まだ完全に気持ちが整理できたわけではないのに、体が繋がってしまった俺達。どう接したらいいか分からなくて、その後太陽を避けるようになってしまった。
ちょうどその頃、太陽は柔道の関東大会への強化練習が始まったらしく、朝早く家を出て帰ってくる時間も遅くなっていた。それが不幸中の幸いに思える。
高一のあのことがあってからキラキラしたものが苦手だったのが、最近少しだけ陽の当たる場所に出て来られた気がしたけど……それはただの思い込みで、太陽が近くにいないだけで俺はいとも簡単に雲に覆われてしまう。
そして俺は、まだ臆病なままだ。
それに離れてみて再確認する。太陽がどれだけ眩しい存在なのかを。みんなの人気者で、彼の周りはいつも笑顔で溢れている。俺とは全く異次元の存在。
「俺は、本当にあいつに抱かれたのかな……」
夢のようだと思ったこともあるが、それでも、あの時太陽が鎖骨に付けた跡を見る度に「夢じゃなかったんだ」と思い出す。傍にいると熱くなるのに、遠くに離れればその温かな日差しが差し込むことはない。兄弟として、だけどお互い好き同士で、なのにまだその気持ちが受け入れられなくて……。距離感がわからなくなっていた。
お風呂から上がり、トボトボと部屋に向かう。今日太陽の姿を見たのは、いつもみたいに昼休みにサッカーをしているところだけ。大声で叫んだって太陽には聞こえない、そんな遠くから見ただけだった。
自分でもワガママだってわかってる。近くにきすぎないでほしいのに、傍にいてほしい。こんな複雑な思い、誰が理解できるだろうか。自分にだってわからないのに。
「兄ちゃん」
「太陽……」
「髪ビショビショじゃん。風邪ひくよ」
「あ、うん。ごめん」
今帰ってきたところなのだろう。太陽が近付いてきて、タオルで髪を拭いてくれる。太陽の手が体に触れる瞬間無意識に体が強ばってしまい……それを察した太陽が悲しそうな顔をした。
それに太陽は、俺のことを『兄ちゃん』って呼んだ。世間一般では正しい呼び方なのに、今はひどく遠い存在に感じてしまう。最近は別々の部屋で寝ているから、一緒にいる時間なんてほとんどなかった。
「じゃあ飯食ってくるね、おやすみ」
ふっと笑ってから母さんが待つリビングへと向かう。柔道の稽古が厳しいのだろうか? 疲れた顔をしていた。そんな太陽に触れたい気持ちを抑えて、俺は拳を握り締める。太陽の背中をそっと見送った。
自分の部屋で寝るようになって、少しだけ部屋の中を片付けた。やる気になればこんなにすぐ片付くんだ……きっと、太陽がやってもそうだったんだと思う。
なんやかんやで、一緒にいる理由が欲しかった。一度抱かれる快感を思い出してしまった体は、切なく疼き続ける。目頭が熱くなり、唇を噛み締めた。ここで泣いたら自分が惨めになる気がしたから、だから泣きたくなかった。
「太陽……」
我慢しても結局溢れ出してきてしまい、俺は枕を抱き締めて顔を埋めた。
コンコン。ドアをノックする音に顔を上げる。
「兄ちゃん、入って大丈夫?」
「あ……うん。大丈夫だよ。もうご飯食べたの?」
急いで目元を拭ったが、さっきまでの憂鬱さは嘘みたいに飛んでいく。
「もしかして、泣いてたの?」
心配そうに俺の顔を覗き込んだ太陽が、 残っていた涙を優しく拭ってくれた。
「ううん、大丈夫。泣いてないよ」
「でも……」
「大丈夫、大丈夫だよ。太陽」
いけない……頭ではわかっているのに、体が勝手に太陽の手を握る。突然の行動に太陽の体が一瞬強ばったように感じたけど、すぐにギュッと抱き締めてくれる。
もし兄弟じゃなかったら……俺が女の子だったら……俺達は簡単に結ばれたのだろうか。そうだとしたら、神様は意地悪だなって思う。
「ねぇ、太陽……最近、避けちゃっててごめんね」
「ううん、俺のほうこそごめん」
俺の猫っ毛を優しく撫でながら、太陽が首を傾げる。
「……あのね、太陽。俺が生まれた日は、十三夜だったんだ」
「へぇ、そうなんだ」
「そう。十五夜の月は真ん丸なのに十三夜の月は少しだけ欠けてるんだよ。俺はどう足掻いても完璧にはなれない。どこかが足りないんだ。それをどうにか隠さなきゃって無我夢中で頑張ってきたのに……やっぱり駄目なんだ」
「ふーん……」
太陽が少しだけ寂しそうに呟いてからクスクスと笑う。それが擽ったくて、俺は肩を上げた。
「俺は、不完全な兄ちゃんが好きだよ」
「え?」
「だって完璧だったら一人で生きていけちゃうから、俺は一生必要とされない。でも不完全だったら、いつか俺を必要としてくれるでしょう?」
本気なのか冗談なのか……と思って見ると、いつになく真剣な顔で俺を見つめる太陽がいた。その真剣さに少し体が縮こまる。やっぱり俺は、どこまでも弱くて卑怯者だ。
「それに兄ちゃんがゲイって知って、俺にだってチャンスがあるんだって思えた。兄ちゃんはそれで悲しい思いをしてきたのかもしれないけど……ごめんね、俺は兄ちゃんがゲイで良かったって思った」
「太陽……」
「兄ちゃんと何となく気まずくなって、距離ができちゃって……めちゃくちゃ寂しかった。でももう我慢の限界。ずっとずっと月に触りたかった」
月って名前で呼ばれた瞬間、胸が締め付けられる。なのに「俺も」っていう素直な言葉が出てきてくれなくて、思わず俯いてしまう。太陽の真っ直ぐ過ぎる視線が痛かった。
「俺さ、ずっと考えたんだ。俺はやっぱり月が大好きだから、体だけじゃなくて、心も、過去に起こった悲しい出来事も全部受け止めたいって思う」
「太陽……」
「辛かった過去も、それからこれから来る未来も、全部俺が受け止めて月を幸せにする。だって俺は月が大好きだから」
太陽の真剣な眼差しに、一瞬で体が火照り出す。今度こそ心臓が痛いくらいに早鐘を打った。そんな俺に追い打ちをかけるように、そっと耳打ちされる。
「ねぇ、いいでしょ? 俺は月を抱きたい……」
太陽の甘くて低い声にギュッと目を瞑ったまま、コクンと頷いた。
「できるだけ、優しくするね?」
そのままそっと、本に囲まれたベッドに押し倒される。一瞬高揚した気分は、ふと背徳感に姿を変える。……また、してもいいのかな?
気持ちが整理できないまま太陽を見上げれば、緊張しているのか、その顔が強張って見える。そんな太陽を見て感じた。本当は俺も太陽もお互いに触れ合いたくて仕方ないだけ。温もりが恋しくて仕方ない……。俺達は共犯者。二人で罪悪感を抱えたまま、ベッドに沈んだ。
「ふぁ、ん、んん……ッ」
「月……」
唇の重なる音が鼓膜に響いて、羞恥心が掻き立てられる。恥ずかしいのに興奮していく。痛いくらいの力でベッドに押し付けられて身動きがとれない。俺に刺激を与える手は、本当にこれが俺に向けられているのかと信じられないくらい、優しかった。
「月、月……」
「あぅッ、あ、あッ」
待ち侘びていた快感に、体が打ち震えるのを感じる。どんなに綺麗事を並べても、俺は太陽に触れたかったし、触れられたかった。
「ん、んんッ、はぁ……」
貪られるように口付けられて苦しくて逃げ出そうとしても、すぐに簡単に捕まってしまう。口から溢れ出しそうな唾液を必死に飲み込んだ。桜の蕾のように期待に膨らんだ胸の飾りも、熱を帯びた俺自身も、太陽を受け入れる一番恥ずかしいところだって……俺の全部が太陽を求めてやまなかった。
それなのに、やっぱりどうしていいかわからない。何が正解かわからない。わからないならこのまま流されてしまえばいい……半分諦めが入った俺の頬を、太陽が悲しそうに撫でた。
「お願い、自暴自棄にならないで」
「太陽……」
「欠けた月は俺が真ん丸にしてあげるから。だから、俺から逃げないで」
太陽の瞳から溢れ出した涙がポツリと落ちて、俺の頬を伝ってシーツにシミを作った。
乳首に吸い付いたり舌で弄んだり、受け入れる場所を丁寧に解したり。身を任せているうちに、前回も感じた疑問がまた首をもたげる。
「なぁ、太陽……ん、んんッ……本当にこの前が初めて?」
「ん?」
あまりにも慣れた手付き。さっきだって手際よく洋服を脱がされた。俺が初めての相手だなんて、ちょっとだけ疑わしい。
「なんでそんな意地の悪いこと言うの?」
「ん……ッ、はぁ……」
ムッとした顔をした太陽に、また唇を奪われる。あ、ヤバい……って感じるくらい深いやつ。案の定息もできないくらい舌で掻き回された。苦しくて太陽の背中を軽く叩く。
「あ、むぅ。苦しッ、太陽……苦しい……」
「だって……月が……」
「ごめん、ごめんね、太陽」
不貞腐れたように拗ねた顔をする太陽を見ると、「やっぱり年下なんだな」って可愛く思えた。
「一生懸命勉強したんだ。動画見たり、本読んだり。いつか、月とエロいことしたかったから」
「た、太陽……」
「ほら、緊張で手が震えてる。頭の中だって真っ白なんだから……お願い、黙って可愛く感じてて」
いつの間に準備していたんだろうか。ゴムの封を口で切るとクルクルッとつけている。でも確かに、よく見たらその手はどこかぎこちない。
飢えた狼みたいに目をギラギラと光らせて、荒い呼吸をする太陽。そんな太陽を見るだけで、ゾクゾクッと背中を電流が走り抜ける。多分俺は、これから太陽にされることを想像して、期待してるんだ。
「月……」
「大丈夫だよ、太陽。おいで」
不安そうに俺の顔を覗き込む太陽に、チュッと自分からキスした瞬間。
「あ、あ……あ、あッ!」
「クッ、月の中気持ちいい」
一気に中を突かれた。熱くて硬い太陽に体を押し開かれる感覚に、背中をしならせて感じ入る。無意識に逞しい背中にしがみついた。
そのままリズムよくお腹の中を擦られて、時々口付けられて。頭の中がボーッとしてくる。堪えきれない声を押し殺そうと唇を噛めば「駄目、声聞かせて」って耳打ちされる。その低い声に、抑えようとしていた声が一気に溢れ出した。
「あ、あぁッ、あ、あぁ! 気持ちいッ、太陽、気持ちいいよぉ」
「よかった、月。ごめんね、下手で」
「あ、ヤダッ、あぅ、あ、んんッ」
中を突かれながら胸の飾りを口に含まれて、俺自身を刺激されて。完全にキャパオーバー。もう太陽のペースに飲み込まれてしまった。ただ気持ちよくて、意味のわからない涙がポロポロ溢れてくる。
「もっと、もっと深く入ってきて……」
「月、体は平気?」
「うん。あ、あッ。気持ちいいから、もっと激しくして……んんッ、そこ気持ちいぃ……あぅ、あぁ」
「めっちゃエロいお兄さんだね」
「そんなこと、言うなぁ……」
「本当に可愛い」
「あ、あぁぁッ! あ、あッ、気持ちいい……」
激しく突かれて、深いキスをして。体が蕩けてこのまま太陽と混ざりあってしまうんじゃないかって思う。そんな俺達を、空に浮かぶ細い三日月の光がそっと包み込んでくれた。
「月、好き。大好き」
泣きそうな顔で何度も囁いてくれる。そんな太陽を見て思う。もう、自分の気持ちを隠し通すなんてできない。 全部洗いざらいぶちまけて、楽になりたい。太陽にも、家族にも……。
ドクンと熱い鼓動を感じて、太陽がイッたことを知る。耳元で小さな悲鳴が聞こえた。お互い加減なんかできなくて、夢中で抱き合った。肩で息を整えると、どっと疲れが込み上げてくる。
「んんッ」
太陽自身が引き抜かれていく感覚に身震いをする。
気持ちよかった……放心状態だった時、クルンッと体をひっくり返された。「え?」なんて思う暇もなく、熱く高ぶった太陽がまた入口に押し当てられる。
「月、まだ全然足りない」
「嘘、でしょ……」
「俺、まだまだ収まらないし、明日学校も部活も休みだから。お願い、もう少し頑張って?」
可愛くおねだりされれば断るなんてできない。
「……いいよ、好きにして」
枕を抱き締めて、太陽がやりやすいように蹲る。
全国大会常連の柔道部エースが力尽きるまでって、どれくらいなんだろう。それを想像すると怖かったけど、なんでだろう……可笑しくなってくる。
どれくらいの時間が経ったのか。めちゃくちゃに抱かれて気を失いかけた頃、ようやくその腕から解放された。事後の気怠さを纏った太陽が、グッタリとした俺を見ながらクスクスと笑う。
「ごめんね、やり過ぎたわ」
そんな無邪気な顔まで輝いている。けど、冷静になってしまえば、次に襲ってくるのは罪悪感。「いけないことをしてしまった」という罪の意識はやっぱり消えない。
「大丈夫だよ、大丈夫。俺がついてる」
「太陽……」
「怖がらないで。俺が守ってあげるから。だからお願い、後悔しないで」
温かくて大きな手が、俺の手を包み込んでくれる。あったかい……自然と気持ちが落ち着いてくる。年下なのに凄いなって思う。
「俺さ、小さい頃から一人でいることが多かったんだ。親父はその頃、朝から晩まで何かに取り憑かれたかのように小説を書いてて。きっとお袋が死んだ寂しさをそうやって紛らわせてたんだろうけど。俺は凄く寂しかった」
太陽がポツリポツリと話し出す。
「お袋が死んで悲しかったのは俺も同じなのに。俺だって誰かに甘えたかったのに、ガキのくせにそれが親父に言えなかった。逆に、大丈夫だからって強がって笑って。でもいつも笑ってると、みんなが俺の周りに集まってくるんだ。だからいつの間にか友達もいっぱいできた」
「寂しいから、笑ってたの?」
「うん。笑ってれば友達が集まってきてくれて、寂しくなんかなかった。学校ではね」
寂しそうに笑う太陽を見て胸が痛む。太陽はただかっこよくて、キラキラ眩しい存在かと思っていた。でも太陽だって一人ぼっちで寂しかったんだ。 辛くて全ての過去を切り捨てて一人の世界に籠った俺と、寂しかったからこそ笑顔でい続けた太陽。こんなにも違う。
弱い俺に、強い太陽。
「でも家に帰るとやっぱり一人ぼっちで……学校で楽しかった分、一気に寂しくなるんだ。それが何年も続いて、親父が再婚することになった。その時、自分に兄弟ができるって知ったんだ。あの時は嬉しかったなぁ。俺はもう、一人じゃなくなるんだって思えたから」
「そうなんだ……」
「実は俺さ、兄ちゃんになる人がどんな人か気になって、何度が月を見に行ってるんだ」
「え? 本当に? それっていつ頃?」
「そうだなぁ。初めて会いに行ったのは、俺が高一のとき。雪が降るような寒い頃だったよ」
「そうなんだ、全然気が付かなかった」
「だって、気づかれないようしたんだもん。見に行く道中から、ドキドキしたし凄くワクワクした。で、初めて月を見て、びっくりしたんだ」
「何をびっくりしたの?」
「月があまりにも可愛くて」
「え?」
想像もしていなかった言葉に頬が火照り出す。
「凄く可愛くて、あっという間に視線を奪われた。別に男が好きとかじゃなかったのに……。あんな可愛い人が兄ちゃんになってくれるなんて夢のようだ、って思って、それから何回か見に行った。兄ちゃんだから、惹かれたんだ」
「そんなの、全然気づかなかった」
「ふふっ。でしょ? でもさ、月はいつも一人ぼっちだった。いつも一人で寂しそうな顔をしてて。そんな月が自分にダブって見えた。寂しいのは、自分だけじゃないんだなって。そんな月を見てるうちに、自分が守ってあげたいって思うようになって……気付いたら好きになってた」
「え?」
「ごめんね。俺、月と初めてちゃんと会った日には、もう月のことが好きだったんだ」
その言葉に心臓が大きく波打つ。
――もしかして、太陽がずっと好きだった人って……。
「月は、俺の気持ちに応えてくれる? それともまだ怖い?」
「……うん……ごめん、ごめんね……。決められないよ……」
「そっか。わかった。ゆっくり、兄ちゃんのペースでいいから」
弱虫な俺は、それでも踏み出すことができない。かと言って、ようやく手に入れたこの温もりを手放すこともできない。
「とんでもない我儘野郎だ……」
こんな自分を抱き締めてくれる太陽にしがみついて、自己嫌悪だけが募っていく。過去を手放すことも、未来に進むこともできない自分が歯痒くて苦しくて……。
誰かが階段を登ってくる音に目を覚ます。「もう朝か……」とうっすら目を開く。
「誰か来る……」
その瞬間、サッと血の気が引いた。だって今俺達は裸で抱き合っているのだ。こんなところを篤志さんや母さんに見られたら……慌てて洋服を着ようと太陽に背中を向けると、「シーッ」と耳打ちされる。
「ちょ、ちょっと太陽……待って」
「いいから、月。声出すなよ」
「え……ッ」
太陽に後ろから羽交い絞めにされると、後孔に熱いものが押し当てられた。俺がヒュッと息を飲むと、それはグググッと俺の中に侵入してくる。昨夜散々虐められたそこはまだ柔らかくて、簡単に太陽自身を飲み込んでしまった。
「あ、あぁ……あ、ん……」
少しずつ体を開かれていく感覚に、ブルブルッと体が震える。快感が爪先から頭のてっぺんへと広がった 。
「月臣、太陽君。まだ寝てるの?」
いつまでも起きてこない俺達を心配した母さんが様子を見に来たらしく、廊下から声をかけてくる。
「ヤバい……」
また誰かに見られる。
今すぐこんなことやめさせたいのに、馬鹿力の太陽に叶うはずなんてなく。漏れそうになる声を押し殺すことしかできない。太陽の腕にグッと爪をたてて奥歯を食い縛った。
「月、いい子だから我慢しててね」
「んんッ、あぁ……あッ!」
一気に奥まで突き上げられて、目の前に火花が散る。そのままゆっくり中を擦られて、恐怖と快感に涙が溢れた。
「月臣、太陽君。大丈夫?」
「佐和子さん、おはよう。すみません、遅くまでゲームしてたから今まで寝てて。もう起きます」
「そう。なら朝ご飯用意して待ってるわね」
母さんの足音が遠ざかっていくのを感じた俺は、そろそろと太陽を振り返る。
「太陽、やめてよ。また誰かに見られたら今度こそもう立ち直れない……」
「ごめんね。でも、なんて顔してんだよ。エロすぎだろう。月、可愛い」
突然激しく攻め立てられて、一気に気持ち良さが押し寄せてくる。もしまた見られたら、という恐怖も罪悪感もあったけど、太陽の温かさの前ではそんなことはもうどうでもよかった。
「クッ」
「あぁッ! あ、あッ!」
最奥まで侵入を許し、自分自身から熱い精が放たれたのを感じる。同時に果てたんだろう太陽が、俺にしがみついて荒い呼吸をしている。
「月……偉いね、よく我慢できたじゃん」
「はぁはぁ……なんでこんなこと……」
「ごめんね、何となく月を虐めたかっただけ」
優しく髪を梳いてくれた後、優しいキスをくれる。結局俺は、また気持ちを整理しきることができないまま体だけ繋げてしまった。
◇◆◇◆
いよいよ関東大会が近付いてきた太陽は練習に明け暮れる生活に戻り、すれ違いの生活が始まった。もう少し太陽と一緒にいたい、そう思うのに、素直に伝えることもできない。いつまで俺はこのままなんだ……自分の踏ん切りのつかなさに、嫌気が差す。
「兄ちゃん!」
トボトボと俯きながら家に向かって歩いている途中、聞き慣れた声が背後から聞こえたから弾かれたように振り向いた。
「太陽……」
「よかった。久し振りに兄ちゃんにちゃんと会えた」
鼻の頭をポリポリと掻きながら太陽がはにかむ。
会いたかった……心の底から湧き上がる思い。同じ屋根の下で生活してるくせに、こんなの笑えてくる。でも俺は、久しぶりに太陽に会えて嬉しかった。
素直になりたい。三日月じゃなくて真ん丸な満月になりたいんだ。自分から少しだけ近付いてみよう……ギュッと拳を握り締めてから、太陽を見上げた。
「俺も、太陽に会いたかった」
「え……?」
そっと近付いて腰に腕を回し、太陽の逞しい胸に顔を埋めた。俺の行動が予測できなかったのだろう。切れ長の目をパチパチと大きく瞬かせた。そんな太陽の反応が少しだけ楽しくて、更に腕に力をこめる。
「こんなとこで抱き合ってたら誰かに見られちゃうかもよ? いいの?」
「別にいい。だって今太陽に甘えなかったら、今度いつ甘えられるわからないもん」
「なぁ月。まだ気持ちの整理つかない? 男と付き合うの怖い?」
「太陽に触れたいって思うし、触れられたいとも思う。でも……やっぱりこんな関係は間違ってるんだって思う自分もいる……だから、どうしたらいいかわからない……」
「そっか、そうだよね……」
耳元で聞こえる太陽の声は、心なしか震えているような気がした。
そんなある日。
今日は朝から家の中が騒がしかった。柔道関東大会の個人戦当日らしく、母さんがいつにも増して張り切って弁当を作っているようだ。まるで自分達が試合に出るみたいに興奮している篤志さんと母さんに見送られ、太陽は家を後にした。「頑張って」って言いたかったけど、そんな二人の勢いに負けて言い出すことができなかった。
試合の結果が気になってしまって、授業中も上の空で。気が付けば太陽のことばかり考えていた。
「優勝できるといいな」
早く太陽に会いたい、きちんと話せないかもしれないけど……。
家が見えてきて走ろうとしたその瞬間、名前を呼ばれて振り返る。視線の先には、またもやあの人が立っていた。
「……父さん」
「月臣。この前話したことの答えを聞きに来た」
「この前の話?」
「そうだ。男を好きだなんて寝言はやめろ。医者になる決心はついたのか?」
いきなり本題に入るこの人に、委縮しないよう意識的に時間をかけて深呼吸をする。
「俺は……」
その時、スマホがメールの受信を知らせる。メールを確認すると、送り主は太陽だった。
『関東大会、優勝したよ』
その一文に、俺の心は跳ね上がる。喜びに浸る暇もなく続けざまに送られてくるメール。その内容に、盛り上がった気持ちがヒュッと冷めた。
『今までしつこく迫ってごめん。迷惑だったよな? もっと月の気持ちを尊重するべきだった。これで終わりにするね』
え、待って。
なんで突然……。
心が、頭の中が凍り付いてしまったかのように動いてくれない。目の前が真っ暗になった。
『月が望むように、俺、弟に戻るから』
太陽のその言葉に、今目の前にいる人のことを一瞬忘れる。いつかこうなるかもしれないってわかっていたはずなのに。あまりにも突然のお別れに、何の心の準備もできていなかった俺の心は打ち砕かれた。
「俺がずっと踏み出さないから、離れていっちゃうんだ……」
太陽は何にも恐れずに思いを伝えてくれた。それなのに弱虫な俺は逃げてばかりいて……思いに応えることも、太陽を突き放すこともできなかった。こんなんじゃ愛想をつかされて当然だ。
「行っちゃう。太陽が離れて行っちゃう……」
溢れ出した涙が地面にシミを作る。
いつも太陽は傍で笑っていてくれた。こんな不完全な俺の全てを受け入れてくれたし、どんなに無様な姿を見せても否定なんてしなかった。俺の全てを太陽の日差しみたいに温かな笑顔で見つめてくれてた。
そんな優しさに、いつまでも愚かな俺は甘えていたんだ。
本当に、痛い目を見ないと成長できない自分が心底情けない。また大切なものを失っていくのだろうか……。
「太陽、まだ間に合うかな? 俺も太陽みたいになりたいんだ。太陽ほど輝けるかは分からないけど…… 」
俺は涙を拭いて、三度父親と向かい合う。泣いている息子を見ても顔色一つ変えない冷たい視線に圧倒された。でもここで自分の気持ちを押し殺していい子を演じてしまったら、今までと何も変わらない。
変わらなくちゃいけない。黙ってばかりじゃダメなんだ。ちゃんと父親に気持ちを伝えて、太陽にも伝える。太陽の傍にいたいから。変わらなくちゃ……。拳を握り締めてキッと父親を睨む。
太陽、見ててほしい。俺、変わるから。
「父さん、俺は医者にはならないよ。小説家になりたいんだ」
「なんだと? 何馬鹿なこと言って……」
「もう俺は、貴方の言いなりにはならない。それに俺はゲイだ。男が好きだ。自分を偽って生きる気なんてない。俺は、こういう自分を愛してくれる人と一緒にいたい。だから、もう会いにこないでほしい」
「月臣……」
「俺は今、幸せだから。今まで育ててくれてありがとうございました。これからは母さんの……自分を大切にしてくれる人たちの為に生きていきます」
頭を下げた後、家に向かって走り出す。途中で父親が俺の名前を呼んだけど、振り返ることはしなかった。
◇◆◇◆
「ど、どうしたの月臣……」
突然息を切らし泣きながら帰ってきた俺を、母さんが心配そうに出迎える。篤志さんも慌ててリビングにやってきた。
「はぁはぁ……俺、篤志さんと母さんに、話したいことがあって……」
「とにかく少し落ち着きなさい。ほら座って」
肩に置かれた篤志さんの手をそっと払い除けて、俺は二人に向かい合った。
この人達も悲しませてしまうかもしれない。せっかく慣れてきた新しい家族から、「気持ち悪い」「最低だ」って軽蔑されるかもしれない。でも、今の俺には太陽を失うこと以上に怖いことなんてないんだ。だからきちんと向き合わないと。
「母さんは知ってると思うけど、俺は、ゲイなんだ。そのせいで母さんと父さんは別れた。学校では友達にゲイだって馬鹿にされたくないから、死ぬほど頑張って優等生を演じてた」
「月臣……」
「あと、ごめんなさい。もう一つ、やっちゃいけないことをしたんだ」
目に涙を浮かべる母親の視線が痛くて、思わず俯いた。これじゃ今までと変わらない。俺はあれからいつもこうやって下ばかり向いて生きてきたんだ。自分の殻に閉じこもって。でも、これからは……。
「俺は篤志さんの大切な息子さんと、男同士でしてはいけないことをしてしまいました。ごめんなさい。ひどい裏切り方をして」
拳をギュッと握って唇を噛み締める。
「ごめんなさい」
篤志さんに殴られても仕方ない。その覚悟もできていた。
「……そんな月臣君には、大事な太陽を任せられないな」
「篤志さん……」
予想通りの言葉だったはずなのに、その一言は俺の心を打ち砕いた。わかっていたし、覚悟だってしていたはずなのに。
「泣き喚いて土下座して、それでも太陽が好きだ! ってくらい強い気持ちがないのなら、月臣君に太陽は任せられないよ。自分達を認めてくれないなら世界の果てまで駆け落ちするとか、世の中をひっくり返すくらいの気持ちがないなら、太陽のことは諦めてほしい」
真剣な顔で篤志さんに見つめられ、何も言い返せなくなってしまう。確かに篤志さんの言う通り、結局俺は意気地無しだ。だから今までだって、優等生っていう仮面に縋っていたんだ。 今だって、自分たちを認めてほしいのか、ただ謝りたいのか、はっきりしてなかった。
「もう、篤志さんったら意地悪ね。あんまり月臣を虐めないでちょうだい」
「だって、佐和子さん」
「月臣は繊細なの。繊細で優しくて臆病で……でも一生懸命伝えてくれてるんだから」
母さんが愛おしそうに目を細めて、俺の頭を撫でてくれた。
「実はね、母さん達二人がお互いに恋してるって知ってたの。黙っててごめんね」
「な、なんで知ってるの!?」
楽しそうに目を細める母さんを見て、俺は体が飛び跳ねるくらいびっくりする。
「だって、この前太陽君と一緒にカレーを作ってるとき、『俺、兄ちゃんが好きなんですよ。だから、付き合えたら嬉しいなって思ってます』って教えてくれたもの」
「え? なんだよ、それ……」
「ふふふっ。その言い方が『こんにちは。今日はいい天気ですね』って挨拶するみたいに自然で、あっけらかんとしてて……びっくりはしたけど、その場にいた篤志さんと笑いそうになっちゃったわ」
その時のことを思い出しているのだろうか。母さんがクスクス笑っている。
「ねぇ、月臣。あなたが男の子のことが好きだとしても、母さん構わないわ。あなたが幸せなら、それで十分だもの。それにね、月臣はまだ高校三年生。もしかしたらあと十年後には、同性婚が日本でも認められてるかもしれない」
「そうだね。もしかしたらそんな同性夫婦が養子を迎えることができる社会になってるかもしれないよ?」
「やだ! そうしたら私達おじいちゃんとおばあちゃんじゃない! 血の繋がらない家族が集まって暮らす……まるで寄せ鍋家族ね」
「いいじゃないか。寄せ鍋家族」
二人で顔を見合わせて笑う姿は穏やかそのもので、意気込んでいた俺は肩透かしをくらった気分だ。
「なぁ、月臣君。せっかくだから、これから起こるかもしれない明るい未来を夢見て過ごそうじゃないか」
「篤志さん、母さん……」
肩の荷が下りて、気づけば涙が頬を伝う。
「それでも私たちに申し訳ないと思うなら、どうか太陽に君の本当の思いを伝えてあげてもらえないだろうか?」
「本当の思い、を……?」
「そうだ。それだけで十分だから。子供が幸せなら、私達はそれで十分なんだよ」
「篤志さん、ありがとう。ありがとうございます」
俺は、あなたの子供になれて本当に幸せです。母さんが選んだ人は、本当に素敵な人だ。
「ほら、行きなさい。太陽はおばあちゃんの家にいるはずだよ」
「月臣。幸せを、自分の手で掴んでね」
「うん。行ってきます。父さん、母さん」
父さん……自然と口から零れた言葉。
びっくりしたように目を見開く二人にそっと微笑んで、俺は大きな一歩を踏み出した。
◇◆◇◆
バス停に向かったけど、さっきバスは行ってしまったばかりだ。俺は自転車にまたがり勢いよく漕ぎ出す。次のバスなんて待ってられない。早くこの気持ちを伝えたいんだ。
「行くぞ」
一度だけ行ったことのある太陽のおばあちゃんの家。自宅からかなり距離がある。俺は気合を入れるために大きく深呼吸をする。今の学校に転校してから部活もしていなかったから、体が相当なまっている。すぐに息は上がるし、足はすぐに棒のようだ。冬だっていうのに、額から汗が流れ落ちる。吐き出す息は白くて、一漕ぎする度に後ろに流れていく。
「わぁ、凄い」
ふと海に視線をやると、広い海の上に満月が浮かんでいた。ユラユラと揺れる海面に映る満月から広がる強い光。
太陽は「月が綺麗だ」ってよく話してくれた。今なら太陽が言っていたことがよくわかる。
「太陽、月って綺麗だね」
もう一度気合を入れ直して、また自転車のペダルを踏み出す。今すぐ太陽に会いたくて……息が切れる以上に、気持ちが前へ前へと足を動かした。
「あった……」
おばあちゃんの家のある丘は真っ暗で、何の音もしない。本当に今太陽がいるのだろうか? 意を決して扉を開けると、そこには見慣れた太陽の靴。
「おじゃま、します。……太陽、ねぇ、いるの?」
そっと問いかけながら部屋に上がった。それでも誰からの返事もない。
「太陽……」
電気がついていない部屋は青白い月明かりに包まれて、とても幻想的だった。月の光ってこんなにも落ち着くんだ……俺はそっと息を吐き出す。
居間に着いた瞬間、俺は息を飲んだ。
障子が開け広げられた部屋からは、遥か彼方まで広がる海が一望できる。大きな海の上には、やっぱり大きな満月が浮かんでいた。そんな光景を見れば、いかに自分が小さな存在だったのかを思い知らされる。だって、月はこんなにも眩しくて綺麗だから。
「月……」
突然名前を呼ばれて、背中から抱き締められる。あまりにも突然で俺はびっくりしてしまったけど、すぐにそれが太陽だってわかった。
逞しい腕に温かな体。それに、太陽からはいつもお日様の香りがした。
もう二度と感じられないかもしれないと思った体温に包まれ、涙が溢れ出す。辛かった過去に、怖くて仕方なかった未来。色んな思いが混ざった涙……そんな涙がスッと心に沁み込んでいくのを感じた。
「月、俺に会いに来てくれたの?」
「うん。俺、太陽に会いたかったから。だから自分の意志で太陽に会いにきたよ」
「なんでだよ? メール見ただろう? 俺、月の為に弟になろうって決めたんだ。すげぇ悩んで苦しんで……でも、こうやって月の顔を見たら、そんな決心、簡単に鈍っちゃう」
耳元で苦しそうな太陽な声が聞こえる。もしかして泣いているもかもしれない。俺の洋服が温かな雫で濡れていくのを感じた。
「俺は月が好きなんだよ? こんなん、我慢できなくなる」
「ごめん、ごめん、太陽」
自分を抱き締めてくれる太陽の腕にギュッとしがみ付く。俺より背の高い太陽の吐息が首筋にかかってくすぐったい。太陽の逞しい腕が好きで、ほっそりとした長い指も好き。柔らかい唇も、低い声も……もう全部が大好きなんだ。
「俺はね、俺がいないと生きてけない月が……太陽の光がないと輝くことができない月が好きだよ。ごめんね、月を見てると虐めたくなる。独り占めしたくて、誰にも見せたくなくて。でも思い通りにいかない。今まで、大体のことは何でも上手くできたのに……でも、月が好き。大好き」
「太陽!」
自分の過去を切り捨てた高校一年生の冬。あの日から自分の心を押し殺して、ただ両親に迷惑をかけまいと優等生を演じ続けた。それは本当の自分を偽り、模範となる青年を生き続けた張りぼての自分。いつか自分の過去が誰かにバレるんじゃないかと、生きた心地がしなかった。辛くて、苦しくて……何度も一人で泣いた。
「ねぇ、太陽。俺……俺……好きって言ってもいいの?」
「言ってよ! いくら体を繋げても、好きって言わなきゃ気持ちは伝わらない。なぁ、好きって言って……? 月……」
「太陽ぉ……」
「ふふっ。泣き虫だなぁ。もうこれ以上自分を虐めないで。一人で無理して強がって……月は十分頑張ったよ。だから過去の自分を許してあげよう? 大丈夫だよ、俺がいるから」
真正面から太陽に抱き付けば、息が止まるくらい強く抱き締め返してくれる。
そうだね、太陽。
もう許そうと思う。過去の自分も、同性しか愛せない自分も。大丈夫、太陽も、父さんと母さんも、全てを受け止めてくれてるから。
「太陽、大好き……大好き……んんッ、はぁ……」
吹き込んでくる潮風に誘われるかのように、チュッと唇を奪われて。淡い月明かりの中、夢中でキスをした。
柔らかくて温かい。うっとりと目を細めると、優しい顔をした太陽がコツンと額をくっつけてくる。至近距離で目が合って、少しだけ照れくさい。
「月は自分では光ることができないけど、太陽の光を受ければあんなにも綺麗に輝くことができるんだよ。だからずっと一緒にいよう? 一緒に輝こう。ねぇ、大好き」
「俺も、好き」
俺はキラキラしたものが苦手だ。
例えば煌びやかに輝くショーウィンドウや、ブランドのペアリング。大勢の人で賑わう週末のショッピングモールや、明らかにバーベキューをするために買い出しをしている楽しそうな男女のグループだったり……。
でも今の俺は少しだけ違う。
雨の日も好きだったけど、今はポカポカと太陽の日差しが差し込む陽光も好きだ。
でも、月明かりに包まれて心穏やかに過ごす時間も心地いいと感じられる。
きっと俺は変わっていく。キラキラと輝く太陽の日差しを受けて、もっともっと輝いて生きていけると思うんだ。
【完】
ちょうどその頃、太陽は柔道の関東大会への強化練習が始まったらしく、朝早く家を出て帰ってくる時間も遅くなっていた。それが不幸中の幸いに思える。
高一のあのことがあってからキラキラしたものが苦手だったのが、最近少しだけ陽の当たる場所に出て来られた気がしたけど……それはただの思い込みで、太陽が近くにいないだけで俺はいとも簡単に雲に覆われてしまう。
そして俺は、まだ臆病なままだ。
それに離れてみて再確認する。太陽がどれだけ眩しい存在なのかを。みんなの人気者で、彼の周りはいつも笑顔で溢れている。俺とは全く異次元の存在。
「俺は、本当にあいつに抱かれたのかな……」
夢のようだと思ったこともあるが、それでも、あの時太陽が鎖骨に付けた跡を見る度に「夢じゃなかったんだ」と思い出す。傍にいると熱くなるのに、遠くに離れればその温かな日差しが差し込むことはない。兄弟として、だけどお互い好き同士で、なのにまだその気持ちが受け入れられなくて……。距離感がわからなくなっていた。
お風呂から上がり、トボトボと部屋に向かう。今日太陽の姿を見たのは、いつもみたいに昼休みにサッカーをしているところだけ。大声で叫んだって太陽には聞こえない、そんな遠くから見ただけだった。
自分でもワガママだってわかってる。近くにきすぎないでほしいのに、傍にいてほしい。こんな複雑な思い、誰が理解できるだろうか。自分にだってわからないのに。
「兄ちゃん」
「太陽……」
「髪ビショビショじゃん。風邪ひくよ」
「あ、うん。ごめん」
今帰ってきたところなのだろう。太陽が近付いてきて、タオルで髪を拭いてくれる。太陽の手が体に触れる瞬間無意識に体が強ばってしまい……それを察した太陽が悲しそうな顔をした。
それに太陽は、俺のことを『兄ちゃん』って呼んだ。世間一般では正しい呼び方なのに、今はひどく遠い存在に感じてしまう。最近は別々の部屋で寝ているから、一緒にいる時間なんてほとんどなかった。
「じゃあ飯食ってくるね、おやすみ」
ふっと笑ってから母さんが待つリビングへと向かう。柔道の稽古が厳しいのだろうか? 疲れた顔をしていた。そんな太陽に触れたい気持ちを抑えて、俺は拳を握り締める。太陽の背中をそっと見送った。
自分の部屋で寝るようになって、少しだけ部屋の中を片付けた。やる気になればこんなにすぐ片付くんだ……きっと、太陽がやってもそうだったんだと思う。
なんやかんやで、一緒にいる理由が欲しかった。一度抱かれる快感を思い出してしまった体は、切なく疼き続ける。目頭が熱くなり、唇を噛み締めた。ここで泣いたら自分が惨めになる気がしたから、だから泣きたくなかった。
「太陽……」
我慢しても結局溢れ出してきてしまい、俺は枕を抱き締めて顔を埋めた。
コンコン。ドアをノックする音に顔を上げる。
「兄ちゃん、入って大丈夫?」
「あ……うん。大丈夫だよ。もうご飯食べたの?」
急いで目元を拭ったが、さっきまでの憂鬱さは嘘みたいに飛んでいく。
「もしかして、泣いてたの?」
心配そうに俺の顔を覗き込んだ太陽が、 残っていた涙を優しく拭ってくれた。
「ううん、大丈夫。泣いてないよ」
「でも……」
「大丈夫、大丈夫だよ。太陽」
いけない……頭ではわかっているのに、体が勝手に太陽の手を握る。突然の行動に太陽の体が一瞬強ばったように感じたけど、すぐにギュッと抱き締めてくれる。
もし兄弟じゃなかったら……俺が女の子だったら……俺達は簡単に結ばれたのだろうか。そうだとしたら、神様は意地悪だなって思う。
「ねぇ、太陽……最近、避けちゃっててごめんね」
「ううん、俺のほうこそごめん」
俺の猫っ毛を優しく撫でながら、太陽が首を傾げる。
「……あのね、太陽。俺が生まれた日は、十三夜だったんだ」
「へぇ、そうなんだ」
「そう。十五夜の月は真ん丸なのに十三夜の月は少しだけ欠けてるんだよ。俺はどう足掻いても完璧にはなれない。どこかが足りないんだ。それをどうにか隠さなきゃって無我夢中で頑張ってきたのに……やっぱり駄目なんだ」
「ふーん……」
太陽が少しだけ寂しそうに呟いてからクスクスと笑う。それが擽ったくて、俺は肩を上げた。
「俺は、不完全な兄ちゃんが好きだよ」
「え?」
「だって完璧だったら一人で生きていけちゃうから、俺は一生必要とされない。でも不完全だったら、いつか俺を必要としてくれるでしょう?」
本気なのか冗談なのか……と思って見ると、いつになく真剣な顔で俺を見つめる太陽がいた。その真剣さに少し体が縮こまる。やっぱり俺は、どこまでも弱くて卑怯者だ。
「それに兄ちゃんがゲイって知って、俺にだってチャンスがあるんだって思えた。兄ちゃんはそれで悲しい思いをしてきたのかもしれないけど……ごめんね、俺は兄ちゃんがゲイで良かったって思った」
「太陽……」
「兄ちゃんと何となく気まずくなって、距離ができちゃって……めちゃくちゃ寂しかった。でももう我慢の限界。ずっとずっと月に触りたかった」
月って名前で呼ばれた瞬間、胸が締め付けられる。なのに「俺も」っていう素直な言葉が出てきてくれなくて、思わず俯いてしまう。太陽の真っ直ぐ過ぎる視線が痛かった。
「俺さ、ずっと考えたんだ。俺はやっぱり月が大好きだから、体だけじゃなくて、心も、過去に起こった悲しい出来事も全部受け止めたいって思う」
「太陽……」
「辛かった過去も、それからこれから来る未来も、全部俺が受け止めて月を幸せにする。だって俺は月が大好きだから」
太陽の真剣な眼差しに、一瞬で体が火照り出す。今度こそ心臓が痛いくらいに早鐘を打った。そんな俺に追い打ちをかけるように、そっと耳打ちされる。
「ねぇ、いいでしょ? 俺は月を抱きたい……」
太陽の甘くて低い声にギュッと目を瞑ったまま、コクンと頷いた。
「できるだけ、優しくするね?」
そのままそっと、本に囲まれたベッドに押し倒される。一瞬高揚した気分は、ふと背徳感に姿を変える。……また、してもいいのかな?
気持ちが整理できないまま太陽を見上げれば、緊張しているのか、その顔が強張って見える。そんな太陽を見て感じた。本当は俺も太陽もお互いに触れ合いたくて仕方ないだけ。温もりが恋しくて仕方ない……。俺達は共犯者。二人で罪悪感を抱えたまま、ベッドに沈んだ。
「ふぁ、ん、んん……ッ」
「月……」
唇の重なる音が鼓膜に響いて、羞恥心が掻き立てられる。恥ずかしいのに興奮していく。痛いくらいの力でベッドに押し付けられて身動きがとれない。俺に刺激を与える手は、本当にこれが俺に向けられているのかと信じられないくらい、優しかった。
「月、月……」
「あぅッ、あ、あッ」
待ち侘びていた快感に、体が打ち震えるのを感じる。どんなに綺麗事を並べても、俺は太陽に触れたかったし、触れられたかった。
「ん、んんッ、はぁ……」
貪られるように口付けられて苦しくて逃げ出そうとしても、すぐに簡単に捕まってしまう。口から溢れ出しそうな唾液を必死に飲み込んだ。桜の蕾のように期待に膨らんだ胸の飾りも、熱を帯びた俺自身も、太陽を受け入れる一番恥ずかしいところだって……俺の全部が太陽を求めてやまなかった。
それなのに、やっぱりどうしていいかわからない。何が正解かわからない。わからないならこのまま流されてしまえばいい……半分諦めが入った俺の頬を、太陽が悲しそうに撫でた。
「お願い、自暴自棄にならないで」
「太陽……」
「欠けた月は俺が真ん丸にしてあげるから。だから、俺から逃げないで」
太陽の瞳から溢れ出した涙がポツリと落ちて、俺の頬を伝ってシーツにシミを作った。
乳首に吸い付いたり舌で弄んだり、受け入れる場所を丁寧に解したり。身を任せているうちに、前回も感じた疑問がまた首をもたげる。
「なぁ、太陽……ん、んんッ……本当にこの前が初めて?」
「ん?」
あまりにも慣れた手付き。さっきだって手際よく洋服を脱がされた。俺が初めての相手だなんて、ちょっとだけ疑わしい。
「なんでそんな意地の悪いこと言うの?」
「ん……ッ、はぁ……」
ムッとした顔をした太陽に、また唇を奪われる。あ、ヤバい……って感じるくらい深いやつ。案の定息もできないくらい舌で掻き回された。苦しくて太陽の背中を軽く叩く。
「あ、むぅ。苦しッ、太陽……苦しい……」
「だって……月が……」
「ごめん、ごめんね、太陽」
不貞腐れたように拗ねた顔をする太陽を見ると、「やっぱり年下なんだな」って可愛く思えた。
「一生懸命勉強したんだ。動画見たり、本読んだり。いつか、月とエロいことしたかったから」
「た、太陽……」
「ほら、緊張で手が震えてる。頭の中だって真っ白なんだから……お願い、黙って可愛く感じてて」
いつの間に準備していたんだろうか。ゴムの封を口で切るとクルクルッとつけている。でも確かに、よく見たらその手はどこかぎこちない。
飢えた狼みたいに目をギラギラと光らせて、荒い呼吸をする太陽。そんな太陽を見るだけで、ゾクゾクッと背中を電流が走り抜ける。多分俺は、これから太陽にされることを想像して、期待してるんだ。
「月……」
「大丈夫だよ、太陽。おいで」
不安そうに俺の顔を覗き込む太陽に、チュッと自分からキスした瞬間。
「あ、あ……あ、あッ!」
「クッ、月の中気持ちいい」
一気に中を突かれた。熱くて硬い太陽に体を押し開かれる感覚に、背中をしならせて感じ入る。無意識に逞しい背中にしがみついた。
そのままリズムよくお腹の中を擦られて、時々口付けられて。頭の中がボーッとしてくる。堪えきれない声を押し殺そうと唇を噛めば「駄目、声聞かせて」って耳打ちされる。その低い声に、抑えようとしていた声が一気に溢れ出した。
「あ、あぁッ、あ、あぁ! 気持ちいッ、太陽、気持ちいいよぉ」
「よかった、月。ごめんね、下手で」
「あ、ヤダッ、あぅ、あ、んんッ」
中を突かれながら胸の飾りを口に含まれて、俺自身を刺激されて。完全にキャパオーバー。もう太陽のペースに飲み込まれてしまった。ただ気持ちよくて、意味のわからない涙がポロポロ溢れてくる。
「もっと、もっと深く入ってきて……」
「月、体は平気?」
「うん。あ、あッ。気持ちいいから、もっと激しくして……んんッ、そこ気持ちいぃ……あぅ、あぁ」
「めっちゃエロいお兄さんだね」
「そんなこと、言うなぁ……」
「本当に可愛い」
「あ、あぁぁッ! あ、あッ、気持ちいい……」
激しく突かれて、深いキスをして。体が蕩けてこのまま太陽と混ざりあってしまうんじゃないかって思う。そんな俺達を、空に浮かぶ細い三日月の光がそっと包み込んでくれた。
「月、好き。大好き」
泣きそうな顔で何度も囁いてくれる。そんな太陽を見て思う。もう、自分の気持ちを隠し通すなんてできない。 全部洗いざらいぶちまけて、楽になりたい。太陽にも、家族にも……。
ドクンと熱い鼓動を感じて、太陽がイッたことを知る。耳元で小さな悲鳴が聞こえた。お互い加減なんかできなくて、夢中で抱き合った。肩で息を整えると、どっと疲れが込み上げてくる。
「んんッ」
太陽自身が引き抜かれていく感覚に身震いをする。
気持ちよかった……放心状態だった時、クルンッと体をひっくり返された。「え?」なんて思う暇もなく、熱く高ぶった太陽がまた入口に押し当てられる。
「月、まだ全然足りない」
「嘘、でしょ……」
「俺、まだまだ収まらないし、明日学校も部活も休みだから。お願い、もう少し頑張って?」
可愛くおねだりされれば断るなんてできない。
「……いいよ、好きにして」
枕を抱き締めて、太陽がやりやすいように蹲る。
全国大会常連の柔道部エースが力尽きるまでって、どれくらいなんだろう。それを想像すると怖かったけど、なんでだろう……可笑しくなってくる。
どれくらいの時間が経ったのか。めちゃくちゃに抱かれて気を失いかけた頃、ようやくその腕から解放された。事後の気怠さを纏った太陽が、グッタリとした俺を見ながらクスクスと笑う。
「ごめんね、やり過ぎたわ」
そんな無邪気な顔まで輝いている。けど、冷静になってしまえば、次に襲ってくるのは罪悪感。「いけないことをしてしまった」という罪の意識はやっぱり消えない。
「大丈夫だよ、大丈夫。俺がついてる」
「太陽……」
「怖がらないで。俺が守ってあげるから。だからお願い、後悔しないで」
温かくて大きな手が、俺の手を包み込んでくれる。あったかい……自然と気持ちが落ち着いてくる。年下なのに凄いなって思う。
「俺さ、小さい頃から一人でいることが多かったんだ。親父はその頃、朝から晩まで何かに取り憑かれたかのように小説を書いてて。きっとお袋が死んだ寂しさをそうやって紛らわせてたんだろうけど。俺は凄く寂しかった」
太陽がポツリポツリと話し出す。
「お袋が死んで悲しかったのは俺も同じなのに。俺だって誰かに甘えたかったのに、ガキのくせにそれが親父に言えなかった。逆に、大丈夫だからって強がって笑って。でもいつも笑ってると、みんなが俺の周りに集まってくるんだ。だからいつの間にか友達もいっぱいできた」
「寂しいから、笑ってたの?」
「うん。笑ってれば友達が集まってきてくれて、寂しくなんかなかった。学校ではね」
寂しそうに笑う太陽を見て胸が痛む。太陽はただかっこよくて、キラキラ眩しい存在かと思っていた。でも太陽だって一人ぼっちで寂しかったんだ。 辛くて全ての過去を切り捨てて一人の世界に籠った俺と、寂しかったからこそ笑顔でい続けた太陽。こんなにも違う。
弱い俺に、強い太陽。
「でも家に帰るとやっぱり一人ぼっちで……学校で楽しかった分、一気に寂しくなるんだ。それが何年も続いて、親父が再婚することになった。その時、自分に兄弟ができるって知ったんだ。あの時は嬉しかったなぁ。俺はもう、一人じゃなくなるんだって思えたから」
「そうなんだ……」
「実は俺さ、兄ちゃんになる人がどんな人か気になって、何度が月を見に行ってるんだ」
「え? 本当に? それっていつ頃?」
「そうだなぁ。初めて会いに行ったのは、俺が高一のとき。雪が降るような寒い頃だったよ」
「そうなんだ、全然気が付かなかった」
「だって、気づかれないようしたんだもん。見に行く道中から、ドキドキしたし凄くワクワクした。で、初めて月を見て、びっくりしたんだ」
「何をびっくりしたの?」
「月があまりにも可愛くて」
「え?」
想像もしていなかった言葉に頬が火照り出す。
「凄く可愛くて、あっという間に視線を奪われた。別に男が好きとかじゃなかったのに……。あんな可愛い人が兄ちゃんになってくれるなんて夢のようだ、って思って、それから何回か見に行った。兄ちゃんだから、惹かれたんだ」
「そんなの、全然気づかなかった」
「ふふっ。でしょ? でもさ、月はいつも一人ぼっちだった。いつも一人で寂しそうな顔をしてて。そんな月が自分にダブって見えた。寂しいのは、自分だけじゃないんだなって。そんな月を見てるうちに、自分が守ってあげたいって思うようになって……気付いたら好きになってた」
「え?」
「ごめんね。俺、月と初めてちゃんと会った日には、もう月のことが好きだったんだ」
その言葉に心臓が大きく波打つ。
――もしかして、太陽がずっと好きだった人って……。
「月は、俺の気持ちに応えてくれる? それともまだ怖い?」
「……うん……ごめん、ごめんね……。決められないよ……」
「そっか。わかった。ゆっくり、兄ちゃんのペースでいいから」
弱虫な俺は、それでも踏み出すことができない。かと言って、ようやく手に入れたこの温もりを手放すこともできない。
「とんでもない我儘野郎だ……」
こんな自分を抱き締めてくれる太陽にしがみついて、自己嫌悪だけが募っていく。過去を手放すことも、未来に進むこともできない自分が歯痒くて苦しくて……。
誰かが階段を登ってくる音に目を覚ます。「もう朝か……」とうっすら目を開く。
「誰か来る……」
その瞬間、サッと血の気が引いた。だって今俺達は裸で抱き合っているのだ。こんなところを篤志さんや母さんに見られたら……慌てて洋服を着ようと太陽に背中を向けると、「シーッ」と耳打ちされる。
「ちょ、ちょっと太陽……待って」
「いいから、月。声出すなよ」
「え……ッ」
太陽に後ろから羽交い絞めにされると、後孔に熱いものが押し当てられた。俺がヒュッと息を飲むと、それはグググッと俺の中に侵入してくる。昨夜散々虐められたそこはまだ柔らかくて、簡単に太陽自身を飲み込んでしまった。
「あ、あぁ……あ、ん……」
少しずつ体を開かれていく感覚に、ブルブルッと体が震える。快感が爪先から頭のてっぺんへと広がった 。
「月臣、太陽君。まだ寝てるの?」
いつまでも起きてこない俺達を心配した母さんが様子を見に来たらしく、廊下から声をかけてくる。
「ヤバい……」
また誰かに見られる。
今すぐこんなことやめさせたいのに、馬鹿力の太陽に叶うはずなんてなく。漏れそうになる声を押し殺すことしかできない。太陽の腕にグッと爪をたてて奥歯を食い縛った。
「月、いい子だから我慢しててね」
「んんッ、あぁ……あッ!」
一気に奥まで突き上げられて、目の前に火花が散る。そのままゆっくり中を擦られて、恐怖と快感に涙が溢れた。
「月臣、太陽君。大丈夫?」
「佐和子さん、おはよう。すみません、遅くまでゲームしてたから今まで寝てて。もう起きます」
「そう。なら朝ご飯用意して待ってるわね」
母さんの足音が遠ざかっていくのを感じた俺は、そろそろと太陽を振り返る。
「太陽、やめてよ。また誰かに見られたら今度こそもう立ち直れない……」
「ごめんね。でも、なんて顔してんだよ。エロすぎだろう。月、可愛い」
突然激しく攻め立てられて、一気に気持ち良さが押し寄せてくる。もしまた見られたら、という恐怖も罪悪感もあったけど、太陽の温かさの前ではそんなことはもうどうでもよかった。
「クッ」
「あぁッ! あ、あッ!」
最奥まで侵入を許し、自分自身から熱い精が放たれたのを感じる。同時に果てたんだろう太陽が、俺にしがみついて荒い呼吸をしている。
「月……偉いね、よく我慢できたじゃん」
「はぁはぁ……なんでこんなこと……」
「ごめんね、何となく月を虐めたかっただけ」
優しく髪を梳いてくれた後、優しいキスをくれる。結局俺は、また気持ちを整理しきることができないまま体だけ繋げてしまった。
◇◆◇◆
いよいよ関東大会が近付いてきた太陽は練習に明け暮れる生活に戻り、すれ違いの生活が始まった。もう少し太陽と一緒にいたい、そう思うのに、素直に伝えることもできない。いつまで俺はこのままなんだ……自分の踏ん切りのつかなさに、嫌気が差す。
「兄ちゃん!」
トボトボと俯きながら家に向かって歩いている途中、聞き慣れた声が背後から聞こえたから弾かれたように振り向いた。
「太陽……」
「よかった。久し振りに兄ちゃんにちゃんと会えた」
鼻の頭をポリポリと掻きながら太陽がはにかむ。
会いたかった……心の底から湧き上がる思い。同じ屋根の下で生活してるくせに、こんなの笑えてくる。でも俺は、久しぶりに太陽に会えて嬉しかった。
素直になりたい。三日月じゃなくて真ん丸な満月になりたいんだ。自分から少しだけ近付いてみよう……ギュッと拳を握り締めてから、太陽を見上げた。
「俺も、太陽に会いたかった」
「え……?」
そっと近付いて腰に腕を回し、太陽の逞しい胸に顔を埋めた。俺の行動が予測できなかったのだろう。切れ長の目をパチパチと大きく瞬かせた。そんな太陽の反応が少しだけ楽しくて、更に腕に力をこめる。
「こんなとこで抱き合ってたら誰かに見られちゃうかもよ? いいの?」
「別にいい。だって今太陽に甘えなかったら、今度いつ甘えられるわからないもん」
「なぁ月。まだ気持ちの整理つかない? 男と付き合うの怖い?」
「太陽に触れたいって思うし、触れられたいとも思う。でも……やっぱりこんな関係は間違ってるんだって思う自分もいる……だから、どうしたらいいかわからない……」
「そっか、そうだよね……」
耳元で聞こえる太陽の声は、心なしか震えているような気がした。
そんなある日。
今日は朝から家の中が騒がしかった。柔道関東大会の個人戦当日らしく、母さんがいつにも増して張り切って弁当を作っているようだ。まるで自分達が試合に出るみたいに興奮している篤志さんと母さんに見送られ、太陽は家を後にした。「頑張って」って言いたかったけど、そんな二人の勢いに負けて言い出すことができなかった。
試合の結果が気になってしまって、授業中も上の空で。気が付けば太陽のことばかり考えていた。
「優勝できるといいな」
早く太陽に会いたい、きちんと話せないかもしれないけど……。
家が見えてきて走ろうとしたその瞬間、名前を呼ばれて振り返る。視線の先には、またもやあの人が立っていた。
「……父さん」
「月臣。この前話したことの答えを聞きに来た」
「この前の話?」
「そうだ。男を好きだなんて寝言はやめろ。医者になる決心はついたのか?」
いきなり本題に入るこの人に、委縮しないよう意識的に時間をかけて深呼吸をする。
「俺は……」
その時、スマホがメールの受信を知らせる。メールを確認すると、送り主は太陽だった。
『関東大会、優勝したよ』
その一文に、俺の心は跳ね上がる。喜びに浸る暇もなく続けざまに送られてくるメール。その内容に、盛り上がった気持ちがヒュッと冷めた。
『今までしつこく迫ってごめん。迷惑だったよな? もっと月の気持ちを尊重するべきだった。これで終わりにするね』
え、待って。
なんで突然……。
心が、頭の中が凍り付いてしまったかのように動いてくれない。目の前が真っ暗になった。
『月が望むように、俺、弟に戻るから』
太陽のその言葉に、今目の前にいる人のことを一瞬忘れる。いつかこうなるかもしれないってわかっていたはずなのに。あまりにも突然のお別れに、何の心の準備もできていなかった俺の心は打ち砕かれた。
「俺がずっと踏み出さないから、離れていっちゃうんだ……」
太陽は何にも恐れずに思いを伝えてくれた。それなのに弱虫な俺は逃げてばかりいて……思いに応えることも、太陽を突き放すこともできなかった。こんなんじゃ愛想をつかされて当然だ。
「行っちゃう。太陽が離れて行っちゃう……」
溢れ出した涙が地面にシミを作る。
いつも太陽は傍で笑っていてくれた。こんな不完全な俺の全てを受け入れてくれたし、どんなに無様な姿を見せても否定なんてしなかった。俺の全てを太陽の日差しみたいに温かな笑顔で見つめてくれてた。
そんな優しさに、いつまでも愚かな俺は甘えていたんだ。
本当に、痛い目を見ないと成長できない自分が心底情けない。また大切なものを失っていくのだろうか……。
「太陽、まだ間に合うかな? 俺も太陽みたいになりたいんだ。太陽ほど輝けるかは分からないけど…… 」
俺は涙を拭いて、三度父親と向かい合う。泣いている息子を見ても顔色一つ変えない冷たい視線に圧倒された。でもここで自分の気持ちを押し殺していい子を演じてしまったら、今までと何も変わらない。
変わらなくちゃいけない。黙ってばかりじゃダメなんだ。ちゃんと父親に気持ちを伝えて、太陽にも伝える。太陽の傍にいたいから。変わらなくちゃ……。拳を握り締めてキッと父親を睨む。
太陽、見ててほしい。俺、変わるから。
「父さん、俺は医者にはならないよ。小説家になりたいんだ」
「なんだと? 何馬鹿なこと言って……」
「もう俺は、貴方の言いなりにはならない。それに俺はゲイだ。男が好きだ。自分を偽って生きる気なんてない。俺は、こういう自分を愛してくれる人と一緒にいたい。だから、もう会いにこないでほしい」
「月臣……」
「俺は今、幸せだから。今まで育ててくれてありがとうございました。これからは母さんの……自分を大切にしてくれる人たちの為に生きていきます」
頭を下げた後、家に向かって走り出す。途中で父親が俺の名前を呼んだけど、振り返ることはしなかった。
◇◆◇◆
「ど、どうしたの月臣……」
突然息を切らし泣きながら帰ってきた俺を、母さんが心配そうに出迎える。篤志さんも慌ててリビングにやってきた。
「はぁはぁ……俺、篤志さんと母さんに、話したいことがあって……」
「とにかく少し落ち着きなさい。ほら座って」
肩に置かれた篤志さんの手をそっと払い除けて、俺は二人に向かい合った。
この人達も悲しませてしまうかもしれない。せっかく慣れてきた新しい家族から、「気持ち悪い」「最低だ」って軽蔑されるかもしれない。でも、今の俺には太陽を失うこと以上に怖いことなんてないんだ。だからきちんと向き合わないと。
「母さんは知ってると思うけど、俺は、ゲイなんだ。そのせいで母さんと父さんは別れた。学校では友達にゲイだって馬鹿にされたくないから、死ぬほど頑張って優等生を演じてた」
「月臣……」
「あと、ごめんなさい。もう一つ、やっちゃいけないことをしたんだ」
目に涙を浮かべる母親の視線が痛くて、思わず俯いた。これじゃ今までと変わらない。俺はあれからいつもこうやって下ばかり向いて生きてきたんだ。自分の殻に閉じこもって。でも、これからは……。
「俺は篤志さんの大切な息子さんと、男同士でしてはいけないことをしてしまいました。ごめんなさい。ひどい裏切り方をして」
拳をギュッと握って唇を噛み締める。
「ごめんなさい」
篤志さんに殴られても仕方ない。その覚悟もできていた。
「……そんな月臣君には、大事な太陽を任せられないな」
「篤志さん……」
予想通りの言葉だったはずなのに、その一言は俺の心を打ち砕いた。わかっていたし、覚悟だってしていたはずなのに。
「泣き喚いて土下座して、それでも太陽が好きだ! ってくらい強い気持ちがないのなら、月臣君に太陽は任せられないよ。自分達を認めてくれないなら世界の果てまで駆け落ちするとか、世の中をひっくり返すくらいの気持ちがないなら、太陽のことは諦めてほしい」
真剣な顔で篤志さんに見つめられ、何も言い返せなくなってしまう。確かに篤志さんの言う通り、結局俺は意気地無しだ。だから今までだって、優等生っていう仮面に縋っていたんだ。 今だって、自分たちを認めてほしいのか、ただ謝りたいのか、はっきりしてなかった。
「もう、篤志さんったら意地悪ね。あんまり月臣を虐めないでちょうだい」
「だって、佐和子さん」
「月臣は繊細なの。繊細で優しくて臆病で……でも一生懸命伝えてくれてるんだから」
母さんが愛おしそうに目を細めて、俺の頭を撫でてくれた。
「実はね、母さん達二人がお互いに恋してるって知ってたの。黙っててごめんね」
「な、なんで知ってるの!?」
楽しそうに目を細める母さんを見て、俺は体が飛び跳ねるくらいびっくりする。
「だって、この前太陽君と一緒にカレーを作ってるとき、『俺、兄ちゃんが好きなんですよ。だから、付き合えたら嬉しいなって思ってます』って教えてくれたもの」
「え? なんだよ、それ……」
「ふふふっ。その言い方が『こんにちは。今日はいい天気ですね』って挨拶するみたいに自然で、あっけらかんとしてて……びっくりはしたけど、その場にいた篤志さんと笑いそうになっちゃったわ」
その時のことを思い出しているのだろうか。母さんがクスクス笑っている。
「ねぇ、月臣。あなたが男の子のことが好きだとしても、母さん構わないわ。あなたが幸せなら、それで十分だもの。それにね、月臣はまだ高校三年生。もしかしたらあと十年後には、同性婚が日本でも認められてるかもしれない」
「そうだね。もしかしたらそんな同性夫婦が養子を迎えることができる社会になってるかもしれないよ?」
「やだ! そうしたら私達おじいちゃんとおばあちゃんじゃない! 血の繋がらない家族が集まって暮らす……まるで寄せ鍋家族ね」
「いいじゃないか。寄せ鍋家族」
二人で顔を見合わせて笑う姿は穏やかそのもので、意気込んでいた俺は肩透かしをくらった気分だ。
「なぁ、月臣君。せっかくだから、これから起こるかもしれない明るい未来を夢見て過ごそうじゃないか」
「篤志さん、母さん……」
肩の荷が下りて、気づけば涙が頬を伝う。
「それでも私たちに申し訳ないと思うなら、どうか太陽に君の本当の思いを伝えてあげてもらえないだろうか?」
「本当の思い、を……?」
「そうだ。それだけで十分だから。子供が幸せなら、私達はそれで十分なんだよ」
「篤志さん、ありがとう。ありがとうございます」
俺は、あなたの子供になれて本当に幸せです。母さんが選んだ人は、本当に素敵な人だ。
「ほら、行きなさい。太陽はおばあちゃんの家にいるはずだよ」
「月臣。幸せを、自分の手で掴んでね」
「うん。行ってきます。父さん、母さん」
父さん……自然と口から零れた言葉。
びっくりしたように目を見開く二人にそっと微笑んで、俺は大きな一歩を踏み出した。
◇◆◇◆
バス停に向かったけど、さっきバスは行ってしまったばかりだ。俺は自転車にまたがり勢いよく漕ぎ出す。次のバスなんて待ってられない。早くこの気持ちを伝えたいんだ。
「行くぞ」
一度だけ行ったことのある太陽のおばあちゃんの家。自宅からかなり距離がある。俺は気合を入れるために大きく深呼吸をする。今の学校に転校してから部活もしていなかったから、体が相当なまっている。すぐに息は上がるし、足はすぐに棒のようだ。冬だっていうのに、額から汗が流れ落ちる。吐き出す息は白くて、一漕ぎする度に後ろに流れていく。
「わぁ、凄い」
ふと海に視線をやると、広い海の上に満月が浮かんでいた。ユラユラと揺れる海面に映る満月から広がる強い光。
太陽は「月が綺麗だ」ってよく話してくれた。今なら太陽が言っていたことがよくわかる。
「太陽、月って綺麗だね」
もう一度気合を入れ直して、また自転車のペダルを踏み出す。今すぐ太陽に会いたくて……息が切れる以上に、気持ちが前へ前へと足を動かした。
「あった……」
おばあちゃんの家のある丘は真っ暗で、何の音もしない。本当に今太陽がいるのだろうか? 意を決して扉を開けると、そこには見慣れた太陽の靴。
「おじゃま、します。……太陽、ねぇ、いるの?」
そっと問いかけながら部屋に上がった。それでも誰からの返事もない。
「太陽……」
電気がついていない部屋は青白い月明かりに包まれて、とても幻想的だった。月の光ってこんなにも落ち着くんだ……俺はそっと息を吐き出す。
居間に着いた瞬間、俺は息を飲んだ。
障子が開け広げられた部屋からは、遥か彼方まで広がる海が一望できる。大きな海の上には、やっぱり大きな満月が浮かんでいた。そんな光景を見れば、いかに自分が小さな存在だったのかを思い知らされる。だって、月はこんなにも眩しくて綺麗だから。
「月……」
突然名前を呼ばれて、背中から抱き締められる。あまりにも突然で俺はびっくりしてしまったけど、すぐにそれが太陽だってわかった。
逞しい腕に温かな体。それに、太陽からはいつもお日様の香りがした。
もう二度と感じられないかもしれないと思った体温に包まれ、涙が溢れ出す。辛かった過去に、怖くて仕方なかった未来。色んな思いが混ざった涙……そんな涙がスッと心に沁み込んでいくのを感じた。
「月、俺に会いに来てくれたの?」
「うん。俺、太陽に会いたかったから。だから自分の意志で太陽に会いにきたよ」
「なんでだよ? メール見ただろう? 俺、月の為に弟になろうって決めたんだ。すげぇ悩んで苦しんで……でも、こうやって月の顔を見たら、そんな決心、簡単に鈍っちゃう」
耳元で苦しそうな太陽な声が聞こえる。もしかして泣いているもかもしれない。俺の洋服が温かな雫で濡れていくのを感じた。
「俺は月が好きなんだよ? こんなん、我慢できなくなる」
「ごめん、ごめん、太陽」
自分を抱き締めてくれる太陽の腕にギュッとしがみ付く。俺より背の高い太陽の吐息が首筋にかかってくすぐったい。太陽の逞しい腕が好きで、ほっそりとした長い指も好き。柔らかい唇も、低い声も……もう全部が大好きなんだ。
「俺はね、俺がいないと生きてけない月が……太陽の光がないと輝くことができない月が好きだよ。ごめんね、月を見てると虐めたくなる。独り占めしたくて、誰にも見せたくなくて。でも思い通りにいかない。今まで、大体のことは何でも上手くできたのに……でも、月が好き。大好き」
「太陽!」
自分の過去を切り捨てた高校一年生の冬。あの日から自分の心を押し殺して、ただ両親に迷惑をかけまいと優等生を演じ続けた。それは本当の自分を偽り、模範となる青年を生き続けた張りぼての自分。いつか自分の過去が誰かにバレるんじゃないかと、生きた心地がしなかった。辛くて、苦しくて……何度も一人で泣いた。
「ねぇ、太陽。俺……俺……好きって言ってもいいの?」
「言ってよ! いくら体を繋げても、好きって言わなきゃ気持ちは伝わらない。なぁ、好きって言って……? 月……」
「太陽ぉ……」
「ふふっ。泣き虫だなぁ。もうこれ以上自分を虐めないで。一人で無理して強がって……月は十分頑張ったよ。だから過去の自分を許してあげよう? 大丈夫だよ、俺がいるから」
真正面から太陽に抱き付けば、息が止まるくらい強く抱き締め返してくれる。
そうだね、太陽。
もう許そうと思う。過去の自分も、同性しか愛せない自分も。大丈夫、太陽も、父さんと母さんも、全てを受け止めてくれてるから。
「太陽、大好き……大好き……んんッ、はぁ……」
吹き込んでくる潮風に誘われるかのように、チュッと唇を奪われて。淡い月明かりの中、夢中でキスをした。
柔らかくて温かい。うっとりと目を細めると、優しい顔をした太陽がコツンと額をくっつけてくる。至近距離で目が合って、少しだけ照れくさい。
「月は自分では光ることができないけど、太陽の光を受ければあんなにも綺麗に輝くことができるんだよ。だからずっと一緒にいよう? 一緒に輝こう。ねぇ、大好き」
「俺も、好き」
俺はキラキラしたものが苦手だ。
例えば煌びやかに輝くショーウィンドウや、ブランドのペアリング。大勢の人で賑わう週末のショッピングモールや、明らかにバーベキューをするために買い出しをしている楽しそうな男女のグループだったり……。
でも今の俺は少しだけ違う。
雨の日も好きだったけど、今はポカポカと太陽の日差しが差し込む陽光も好きだ。
でも、月明かりに包まれて心穏やかに過ごす時間も心地いいと感じられる。
きっと俺は変わっていく。キラキラと輝く太陽の日差しを受けて、もっともっと輝いて生きていけると思うんだ。
【完】