岩の隙間を縫うように流れる小川を一キロ程歩くと、道路の路肩に灰色のバンが停まっているのがみえた。先生に言われた通りに木陰に隠れ、それから十分程待っていると土を踏み鳴らす音が鼓膜に触れた。

「出てきていいですよ」

 先生のその声に、私達は猛獣から隠れていた羊のように背中を丸めながらぞろぞろと出ていき、車に乗り込んだ。

「これから緊急時の為に用意していた僕の隠れ家に向かう為、一時間程車を走らせます。途中で一箇所オービスと監視カメラがあるので走行中はなるべく身体を屈めて顔を隠していて下さい」

 監視カメラにオービス。そんなものを、私達が気にしなければならないのだろうか。罪を犯した訳でもないのに、私達は本来治安を守るべくしてあるべきものから必死に身を隠している。まるで犯罪者のようだった。身体を屈め、顔を隠し、車の走行音だけに耳を澄ませている間、私はずきりと痛み始めた胸を抑えながらそんなことを考えた。

 車は先生が言っていた通り一時間程走行してから停まった。窓から顔を覗かせると、枝葉を広げた木々が幾重にも折り重なるトンネルのようなものがあり、それがずっと先まで続いている。その奥には木造の建物がみえる。青みがかった世界が、私の目の前には広がっていた。辺りにはひかりがないのに、確かに見える。もう、違和感を感じなくなっていた。

 車から降りた私達は、自然が織りなすトンネルを歩き、木造の家へと足を踏み入れた。先生がスイッチをいれると飴色の間接照明が部屋に灯る。木造の四人がけのテーブルが一つと、布製のソファが一つ。入ってすぐのところにはキッチンがあり、部屋の奥には暖炉があった。もう長い間、使われていないみたいだった。すすがこびりついている。

「そのテーブルに座っていて下さい。寒いですよね。今、火を入れます。あと、由奈さんにはこれを」

 先生が手渡したのは、茶色の毛布だった。制服が破れ下着がみえてしまっていた由奈のことを気遣ったのかもしれない。言わがれるまま、私達は椅子に腰を下ろした。由奈は無言で受け取った毛布を身体に羽織った。車に乗り込んでから今に至るまで、誰一人として口を開いてはいなかった。私達は事故に遭い、車内には致死量を超えた血液が流れていた。にも関わらず、私達の身体には傷一つない。何かが、起きていた。これまで見聞きしたことすらない何かが私達の身体には現実として起きていた。そして、その答えを先生は知っている。自分には解くことが出来ない、難解な問題の答えの教えを請う生徒の如く、私達は先生に答えを求めていた。

 先生は暖炉に薪をくべ、火をつけた。円錐状に組まれた薪から赤い炎がたち、ぱちっ、火花が散る音が鼓膜に触れた。薪についていた火が安定した事を見届けてから、先生はすっと立ち上がり手を払った。それから私達に一人一人に順に視線を配る。先生の真後ろでは赤いひかりを放つ炎がゆらゆらと揺れていて、顔には陰がかかっていた。

「今から僕が話すことは、にわかには信じられない話だと思います。受け入れることは容易ではないでしょう。現に、僕自身がそうでした。混乱し、吐き気をもよおしたこともありました。ですが、真実です。そして、僕の身に起きた事は君たち全員の身体にも確かに起きている事実だという事を前提に聞いて下さい」

 全員が息を呑んだ。ごくり、という音が火花が散る音と混じり合う。

「僕は」

 そこで一度区切りをつけたのは、話すことを一度躊躇(ためら)ったからなのかもしれなかった。だが、程なくして意を決したように先生が言った。

「僕は、第六の天使です」

 先生がそう言った瞬間、陸斗が鼻で笑った。

「陸斗くん、まずは話を聞いて下さい」
「はあ? こんなふざけた話聞いてられるかよ。頭おかしいんじゃねぇの?」

 吐き捨てるようにしてそう言って、陸斗は立ち上がった。すぐさま先生が「陸斗くん」と呼び止める。

「どこにいくつもりですか?」
「家に帰る」
「その血塗れの格好でですか?」
「だから今帰るんだよ。夜が明ける前なら人にみられずに帰れるかもしれない」 

 ドアノブに手をかけた陸斗は「何してんだよ。お前らも一緒に帰ろうぜ」と促してくる。けれど、誰も立ち上がろうとはしなかった。私も由奈も翔太も答えを求めていたのだと思う。きっと内心は、陸斗もそうだったのだろう。

「君はそれだけの血を身体に浴びて起きながら、誰一人として傷がない理由を知りなくないのですか?」

 だからこそ、先生がそう声をかけた瞬間陸斗は立ち尽くし、程なくして何も言わず自らの席に戻ってきたのだと思う。それから先生は時間をかけながら話してくれた。自らの出生の話から始まり、最後は何故私達の身体に傷一つ無かったのかに至るまで、全てを話してくれた。聞き始めた時には薪全体を包み込むように灯っていた炎は、最後には一回りも二回りも小さくなっていた。

──これが、君たちの身体に傷が無かった理由です。

「……嘘でしょ? 由奈が、てん、し?」

 先生が緩やかに言葉を締めくくったあと、私の隣に座る由奈がそう呟いた。ゆっくりと持ち上げた両手を、自らの頬に沿わせている。その手が震えていた。私も、身体の震えが止まらなかった。今聞いたばかりの話をどうやって脳内で咀嚼し受け入れたらいいのか分からなかった。

「今すぐに受け入れろとは言いません。ですが」と先生は私達の顔色を伺うように言葉をかけてきていた。その先生の胸ぐらを、ふっと立ち上がった陸斗が風のような速さで掴んだ。壁に押し付け、ぎりぎりと先生の身体を持ち上げていく。

「ふざけ、んなよ。事故に遭って混乱した俺たちを洗脳でもしようとしてんのか? あんたが明治の初期に生まれただと? おまけに天使で、俺たちもあんたと同じように天使だって言うのか?」
「……はい」

 先生はどれだけ胸ぐらを掴まれ首を締め付けられようとも、抵抗する気がないようだった。顔を俯いたまま、ただ頷いている。

──僕が生まれたのは、明治のはじめの頃でした。今から約百五十年前のことになります。

 ついさっき、確かに先生はそう言っていた。時代の大きな転換期であった明治の初期という時流に揉まれながら生まれ、それから二十六年という若さで先生はこの世を去ったのだという。冬の気配がそこら中にたちこめていた、先生が二十六歳の誕生日を迎えた翌日のことだった。先生は幼少期から心臓に持病を持っていた。そして、自分の病状が良くないことも分かっていた。終わりが近いのであればせめて誰かの役に立とう。その想いから医学の進歩の為になるのならと治験を受け、自らの病状を日記に書き留めていた。その日も机に向かい日記を書いていた最中だったが、先生の心臓はついに動きを止めた。次第に遠くなっていく意識の中でかろうじて首だけを窓の向こうへと動かした時、夜空にひかり輝くそれをみた。星雲だった。

 意識が途切れ時には、自分は死んだと思っていた。だが、柔らかい女性の声に引っ張りあげられるように再び意識が芽生え目が覚めた。机に突っ伏していた先生がゆっくりと身体を起こすと、そこには女性が立っていた。知らない女性だった。だが、透き通るような肌の白さが、胸元まで流れた髪の黒さをより際立たせており、その女性の均整の取れた顔をみて一目みて先生は美しいと感じた。見とれていると、女性は口元を薄く持ち上げてからこう言った。

「おはよう、第六の天使。気分はどう? 私は、最初の天使」
 
 少女のようなあどけない笑みを浮かべながらも儚さや気品を併せ持ち、まるで花が枯れる落ちる少し手前の、もっとも美しく花弁を開いている瞬間を垣間見ているかのようで恐怖すら覚えたのだと言う。

 状況を呑み込めずにいた先生に、その女性はゆっくりと時間をかけながら話していった。

 まず、先生自身の魂はあの瞬間にこの世界から離れてしまったのだということ。死ぬ寸前にみた夜空にかかっていたひかり輝く雲──星雲は、地上に舞い降りた天使が残す、言わば足跡のようなものだということ。天使は好奇心旺盛で、おまけに気まぐれで残酷で、地上に降り立ち人間を観察している間、夜空には星雲が現れることがあるのだということ。そして、人間の魂が肉体から離れていくその瞬間、天使の魂が宿るにふさわしい器であれば、天使が気まぐれで入り込むことがあるということ。

「……ありえない」

 そんな話を信じられる訳がなかった。言いながら、先生は首を横に振った。

「僕は死んだ」
「いや、生きてる」
「死んだんだ!」
「あなたの肉体とそこに根付いている意識が」
「死んだ」
「天使のものになった瞬間からもう死ぬことはない」
「なんなんだ……お前」
「いつか、その日が訪れるまで」

 先生に力強く肩を掴まれながらも、女性は少女のようなあどけない笑みを浮かべ続けていた。

「あなたはこれから長い長い時を生きることになる。天使があなたの肉体で生きることに飽きるその時がくるまで、あなたは老いることもなければ、死ぬこともない。この私もそう。だから、ほら、そんな風に怒らないで。仲良くしましょ?」

 ゆっくりと持ち上げられた手が、まるで蝶が羽を休めるように、先生の頬へと添えられた。当然のことながら受け入れられる訳がなかった。けれどそれ以来、どんな些細な傷も瞬きをする間に消え去り、十年、二十年と時が経とうとも、先生の肉体が老いることはなかった。女性が話した事は、全て真実だった。

「信じられない気持ちも分かります。受け入れられない気持ちも分かります。ですが、これは今この現実に起きている事実です」

 先生は陸斗の顔をみながらそう言って、陸斗越しに私達の目にも視線を配らせた。先生の胸ぐらを掴む陸斗の背が、微かに震えていた。

「……黙れ」
「まだ、言ってないことが一つあります」
「黙れって」
「天使の魂が宿った僕たちの肉体は、老いることもなければ傷一つつくこともありません。その身体に流れる血液を輸血すれば、適合者には不老不死の肉体を分け与えることが出来ます。この意味が分かりますか?」

 そう言って、先生は私達の目をみた。

「もし、仮に全人類がそんな肉体を得てしまったら、世界のバランスは崩れてしまう。それを阻止するべく、equlitus (エクリタス)という名の組織があります。構成員の名前も顔も、その実体も分かりません。ですが、幽霊のようなその組織が実在することは事実です。そして、彼らは世界のバランスを壊しかねない僕たちを抹消する為に、幽閉する為に、今この瞬間も僕たちのような人間を探し続けています。先程僕は、第六の天使であることを告げました。ちなみに第七の天使は沙結さん、第八は由奈さん、第九が陸斗くんで第十の天使が翔太くんですが、気になりませんか? 僕より前の数字の天使はどこで生きているのだろうって。答えはこうです。第二の天使以外は全員奴らに捕まりました。恐らく、死ぬまで殺され続けています。僕一人ならまだどうにかなった。けれど同時期に、ましてや同じ高校に僕たちのような人間がいる訳にはいきません。だから」

 先生が言葉を紡ぎ続けていたその時だった。部屋の空気を切り裂く程の大きな声を陸斗が放った。

「うるせぇっつってんだろっ!」
「陸斗くん」
「今日一日、ただでさえイカれた出来事ばかり起きて頭がおかしくなりそうなのに、これ以上はやめてくれよ」
「陸斗くん、僕は」
「黙れ。黙れ。黙れっ! 殺すぞ」

 私達の座る位置から陸斗の表情を読み取ることは出来なかった。だが、先生の首を絞めるその手の太い血管が大きく浮き上がっており、どれだけの力が込めているのかが分かった。

「陸斗っ! やめて」

 私は、声をかけずにはいられなかった。だが、そんな私とは対照的に先生は静かに言った。

「……やればいい」
「あ?」
「殺したいのでしょう? なら、殺せばいい」
「本気だぞ」
「僕が死ぬ事はありませんから。どうぞ、好きにしなさい」

 先生はゆっくりと両腕を持ち上げた。元々抵抗する気などさらさらなかったのだろうが、それを自らの身体を用いて意思表示した。だが、陸斗の身体が動くことは無かった。

「君も、所詮は口だけですか」
「あ?」
「口だけだと言ったんです。きっと、親御さんの育て方が悪かったのでしょう。今のお母さんはどうです? 君の感じから(かんが)みるにあまりいい教育は受けてないように思えますが」
「……黙れ」
「君のご両親は、しょっちゅう家を空けているようですね。お父さんは君の新しいお母さんとの時間に夢中で、君に目を向けようともしない。確か、三者面談の時も来ませんでしたね。きっと、君のことなどどうでもいいのでしょう」
「黙れって!」

 陸斗は声を張り上げ、それから身悶えるように首を横に振った。私は、一瞬のことだったがすぐ傍にあるキッチンの方へと陸斗が目を向けた気がした。

「僕は君の担任ですからね、全てを知っています。でも、どうなのでしょう? 親から貰えなかった愛情を、友達で満たそうとするのは本当に正しいことなのですか? 彼らは友達として君に接しているだけなのに君はそれ以上を求めてる。その傾いた天秤が均整を取り戻すことはない。きっと、いつか捨てられるでしょうね。そう。君の、本当の母親のように」
「黙れぇっっ!」

 先生の首を掴んでいた手がふっと離されたかと思えば、陸斗はキッチンの方へと駆け出した。流しには包丁が立てかけられていた。陸斗がそれを掴んだその瞬間、私は声を張り上げた。

「陸斗! 駄目っ!」

 だが、私の放った声は陸斗の耳には届いていなかったようだった。包丁を握りしめた陸斗は、そのまま先生の元へと風のような速さで駆けていき、気付いた時には刃の先が先生の脇腹へと沈んでいた。深く、深く、沈んでいた。先生の着ていたベージュのスーツが、ゆっくりと、でも着実に赤に染まっていく。

「いやっあぁぁぁ」

 先生のお腹から漏れ出た血が床に滴り落ちたのと、由奈が叫び声をあげたのは同じ時だった。先生は壁に寄りかかるようにして苦痛に顔を歪めていたが、それ以上に歪めていたのは陸斗だった。後悔。絶望。その二つが、陸斗の表情を染め上げていた。

「お、おれ」

 後退りする陸斗の肩を掴み、「大丈夫です。陸斗くん、皆もよく見ていて下さい。これが、僕が話した内容は全て真実であるという証明です」と先生はスーツを脱ぎ捨て、脇腹の辺りが真っ赤に染まった白いワイシャツのボタンを一つずつ外していった。それから唸り声を上げながら持ち手を掴み、包丁を引き抜いた。からん、と音を立て床に転がっていく。

 一瞬だった。本来なら噴水のように血が噴き出してもおかしくないのに、包丁を引き抜いたその瞬間からまるで布地を縫い付けているかのように裂けた肉と肉が引き寄せられ、傷が塞がっていく。最後には血が流れ出た跡だけが残っていた。

「う、そだろ」

 陸斗はそう呟き、私は言葉を失った。由奈は口元を抑えたかと思えばびくりと身体を揺らし、机の下に嘔吐した。皆が先生の身体から視線を引き剥がすことが出来なかった中、翔太だけがゆっくりと立ち上がり、気付いた時には床に転がっていた包丁を手にしていた。そして、叩きつけるようにして左手を壁に密着させたあと、そこに向かって包丁を振り下ろしたのだった。ああっ、と声を漏らしながら包丁を引き抜いた翔太の左手は、あっという間に傷が塞がっていった。私は、悪い夢でもみているのだろうか。こんなのが、こんな事が現実に起こり得る訳がない。

「陸斗くん」

 先生が、呆然と立ち尽くす陸斗をみた。

「さっきはすみませんでした。君を侮辱し、傷付けた。いくら本気で思っていないとはいえ、教師としてあるまじき言動だったと思います。本当に申し訳ない」

 深々と陸斗に頭を下げている先生のつむじを、私は泣きながらみつめていた。私の中にあるどの感情がその涙を誘発しているのか分からなかった。けれど、何故か、涙が止まらなかった。もしかしたらもう。次に言う先生の言葉を聞く前に、私はどこか感じていたのかもしれない。

「皆に信じてもらう為にはこうするしかなかった。でも、これで信じて貰えたと思います。僕が先程話した内容は、全て嘘偽りのない真実だということを。僕は、天使であり不老不死の肉体を持つ事を隠し、約十五年に一度街や名前を変えて生き続けてきました。ですが、それももう終わりのようです。同じ高校に、それも同じ時期に、こうして天使が揃ってしまった今、いつequlitus (エクリタス)にその存在がバレてしまうかも分かりません。奴らにバレた時は死よりも辛い苦痛を永遠(とわ)に与えられるものだと考えて下さい。だから、先程僕は陸斗くんに対して教師としてあるまじき言動だったと言いましたが、最後に二つだけ、これは皆に対して言わせて貰います。天使として生きる覚悟を、今この瞬間から持って下さい。そして、これまでの人生はもう二度と歩めない覚悟を持って下さい」

 それは、明日が来ることが当たり前でひかり輝いているとすら思っていた私達の人生が、深い深い闇の底へと堕ちていった瞬間だった。それと同時に知った。人が幸せだというような、そんなありふれた人生は皆に平等に訪れる訳ではないということを。

 私達はその時、十八歳だった。幼く、でも純粋で、同時に愚かでもあった。

 そして世界は、あまりにも残酷だった。