冬はきっと、寂しがりやなのだと思う。今の時期をその季節と呼ぶにはまだ少しばかり早いけれど、冬がこの場所を歩いたということは街路樹の葉をみればすぐに分かる。他の並木道とは違って、この場所で生きる街路樹の葉はもう既に枯れ落ちていた。寂しげで肌寒そうな木が、申し訳なそうに空へと枝を広げている。通りの向こうまでそんな木々ばかりだった。ふわりと髪が後ろに引っ張られたかと思えば、赤や黄色、それに夏の名残の緑が混じった葉が、ざらついたアスファルトの上をからからと音を鳴らしながら私の足元へと転がってくる。

 私は、そんな光景をみてひと足早く冬が通り過ぎたのだといつも思う。誰かにみつけて欲しいからそうやって足跡を残しているのだと、いつも思う。冬が深まる程に寂しさを孕んだ空気が地上で満ちていくのも、雪を涙として流すのも、きっと寂しいからなのだろう。私には気持ちがよく分かる。足跡を残さないだけで、私も冬と同じくらい寂しがりやだから。


*
 海沿いの道をぼんやりと歩いていたら、気付いた時にはスイセンやポロニアといった強い甘い香りを放つ花々に囲まれていた。白やピンクのちいさな花弁が目の前で儚げに開いてる。

美月(みつき)ちゃん、どうしたの?」

 声に導かれるように振り返ると、綾子(あやこ)さんがガラスケースから花を取り出しながら不思議な生き物をみるかのような目で私をみていた。黄色の、ドット柄のエプロンを身に纏う綾子さんの右手には私が手にしているものよりも何倍も大きな花弁を持つダリアが咲いていた。

「えっ? 何がですか?」

 問い掛けた私の姿がうっすらとガラスケースに映ってる。グリーンの薄手のニットに、白のテーパードパンツ。その上から綾子さんと同じ柄のエプロンを纏っている。薄明るい照明が満ちたガラスケースの中では、まるでその花弁の美しさを競い合っているかのように、無数の花たちが色鮮やかに咲き乱れている。

「お弁当買ってきてくれた時から美月ちゃんずっとぼんやりしてるから。お花も急に手に取り出すし、お部屋にでも飾るの? 欲しかったら持っていってもいいけど」

 私はおつかいを頼まれていた。店から歩いて十分程の距離にあるお弁当屋さんは私達のお気に入りで、綾子さんと旦那さんである宗弘(むねひろ)さんと一緒に今日は夕飯を食べようということになっていたのだ。お金を払い、大好きなさばの味噌煮弁当を三つ受け取ってから防波堤の向こうに広がる水平線をみながら海沿いの道を歩いていた。けれど、そこから先の記憶がない。今日の私は、綾子さんの言うようにずっとぼんやりしていた。

「ごめんなさい、ちょっと疲れてるのかもしれないです」

 しっかりしないと、と軽く自分の頬を打ち、それから手に持っていたスイセンやポロニアといった花々を慌てて元の位置に戻した。値段が表記されたプレートが少しずれてしまったので腰をかがめ直していると、「美月ちゃん、今日はもうお店閉めるから大丈夫よ。買ってきてくれたお弁当、一緒に食べましょうか」と春の陽だまりのような柔らかな笑みを向けられた。

 私は鏡を映すように笑みを返し、店先に出ていた花たちを中へと運んだ。静謐(せいひつ)な香り、官能的で甘い香り、優美な香り、色とりどりの花から放たれた幾重にも折り重なるそれらの匂いが、潮の香りと溶けあって私の心を凪いでくれる。『フルリ』という名のこのお花屋で働き始めてから気付けば十五年も経っていた。

「ねぇあなた、さっき洗面台で鏡をみた時に思ったんだけど、私の髪って白髪が増えたと思わない?」

 店を閉め終えたあと二階にある住居にあがり、居間のテーブルに私がお弁当を並べていた時、綾子さんが迷子になった子供のような目を宗弘さんに向けた。

「そうか? 俺はそんなことないと思うけど」

 プラスチック製の容器の蓋を開けながらちらりと綾子さんを一度みて、宗弘さんは器用に割り箸を口で割った。箸で軽く触れただけですっと身がほぐれていくさばの味噌煮を口に運び、テレビの方へと視線を貼り付け始めた。その隣で「うーん。前はこんなに無かった気がするのよね」と胸元まで流れた髪を手に取った綾子さんの呟いた声が、テレビから放たれた笑い声と混じり合っていた。子供のいない二人は、突然この町にやってきた私のことを実の娘のように可愛がってくれている。

「私も宗弘さんと同じ意見です。綾子さん、凄く綺麗ですよ」
「あなた聞いた? 私、綺麗だって」

 テレビに視線を貼り付けたまま背を向けている宗弘さんの肩を、綾子さんがばしばしと叩く。それから「あなたもたまには美月ちゃんみたいに言ってよ」と唇を尖らせるようにして呟く。宗弘さんは照れくさいのか「ああ」とか「うん」とか言葉にもならないようなものを部屋の中に放っていた。

「美月ちゃんは」

 いつもの、胸が朗らかになるような二人のやり取りをみながらさばの味噌煮を口に運んでいた時、綾子さんが言った。

「ずっと変わらないわね」

 柔らかな笑みを向けられていた。この町にきて行く当てもなかった私に「あなた、どこからきたの?」と向けてくれた時と同じ笑み。

「そうですか? でも私も最近お腹まわりとかお肌の張りとか気になっちゃって」

 嘘をついた。

「そう? 私はそんな風に思わないわ。美月ちゃんはずっと若々しくてほんとに羨ましい。ねぇ、あなたもそう思わない?」

 問い掛けられて、宗弘さんがテレビから私へと視線を流してくる。

「まあ……そうだな。この町にきて何年だ?」
「十五年です」
「……十五年か」
「ええ、もう十五年になります」

 言いながら、そろそろかもしれない、と思った。約束の日まではまだ半年程あるけれど、私はもうこの町から離れなければならないかもしれない。

「まあ、いつまでも若々しくいられるのはいい事じゃないか」

 会話に区切りをつけてくれたのは宗弘さんだった。私は、今の自分に出来る精一杯の笑みを浮かべ、それから箸を置いた。大好きだったさばの味噌煮弁当は半分も食べられなかった。