由奈から携帯を受け取った先生は、その瞬間大きく目を見開いた。ふぅっと、空気が抜けていくような息を吐き、由奈の携帯をゆっくりとベッドに置いた。(おもむろ)に立ち上がったかと思えば、それからは今までにみたことがないくらいに取り乱していた。悲痛な声をあげ、テーブルの上に置いてあったグラスを壁に投げつけた。私達は初めてみる先生の荒々しい姿に狂気すら感じてしまい、ただ呆然と眺めることしか出来なかった。

「………なんてことだ。僕が一番恐れていたことが現実に」

 微かに息を荒げながら先生はそう言った。ソファチェアに崩れるように座り、頭を抱えている。

「ねぇ先生ならなんとか出来るでしょ?
これ、どうにしかしてよ」

 携帯を手にしながら由奈が訴えかけると、薄く笑った。

「君は、僕の前の職業を忘れてしまいましたか?」
「先生でしょ?」
「そうです。生徒や保護者、それから他の教員たち。大勢の目にさらされる教師という仕事が出来ていたのは、誰にもバレていなかったからです。十五年に一度町や名前を変え、僕が年を取らないことを、天使であることを誰にも知られていなかったからです。だけど、もうそんな人生は送れないでしょう。あれが万が一拡散されたら僕たちはもう二度と陽の目を見ることは出来ないっ! 君は……そんなこともわからないんですか」

 室内に静寂が降りた。程なくして、由奈の洟を啜る音が鼓膜に触れる。先生は頭を掻きむしりながら「あれは凶器です」とぽつりと呟く。

「それまで力を持っていなかった者が、SNSの力によって一国を動かしたことだってそう珍しいことじゃない。だけど、誰かの発した発言によって誰かが地獄の底に叩き落とされることだって珍しいことじゃないんです。それは、SNSと共に生きてきた君たちが一番よく分かっているはずです」

 私は立ち尽くしたまま、先生の放った言葉に耳を澄ませていた。いじめや自殺、誰かが誰かにプライベートを晒される。先生の言う通りそんなことは毎日日本のどこかで当たり前のように起きていた。SNSはボタン一つで世界中の誰とでも繋がることが出来る。だがそれは世界中の誰もが自分と繋がることが出来ることも意味している。たとえ、本人が望んでいなくても。

「あの文章を読んだ誰かがきっと、十五年前の記事を掘り起こすでしょう。面白半分で僕たちの顔写真を再びネットにあげる者もいるはずです」

 十五年前、私達の事件をワイドショーが騒ぎ立てていた頃、SNSには連日のように私達の顔写真があがった。教室で騒いでいる時の写真や、体育祭の時のもの、中学の時の卒業写真まで。初めは私達に近しい関係の誰かが面白半分でSNSにあげたのだと思う。だが、それが拡散され、私達が顔も名前も知らない誰かがあたかも自分は私達のことを全て知っているかのように騒ぎ立て、それから私や由奈の中学の卒業写真に至っては点数をつける者までいた。

「もしあれが拡散されたら、僕たちが生きている事はいずれバレてしまうでしょう。そうなったら終わりです。僕が生まれた頃にはあんな代物は無かった。時流と共にうまく共存してきたつもりではいましたが、僕は……甘かったのかもしれません」

 室内に静寂が再び降りかけたその時、それを打ち破るように由奈が静かに声を放った。

「全て……無駄だったってこと?」

 目の淵から涙を流しながら、先生に問い掛ける。

「皆、先生の言う通りにしてきたんだよ? 先生を信じて、言われた通りにさえしてれば自分たちは大丈夫だって、家族は大丈夫だって、この十五年間隠れて生きてきたんだよ?」

 先生は頭を抱えたまま、口を開く気配はなかった。代わりに、部屋に備え付けられている冷蔵庫の中から物音が聴こえた。何かが倒れたような、動いているような音だった。由奈の手が微かに震えており、瞳が青く染まり始めている。私はまずいと思った。

「由奈」

 思わず声をかける。

「家族にも、友達にも、死んだって思われて」
「落ちついて」

 冷蔵庫の中からは何かが暴れ回っているような物音が聴こえた。それが、波打つように次第に大きくなっていく。

「たった一人で生きてきた」
「由奈、駄目」
「それが全部無駄だったってこと? 返してよ」

 由奈の瞳は、宝玉のように青く染まっていた。その由奈の右手がゆっくりと持ち上がったその瞬間、私は「由奈っ!」と声を張り上げた。だが、遅かった。

「私の人生を返してよっ!!」

 空気を切り裂くような声が響き渡ったのと同時に冷蔵庫が内側から蹴破られたかのように開き、中から飛び出してきたペットボトルが宙を舞う。透明な容器の中にある水がまるで生き物のように揺れ動き、一瞬にしてペットボトルを引き裂いた。溢れ落ちた水が重力に導かれるように地に落ちていくかと思えば、うねりながらも刃物のようなかたちへと変形し、それが先生の首元へと向かった。私は「いや」と上擦った声をあげ、咄嗟に目を瞑ってしまう。

「……やらないんですか?」

 ゆっくりと瞼を開くと、水で作りあげられた刃物の切っ先は先生の首に触れる寸前で止まっていた。

「殺したいならやればいい。それで気が済むならどうぞ殺してみて下さい」

 先生は、水で作りあげられた刃物どころか、由奈の顔をみようともしていなかった。きっと、本心で死を恐れていないのだろう。

「どうしました?」

 由奈の身体に動きがないことに辟易したように先生はようやくゆっくりと顔をあげた。

「何を躊躇っているんです。早くやりなさい!」

 その声に由奈は身体をびくっと揺らし、それから右手をゆっくりと下げた。刃物のかたちを伴っていたものが一瞬にしてかたちを無くし、重力に導かれるように地面に叩きつけられた。

「……嫌だ。由奈は、人殺しじゃないからやらない。けど、天使でもないよ。由奈が天使だなんて、やっぱり認めなくない。不老不死の身体だって、こんな力だって、望んだことなんて一度もない! 由奈は……ふつうの女の子として生きたかったよ」

 胸の奥底から振り絞るようにそう言って、部屋を飛び出していった。扉の閉まる乾いた音が鼓膜に触れた時、沙結さんと先生に声をかけられる。

「今の僕たちは誰に姿をみられても危険です。だから」

 聴き終える前に、私は部屋を飛び出して由奈を追いかけた。扉が閉まる寸前、私は一度振り返った。その隙間からみえた翔太の顔を見て、ずっと口を閉ざしていた理由が分かった。翔太は歯を噛み締めるようにして、涙を流していた。