十五年前、私達の間には幾つかのルールが設けられた。そのひとつのきっかけになったのは、由奈が家族の元へと帰ろうとしたからだった。

 ──僕は、第六の天使です。

  先生が私たちにそう告げたその翌日、深い森の中で由奈の悲痛な声が響き渡った。

「いや! 離してよ!」
「駄目だって!先生が危ないって言ってただろ?」
「由奈には家族がいるの! きっと心配してる……このまま一生会えないなんてそんなの無理。翔太はいいの?」

 二人の悲痛な声に飛び起きるようにして目を覚ました頃には、私の隣に眠っていた陸斗や先生も身体を起こしていた。窓の向こうで二人が揉み合っているのがみえ、急いで外へと駆け出した。

 夜が明けたばかりの、うっすらと青みがかった世界が目の前には広がっていた。ちいさな鳥が木々の間をすり抜けていき、程なくしてさえずりが聴こえてくる。幾重にも折り重なる木々が作り出したトンネルの手前で由奈は泣き崩れていた。翔太は腰を屈め必死に宥めていたようだった。

「皆、部屋に戻って下さい。少し話しをしましょう」

 部屋の中央にあるテーブルに私達は腰を下ろした。先生は温めたばかりのコーヒーを私達の前に一つずつ置いてくれた。カップから立ち昇る湯気が音もなく揺れていた。

「由奈さん」

 今だに泣き続ける由奈に先生が優しく声をかける。

「家族は大切ですか?」
「当然、でしょ? だって……由奈の家族だよ?」
「それじゃあ、今度は質問を変えます。由奈さんは、家族に危険な目にあって欲しいですか?」

 えっ、と由奈が顔をあげる。目の淵から溢れ落ちた涙が、つぅっと頬を流れ落ちていった。

「君の肉体が、もうこれまでのものとは全く変わってしまった事は昨日分かったと思います。もし仮に由奈さんが自分の家族にそれを秘密にし、これまでと同じように生活をしていたとして、奴らにあなたの秘密が知られたら、あなたの居場所が知られたらどうでしょう? 恐らくあなたの家族は無事では済みません。奴らにとっては人を殺すか殺さないかの選択など、その日の朝食を摂るか摂らないかと同じくらいに些細な事なのです。そのうえで、もう一度お聞きします。君は、家族に生きていて欲しいですか?」

 問い掛けられ、既に溢れかけていたバケツから水が溢れるみたいにわっと嗚咽を漏らした。それにつられるように、私達も涙を流した。

──これまでの人生はもう二度と歩めない覚悟を持って下さい。

 昨日、先生はそう言った。それから付け足すようにして、「君たちにはこの世界で死んだことになって貰います。つまり、家族にはもう二度と会えないものだと考えて下さい」と告げられていた。その時の私達は自分の身に起きた事実を知ったばかりで、先生の放った言葉はあやふやな輪郭でかたちを伴っていなかったのかもしれなかった。けれど、由奈のことがきっかけでそれが確かな輪郭を保ったまま浮かび上がった。由奈は泣きながらも、何度も頷いている。覚悟を決めたようだった。家族が大切だから、愛しているからこそ、その選択を選ぶしかない。

「皆は、どうですか?」

 先生の放ったその言葉に、全員が頷いた。

 そして、その数時間後、私達は死んだ。

 先生の描いたシナリオはこうだった。あの事故で私達は実際に全員が一度死んだが、シナリオでは翔太と由奈だけが死んだことにした。運転をしていた陸斗は生き残ってしまった責任と自分のせいで友人を殺めてしまったという罪悪感を感じながらも事故を隠蔽しようとする。そして、私はそれに同情し、その隠蔽工作に手を貸したという設定だった。

 車内には私達の実際の血痕がある。けれど、横転した車に遺体がない以上はそれが事故として処理されることはない。だからこそ、あの車を木っ端微塵に爆発させる必要があった。私の携帯から先生には事故が起きた旨を伝えるLINEをまず送り、その後私と陸斗は一度街までおりていった。目的は二つあった。ガソリンを買いに行くことと、付近の監視カメラに私と陸斗が映ること。後のシナリオに信憑性を持たせる為だった。

 その間に先生は以前から懇意(こんい)にしているという売人から豚の死体や炭素やリン、それから除草剤やスキューバダイビングのセットなどを買いにいき、私たちと先生が合流した頃には翔太と由奈は歯を何本か抜いていた。爆発で粉々にした現場には、歯の治療痕を提供してあげればいいでしょうという先生の提案だった。全ての用意が整った段階で、車を爆破した。

「……もう、引き返せないな」

 燃え上がる木々や、車の残骸をみながら陸斗が言った。

 そして、隠蔽工作を行った私と陸斗はその後先生の車を走らせた後に県境にある岬へと向かった。切り立った崖の上に綺麗に整列させた靴と事前に用意していた遺書を携帯に残し、自殺を匂わせた。それまでの間に私の携帯からは先生の携帯に対して、とんでもないことをしていました、もう終わらせます、などといった文章を送信しておく。

 先生は、事故が起きたこと、それから生徒二人が偽装工作をし命を絶つことを止められず責任を感じているというシナリオに沿い、その翌日に部屋の中に遺書だけを残し、監視カメラがある海沿いの道をあえて歩いた後に岬へと向かう。そこには事前に私と陸斗が車から積み降ろしていたスキューバダイビングのセットが隠されており、約一キロ進んだ先にある深い林へと繋がる海辺まで海中を進んだ。私と陸斗はスキューバダイビングの経験が無かった為に、救命胴衣とシュノーケリングだけで極力浅瀬を選びながら海を渡った。

──警察は、自殺、あるいは事件の両方の観点から僕たちの件を追うでしょう。恐らく警察犬も導入されるはずです。たとえ遺書を残しても再び道路を歩けば犬の嗅覚によって偽装だとバレてしまう。だから、海中に潜ることによってその匂いもろとも消し去ってやりましょう。

 この計画を実行に移す数時間前、あの深い森の奥にある家で、テーブルを囲んで座る私達四人にまるで授業をするかのように先生は一つ一つ手順を説明していった。当然のことながら、こんな偽装計画を当時高校生だった私達四人には思い付きもしなかっただろう。だが、先生がいてくれたおかげで計画は見事に成功した。私達は痕跡をあえて残しながらも、足取りを完全に消した。

 この世界では死んだことになってから一ヶ月が経った頃「話があります」と先生に言われた為に、私達は再び木製のテーブルを囲むようにして椅子に腰掛けていた。カップを手にしながら、先生は私達に順に視線を配らせた。

「これから僕が言うことは、誰か一人に課すルールではありません。僕を含めた全員が、このルールには従って頂きます。ひとつ、これから皆さんには日本各地に散り散りになって潜伏して頂きますが、不測の事態が起きない限りは決してそのエリアから動かないこと。ひとつ、十五年に一度町を変えること。移動するタイミングは十六年目の春から夏にかけて。ひとつ、決して仲間内で連絡を取り合わないこと。伝言や近況報告は僕が承りますから、必ず僕を通して下さい。これは、全員を守る為のルールです。誰か一人でも破れば自ずとその人物は危険にさらされ、そしてゆくゆくは僕たち全員を危険にさらすことになります」

「だから」と先生は一度そこで言葉を切った。私達の座るテーブルにカップを置いた。まだ湯気が立ち昇っている。

「もしこの中からルールを破る者が現れた場合、残念ですが僕は躊躇(ためら)うことなく罰を与えます」

 全員の胸を冷やすような言葉を吐いておきながら先生の眼鏡の奥にみえる瞳はその日も穏やかな色を纏っていた。