「おい、百瀬兄」
「はい?」
呼び慣れない呼ばれ方をした俺は、慌てて声のするほうを振り返る。そこには英語を担当している栗原先生が立っていた。
「あ、栗原先生」
「百瀬兄、弟をなんとかしてやってくれ」
「え? どういうことですか?」
栗原先生は大きく息を吐きながら、俺の肩に両手を載せた。突然のしかかる両肩の重みに、俺は思わずバランスを崩して後ずさる。太陽が一体何をしたのだろうか。
先生が「弟をなんとかしてやってくれ」と血が繋がっていないとは言え、俺の所までわざわわざくるなんて……ただ事ではない、と思わず体が強張る。
「あの、太陽がどうしたんですか?」
「太陽な……」
「は、はい」
ゴクッと唾を飲み込む。不良行為、まさか虐められてるとか……俺の頭の中を色々な考えが駆け巡った。
「太陽、英語の単位を落とすかもしれない」
「は? 単位を、ですか?」
「あぁ。あいつこの前の中間テストで、英語が十二点だったんだ」
「十二点……二十点満点ですか?」
「百点満点だよ……」
「えぇ?」
それを聞いた俺は自分の耳を疑ってしまう。赤点にだって全く追いついていない壊滅的な点数。選択問題もあっただろうから、よくも十二点だけとれたものだと、逆に尊敬さえしてしまう。
「それに、この前の単語の小テストでは八点だ」
「八点……それはすごいですね……」
「太陽は勉強は壊滅的だが、本当にいい子だから何とか進級させてやりたいのに、俺たち教師が何を言っても無駄なんだ。まさに寝耳に見ず、馬の耳に念仏だ」
「そうですか……」
大きな溜息をつく栗原先生がなんだか気の毒になってしまった。
「逆に百瀬兄は学年一位で成績優秀。柔道部の岩瀬に、太陽はお前の言うことなら聞くんじゃないかって言われて、こうやってはせ参じたわけだ」
「そうなんですね。でも太陽、俺が言えば勉強するかな? すみません、ちょっと自信がないです」
「とにかく、今度の中間テストの再試験でもう一度赤点をとれば、あいつは留年決定だ。俺は教師としてどうしても留年だけは回避してやりたい。だから、頼む、太陽の勉強を少しみてやってくれないか?」
「…………」
自分よりも遥かに年上の教師に、こんな風にお願いされてしまえば、断ることなんてできるはずがない。俺は大きく息を吐いた。
「わかりました。俺が言って太陽が言うことを聞くかはわからないですけど、やってみます」
「おぉ! 頼りにしてるぞ、百瀬兄。再試験は一週間後だ」
「はい」
気乗りはしないがやるしかない。「よし」と俺は心の中で気合を入れたのだった。
栗原先生から太陽を任せられた日の放課後。いつものように部活が終わった太陽と家路についていた。
再試験のことを自分から言ってくるのを待っていたけど、いつまでたっても触れてこない太陽に痺れを切らし、そっと問いかけた。
「なぁ、太陽。君、英語の単位を落としそうなんだって?」
「はぁ? その話誰に聞いたの?」
「英語の栗原先生」
「チッ、栗原め。月に言いつけるなんて……」
「こら、太陽。先生を呼び捨てにするなんてよくないよ? しかも舌打ちまで。それに栗原先生は、本当に太陽を心配して……」
「あー、わかったわかった! 勉強すればいいんだろう? じゃあ、月が教えてよ」
「え? 俺が教えてあげれば、太陽は勉強頑張れるの?」
「うん! 頑張れる!」
突然大きな声を出しながら前のめりになる太陽。切れ長の目をキラキラと輝かせて、なんだかとても嬉しそうだ。もし太陽に尻尾が生えてきたら、きっとフリフリと振っていることだろう。その姿は大型犬のようで、見ていて可笑しくなってしまった。
「よし、じゃあ太陽。再試験まで一週間。再試験のある生徒は部活は強制的に休みなるらしいから、その間俺が勉強を教えてあげる」
「うん! 俺頑張る! じゃあ毎日月の部屋で勉強するの? それとも俺の部屋?」
「駄目だよ、太陽。勉強は毎日学校の図書室でやるから」
「えぇ!?」
「だって、家に帰ったらゲームや漫画本だってあるし、太陽きっとすぐに寝ちゃうもん。その点、図書室だったら誘惑するものはないから集中して勉強できるだろう?」
「そんなぁ……。俺、家で月と二人っきりで勉強がしたかった」
なぜかガッカリする太陽を宥めるように言って聞かせる。大体、なんで図書室で勉強するのが嫌なのだろうか。何か裏があるような気がして俺は眉を顰めた。
「家で、月とイチャイチャしながら勉強がしたかった」
「はぁ? 太陽、なに言ってんだよ……」
「だって、月あれ以来キスしてくれないんだもん」
「太陽……」
「俺、月ともっとキスしたい」
そう言いながら唇を尖らせる太陽。その顔はまるで子供のようだ。笑ったり拗ねたり、ころころと表情が変わる太陽を見ているのは楽しいけど、今はそんなことを言っている場合ではない。
「太陽、今はそんなことを言っている場合じゃなくて、まず進級だろう?」
「わかってる、わかってるけどさ……。なぁ、月?」
「な、なんだよ……」
突然隣を歩いている俺の手を握り締める太陽。その強引さに俺の心臓が高鳴りはじめる。
「もし再試験が合格点だったら、俺のお願い聞いてくれる?」
再試験を全部合格するなんて当たり前だろう? そう言いかけたけれど、俺はその言葉を呑み込む。俺の手を握り締める太陽の視線が、ひどく真剣に感じられたから。
「お、お願いってなに?」
「再試験が全部合格点だったら、俺、飽きるまで月とキスしてみたい」
「な、なんだよそれ!?」
「だって、ご褒美でもなければ頑張れないじゃん」
「でも……」
以前岩瀬が、太陽は女の子に告白されたときに「ずっと前から好きな人がいるから」と断ってしまう、と言っていたことを思い出す。それなのに、自分とキスしたいと言う太陽の考えが理解できなかった。
簡単にキスさせてくれる奴……と軽く見られてしまったのだろうか。
「お願い、俺、月といっぱいキスしたい」
「太陽、あのね……」
「お願い、月」
甘えた声を出しながら顔を覗き込まれてしまえば、頬がひとりでに火照っていくのを感じる。心臓がうるさいくらいに鳴り響いて、呼吸がしにくい。
――結局俺は、太陽を拒絶できない。
俺は大きく溜息を吐いた。
「わかった。頑張ったご褒美に、好きなだけキスしていいよ」
「本当に?」
「その代わり、留年なんかしたら父さんと母さんが悲しむから頑張ってよね」
「うん。俺頑張るね!」
そうにっこり笑う太陽を、可愛いと思ってしまった自分に嫌気がさしてしまった。
それから毎日放課後になると、太陽は大人しく図書室へと来るようになった。さぞ不貞腐れた顔で来ると思いきや、ニコニコしながら嬉しそうにやって来る。
「兄ちゃん、お待たせ」
学校だから、「兄ちゃん」と甘えた声を出しながら自分の元にやって来る太陽は、やっぱり年下だなって感じる。つい甘やかしてやりたい思いを押し込めた。
太陽は岩瀬の言う通り努力家だ。目標があればそれに向かって突き進むことができる強さを持っている。それに意外と物覚えもよくて、再試験なんて楽勝なのでは? そう思い始めた頃に事件は起きた。
「はぁ? 太陽って赤点英語だけじゃないの?」
「てか、逆に誰が英語だけって言ってたの?」
「いや、それは……」
最近戻ってきたテストの答案用紙を太陽に見せられた俺は、思わず言葉を失ってしまう。なぜなら、どれも無惨な点数だったから。
「国語二十点、数学十六点、生物三十二点……日本史は、あ、五十三点だ」
「そう。俺ね日本史好きなんだ。すごいだろ? 五十点いったなんて」
そう言いながら笑う太陽。褒めて、と言わんばかりに頭を突き出してきたから、とりあえず撫でてやる。でも赤点なんだよなぁ……。
「つまり、九教科中、五つが赤点か」
「うん。俺、家庭科と体育の筆記は得意なんだよ」
「そうだね。その二つのテストは全部選択問題だったみたいだから……はぁ……これは強敵だ」
「ん? 月どうした?」
「太陽さぁ、よく今まで進級できてたね?」
「あー、今まではなんとかなってきたんだよ。だから、きっとこれからもどうにかなるって」
「はぁ? なんだよその適当な考え……」
「大丈夫だって! それに、今の俺には月がいるもん。だから全然大丈夫」
「…………」
俺の顔を覗き込んで蕩けそうな笑顔を見せる太陽。そんな顔をされたら、何も言えなくなってしまう。
そのうち向かい合って座っていた太陽の手がそーっと伸びてきて、答案用紙を持っている俺の手に触れた。びっくりして太陽を見れば、今度は悪戯っ子のように笑っている。それから、周りの生徒に聞こえないくらいの小さな声で囁いた。
「赤点が想像以上に多かったから、頑張った分のご褒美をもっと豪華にしてもらわないと」
「な、なんだよ、豪華にって……」
「ふふっ。月、こっちきて」
おいでおいでと手招きされたから、テーブルに体を乗り出して太陽に顔を近付ける。ニコッと笑う太陽に耳打ちされた言葉を聞いて、俺は思わずものすごい勢いで椅子から立ち上がってしまった。
太陽の息がかかった右耳が熱くて、冷たい手で必死に冷やす。顔にもどんどん熱が篭っていって、体が小さく震えた。
「月、ここ図書室だから静かにしないと」
「う、うるさい。太陽には言われたくない」
「再試験が楽しみだなぁ」
太陽が嬉しそうに微笑みながら教科書に視線を移す。
『全部の試験が合格点とれたら、大人がするキスしていい? それから、月の体にも触れてみたい。ねぇ、いいでしょ?』
いつもより低い太陽の声が、頭の中から離れない。
俺は髪を掻き毟ってから、テーブルに突っ伏す。なんで太陽はこんなにも真っ直ぐなんだろう……。
きっと、この胸の高鳴りは当分治まってくれないはずだ。
それから放課後図書室で勉強をするのが、俺と太陽の日課になっていた。
太陽はもともと勉強ができないわけではなく、ただ勉強が面倒くさいだけなのかもしれない。きちんと教えてやればすぐに理解できるし、呑み込みも早い。ただ如何せん、集中力がないのだ。
何問か問題を解くと、足で俺の足をつついてみたり、顔を覗き込んできたり。しばらく無視しているとノートに落書きをはじめてしまう。
これはどうにかならないか……と悩んだ挙げ句、昼休みに売店で買ったチョコレートの箱を取り出す。そのチョコレートはアーモンドに包まれていて、俺も小さい頃から食べている大好物だ。
太陽が飽きてきてしまったようで、俺の指に自分の指を絡めて遊びはじめた。「兄ちゃん手が小さいね」なんて、真剣に俺の指と自分の指の長さを比較している。
そんな太陽に声をかける。顔から火が出そうなのをグッと我慢して……。
「ほ、ほら、太陽あーん?」
「ん?」
「チョコレートあげるから、もう少し頑張って」
「え? チョコレートくれんの? あーん」
太陽は恥ずかしげもなく大きな口を開ける。まるで親鳥に餌をねだる雛みたいだ。
俺は勇気を振り絞って太陽の口にチョコレートを放り込む。その瞬間、指先が太陽の柔らかい唇に触れて……心臓がトクンと跳ね上がる。慌てて手を引っ込めた。
「美味い!」
「な、なら、もう少し頑張ろう」
「うん」
嬉しそうな顔をしながら再び教科書に視線を戻す太陽を見ていると、また少しずつ鼓動が速くなっていった。
いよいよ、再試験が週明けに迫った金曜日の放課後。ラストスパートと言わんばかりに、俺は太陽に色々なことを教え込む。
最初の頃は向かい合って勉強をしていたけど、最近は太陽の隣を陣取っている。隣にいれば、太陽の集中力が切れたときに肘鉄を入れることもできるし、糖分の補給でお菓子を口に放り込んでやることもできる。
……でも、正直、再試験で全教科赤点を回避することは難しいかもしれない。だって、俺はこんなにも焦っているのに、太陽はあくまでも通常運転だ。
ちょっとくらい焦ってほしい。そんな俺の願いは、太陽に届きそうもない。
「あのさ、太陽。少しくらい危機感を持ったらどうなんだ?」
「ん? なにが?」
「このままじゃ、再試験も落としそうな教科があるだろう? 太陽、不安とかないの?」
「んー、別に……ないかな」
ポッキーを口に咥えながら屈託のない笑顔を見せる。
「あのね、太陽……」
「あ、いいこと思いついた」
「だから太陽……」
「今から俺とゲームしよう? それで兄ちゃんが勝ったら、俺もっと必死に勉強する」
そう話す太陽は目をキラキラと輝かせている。すごく嫌な予感しかしない。
「なんだよ、そのゲームって」
「お、珍しくノリがいいね。じゃあ……」
目の前で太陽が微笑む。先程からこちらをチラチラと盗み見ている女子の視線が気になって仕方がない。きっと、太陽が放課後毎日のように勉強にきていることが噂になり、普段は図書室になんて来ない生徒までいるのだろう。
そう、太陽に会いたいがために。
そんなことなどお構いなしに、太陽が教科書を勢いよく開いて目の前のテーブルの上に立てた。
――一体なんなんだ……。
呆然と太陽を見つめていると、机に突っ伏した太陽に手招きされる。それは、まるで立てられた教科書に隠れているようにも見える。「なんだなんだ」と太陽に近づくと、口にポッキーを咥えていた。
「月、ポッキーゲーム知ってる?」
「な!?」
「月はこっちの端を咥えて? 先にポッキーを折ったほうが負けね」
「ちょ、ちょっと太陽……」
狼狽える俺が面白いのだろう。太陽は満面の笑みを浮かべていた。
「だって、ここには俺達以外の生徒がいるんだよ? わかってる?」
「だから目隠しに教科書立てたじゃん?」
「だからって……」
二人して体を屈めてヒソヒソと話す姿は、傍からはどのように映っているのだろうか。心臓がドキドキして、冷や汗が出てきた。頭の中が混乱してきて、呼吸困難になりそうだ。
「いいから、ほら月もポッキー咥えて?」
「でも……」
「可愛い弟の為でしょ?」
「太陽、いい加減にしてよ」
「月……」
俺が太陽から体を離そうとした瞬間、腕を引かれる。その反動で、俺と太陽は教科書の壁に隠れて見つめ合ってしまった。
「月、お願い」
「…………」
「月」
可愛くおねだりされてしまえば断りきれなくて、俺はポッキーに視線を移す。不思議と周りの騒音が聞こえなくなっていた。
俺はポッキーの端を咥えて、少しずつ食べ進める。カリカリッと、クッキーを食べ進める音だけがやたら耳に響いて……少しずつ二人の距離が縮まっていく。太陽の温かな吐息が顔にかかった。
――あ、唇がついちゃう。
そう感じて目をギュッと閉じる。いつの間にかテーブルの上で握り締めていた手に、太陽の手が重ねられていて。心臓がやかましいくらいに鳴り響いた。
――もう駄目だ……。
パキッ。俺は思い切りポッキーを噛み砕き、太陽から体を離す。肩で息をしながら必死に呼吸を整えた。
――俺は、みんながいる場所で一体なにを……。
冷静になって考えてみれば、血の気がサッと引いていった。
「へへ、俺の勝ち」
「太陽……」
「今日はもう帰って家で勉強の続きしよう」
悪戯っ子のように笑う太陽を横目に、俺は火照る顔を両手で覆った。
その週末、太陽は傍目でもわかるくらい一心不乱に勉強をしていた。ようやく危機感を持ってくれたとホッと胸を撫で下ろす。
英語教師の栗原先生も、「最近の太陽は本当に頑張って勉強してる」って嬉しそうに話してくれた。先程から俺のベッドに居座ってワークを進めている太陽の頭を、そっと撫でてやる。本当によく頑張っていると思う。
「太陽、偉いぞ。頑張って」
「んー?」
そんな俺を見上げたあと、突然飛び起きる。気が付いたときには俺は太陽に抱き寄せられていた。
なんだ……そう思う間もなく、唇をフニフニと指先でつつかれる。予想もしていなかった太陽の行動に、俺は抵抗さえできなかった。
「俺はさ、留年しない、がもちろん目標ではあるけど、月とキスしたいから頑張ってるんだよ」
「え?」
「月の鈍感。アホ、マヌケ」
「ご、ごめんね」
拗ねたように唇を尖らせる太陽に思わず謝罪してしまう。
「月、再試験全部クリアしたらキスしてくれるっていう約束……絶対に守ってくれよ」
「あ、うん」
俺は恥ずかしくて顔を上げることさえできなくて。俯いたまま、そっと頷いた。
週が空けた月曜日。再試験対象者が一斉に試験を受ける日だ。朝から俺は落ち着かなくて、ずっと教室でソワソワしている。おかげで授業も上の空だ。
再試験は視聴覚室でやるって太陽が言っていたから、視聴覚室があるほうの校舎が気になって仕方がない。
「太陽、頑張って」
傍にいてやれることさえできないことが歯痒くて。俺は強く拳を握り締めた。
再試験が終わったあと、何の音沙汰もない太陽に待ちきれない俺はメールをする。「お疲れ様」「頑張ったね」「試験はどうだった?」と聞きたいことは山ほどあるのに……。
太陽から返ってきた返信は「多分大丈夫なんじゃない?」という一言で。俺は一気に肩の力が抜けていくのを感じた。
「太陽……大丈夫かな……」
俺は真っ青に晴れた空を見上げながら、大きな溜息を吐いたのだった。
俺にしてみたら大きなイベントだった太陽の再試験。
当の本人は何事もなかったかのように部活を再開し、普段通りの日常生活に戻っていった。
相変わらず朝は一緒に登校して、太陽の部活が終わるのを待って一緒に下校する。当たり前の生活に戻ってしまった俺は、再試験があったことさえ夢のように感じていた。
だって冷静に考えてみたら、高校で留年なんて余程のことがない限りありえない話だ。そう思えば、一生懸命悩んでいた自分が情けなくなる。
「何やってたんだろう」
俺はなんだか馬鹿らしくなって外を眺めた。いい天気だな……って少しだけ気を抜いた瞬間、スマホがメールの着信を知らせる。
もしかして……恐る恐るメールを確認すれば、案の定太陽からだった。
『再試験の結果が出たから、昼休みに屋上に上がる階段まできて』
――あぁ、ついにきたか……。
やっぱり夢なんかじゃなかった。午前中の授業が終わった瞬間、俺は教室を飛び出す。気合いを入れて太陽が待つ場所へと向かった。
その階段は屋上へと続いている。しかし、屋上に出るための扉には鍵がかけられているから、屋上へと行くことはできない。
だから、ここはカップルの密会場所だって噂で聞いたことがある。そんな場所に呼び出された俺は、緊張してしまった。
太陽はあんなに頑張っていたから、全教科の再試験が合格点だったらいいなって思う。だって、あんなに頑張っていたんだから。頑張っていた太陽の姿を思い出すだけで、胸が熱くなる。どうか、努力が報われますように……。
屋上へと続く階段の一番上に太陽は座っていた。
風が強いのだろうか? 屋上へ出るための扉がガタガタと音をたてて揺れている。
太陽は眠そうな顔をしていて、欠伸なんかしている。こんなときまで緊張感のない太陽に可笑しくなってしまった。まったく君って奴は……。
「太陽」
そっと近付いて名前を呼べば、弾かれたように顔を上げる。それからニッコリ微笑んだ。その顔を見ただけで、涙が出そうなくらい安堵してしまう。
「太陽、結果はどうだった? わっ!」
俺は結果を聞かないうちに、太陽に抱き締められた。あまりにも力強く抱き締められて、一瞬息ができなくなる。
「月、ここにおいで」
「あ、うん」
太陽の足と足の間に座らされた俺は、恐る恐るその顔を見上げた。こんなにも近くに太陽の顔があることが恥ずかしくて仕方がないけど、今は再試験の結果が知りたい。
「ねぇ、太陽……んッ」
突然太陽に唇を奪われて、俺は真ん丸な瞳を更に見開いた。呼吸が止まりそうになったから慌てて太陽から離れようとすれば、後頭部を押さえられてしまい……それは叶わなかった。
一瞬唇が離れたタイミングに息を吸おうとしたけど、またすぐに唇は塞がれてしまう。太陽に食べられてしまうのではないか? というキスに、もう何が何だかわからない。俺は必死に太陽からのキスを受け止めた。
「再試験、全教科合格点だったよ」
「へ?」
「おかげさまで、留年せずに済んだ」
照れ臭そうにはにかむ太陽を見て、不覚にも目頭が熱くなってしまう。
たかが中間試験くらいで泣くなんて、本当にどうにかしてる。でもなんでだろう。胸が熱くて苦しくて……でもすごく幸せだ。
「太陽、頑張ったね」
「うん」
優しく頭を撫でてやれば嬉しそうに微笑む。太陽の笑顔に胸がキュッと締め付けられた。
「頑張ったからご褒美ちょうだい?」
「……もう貰ってるじゃん」
「こんなんじゃ、全然足りない」
「太陽……あ、んッ」
少しだけ不満を漏らせば、眉間に皺を寄せた太陽にもう一度唇を奪われてしまう。
まるで探るかのように、太陽の舌が口内に侵入してくる。そのたどたどしい舌遣いに、太陽の必死さが伝わってきて心が熱くなる。
俺は、太陽の舌を絡め取って自分の口内へと受け入れる。大人のキスがしたいって太陽が言ってたから。緊張のあまり、太陽のシャツを握り締めてしまった。
「月、可愛い……」
耳元で太陽の甘ったるい声が響く。キスが気持ちよくて思考が正常に働かなくっていた俺は、虚ろな視線で太陽を見上げた。
――もっとキスして。
口から零れ出そうになる言葉を必死に呑み込む。
だって、そんな恥ずかしいことを言ったら、後でまた後悔することになるだろう。
でも、でも……。太陽とのキスは気持ちがいい。
「月の体に触っていい?」
「……俺の、体に?」
「うん。普段洋服で隠れてるとこに触ってみたい」
「やだ、恥ずかしい」
「月、お願い」
甘えるように囁く太陽の唇が、もう一度自分の唇に重ねられる。太陽の唇は温かくて、柔らかい。啄み合うように、その唇を堪能した。
太陽が俺のシャツのボタンを外していく。それが恥ずかしくて太陽の手を掴んだけれど、やんわりと振り払われてしまった。
「月。月。可愛い」
「ん、はぁ、太陽……」
額に頬、首筋に何度もキスをされて、俺は大きく体をしならせる。
――もっと太陽に触れられたい。
太陽の頭を抱き寄せようとした瞬間……校内に昼休みの終了を告げるチャイムが鳴り響く。
「……はッ」
その音で、俺は我に返る。
――こんな所で何をしていたんだ。
津波のように羞恥心が押し寄せてきた。心臓が口から飛び出るのではないか、というくらいドキドキして。体が自然と震え出す。でもそれと同時に、突然突きつけられた現実が悲しかった。
「ちくしょう……時間切れか……」
太陽が悲しそうに呟く。
「このままサボって、ずっと月と一緒にいたい」
「太陽……」
「月とずっと一緒にいたい」
子供のように自分に縋り付いてくる太陽を、強く抱き締める。
胸の高鳴りが治まってくれなくて、胸が熱くて……目の前が涙でユラユラと揺れる。
――チャイムが鳴ってくれてよかった。
俺は心の底から安堵する。こんな所を誰かに見られたら、自分達は終わりだ。そう思えば強い後悔に襲われる。
それでも、俺の中で太陽の存在が、どんどん大きくなっていくのを感じた。
「はい?」
呼び慣れない呼ばれ方をした俺は、慌てて声のするほうを振り返る。そこには英語を担当している栗原先生が立っていた。
「あ、栗原先生」
「百瀬兄、弟をなんとかしてやってくれ」
「え? どういうことですか?」
栗原先生は大きく息を吐きながら、俺の肩に両手を載せた。突然のしかかる両肩の重みに、俺は思わずバランスを崩して後ずさる。太陽が一体何をしたのだろうか。
先生が「弟をなんとかしてやってくれ」と血が繋がっていないとは言え、俺の所までわざわわざくるなんて……ただ事ではない、と思わず体が強張る。
「あの、太陽がどうしたんですか?」
「太陽な……」
「は、はい」
ゴクッと唾を飲み込む。不良行為、まさか虐められてるとか……俺の頭の中を色々な考えが駆け巡った。
「太陽、英語の単位を落とすかもしれない」
「は? 単位を、ですか?」
「あぁ。あいつこの前の中間テストで、英語が十二点だったんだ」
「十二点……二十点満点ですか?」
「百点満点だよ……」
「えぇ?」
それを聞いた俺は自分の耳を疑ってしまう。赤点にだって全く追いついていない壊滅的な点数。選択問題もあっただろうから、よくも十二点だけとれたものだと、逆に尊敬さえしてしまう。
「それに、この前の単語の小テストでは八点だ」
「八点……それはすごいですね……」
「太陽は勉強は壊滅的だが、本当にいい子だから何とか進級させてやりたいのに、俺たち教師が何を言っても無駄なんだ。まさに寝耳に見ず、馬の耳に念仏だ」
「そうですか……」
大きな溜息をつく栗原先生がなんだか気の毒になってしまった。
「逆に百瀬兄は学年一位で成績優秀。柔道部の岩瀬に、太陽はお前の言うことなら聞くんじゃないかって言われて、こうやってはせ参じたわけだ」
「そうなんですね。でも太陽、俺が言えば勉強するかな? すみません、ちょっと自信がないです」
「とにかく、今度の中間テストの再試験でもう一度赤点をとれば、あいつは留年決定だ。俺は教師としてどうしても留年だけは回避してやりたい。だから、頼む、太陽の勉強を少しみてやってくれないか?」
「…………」
自分よりも遥かに年上の教師に、こんな風にお願いされてしまえば、断ることなんてできるはずがない。俺は大きく息を吐いた。
「わかりました。俺が言って太陽が言うことを聞くかはわからないですけど、やってみます」
「おぉ! 頼りにしてるぞ、百瀬兄。再試験は一週間後だ」
「はい」
気乗りはしないがやるしかない。「よし」と俺は心の中で気合を入れたのだった。
栗原先生から太陽を任せられた日の放課後。いつものように部活が終わった太陽と家路についていた。
再試験のことを自分から言ってくるのを待っていたけど、いつまでたっても触れてこない太陽に痺れを切らし、そっと問いかけた。
「なぁ、太陽。君、英語の単位を落としそうなんだって?」
「はぁ? その話誰に聞いたの?」
「英語の栗原先生」
「チッ、栗原め。月に言いつけるなんて……」
「こら、太陽。先生を呼び捨てにするなんてよくないよ? しかも舌打ちまで。それに栗原先生は、本当に太陽を心配して……」
「あー、わかったわかった! 勉強すればいいんだろう? じゃあ、月が教えてよ」
「え? 俺が教えてあげれば、太陽は勉強頑張れるの?」
「うん! 頑張れる!」
突然大きな声を出しながら前のめりになる太陽。切れ長の目をキラキラと輝かせて、なんだかとても嬉しそうだ。もし太陽に尻尾が生えてきたら、きっとフリフリと振っていることだろう。その姿は大型犬のようで、見ていて可笑しくなってしまった。
「よし、じゃあ太陽。再試験まで一週間。再試験のある生徒は部活は強制的に休みなるらしいから、その間俺が勉強を教えてあげる」
「うん! 俺頑張る! じゃあ毎日月の部屋で勉強するの? それとも俺の部屋?」
「駄目だよ、太陽。勉強は毎日学校の図書室でやるから」
「えぇ!?」
「だって、家に帰ったらゲームや漫画本だってあるし、太陽きっとすぐに寝ちゃうもん。その点、図書室だったら誘惑するものはないから集中して勉強できるだろう?」
「そんなぁ……。俺、家で月と二人っきりで勉強がしたかった」
なぜかガッカリする太陽を宥めるように言って聞かせる。大体、なんで図書室で勉強するのが嫌なのだろうか。何か裏があるような気がして俺は眉を顰めた。
「家で、月とイチャイチャしながら勉強がしたかった」
「はぁ? 太陽、なに言ってんだよ……」
「だって、月あれ以来キスしてくれないんだもん」
「太陽……」
「俺、月ともっとキスしたい」
そう言いながら唇を尖らせる太陽。その顔はまるで子供のようだ。笑ったり拗ねたり、ころころと表情が変わる太陽を見ているのは楽しいけど、今はそんなことを言っている場合ではない。
「太陽、今はそんなことを言っている場合じゃなくて、まず進級だろう?」
「わかってる、わかってるけどさ……。なぁ、月?」
「な、なんだよ……」
突然隣を歩いている俺の手を握り締める太陽。その強引さに俺の心臓が高鳴りはじめる。
「もし再試験が合格点だったら、俺のお願い聞いてくれる?」
再試験を全部合格するなんて当たり前だろう? そう言いかけたけれど、俺はその言葉を呑み込む。俺の手を握り締める太陽の視線が、ひどく真剣に感じられたから。
「お、お願いってなに?」
「再試験が全部合格点だったら、俺、飽きるまで月とキスしてみたい」
「な、なんだよそれ!?」
「だって、ご褒美でもなければ頑張れないじゃん」
「でも……」
以前岩瀬が、太陽は女の子に告白されたときに「ずっと前から好きな人がいるから」と断ってしまう、と言っていたことを思い出す。それなのに、自分とキスしたいと言う太陽の考えが理解できなかった。
簡単にキスさせてくれる奴……と軽く見られてしまったのだろうか。
「お願い、俺、月といっぱいキスしたい」
「太陽、あのね……」
「お願い、月」
甘えた声を出しながら顔を覗き込まれてしまえば、頬がひとりでに火照っていくのを感じる。心臓がうるさいくらいに鳴り響いて、呼吸がしにくい。
――結局俺は、太陽を拒絶できない。
俺は大きく溜息を吐いた。
「わかった。頑張ったご褒美に、好きなだけキスしていいよ」
「本当に?」
「その代わり、留年なんかしたら父さんと母さんが悲しむから頑張ってよね」
「うん。俺頑張るね!」
そうにっこり笑う太陽を、可愛いと思ってしまった自分に嫌気がさしてしまった。
それから毎日放課後になると、太陽は大人しく図書室へと来るようになった。さぞ不貞腐れた顔で来ると思いきや、ニコニコしながら嬉しそうにやって来る。
「兄ちゃん、お待たせ」
学校だから、「兄ちゃん」と甘えた声を出しながら自分の元にやって来る太陽は、やっぱり年下だなって感じる。つい甘やかしてやりたい思いを押し込めた。
太陽は岩瀬の言う通り努力家だ。目標があればそれに向かって突き進むことができる強さを持っている。それに意外と物覚えもよくて、再試験なんて楽勝なのでは? そう思い始めた頃に事件は起きた。
「はぁ? 太陽って赤点英語だけじゃないの?」
「てか、逆に誰が英語だけって言ってたの?」
「いや、それは……」
最近戻ってきたテストの答案用紙を太陽に見せられた俺は、思わず言葉を失ってしまう。なぜなら、どれも無惨な点数だったから。
「国語二十点、数学十六点、生物三十二点……日本史は、あ、五十三点だ」
「そう。俺ね日本史好きなんだ。すごいだろ? 五十点いったなんて」
そう言いながら笑う太陽。褒めて、と言わんばかりに頭を突き出してきたから、とりあえず撫でてやる。でも赤点なんだよなぁ……。
「つまり、九教科中、五つが赤点か」
「うん。俺、家庭科と体育の筆記は得意なんだよ」
「そうだね。その二つのテストは全部選択問題だったみたいだから……はぁ……これは強敵だ」
「ん? 月どうした?」
「太陽さぁ、よく今まで進級できてたね?」
「あー、今まではなんとかなってきたんだよ。だから、きっとこれからもどうにかなるって」
「はぁ? なんだよその適当な考え……」
「大丈夫だって! それに、今の俺には月がいるもん。だから全然大丈夫」
「…………」
俺の顔を覗き込んで蕩けそうな笑顔を見せる太陽。そんな顔をされたら、何も言えなくなってしまう。
そのうち向かい合って座っていた太陽の手がそーっと伸びてきて、答案用紙を持っている俺の手に触れた。びっくりして太陽を見れば、今度は悪戯っ子のように笑っている。それから、周りの生徒に聞こえないくらいの小さな声で囁いた。
「赤点が想像以上に多かったから、頑張った分のご褒美をもっと豪華にしてもらわないと」
「な、なんだよ、豪華にって……」
「ふふっ。月、こっちきて」
おいでおいでと手招きされたから、テーブルに体を乗り出して太陽に顔を近付ける。ニコッと笑う太陽に耳打ちされた言葉を聞いて、俺は思わずものすごい勢いで椅子から立ち上がってしまった。
太陽の息がかかった右耳が熱くて、冷たい手で必死に冷やす。顔にもどんどん熱が篭っていって、体が小さく震えた。
「月、ここ図書室だから静かにしないと」
「う、うるさい。太陽には言われたくない」
「再試験が楽しみだなぁ」
太陽が嬉しそうに微笑みながら教科書に視線を移す。
『全部の試験が合格点とれたら、大人がするキスしていい? それから、月の体にも触れてみたい。ねぇ、いいでしょ?』
いつもより低い太陽の声が、頭の中から離れない。
俺は髪を掻き毟ってから、テーブルに突っ伏す。なんで太陽はこんなにも真っ直ぐなんだろう……。
きっと、この胸の高鳴りは当分治まってくれないはずだ。
それから放課後図書室で勉強をするのが、俺と太陽の日課になっていた。
太陽はもともと勉強ができないわけではなく、ただ勉強が面倒くさいだけなのかもしれない。きちんと教えてやればすぐに理解できるし、呑み込みも早い。ただ如何せん、集中力がないのだ。
何問か問題を解くと、足で俺の足をつついてみたり、顔を覗き込んできたり。しばらく無視しているとノートに落書きをはじめてしまう。
これはどうにかならないか……と悩んだ挙げ句、昼休みに売店で買ったチョコレートの箱を取り出す。そのチョコレートはアーモンドに包まれていて、俺も小さい頃から食べている大好物だ。
太陽が飽きてきてしまったようで、俺の指に自分の指を絡めて遊びはじめた。「兄ちゃん手が小さいね」なんて、真剣に俺の指と自分の指の長さを比較している。
そんな太陽に声をかける。顔から火が出そうなのをグッと我慢して……。
「ほ、ほら、太陽あーん?」
「ん?」
「チョコレートあげるから、もう少し頑張って」
「え? チョコレートくれんの? あーん」
太陽は恥ずかしげもなく大きな口を開ける。まるで親鳥に餌をねだる雛みたいだ。
俺は勇気を振り絞って太陽の口にチョコレートを放り込む。その瞬間、指先が太陽の柔らかい唇に触れて……心臓がトクンと跳ね上がる。慌てて手を引っ込めた。
「美味い!」
「な、なら、もう少し頑張ろう」
「うん」
嬉しそうな顔をしながら再び教科書に視線を戻す太陽を見ていると、また少しずつ鼓動が速くなっていった。
いよいよ、再試験が週明けに迫った金曜日の放課後。ラストスパートと言わんばかりに、俺は太陽に色々なことを教え込む。
最初の頃は向かい合って勉強をしていたけど、最近は太陽の隣を陣取っている。隣にいれば、太陽の集中力が切れたときに肘鉄を入れることもできるし、糖分の補給でお菓子を口に放り込んでやることもできる。
……でも、正直、再試験で全教科赤点を回避することは難しいかもしれない。だって、俺はこんなにも焦っているのに、太陽はあくまでも通常運転だ。
ちょっとくらい焦ってほしい。そんな俺の願いは、太陽に届きそうもない。
「あのさ、太陽。少しくらい危機感を持ったらどうなんだ?」
「ん? なにが?」
「このままじゃ、再試験も落としそうな教科があるだろう? 太陽、不安とかないの?」
「んー、別に……ないかな」
ポッキーを口に咥えながら屈託のない笑顔を見せる。
「あのね、太陽……」
「あ、いいこと思いついた」
「だから太陽……」
「今から俺とゲームしよう? それで兄ちゃんが勝ったら、俺もっと必死に勉強する」
そう話す太陽は目をキラキラと輝かせている。すごく嫌な予感しかしない。
「なんだよ、そのゲームって」
「お、珍しくノリがいいね。じゃあ……」
目の前で太陽が微笑む。先程からこちらをチラチラと盗み見ている女子の視線が気になって仕方がない。きっと、太陽が放課後毎日のように勉強にきていることが噂になり、普段は図書室になんて来ない生徒までいるのだろう。
そう、太陽に会いたいがために。
そんなことなどお構いなしに、太陽が教科書を勢いよく開いて目の前のテーブルの上に立てた。
――一体なんなんだ……。
呆然と太陽を見つめていると、机に突っ伏した太陽に手招きされる。それは、まるで立てられた教科書に隠れているようにも見える。「なんだなんだ」と太陽に近づくと、口にポッキーを咥えていた。
「月、ポッキーゲーム知ってる?」
「な!?」
「月はこっちの端を咥えて? 先にポッキーを折ったほうが負けね」
「ちょ、ちょっと太陽……」
狼狽える俺が面白いのだろう。太陽は満面の笑みを浮かべていた。
「だって、ここには俺達以外の生徒がいるんだよ? わかってる?」
「だから目隠しに教科書立てたじゃん?」
「だからって……」
二人して体を屈めてヒソヒソと話す姿は、傍からはどのように映っているのだろうか。心臓がドキドキして、冷や汗が出てきた。頭の中が混乱してきて、呼吸困難になりそうだ。
「いいから、ほら月もポッキー咥えて?」
「でも……」
「可愛い弟の為でしょ?」
「太陽、いい加減にしてよ」
「月……」
俺が太陽から体を離そうとした瞬間、腕を引かれる。その反動で、俺と太陽は教科書の壁に隠れて見つめ合ってしまった。
「月、お願い」
「…………」
「月」
可愛くおねだりされてしまえば断りきれなくて、俺はポッキーに視線を移す。不思議と周りの騒音が聞こえなくなっていた。
俺はポッキーの端を咥えて、少しずつ食べ進める。カリカリッと、クッキーを食べ進める音だけがやたら耳に響いて……少しずつ二人の距離が縮まっていく。太陽の温かな吐息が顔にかかった。
――あ、唇がついちゃう。
そう感じて目をギュッと閉じる。いつの間にかテーブルの上で握り締めていた手に、太陽の手が重ねられていて。心臓がやかましいくらいに鳴り響いた。
――もう駄目だ……。
パキッ。俺は思い切りポッキーを噛み砕き、太陽から体を離す。肩で息をしながら必死に呼吸を整えた。
――俺は、みんながいる場所で一体なにを……。
冷静になって考えてみれば、血の気がサッと引いていった。
「へへ、俺の勝ち」
「太陽……」
「今日はもう帰って家で勉強の続きしよう」
悪戯っ子のように笑う太陽を横目に、俺は火照る顔を両手で覆った。
その週末、太陽は傍目でもわかるくらい一心不乱に勉強をしていた。ようやく危機感を持ってくれたとホッと胸を撫で下ろす。
英語教師の栗原先生も、「最近の太陽は本当に頑張って勉強してる」って嬉しそうに話してくれた。先程から俺のベッドに居座ってワークを進めている太陽の頭を、そっと撫でてやる。本当によく頑張っていると思う。
「太陽、偉いぞ。頑張って」
「んー?」
そんな俺を見上げたあと、突然飛び起きる。気が付いたときには俺は太陽に抱き寄せられていた。
なんだ……そう思う間もなく、唇をフニフニと指先でつつかれる。予想もしていなかった太陽の行動に、俺は抵抗さえできなかった。
「俺はさ、留年しない、がもちろん目標ではあるけど、月とキスしたいから頑張ってるんだよ」
「え?」
「月の鈍感。アホ、マヌケ」
「ご、ごめんね」
拗ねたように唇を尖らせる太陽に思わず謝罪してしまう。
「月、再試験全部クリアしたらキスしてくれるっていう約束……絶対に守ってくれよ」
「あ、うん」
俺は恥ずかしくて顔を上げることさえできなくて。俯いたまま、そっと頷いた。
週が空けた月曜日。再試験対象者が一斉に試験を受ける日だ。朝から俺は落ち着かなくて、ずっと教室でソワソワしている。おかげで授業も上の空だ。
再試験は視聴覚室でやるって太陽が言っていたから、視聴覚室があるほうの校舎が気になって仕方がない。
「太陽、頑張って」
傍にいてやれることさえできないことが歯痒くて。俺は強く拳を握り締めた。
再試験が終わったあと、何の音沙汰もない太陽に待ちきれない俺はメールをする。「お疲れ様」「頑張ったね」「試験はどうだった?」と聞きたいことは山ほどあるのに……。
太陽から返ってきた返信は「多分大丈夫なんじゃない?」という一言で。俺は一気に肩の力が抜けていくのを感じた。
「太陽……大丈夫かな……」
俺は真っ青に晴れた空を見上げながら、大きな溜息を吐いたのだった。
俺にしてみたら大きなイベントだった太陽の再試験。
当の本人は何事もなかったかのように部活を再開し、普段通りの日常生活に戻っていった。
相変わらず朝は一緒に登校して、太陽の部活が終わるのを待って一緒に下校する。当たり前の生活に戻ってしまった俺は、再試験があったことさえ夢のように感じていた。
だって冷静に考えてみたら、高校で留年なんて余程のことがない限りありえない話だ。そう思えば、一生懸命悩んでいた自分が情けなくなる。
「何やってたんだろう」
俺はなんだか馬鹿らしくなって外を眺めた。いい天気だな……って少しだけ気を抜いた瞬間、スマホがメールの着信を知らせる。
もしかして……恐る恐るメールを確認すれば、案の定太陽からだった。
『再試験の結果が出たから、昼休みに屋上に上がる階段まできて』
――あぁ、ついにきたか……。
やっぱり夢なんかじゃなかった。午前中の授業が終わった瞬間、俺は教室を飛び出す。気合いを入れて太陽が待つ場所へと向かった。
その階段は屋上へと続いている。しかし、屋上に出るための扉には鍵がかけられているから、屋上へと行くことはできない。
だから、ここはカップルの密会場所だって噂で聞いたことがある。そんな場所に呼び出された俺は、緊張してしまった。
太陽はあんなに頑張っていたから、全教科の再試験が合格点だったらいいなって思う。だって、あんなに頑張っていたんだから。頑張っていた太陽の姿を思い出すだけで、胸が熱くなる。どうか、努力が報われますように……。
屋上へと続く階段の一番上に太陽は座っていた。
風が強いのだろうか? 屋上へ出るための扉がガタガタと音をたてて揺れている。
太陽は眠そうな顔をしていて、欠伸なんかしている。こんなときまで緊張感のない太陽に可笑しくなってしまった。まったく君って奴は……。
「太陽」
そっと近付いて名前を呼べば、弾かれたように顔を上げる。それからニッコリ微笑んだ。その顔を見ただけで、涙が出そうなくらい安堵してしまう。
「太陽、結果はどうだった? わっ!」
俺は結果を聞かないうちに、太陽に抱き締められた。あまりにも力強く抱き締められて、一瞬息ができなくなる。
「月、ここにおいで」
「あ、うん」
太陽の足と足の間に座らされた俺は、恐る恐るその顔を見上げた。こんなにも近くに太陽の顔があることが恥ずかしくて仕方がないけど、今は再試験の結果が知りたい。
「ねぇ、太陽……んッ」
突然太陽に唇を奪われて、俺は真ん丸な瞳を更に見開いた。呼吸が止まりそうになったから慌てて太陽から離れようとすれば、後頭部を押さえられてしまい……それは叶わなかった。
一瞬唇が離れたタイミングに息を吸おうとしたけど、またすぐに唇は塞がれてしまう。太陽に食べられてしまうのではないか? というキスに、もう何が何だかわからない。俺は必死に太陽からのキスを受け止めた。
「再試験、全教科合格点だったよ」
「へ?」
「おかげさまで、留年せずに済んだ」
照れ臭そうにはにかむ太陽を見て、不覚にも目頭が熱くなってしまう。
たかが中間試験くらいで泣くなんて、本当にどうにかしてる。でもなんでだろう。胸が熱くて苦しくて……でもすごく幸せだ。
「太陽、頑張ったね」
「うん」
優しく頭を撫でてやれば嬉しそうに微笑む。太陽の笑顔に胸がキュッと締め付けられた。
「頑張ったからご褒美ちょうだい?」
「……もう貰ってるじゃん」
「こんなんじゃ、全然足りない」
「太陽……あ、んッ」
少しだけ不満を漏らせば、眉間に皺を寄せた太陽にもう一度唇を奪われてしまう。
まるで探るかのように、太陽の舌が口内に侵入してくる。そのたどたどしい舌遣いに、太陽の必死さが伝わってきて心が熱くなる。
俺は、太陽の舌を絡め取って自分の口内へと受け入れる。大人のキスがしたいって太陽が言ってたから。緊張のあまり、太陽のシャツを握り締めてしまった。
「月、可愛い……」
耳元で太陽の甘ったるい声が響く。キスが気持ちよくて思考が正常に働かなくっていた俺は、虚ろな視線で太陽を見上げた。
――もっとキスして。
口から零れ出そうになる言葉を必死に呑み込む。
だって、そんな恥ずかしいことを言ったら、後でまた後悔することになるだろう。
でも、でも……。太陽とのキスは気持ちがいい。
「月の体に触っていい?」
「……俺の、体に?」
「うん。普段洋服で隠れてるとこに触ってみたい」
「やだ、恥ずかしい」
「月、お願い」
甘えるように囁く太陽の唇が、もう一度自分の唇に重ねられる。太陽の唇は温かくて、柔らかい。啄み合うように、その唇を堪能した。
太陽が俺のシャツのボタンを外していく。それが恥ずかしくて太陽の手を掴んだけれど、やんわりと振り払われてしまった。
「月。月。可愛い」
「ん、はぁ、太陽……」
額に頬、首筋に何度もキスをされて、俺は大きく体をしならせる。
――もっと太陽に触れられたい。
太陽の頭を抱き寄せようとした瞬間……校内に昼休みの終了を告げるチャイムが鳴り響く。
「……はッ」
その音で、俺は我に返る。
――こんな所で何をしていたんだ。
津波のように羞恥心が押し寄せてきた。心臓が口から飛び出るのではないか、というくらいドキドキして。体が自然と震え出す。でもそれと同時に、突然突きつけられた現実が悲しかった。
「ちくしょう……時間切れか……」
太陽が悲しそうに呟く。
「このままサボって、ずっと月と一緒にいたい」
「太陽……」
「月とずっと一緒にいたい」
子供のように自分に縋り付いてくる太陽を、強く抱き締める。
胸の高鳴りが治まってくれなくて、胸が熱くて……目の前が涙でユラユラと揺れる。
――チャイムが鳴ってくれてよかった。
俺は心の底から安堵する。こんな所を誰かに見られたら、自分達は終わりだ。そう思えば強い後悔に襲われる。
それでも、俺の中で太陽の存在が、どんどん大きくなっていくのを感じた。