑貨や生活用品が無様に床に散乱し、私は自分の両手をその中へと乱雑に彷徨わせた。

 目当てのものを探し当てるまでにそう時間は掛からなかった。水色の、携帯電話だ。確か前回充電したのは一週間程前。電池はまだ切れてないはず。お願い。早く、早くして。電源ボタンを長押しにし、立ち上がるまでの時間が果てしなく遠く感じた。

 34%。光を放った画面にはそう表示されていた。急いで電話番号を打ち込んでいくが、指先が震えているせいで何度も不要な数字を打ち込んでしまう。ようやく番号を打ち込んでからすぐに耳に押し当てる。電話の向こうの相手が出てくれたのは、三回目のコール音が鼓膜に触れた時だった。

「美月さん、どうしましたか?」

 一年ぶりに聞くその声は、抑揚のない普段の声からは想像も出来ない程に焦っているように思えた。

「先生! 庭先に植えていた花が盗まれました」

 予め決めていた緊急時の暗号を私が口にすると、「分かりました。すぐに電話を切りなさい!」と私が切るよりも先に電話が切れ、一定のリズムを刻み続ける通知音が嫌に鼓膜に残り続けた。