テスト期間が終わり普通の生活に戻って、太陽の部活も再開した。校内で太陽を見かける度に、相変わらずたくさんの友達に囲まれている。
「太陽、購買行こうぜ。焼きそばパン奢ってやるよ」
「あー、太陽! また日直の仕事さぼる気?」
「太陽、バスケやろうぜ」
やっぱり太陽の周りは笑顔で溢れていて、全部が輝いて見える。人も物も、太陽の光を受けてキラキラしていて……それはやっぱり俺には眩し過ぎる世界だ。
「……俺は何を勘違いしてたんだろう」
太陽は誰にでも優しい。だから俺にだって優しいんだ。俺は大勢のうちの一人で、特別なわけじゃない。そもそも太陽と月では住んでいる世界が違うのだ。そんなことわかりきっていたのに、陰キャの俺は少し優しくしてもらえただけで調子にのってしまったみたいだ。
「あのキスに特別な意味なんてない。からかわれてただけだ」
自分に言い聞かせるように呟き、中庭で友達とバスケをする太陽を眺めた。
それでも変わらず部活が終わるのを待つように言われている俺は、図書館で参考書を開いて時間をやりすごしていた。初夏を迎えた今は少しだけ日が暮れる時間が延びて、転校した頃満開だった桜の木は新しい葉をつけている。
もうすぐ、俺が一番苦手な夏がやってくる。一年の中でも、夏は一等キラキラしているから苦手だ。バーベキューに花火大会、それに夏休み。どれも眩し過ぎて、自分のみじめさが際立つ。
「太陽君、まだかな……」
夏の大会が近いらしく、練習が終わる時間も遅くなっている。小さな欠伸をして机に突っ伏すと、ふと眠気が襲ってきた。
「待ちくたびれたな」
少しずつ意識が遠のいた頃、頭をそっと撫でられる感触に重たい瞼を開く。
「お待たせ、兄ちゃん」
「太陽君」
「可愛いね」
微笑みながらクイッと顎を持ち上げられて……太陽の吐息が頬にかかるのを感じた。チュッという音と共に、唇が重なり合う。太陽のおばあちゃんの家での出来事が頭をよぎり咄嗟に顔を背けたのに、追いかけてきた太陽の唇にまた捕まる。
「可愛い。俺の月」
ここは学校だ、なんでまたこんなことを……なんて常識はスルリと頭の中から抜けていく。男同士で、しかも兄弟で。こんなこといけないってわかっているのに、今回は「嫌じゃない」どころか、太陽の強引さをどこか嬉しく感じてしまっていた。
こんな風に大切に扱われて、優しくされて。ずっとコンプレックスだったゲイだってことも受け入れてもらえて。自分が絆されているのを自覚する。もしかしたら太陽に惹かれているのかもしれない……そんな自分が怖かった。
数日後、期末テストの結果が張り出された。
「一位か……」
あんなに心配していたのに、蓋を開けてみるとほぼ満点で学年一位という結果だった。こうなりたくて寝る間を惜しみ体を壊してまで勉強したはずなのに、なんでだろう……特別嬉しいわけでもない 。
「俺が欲しかったものって、こんなんだったのかな……」
結果が張り出されている掲示板に背を向ける。胸がザワザワして落ち着かない。
放課後になって柔道場を覗いてみる。そこには柔道着に身を包み、一生懸命乱取りをしている太陽がいた。柔道部でエースと呼ばれている太陽は、普段俺に見せる人懐こい犬のような姿はではなく、勇敢に相手へと向かっていく獅子のように見えた。そんな太陽は、やっぱり眩しくて、ひどく遠い存在に感じる。
休憩時間には太陽の周りにたくさんの部員達が集まり、楽しそうに話をしている。
「太陽、お前期末テストどうだった?」
「どうも何も赤点ばっかだよ。夏休みも学校来なきゃかな?」
「マジで! お前の兄ちゃんは頭いいのにな」
「太陽、兄ちゃんに教わればいいじゃん」
「あ、そうだな! 俺には兄ちゃんがいるんだ」
「いいなぁ。頭のいい兄ちゃんがいて」
「だろ? ま、なんとかなるよ!」
友達に向かい笑いかける太陽を見ると、胸がギュッと締め付けられた。そんな光景を見ていられず、逃げるように柔道場を後にする。
「はぁ、はぁ……はぁ……」
図書室に駆け込んで、床にしゃがみ込む。乱れた呼吸を何とか整えた。図書室は誰もいなくて薄暗い。時々近くを通り過ぎる生徒の楽しそうな笑い声が聞こえた。
「……俺には薄暗くて、埃っぽい図書室がお似合いだ」
期末テストで一位をとって何がしたかったのだろうか。父親のような医者になりたいわけでもないのに。
「結局、俺以外にも笑いかけるんじゃん……」
あいつの特別は俺なんじゃないのか……。あんなに一人が良かったのに、今は一人ぼっちが寂しくて仕方ない。一度人の温もりを知ってしまった俺は、太陽や両親の温もりが恋しかった。
どれくらい太陽を待っていただろうか。フワリと髪に温かなものが触れたのを感じ、顔を上げた。
「お待たせ、兄ちゃん」
「……太陽君!」
「あれ、兄ちゃん、もしかして泣いてた?」
涙ぐんでいたせいで熱を持った瞼を、指先でそっとなぞられる。冷たい太陽の手が気持ちいい。俺は太陽にしがみついた。
「どうしたの? 兄ちゃんからそんなことするなんて初めてじゃん」
「なんかちょっと寂しくて……」
「ふふっ。今日は素直で可愛いなぁ」
顔を見上げれば、優しい顔で微笑む太陽と視線が絡み合う。それだけで胸が温かくなった。これからの時間は、俺だけの太陽だ。
「ねぇ、太陽君。今更だけど……なんでこの前、キスしたの? だって俺達そもそも男同士だし、兄弟でもある……」
「……そうだね」
太陽が俺を見つめながら寂しそうに笑う。でもこれ以上期待して、勘違いなんかしたくない。もう、傷つきたくないから。
「でも、俺、太陽君とキスするのが嫌ってわけじゃないんだ。今までずっと一人がよかったのに、太陽君と知り合って、優しい両親ができて、弱くなった気がする。一人が嫌で、誰かと、太陽君といたいんだ……。ねぇ、太陽君。キス、してくれる……?」
「え、いいの?」
「だって、さびし……ん、んん……ッ」
突然抱き締められて、唇と唇が重なる。思ったよりも激しい口付けに、胸が震えた。
「兄ちゃん、口開けて?」
「ん……んッ、はぁ……」
少し口を開くと、すぐに太陽の舌が俺の口内に入ってくる。
「ふぁ……ッ、んん、あッ……」
太陽との初めての深いキスに、甘い吐息が口から溢れ出す。温かい。それに気持ちいい……。
俺は無我夢中で太陽のキスを受け止めた。口の中に溜まった二人分の唾液をコクンと飲み込むと「めっちゃエロいね」と、頬を紅潮させた太陽が、荒い息遣いをしながら笑った。
◇◆◇◆
その日の夜は一人で部屋に戻ったものの、無性に寂しくて仕方ない。膝を抱えて本だらけのベッドに蹲った。 ベッドくらいは使えるように片付けよう、そうずっと思っているのに、太陽と寝るのに慣れてしまい結局片付けられていない。それどころか太陽と一緒にいる口実となってしまっていたから、片付ける気なんてそもそもないのだけど……。
「兄ちゃん、大丈夫?」
家に帰ってからもいつもと違う俺を心配してくれたのだろう。太陽が部屋まで様子を見にきてくれた。
「兄ちゃん 、今日も一緒に寝よう」
「え? でも……」
「俺だって一人は寂しいもん。だから一緒に寝よう」
「……わかった」
手を繋いで太陽の部屋に向かう。でも今日は一組しか布団が敷いてなくて。俺は顔を真っ赤にしながら太陽を見上げた。
「今日は寒いから一緒の布団でいいよね」
「あ、あ、うん」
「くっついて寝れば、きっと温かいよ」
照れたようにはにかむ太陽と布団に潜り込んだ。
「寒くない?」
「うん」
「兄ちゃん、あったかい……」
俺が寒くないように抱き寄せてくれてるんだろうけど……。心臓が口から飛び出しそうだ。太陽にこの鼓動が聞こえてしまうのではないかって、恥ずかしくなってしまった。
少し太陽から離れようとしたけど、柔道部エースの力に勝てるはずなんかない。諦めてその胸に体を預けた。不思議だなって思う。あんなに人気者の太陽を、こんな俺が独り占めできるなんて。
「太陽、本当にあったかいね」
「名前……呼び捨てにしてくれるようになったね」
「あ、ご、ごめんね」
「いいよ。俺も月って呼びたいから」
「なんか恥ずかしい。少し離れてよ」
「嫌だ。月、本当に可愛いね」
太陽が俺に覆いかぶさってくる。少しずつ顔が近付いてきて……フワリと唇が重なった。太陽のキスはまるで全てを麻痺させる媚薬のようで。柔らかい唇、温かい舌、時々漏れる甘い吐息。全身の力が抜けて骨抜きにされてしまう。男同士だし兄弟だから……という葛藤がなくなったわけではないのに。
「ふふっ。月、蕩けてる」
太陽が悪戯っぽく笑うけど、気持ちいいんだから仕方ない。
「あのさ……もっとしてくれる?」
離れていった太陽の唇を、視線で追いかける。俺の体はすっかり火照り、こんなんじゃ全然物足りなくて。自分から太陽の体を引き寄せる。長い長い時間、お互いの唇を味わい続けた。
額や頬、首筋にもキスを受けねっとりと唇を貪られたら、体が素直に次の行為を欲してしまって。つい潤んだ目で太陽を見つめてしまったらしい。ふと彼の目が悪戯っぽく細められた。
「そんな目をしないで。食べちゃいたくなる。止まらなくなるじゃん」
「え……?」
「なぁ月。エッチしたことある?」
「なんで突然そんなこと……」
「ううん、別に。俺はしたことないから。女の子とも男とも……」
意味深げに顔を覗き込まれると、やっぱり心臓の音が存在感を増す。それでももっと近くにいきたくて、太陽の背中に腕を回した。
その瞬間。頭の中で懐かしい声が響く。
『月臣、ごめんな……ごめん。大好きだったよ』
苦しそうに顔を歪めながら、髪を撫でられる映像。
俺は一気に現実へと引き戻された。サーッと血の気が引いていくのを感じる。危ない……俺はまた同じ過ちを繰り返すところだった……。
「だ、駄目だよ、太陽! やっぱり駄目だ。俺達男同士だし、兄弟なんだから! 兄弟としてやっていかなきゃ」
我に返った俺は、慌てて太陽の腕の中から逃げ出そうと体を捩る。まさか太陽が、キスより先のことを考えているなんて思わなかった。血は繋がってないとは言え、弟と何をしているんだろうか。
「関係ないよ、兄弟とか」
「太陽……!」
「関係ない。俺たちは血も繋がってない。知ってる? 血が繋がってなければ、パートナーって認めてもらえる場所だってあるんだよ。だから大丈夫」
必死に俺を宥めようとする太陽を見ると、また簡単に丸め込まれそうになる。
「離れてかないで。俺が月を守るから」
俺にしがみついて駄々をこねる太陽が愛おしい。どこまでも前向きな太陽が羨ましい。怖いものなんか何もなくて、できないことなんてない。「なんとかなるよ!」そう笑顔を見せる太陽が、眩しくて仕方ない。
「俺も、そっちの世界に行ってみたい」
強まる思い。俺も太陽の光を浴びてみたい。こんな俺でも、太陽に受け入れてもらえるのだろうか。こんな俺でも、君みたいにキラキラ輝くことはできるのだろうか……。
「太陽……。やっぱり、キス、してくれる……?」
もう、言ってることもやってることもチグハグで……どうしたらいいかわからなくなる。俺だけじゃない。きっと太陽も揺れているだろう。それでも、離れるっていう選択肢だけは、いつの間にか消え去っていた。
「うん。いっぱいしよう」
「うん……」
「月、大好き」
「……大好き……?」
「うん。大好きだよ」
ほんとに……? 自分がゲイだと知っても普段通りに接してくれる太陽に、少しずつ心が解けていくのを感じる。自分を受けれてくれているということが、素直に嬉しかった。
それでも、太陽が向けてくる好意を素直に受け入れることができない。最後の最後で、臆病者俺は一歩を踏み出すことができない。そう、いつもだ。
太陽は俺のことが……。考えようとしたけど、口付けに意識をもっていかれ、翻弄される。深くて息もできないくらいなのに、甘い感触。あぁ……俺は、太陽とのキスがとんでもなく好きだ。
その晩、俺は太陽の腕の中で眠りについた。
真夜中にふと目を覚ます。
「あ、ヤバい。明日数学のプリントの提出日だ」
俺はまだ太陽に抱き締められていて、改めて間近で見る整った顔立ちに溜息をつく。そっと頬を指先で撫でた。今何時だろう? キョロキョロと時計を探せば、太陽がゴソゴソと動き出す。
「なんだよ、月。どうした?」
「数学のプリント忘れてたから今からやろうと思って」
「はぁ? そんなん『忘れました』で大丈夫だよ。それより寝なさい」
まるで子供を寝かしつけるかのようにポンポンと背中を叩かれる。逃げられないくらい体を寄せられてしまった。今までプリントの提出日を守らなかったことなどなかったから、気が気でない。
「こら、月。寝ないならキスよりエロいことするぞ」
「え? なんだよそれ……」
「大丈夫だよ、プリントなんか。もう少し、肩の力を抜きなよ。なんとかなるから大丈夫。大丈夫だよ」
そう太陽に言われると、なんでだろう。大丈夫な気がしてくるから不思議だ。
「そうだね、きっと大丈夫だ」
「うん。このくらいで怒る先生がいたら、俺が代わりに怒鳴り込んでやるよ」
「ふふっ。ありがとう、太陽」
太陽なら本当にやりかねない……そう思うと可笑しい。再び目を閉じた太陽に体を寄せて、もう一度眠りについた。
そのまま俺は、初めてプリントの提出期限を守らなかった。
「大丈夫、肩の力を抜いて……」
大きく深呼吸をしてから、数学の佐藤先生の所に向かう。
「あの、佐藤先生。今日プリントの提出日だったんですが、やり忘れてしまいました。すみません」
佐藤先生に向かい深々と頭を下げると、「なんだなんだ」と驚いた顔をされてしまう。
「あ、プリントの提出日、今日だったっけ?」
「は、はい。今日が提出日なんですが忘れてしまいました」
「そうか、俺もすっかり忘れてた。これから出張に行かなきゃだから、明日集めるよ。みんなにもそう言っといてもらえるか?」
「あ、わかりました」
佐藤先生は怒るわけでもなく、あっけらかんとしていて拍子抜けを食らった気分だ。
「太陽の言う通りだった。こんなんで大丈夫なんだ」
いつもの俺なら、徹夜してでもプリントを仕上げていたことだろう。教室に入り自分の席に着くと、どっと疲れを感じる。そんな時、そっと肩を叩かれた。
「あの、百瀬君。この前の期末テストのこの問題がどうしてもわからないんだ。教えてもらえないかな?」
「あ、それ俺もわからなかった。百瀬君わかる?」
「え、えっと……」
クラスメイトの男子に突然話しかけられて、一瞬頭が真っ白になる。どうしよう……クラスメイトに話かけられるだけで、こんなに緊張するなんて。顔が火照りだして顔を上げることができない。そんな自分が本当に嫌になってくる。
『肩の力を抜きなよ』
その時、太陽の声が聞こえた気がした。そうだ、大丈夫。友達がいた頃を思い出すんだ。
「この問題難しいよね。ここは教科書のこのページの……」
「あ、なるほど!」
「百瀬君凄いね。とても分かりやすかったし」
「本当? よかった」
クラスメイトの笑顔を見て、俺まで嬉しくなってしまった。
「百瀬君、次、移動教室だから行こう」
「ヤバい、遅れちゃう。急ごう」
「あ、うん」
みんなで一斉に走り出す。誰かと一緒に行動することが久しぶりで、嬉しくて心臓がドキドキする。
渡り廊下を通る時、体育の授業で校庭にいる太陽を見つける。
――ありがとう太陽。お前の言葉のおかげで、いいこといっぱいあったよ」
キラキラ眩しくてかっこよくて。本当に空で輝く太陽みたいだ。
「百瀬君、どうしたの? 早くおいでよ」
「あ、うん。ごめんね」
でも、俺も少しだけ成長できた気がするんだ。
◇◆◇◆
「あ、あの篤志さん」
「ん? どうした、月臣君」
「進路のことなんですが……」
申し訳なさそうに進路調査票と書かれた紙を差し出すと、パソコンに向かっていた篤志さんが一瞬目を見開いた後微笑んだ。
「月臣君の成績ならどこの大学にも行けるんじゃないか? それとも、お父様のような医者になりたいのかな?」
「やっぱり、医者になったほうがいいですか?」
「ん?」
医者……という言葉に鋭く反応してしまう。
「医者が、いいですよね?」
今までは自分が病院を継ぐことが当たり前だと思ってた。それに篤志さんだって、自分の息子が医者になったらきっと誇らしいだろう。
「……月臣君は本当に医者になりたいの?」
「え?」
「本当に、医者になりたいと思っているのかな?」
ひどく真剣な顔をした篤志さんと目が合う。なりたいかどうかだって? その瞬間、この人に嘘をついたって、きっと全てを見透かされてしまう……そう感じた。
「遠慮なんかしなくていい。君は、私の息子なんだから。なりたいものになればいいよ」
そう言いながら肩を叩いてくれる篤志さんの優しい言葉に、目頭が熱くなる。見る見るうちに視界が涙で滲んだ。
「俺、本当は……本当は……」
気持ちが高ぶって上手く言葉にすることができない。そんな俺を急かすこともせず、篤志さんは俺の言葉をゆっくり待ってくれた。
「俺本当は、篤志さんみたいな小説家になりたいんです。実はいくつかコンテストにも応募したことがあって。でも、周りの大人達は俺が医者になることを望んでいたから、言い出せなかった」
「へぇ。小説家?」
頬を伝う涙を、ゴシゴシと上着の袖で拭う。初めて自分の本当の夢を話せた嬉しさと罪悪感で、なんの涙なのか自分でも分からない。
「そうだな、じゃあ作品を持ってきてみなさい。添削してあげるから。プロットでも構わないよ」
「篤志さん……」
「やりたいことをやりなさい。なりたいものになりなさい。君の人生なんだから。ただ、医者になるより小説家になる方が何十倍も難しいかもしれないけどね」
ニコニコと笑いながら話しかけてくれる篤志さんの優しさに、胸が熱くなる。医者以外の道なんてないと思っていた。
「俺、行きたい大学があるんです。医学部とは全く関係ない大学なんですが……」
「へぇ。いいじゃないか。夢を追いかけてごらん。お金のことは心配しなくていいから」
「は、はい! あ、今コンテストに出したお話持ってきます!」
「ほらほら、そんなに慌てると転ぶよ」
篤志さんの声を背中に、俺は自室へと向かう。
それは、鍵のかかった机の引き出しに仕舞われていた。小説のコンテストに応募して、一次選考は通ったものの入賞は逃した作品。勉強の合間を縫い、寝る間も惜しんで書いたものだった。
「俺、書いていいんだ」
堪え切れなかった涙が頬を伝う。小説が印刷された紙を大切に抱き締めた。
「俺は、書いていいんだ……よかった……」
止まることのない涙が次から次へと溢れ出して、絨毯にシミを作る。
あの日から他人の輪の中に打ち解けることができず、本だけが友達だった。社会の中で上手く生きることもできなくて、図書館だけが自分の居場所だった。
大切な作品を抱き締めたまま、泣き続ける。でも不思議だ。涙が出るのに、こんなに幸せなんて……。
「太陽、購買行こうぜ。焼きそばパン奢ってやるよ」
「あー、太陽! また日直の仕事さぼる気?」
「太陽、バスケやろうぜ」
やっぱり太陽の周りは笑顔で溢れていて、全部が輝いて見える。人も物も、太陽の光を受けてキラキラしていて……それはやっぱり俺には眩し過ぎる世界だ。
「……俺は何を勘違いしてたんだろう」
太陽は誰にでも優しい。だから俺にだって優しいんだ。俺は大勢のうちの一人で、特別なわけじゃない。そもそも太陽と月では住んでいる世界が違うのだ。そんなことわかりきっていたのに、陰キャの俺は少し優しくしてもらえただけで調子にのってしまったみたいだ。
「あのキスに特別な意味なんてない。からかわれてただけだ」
自分に言い聞かせるように呟き、中庭で友達とバスケをする太陽を眺めた。
それでも変わらず部活が終わるのを待つように言われている俺は、図書館で参考書を開いて時間をやりすごしていた。初夏を迎えた今は少しだけ日が暮れる時間が延びて、転校した頃満開だった桜の木は新しい葉をつけている。
もうすぐ、俺が一番苦手な夏がやってくる。一年の中でも、夏は一等キラキラしているから苦手だ。バーベキューに花火大会、それに夏休み。どれも眩し過ぎて、自分のみじめさが際立つ。
「太陽君、まだかな……」
夏の大会が近いらしく、練習が終わる時間も遅くなっている。小さな欠伸をして机に突っ伏すと、ふと眠気が襲ってきた。
「待ちくたびれたな」
少しずつ意識が遠のいた頃、頭をそっと撫でられる感触に重たい瞼を開く。
「お待たせ、兄ちゃん」
「太陽君」
「可愛いね」
微笑みながらクイッと顎を持ち上げられて……太陽の吐息が頬にかかるのを感じた。チュッという音と共に、唇が重なり合う。太陽のおばあちゃんの家での出来事が頭をよぎり咄嗟に顔を背けたのに、追いかけてきた太陽の唇にまた捕まる。
「可愛い。俺の月」
ここは学校だ、なんでまたこんなことを……なんて常識はスルリと頭の中から抜けていく。男同士で、しかも兄弟で。こんなこといけないってわかっているのに、今回は「嫌じゃない」どころか、太陽の強引さをどこか嬉しく感じてしまっていた。
こんな風に大切に扱われて、優しくされて。ずっとコンプレックスだったゲイだってことも受け入れてもらえて。自分が絆されているのを自覚する。もしかしたら太陽に惹かれているのかもしれない……そんな自分が怖かった。
数日後、期末テストの結果が張り出された。
「一位か……」
あんなに心配していたのに、蓋を開けてみるとほぼ満点で学年一位という結果だった。こうなりたくて寝る間を惜しみ体を壊してまで勉強したはずなのに、なんでだろう……特別嬉しいわけでもない 。
「俺が欲しかったものって、こんなんだったのかな……」
結果が張り出されている掲示板に背を向ける。胸がザワザワして落ち着かない。
放課後になって柔道場を覗いてみる。そこには柔道着に身を包み、一生懸命乱取りをしている太陽がいた。柔道部でエースと呼ばれている太陽は、普段俺に見せる人懐こい犬のような姿はではなく、勇敢に相手へと向かっていく獅子のように見えた。そんな太陽は、やっぱり眩しくて、ひどく遠い存在に感じる。
休憩時間には太陽の周りにたくさんの部員達が集まり、楽しそうに話をしている。
「太陽、お前期末テストどうだった?」
「どうも何も赤点ばっかだよ。夏休みも学校来なきゃかな?」
「マジで! お前の兄ちゃんは頭いいのにな」
「太陽、兄ちゃんに教わればいいじゃん」
「あ、そうだな! 俺には兄ちゃんがいるんだ」
「いいなぁ。頭のいい兄ちゃんがいて」
「だろ? ま、なんとかなるよ!」
友達に向かい笑いかける太陽を見ると、胸がギュッと締め付けられた。そんな光景を見ていられず、逃げるように柔道場を後にする。
「はぁ、はぁ……はぁ……」
図書室に駆け込んで、床にしゃがみ込む。乱れた呼吸を何とか整えた。図書室は誰もいなくて薄暗い。時々近くを通り過ぎる生徒の楽しそうな笑い声が聞こえた。
「……俺には薄暗くて、埃っぽい図書室がお似合いだ」
期末テストで一位をとって何がしたかったのだろうか。父親のような医者になりたいわけでもないのに。
「結局、俺以外にも笑いかけるんじゃん……」
あいつの特別は俺なんじゃないのか……。あんなに一人が良かったのに、今は一人ぼっちが寂しくて仕方ない。一度人の温もりを知ってしまった俺は、太陽や両親の温もりが恋しかった。
どれくらい太陽を待っていただろうか。フワリと髪に温かなものが触れたのを感じ、顔を上げた。
「お待たせ、兄ちゃん」
「……太陽君!」
「あれ、兄ちゃん、もしかして泣いてた?」
涙ぐんでいたせいで熱を持った瞼を、指先でそっとなぞられる。冷たい太陽の手が気持ちいい。俺は太陽にしがみついた。
「どうしたの? 兄ちゃんからそんなことするなんて初めてじゃん」
「なんかちょっと寂しくて……」
「ふふっ。今日は素直で可愛いなぁ」
顔を見上げれば、優しい顔で微笑む太陽と視線が絡み合う。それだけで胸が温かくなった。これからの時間は、俺だけの太陽だ。
「ねぇ、太陽君。今更だけど……なんでこの前、キスしたの? だって俺達そもそも男同士だし、兄弟でもある……」
「……そうだね」
太陽が俺を見つめながら寂しそうに笑う。でもこれ以上期待して、勘違いなんかしたくない。もう、傷つきたくないから。
「でも、俺、太陽君とキスするのが嫌ってわけじゃないんだ。今までずっと一人がよかったのに、太陽君と知り合って、優しい両親ができて、弱くなった気がする。一人が嫌で、誰かと、太陽君といたいんだ……。ねぇ、太陽君。キス、してくれる……?」
「え、いいの?」
「だって、さびし……ん、んん……ッ」
突然抱き締められて、唇と唇が重なる。思ったよりも激しい口付けに、胸が震えた。
「兄ちゃん、口開けて?」
「ん……んッ、はぁ……」
少し口を開くと、すぐに太陽の舌が俺の口内に入ってくる。
「ふぁ……ッ、んん、あッ……」
太陽との初めての深いキスに、甘い吐息が口から溢れ出す。温かい。それに気持ちいい……。
俺は無我夢中で太陽のキスを受け止めた。口の中に溜まった二人分の唾液をコクンと飲み込むと「めっちゃエロいね」と、頬を紅潮させた太陽が、荒い息遣いをしながら笑った。
◇◆◇◆
その日の夜は一人で部屋に戻ったものの、無性に寂しくて仕方ない。膝を抱えて本だらけのベッドに蹲った。 ベッドくらいは使えるように片付けよう、そうずっと思っているのに、太陽と寝るのに慣れてしまい結局片付けられていない。それどころか太陽と一緒にいる口実となってしまっていたから、片付ける気なんてそもそもないのだけど……。
「兄ちゃん、大丈夫?」
家に帰ってからもいつもと違う俺を心配してくれたのだろう。太陽が部屋まで様子を見にきてくれた。
「兄ちゃん 、今日も一緒に寝よう」
「え? でも……」
「俺だって一人は寂しいもん。だから一緒に寝よう」
「……わかった」
手を繋いで太陽の部屋に向かう。でも今日は一組しか布団が敷いてなくて。俺は顔を真っ赤にしながら太陽を見上げた。
「今日は寒いから一緒の布団でいいよね」
「あ、あ、うん」
「くっついて寝れば、きっと温かいよ」
照れたようにはにかむ太陽と布団に潜り込んだ。
「寒くない?」
「うん」
「兄ちゃん、あったかい……」
俺が寒くないように抱き寄せてくれてるんだろうけど……。心臓が口から飛び出しそうだ。太陽にこの鼓動が聞こえてしまうのではないかって、恥ずかしくなってしまった。
少し太陽から離れようとしたけど、柔道部エースの力に勝てるはずなんかない。諦めてその胸に体を預けた。不思議だなって思う。あんなに人気者の太陽を、こんな俺が独り占めできるなんて。
「太陽、本当にあったかいね」
「名前……呼び捨てにしてくれるようになったね」
「あ、ご、ごめんね」
「いいよ。俺も月って呼びたいから」
「なんか恥ずかしい。少し離れてよ」
「嫌だ。月、本当に可愛いね」
太陽が俺に覆いかぶさってくる。少しずつ顔が近付いてきて……フワリと唇が重なった。太陽のキスはまるで全てを麻痺させる媚薬のようで。柔らかい唇、温かい舌、時々漏れる甘い吐息。全身の力が抜けて骨抜きにされてしまう。男同士だし兄弟だから……という葛藤がなくなったわけではないのに。
「ふふっ。月、蕩けてる」
太陽が悪戯っぽく笑うけど、気持ちいいんだから仕方ない。
「あのさ……もっとしてくれる?」
離れていった太陽の唇を、視線で追いかける。俺の体はすっかり火照り、こんなんじゃ全然物足りなくて。自分から太陽の体を引き寄せる。長い長い時間、お互いの唇を味わい続けた。
額や頬、首筋にもキスを受けねっとりと唇を貪られたら、体が素直に次の行為を欲してしまって。つい潤んだ目で太陽を見つめてしまったらしい。ふと彼の目が悪戯っぽく細められた。
「そんな目をしないで。食べちゃいたくなる。止まらなくなるじゃん」
「え……?」
「なぁ月。エッチしたことある?」
「なんで突然そんなこと……」
「ううん、別に。俺はしたことないから。女の子とも男とも……」
意味深げに顔を覗き込まれると、やっぱり心臓の音が存在感を増す。それでももっと近くにいきたくて、太陽の背中に腕を回した。
その瞬間。頭の中で懐かしい声が響く。
『月臣、ごめんな……ごめん。大好きだったよ』
苦しそうに顔を歪めながら、髪を撫でられる映像。
俺は一気に現実へと引き戻された。サーッと血の気が引いていくのを感じる。危ない……俺はまた同じ過ちを繰り返すところだった……。
「だ、駄目だよ、太陽! やっぱり駄目だ。俺達男同士だし、兄弟なんだから! 兄弟としてやっていかなきゃ」
我に返った俺は、慌てて太陽の腕の中から逃げ出そうと体を捩る。まさか太陽が、キスより先のことを考えているなんて思わなかった。血は繋がってないとは言え、弟と何をしているんだろうか。
「関係ないよ、兄弟とか」
「太陽……!」
「関係ない。俺たちは血も繋がってない。知ってる? 血が繋がってなければ、パートナーって認めてもらえる場所だってあるんだよ。だから大丈夫」
必死に俺を宥めようとする太陽を見ると、また簡単に丸め込まれそうになる。
「離れてかないで。俺が月を守るから」
俺にしがみついて駄々をこねる太陽が愛おしい。どこまでも前向きな太陽が羨ましい。怖いものなんか何もなくて、できないことなんてない。「なんとかなるよ!」そう笑顔を見せる太陽が、眩しくて仕方ない。
「俺も、そっちの世界に行ってみたい」
強まる思い。俺も太陽の光を浴びてみたい。こんな俺でも、太陽に受け入れてもらえるのだろうか。こんな俺でも、君みたいにキラキラ輝くことはできるのだろうか……。
「太陽……。やっぱり、キス、してくれる……?」
もう、言ってることもやってることもチグハグで……どうしたらいいかわからなくなる。俺だけじゃない。きっと太陽も揺れているだろう。それでも、離れるっていう選択肢だけは、いつの間にか消え去っていた。
「うん。いっぱいしよう」
「うん……」
「月、大好き」
「……大好き……?」
「うん。大好きだよ」
ほんとに……? 自分がゲイだと知っても普段通りに接してくれる太陽に、少しずつ心が解けていくのを感じる。自分を受けれてくれているということが、素直に嬉しかった。
それでも、太陽が向けてくる好意を素直に受け入れることができない。最後の最後で、臆病者俺は一歩を踏み出すことができない。そう、いつもだ。
太陽は俺のことが……。考えようとしたけど、口付けに意識をもっていかれ、翻弄される。深くて息もできないくらいなのに、甘い感触。あぁ……俺は、太陽とのキスがとんでもなく好きだ。
その晩、俺は太陽の腕の中で眠りについた。
真夜中にふと目を覚ます。
「あ、ヤバい。明日数学のプリントの提出日だ」
俺はまだ太陽に抱き締められていて、改めて間近で見る整った顔立ちに溜息をつく。そっと頬を指先で撫でた。今何時だろう? キョロキョロと時計を探せば、太陽がゴソゴソと動き出す。
「なんだよ、月。どうした?」
「数学のプリント忘れてたから今からやろうと思って」
「はぁ? そんなん『忘れました』で大丈夫だよ。それより寝なさい」
まるで子供を寝かしつけるかのようにポンポンと背中を叩かれる。逃げられないくらい体を寄せられてしまった。今までプリントの提出日を守らなかったことなどなかったから、気が気でない。
「こら、月。寝ないならキスよりエロいことするぞ」
「え? なんだよそれ……」
「大丈夫だよ、プリントなんか。もう少し、肩の力を抜きなよ。なんとかなるから大丈夫。大丈夫だよ」
そう太陽に言われると、なんでだろう。大丈夫な気がしてくるから不思議だ。
「そうだね、きっと大丈夫だ」
「うん。このくらいで怒る先生がいたら、俺が代わりに怒鳴り込んでやるよ」
「ふふっ。ありがとう、太陽」
太陽なら本当にやりかねない……そう思うと可笑しい。再び目を閉じた太陽に体を寄せて、もう一度眠りについた。
そのまま俺は、初めてプリントの提出期限を守らなかった。
「大丈夫、肩の力を抜いて……」
大きく深呼吸をしてから、数学の佐藤先生の所に向かう。
「あの、佐藤先生。今日プリントの提出日だったんですが、やり忘れてしまいました。すみません」
佐藤先生に向かい深々と頭を下げると、「なんだなんだ」と驚いた顔をされてしまう。
「あ、プリントの提出日、今日だったっけ?」
「は、はい。今日が提出日なんですが忘れてしまいました」
「そうか、俺もすっかり忘れてた。これから出張に行かなきゃだから、明日集めるよ。みんなにもそう言っといてもらえるか?」
「あ、わかりました」
佐藤先生は怒るわけでもなく、あっけらかんとしていて拍子抜けを食らった気分だ。
「太陽の言う通りだった。こんなんで大丈夫なんだ」
いつもの俺なら、徹夜してでもプリントを仕上げていたことだろう。教室に入り自分の席に着くと、どっと疲れを感じる。そんな時、そっと肩を叩かれた。
「あの、百瀬君。この前の期末テストのこの問題がどうしてもわからないんだ。教えてもらえないかな?」
「あ、それ俺もわからなかった。百瀬君わかる?」
「え、えっと……」
クラスメイトの男子に突然話しかけられて、一瞬頭が真っ白になる。どうしよう……クラスメイトに話かけられるだけで、こんなに緊張するなんて。顔が火照りだして顔を上げることができない。そんな自分が本当に嫌になってくる。
『肩の力を抜きなよ』
その時、太陽の声が聞こえた気がした。そうだ、大丈夫。友達がいた頃を思い出すんだ。
「この問題難しいよね。ここは教科書のこのページの……」
「あ、なるほど!」
「百瀬君凄いね。とても分かりやすかったし」
「本当? よかった」
クラスメイトの笑顔を見て、俺まで嬉しくなってしまった。
「百瀬君、次、移動教室だから行こう」
「ヤバい、遅れちゃう。急ごう」
「あ、うん」
みんなで一斉に走り出す。誰かと一緒に行動することが久しぶりで、嬉しくて心臓がドキドキする。
渡り廊下を通る時、体育の授業で校庭にいる太陽を見つける。
――ありがとう太陽。お前の言葉のおかげで、いいこといっぱいあったよ」
キラキラ眩しくてかっこよくて。本当に空で輝く太陽みたいだ。
「百瀬君、どうしたの? 早くおいでよ」
「あ、うん。ごめんね」
でも、俺も少しだけ成長できた気がするんだ。
◇◆◇◆
「あ、あの篤志さん」
「ん? どうした、月臣君」
「進路のことなんですが……」
申し訳なさそうに進路調査票と書かれた紙を差し出すと、パソコンに向かっていた篤志さんが一瞬目を見開いた後微笑んだ。
「月臣君の成績ならどこの大学にも行けるんじゃないか? それとも、お父様のような医者になりたいのかな?」
「やっぱり、医者になったほうがいいですか?」
「ん?」
医者……という言葉に鋭く反応してしまう。
「医者が、いいですよね?」
今までは自分が病院を継ぐことが当たり前だと思ってた。それに篤志さんだって、自分の息子が医者になったらきっと誇らしいだろう。
「……月臣君は本当に医者になりたいの?」
「え?」
「本当に、医者になりたいと思っているのかな?」
ひどく真剣な顔をした篤志さんと目が合う。なりたいかどうかだって? その瞬間、この人に嘘をついたって、きっと全てを見透かされてしまう……そう感じた。
「遠慮なんかしなくていい。君は、私の息子なんだから。なりたいものになればいいよ」
そう言いながら肩を叩いてくれる篤志さんの優しい言葉に、目頭が熱くなる。見る見るうちに視界が涙で滲んだ。
「俺、本当は……本当は……」
気持ちが高ぶって上手く言葉にすることができない。そんな俺を急かすこともせず、篤志さんは俺の言葉をゆっくり待ってくれた。
「俺本当は、篤志さんみたいな小説家になりたいんです。実はいくつかコンテストにも応募したことがあって。でも、周りの大人達は俺が医者になることを望んでいたから、言い出せなかった」
「へぇ。小説家?」
頬を伝う涙を、ゴシゴシと上着の袖で拭う。初めて自分の本当の夢を話せた嬉しさと罪悪感で、なんの涙なのか自分でも分からない。
「そうだな、じゃあ作品を持ってきてみなさい。添削してあげるから。プロットでも構わないよ」
「篤志さん……」
「やりたいことをやりなさい。なりたいものになりなさい。君の人生なんだから。ただ、医者になるより小説家になる方が何十倍も難しいかもしれないけどね」
ニコニコと笑いながら話しかけてくれる篤志さんの優しさに、胸が熱くなる。医者以外の道なんてないと思っていた。
「俺、行きたい大学があるんです。医学部とは全く関係ない大学なんですが……」
「へぇ。いいじゃないか。夢を追いかけてごらん。お金のことは心配しなくていいから」
「は、はい! あ、今コンテストに出したお話持ってきます!」
「ほらほら、そんなに慌てると転ぶよ」
篤志さんの声を背中に、俺は自室へと向かう。
それは、鍵のかかった机の引き出しに仕舞われていた。小説のコンテストに応募して、一次選考は通ったものの入賞は逃した作品。勉強の合間を縫い、寝る間も惜しんで書いたものだった。
「俺、書いていいんだ」
堪え切れなかった涙が頬を伝う。小説が印刷された紙を大切に抱き締めた。
「俺は、書いていいんだ……よかった……」
止まることのない涙が次から次へと溢れ出して、絨毯にシミを作る。
あの日から他人の輪の中に打ち解けることができず、本だけが友達だった。社会の中で上手く生きることもできなくて、図書館だけが自分の居場所だった。
大切な作品を抱き締めたまま、泣き続ける。でも不思議だ。涙が出るのに、こんなに幸せなんて……。