第七話

 カリンちゃんと別れたあと、私は廊下を歩いていた。
 校庭へ向かうのだ。
 もちろん、その理由は陸上部の練習を見学するためである。

 私は、校舎から出た。

 …そういえば、陸上部の練習場所はどこだっけ?

 校庭であるには間違いないのだが、校庭もそれなりに広い。
 校庭に出た私は、周囲を見る。

 遠くには、陸上部のユニフォームを着た集団が見えた。
 その中には、ひとりだけ体操服を着た女子生徒も見えた。
 
 たぶん、背格好からハナちゃんだ。
 間違いないだろう。

 私はその集団へ向かっていく。

 近づいていくと、結構多くの部員たちが集まっていることに気がついた。
 その中に、ヒナコちゃんの姿を見つける。
 彼女は他の部員たちと一緒にストレッチや準備をしていた。

「アイリ、来てくれたんだな!」

 ヒナコちゃんが私に気づき、手を振る。
 その声に、いっしょにストレッチや準備をしているハナちゃんも振り返った。

「アイリちゃん!」

 私は二人に近づきながら、軽く手を振り返した。
 
「そうか。来てくれたか。」
「ええ。」

 私はヒナコちゃんと会話をする。

「あっ、そうだ。アイリちゃんも見学だけじゃなくて、一緒に走ろうよ!」

 ハナちゃんが無邪気な笑顔で言う。
 その言葉に、私は少し戸惑った。

「えっとね?ハナちゃん。私、制服姿だしね?」

 しかし、ハナちゃんは諦めない。

「でも、せっかく来たんだから、ちょっとだけでも!」

 陸上部でもないのに、熱の入った勧誘だ。
 むしろ、そうでないからだろうか?
 現状だと、陸上部の集団の中、ハナちゃん一人で練習することになるし。

「そうね…少しだけなら」

 そう答えながら、私はどこか次のことを考える。
 …たしか、今日は体育の授業があった。
 だから、今の私は体操服は持っている。
 練習に付き合うことは可能だ。

「やったー!じゃあ、アイリちゃん、着替えよう!」
「えっと?」
「さっき、私は部室で着替えたの。」

 ハナちゃんが私の手を引っ張る。

「アイリ!部室の鍵を渡す。」

 それまで、横で私たちの様子を見ていたヒナコちゃん。
 彼女はそう言って、私に鍵を渡してきた。

 それを見て、実質的にヒナコちゃんが部長なんだ、と私は思った。 

「分かったわ。」
「じゃ、いこう!」

 私は、ハナちゃんに引っ張られるように部室棟へと向かう。

 校庭から見える位置にある、部室棟。
 そこの女子陸上部というプレートの部屋に入る。

「ここだよ。」

 元気いっぱいなハナちゃんが、部室の扉を指さす。

「分かったわ。」

 私は、ハナちゃんに答えて、部室の鍵を挿した。
 扉が開く。

 そのまま、私はハナちゃんと一緒に部室へと入る。
 窓から入ってくる太陽の光に照らされている部室。
 どこか薄暗く、ジメジメとした雰囲気だ。

 汗の匂いが充満している。
 カビが生えないのだろうかと、心配になった。 

「いい部室だよねー。」

 ハナちゃんは、能天気にそんなことを言っている。

「そうかしら?」

 私は、授業で使用している体操服を自らの鞄から取り出す。
 そして、制服から体操服に着替える。

 着替えを終えた私たちは部室を出た。
 すると、ヒナコちゃんが待ってくれていた。

「アイリもやる気満々だな。よし、準備運動から始めよう!」

 ハナちゃんの元気な声に導かれ、私たちは運動場へ戻った。
 他の部員たちは、準備やストレッチが終わったらしき部員から、順番に練習を始めていた。

 ハナちゃんに手を引かれるまま、私はハナちゃんと一緒にストレッチを始めた。
 授業でやっているとはいえ。
 部活として、体を動かすのは初めてかもしれない。

 私はハナちゃんと組になって、ストレッチを進める。
 もちろん、遠目でヒナコちゃんもこちらを見ていた。

「アイリちゃん、もっと。伸ばして!」

 ハナちゃんがそう言って、私の体を伸ばす。
 私も一生懸命に上半身を伸ばす。

「おお!」

 ハナちゃんは、驚いたように歓声を上げる。
 その素朴な反応に私も思わず笑顔になる。

 次はハナちゃんの番だ。

 ハナちゃんの身体を私が補助する。

「もっともっと!」

 ハナちゃんは頑張って、上半身を伸ばしている。

「体を痛めないようにね。」

 私は、ハナちゃんを優しく接しながら声を掛ける。

「大丈夫!なんか、効いている感じがする!」
「そう?」

 そんなこんなで準備体操を終えると、ようやく練習が始まるようだった。

「アイリ、ハナ!短距離のトラックが空いてるから、そこで練習でいいか?」

 ヒナコちゃんが声をかけてきた。
 もちろん、見学でお邪魔している立場なのでなんでもいい。

「もちろんよ、ヒナコちゃん。」
「はい!はい!短距離で練習!」

 ハナちゃんのテンションは高い。
 
「すまないな、二人とも。」
「ヒナコちゃん。私たちが邪魔をしているのだから、あまり気にしなくてもいいのよ?」
「いや、アイリ。そういう訳にもいかない。」

 そういって、ヒナコちゃんがちょっと考え込んだ。

「そうだな…今日の来てくれた二人は、50メートル走の走り込みの練習をしよう。あのトラックへ」

 どうやら、私たちへの練習メニューを考え終えたらしいヒナコちゃん。
 そのまま、私とハナちゃんは指示されるがままに、短距離走用のトラックへと向かう。

 私とハナちゃんが隣り合うように、トラックへついた。

「よし!準備完了だな。じゃあ、スタートする体勢について説明するぞ。」

 ヒナコちゃんは完全にコーチのような調子で、私たちを指導してくれる。
 いつも、一緒に居るヒナコちゃんとは別の側面だ。
 それは、とても心強いものだと感じた。

「今から言うような体勢を取ってからスタートするんだ。」

 ヒナコちゃんは、クラウチングスタートについて説明を始めた。
 授業でも習ったことはあるが、実際にこうして陸上部の練習で行うとなると、また何かが違う。

 ヒナコちゃんが実演をしながら、説明をしている。

「よし、じゃあ実際にやってみよう」

 ヒナコちゃんの声に、私とハナちゃんは頷いた。

 私は、先ほど教わった通りの姿勢を取る。
 手のひらをトラックにつけ、膝を曲げて、お尻を上げる。
 隣でハナちゃんも同じようにしている。

「お、いいぞ。アイリ。」

 ヒナコちゃんは、そう言ってから、ハナちゃんの方へ向かった。

「ハナ。もっと、膝を…。」
「えへへ、くすぐったいよぉ。」

 いつもの仲睦まじい様子で、ヒナコちゃんがハナちゃんの体勢を直していた。
 しばらくして、私たちは再びスタートの姿勢に戻った。

「よし、じゃあ号令をかけるから、それに合わせてスタートの動きを練習するぞ。」

 ヒナコちゃんの声が響く。

「えー?走らないの?」
「短距離走は、初めの練習が肝心だ。」

 ハナちゃんの不満そうな声。
 しかし、ヒナコちゃんの言葉は、にべもなかった。

「そうなのかなー。」
「そうだ。」

 ハナちゃんはそういいながらも、ヒナコちゃんに言われたとおりにスタートの練習を始めようとしている。
 隣のトラックにいる私も、教わった通りの姿勢を保つ。

「位置について…」

 私は息を整える。

「用意…」

 体に力が入る。

「ドン!」

 ヒナコちゃんの掛け声と共に、私は一気に体を起こした。
 しかし、実際にゴールまで走るわけではない。
 スタートをしても、すぐにスタート位置へ戻る。

「うーん、アイリ。もう少し前傾姿勢で立ち上がるといいぞ。ハナも!そうだ。」

 隣のトラックにいるハナちゃんの体勢を弄りながら、ヒナコちゃんは的確な指摘をしてくる。
 私は頷いて、再び構える。

 この動作を何度も繰り返す。
 スタートの瞬間だけを何度も練習する。
 最初は戸惑っていたが、回数を重ねるうちに少しずつ体が覚えていく感覚があった。

「アイリちゃん、なんか陸上選手みたいだよ!」

 ハナちゃんが励ましてくれる。
 その言葉に、少し自信がついた気がした。
 しかし、ヒナコちゃんの目は厳しい。

「まだまだだ。二人とも、もっと地面を蹴る感覚を意識するんだ」

 ヒナコちゃんの指導は的確だが、厳しい。
 私は黙って頷き、さらに練習を重ねる。
 何度目かの練習。

 ようやくヒナコちゃんが満足げな表情を見せた。

「よし、大分良くなってきたぞ。じゃあ最後に、実際に走ってみよう」

 ヒナコちゃんの言葉に、私とハナちゃんは顔を見合わせた。
 さあ、これでどれくらい早く走れるのだろうか。
 
「50メートル、全力で走るんだ。いいな?」

 ヒナコちゃんの声に、私たちは頷いた。
 スタートラインに立つ。
 これまで何度も練習した姿勢を取る。
 隣でハナちゃんも同じようにしている。

「位置について…」

 ヒナコちゃんがゆっくりと宣言を始めた。

「用意…ドン!」

 ヒナコちゃんの掛け声と共に、私は一気に飛び出した。
 私は一生懸命に走っていた。

 横目で見ると、ハナちゃんも同じように懸命に走っている。
 彼女との距離は、ほとんど変わらない。

 私の息が上がる。
 ああ、陸上競技に参加している、という感じがした。

 ハナちゃんと私は、まるで息を合わせたかのように同じペースで走り続けている。

 ハナちゃんも同じように頑張っているのが分かる。
 そして、ついにゴール。
 私とハナちゃんは、ほぼ同時にゴールした。

「はぁ…はぁ…」

 息を整えながら、私はハナちゃんを見た。
 私の隣で、ハナちゃんも私と同じように荒い息をしている。

 そこへ、ヒナコちゃんが近づいてきた。

「お前たち、なかなかやるじゃないか」

 ヒナコちゃんの表情には、少し驚きの色が見える。

「二人とも、スタートの練習の成果が出ていたぞ。特にアイリ、スタートがいい感じだった。」

 ヒナコちゃんの言葉に、少し自信がついた気がした。

「ハナも、最後まで粘り強く走れていたな。」

 ヒナコちゃんは、何か納得するかのようにそう言った。

「でも、まだまだだな。何度か納得するまで走ってみるといい。」
「うん!」

 その後も練習は続いた。
 私とハナちゃんは、時々休憩を挟みながら、一緒に走った。

 ヒナコちゃんは、他の部員たちと別メニューをこなしていた。
 彼女の姿を見るたびに、その実力の差を痛感させられた。

 練習が終わる頃には、私はすっかり疲れ果てていた。

「お疲れ様、アイリ」

 ヒナコちゃんが、紙コップを私とハナちゃんに差し出してきた。
 陸上部で用意している飲み物らしい。 

「ありがとう、ヒナコちゃん」
「ありがとー!」

 私とハナちゃんは、それを受け取る。

「アイリちゃん、今日は本当に頑張ったね!」

 隣にいるハナちゃんが笑顔で言う。

「ええ。これを毎日するのは、大変ね。」
「そんなことないさ。誰だって最初は大変なんだ」

 疲れている私を察したのか、ヒナコちゃんが優しい言葉を掛けてくれた。

「そうだよ!私たちも、毎日、練習すればきっと上手くなるよ。」

 ハナちゃんも励ましてくれた。
 二人の言葉に、私は少し心が温かくなった。

「今日は楽しかったわ。」

 私は優しく微笑んだ後、ゆっくりと立ち上がった。
 体を動かした後の心地よい疲労感が全身に広がっている。
 ハナちゃんも、同じように立ち上がる。

 周囲では、部員が片付けを始めていた。

「ハナちゃん、片付けを手伝いましょ?」
「うん!」

 私たちは、部員らに近づいていく。

「ありがとうな、二人とも。」

 ヒナコちゃんがお礼をいう。
 しかし、これは当然のことだと私は思う。

 その後、私とハナちゃんは陸上部の片付けを一通り手伝った。

「二人もありがとう。もう、部室で着替えても大丈夫だぞ。」
「はーい!」
「分かったわ。」

 ヒナコちゃんの言葉に、私とハナちゃんは頷いた。

 三人で部室に向かう。
 途中、ハナちゃんが楽しそうに跳ねるように歩いている。
 彼女の元気いっぱいな様子に、私は思わず微笑んでしまう。

 部室に着くと、既に部員の誰かが鍵を開けていたようだ。
 中に入ると、さっきよりも強く汗の匂いが漂っていた。
 これが体育会系の部室の雰囲気、といえばいいのだろうか?

 その中で、私たちは着替え始めた。

「アイリちゃん、本当に速かった!」
「いや、ハナちゃんも凄かったわよ。」
「えへへ。」

 最初から、最後までハナちゃんと私は抜きつ抜かれつつ、といった感じで練習をしていた。
 実は私もハナちゃんも同じようなタイムなのだろう。
 だから、練習としてとても良かったかもしれない。

 着替えを終えると、ヒナコちゃんと一緒に、部室の戸締りなどを手伝う。
 そう言った管理をしているところを見ると、実質的にヒナコちゃんが陸上部の部長なような気もした。

「ハナ、アイリ。今日はありがとう。」

 女子陸上部の部室の鍵を閉めながら、ヒナコちゃんが話しかけてきた。

「いいえ。今日は楽しかったわ。こちらこそ、ありがとう。」

 私はそう答えた。
 本当に、今日の経験は私にとって新鮮なものだった。

「また、暇を見つけて来ようかな?」
「それは歓迎するぞ!」

 ヒナコちゃんとハナちゃんがいつものように賑やかに話を始めた。
 一方で私は考えた。
 これが日常になってしまうと、これはこれで手芸部へ入り浸ることができなくなる。

 確かに時々、ハナちゃんと付き合う程度かな?
 内心、私はそう思った。

 そのまま、私たちは学校から帰ることにした。
 ヒナコちゃんが、鍵を職員室へ預けに言っている。
 その間、私とハナちゃんは昇降口で待っていた。

 私たちのクラスの生徒の下駄箱。
 その前でハナちゃんと話をする。

「アイリちゃん。」
「ん?なに?ハナちゃん?」
「カリンちゃんとは、どうだった?」

 ハナちゃんの質問に、私は少し考え込んだ。
 カリンちゃんとの話をどこまで伝えるべきか。

「そうね…」

 私はゆっくりと言葉を選びながら話し始めた。

「カリンちゃんとは、クラス委員の仕事について先生から説明を受けたわ。明日から本格的に始まるの。」
「へぇー、大変そう」

 ハナちゃんは興味深そうに聞いている。
 それから私は、クラス委員の仕事について話した。
 とはいっても、さっき担任の先生から言われた内容をハナちゃんへ話すだけなのだけれど。

「いろいろとあるんだね!」
「手芸部に出る時間がちょっと遅れるかも。そのときは、ハナちゃんが先に部室へ行ってくれればいいからね?」
「うーん。でも手伝えるところは手伝おうかな?」
「ありがとうね。」

 私がお礼をいうと、ハナちゃんは無邪気に微笑む。
 その瞬間、ヒナコちゃんが職員室から戻ってきた。

「お待たせ、二人とも。」
「お疲れー。ヒナコちゃん」

 そのまま、私たちは靴を履き替え、校舎を出る。
 いつものように校門を潜り、通学路を進んでいく。
 三人で並んで歩きながら、情報交換だ。

「アイリ。クラス委員の仕事は、大丈夫そうか?」
「そうね、大丈夫。ただ、ほとんど雑用係なのよ。」

 私は、ヒナコちゃんにもクラス委員の仕事を説明する。

「へぇー、結構いろいろあるんだな」

 ヒナコちゃんは感心したように言う。

「カリンと二人でやるんだろ?大丈夫か?」

 ヒナコちゃんの言葉に、少し考え込んでしまう。
 そう。ヒナコちゃんは察しているのだ。
 クラス委員の仕事内容ではない。

 カリンちゃんと上手くやっていけるのか、についてだ。
 私は正直、不安がないわけではない。 

「ええ、なんとかなると思うわ。カリンちゃんも真面目そうだし」

 私はそう答えた。
 しかし、実際のところ、カリンちゃんとどう接していけばいいのか。
 どうすれば自然に仲良くなれるのか…。
 分からないところは、たくさんある。

「そうだよね!なんかカリンちゃん、真面目そうだもん!」

 ハナちゃんが明るく言う。
 確かに…。
 現状では、その見方は間違っていないだろうな、と思う。
 だけど。
 その藤原カリンの真面目さは、周囲に親しい友人がいないからであって…。
 だから決して、彼女の本質的な性格が真面目なものかどうかは、分からない。
 
「アイリ、何かあったら。すぐ、私たちに言うんだぞ?」
「ありがとう。そうさせてもらうわ。」

 ヒナコちゃんが気を使ってくれる。
 その気持ちだけで私は十分だった。

 そんな会話をしていると、私たちは、いつもの交差点に差し掛かった。
 ここで私の家への道と、二人の道が分かれる。

「じゃあ、二人とも、また明日ね?」
「明日から頑張ってね!アイリちゃん!」

 ハナちゃんが元気よく手を振った。

「クラス委員の仕事、頑張れよ。」

 ヒナコちゃんも、いつもの調子で声をかけてきれた。

 私は二人に笑顔で手を振り、別れを告げた。
 そして、私は自宅へ進んでいった。