カレンダーを見つめて大きな溜息をつく。胃がムカムカするしイライラもする。もうすぐ期末テストが始まる。テスト期間は俺が最も神経をすり減らす時期だ。
「絶対に一位をとらなくちゃ」
 無意識に拳を握り締める。俺の実の父は医者だったから、医者になるんだ。そして母さんを楽させてあげたい。いつからか、そんなものを背負ってしまっていた。加えて、転校先の学校は前の学校よりレベルが高く、更に努力をしなければ一位なんて夢のまた夢だ。
「もっともっと勉強しなきゃ」
 自分を追い込めば追い込むほど、どんどん苦しくなっていく。食事も喉を通らなくなるし、夜も眠れなくなる。それでも俺は、本に埋もれた部屋で時間を惜しんで勉強をした。

 それに比べて太陽は、期末テストのことなどどうでもいい、というように通常運転だ。勉強をしている姿なんか見たことないし、俺の部屋に来てゴロゴロしていることもある。
「なぁ、太陽君。テスト勉強しなくて大丈夫なの?」
「勉強? 大丈夫だよ。赤点とってから考える」
「はぁ? なんだよそれ……」
 その楽天的な考えが羨ましくさえ感じる。太陽の考え方や生き方に、少し惹かれる自分がいた。
「それより、兄ちゃんも少し休んだほうがいいよ。顔色悪いしご飯だってろくに食べてないじゃん。父さんも佐和子さんも心配してるよ」
 心配そうな顔で俺の髪を触ってくる太陽の真っ直ぐな視線が痛い。最近はこれくらいのスキンシップなら慣れたものだ。
「大丈夫だよ、ありがとう。だからもう放っておいて」 
 太陽の優しい手をそっと払い除けて、俺はまた教科書に視線を戻した。

 期末テスト三日前の朝。体調は最悪だった。
 寝不足のせいでフラフラするし、吐き気に襲われてトイレで吐いたりもした。でもいつものことだし、自分は仕方ないんだって諦めもある。とりあえず制服を着て、心配する母さんに「大丈夫だから」と言って家を出た。
「太陽君、月臣をよろしくね」
「うん」
 母さんがすがるような視線を太陽に向けていた。
 満員のバスに揺られているとどんどん気持ち悪くなってきて、目の前が一瞬真っ暗になる。ガクンと膝の力が抜け崩れ落ちそうになり、隣の太陽にしがみついた。
「おっと。兄ちゃん大丈夫か?」
「ごめん、太陽君。気持ち悪い……」
「ちょうどいいや。次のバス停で降りよう」
「大丈夫だから、このまま学校に行く」
「大丈夫じゃないよ。無理すんな」
 そう言い、太陽が停車ボタンを押す。俺達は通っている高校から大分遠いバス停で下車した。ちゃんと歩くこともできない俺を抱えて、太陽は歩き出す。どこへ向かっているのか、と一瞬頭をよぎったけど、そんなことを気にする余裕もなかった。
 自分達が歩いている場所は海岸沿いの歩道で、海が朝日を浴びて輝いている。どこまでも広がる大きな海に、感じていた気持ち悪さを一時だけど忘れることができた。 

「兄ちゃん、とりあえずここで休もう」
「ここ、どこ?」
「ばあちゃん家。何年か前に死んじゃったから今は空き家だけど」
 太陽が連れてきてくれたのは、歩道から少し離れた坂道の中腹に立っている小さな家。横開きの扉を開けると、懐かしい香りがする。空き家という割には綺麗に掃除されているあたり、誰かが管理しているのだろう。玄関から近い畳の部屋に横にならせてもらう。夜は全然寝付けないのに、急に強い睡魔に襲われる。でも……。
「太陽君、学校行かなきゃ」
「はぁ? こんなフラフラで学校行けんの?」
「だって欠席になっちゃう」
「兄ちゃんは本当に真面目だなぁ。今日は休んでここにいればいいよ」
「でも、俺学校休んだことないし」
「マジで!? なら、初体験だね」
 俺の隣に寝転ぶ太陽がニヤニヤしている。俺は真面目に話しているのに、なんだかエロいことでも想像してそうだ。
「兄ちゃんさ、何でも頑張りすぎなんだよ。適当でいいじゃん。別に死ぬわけじゃないし」
 布団がないのを気にしてか、自分のブレザーを掛けてくれる。そのまま抱き寄せられて、腕枕までされて……突然抱き締められるような体勢になりドギマギする。
「少し寝よう? 俺も昨日遅くまでゲームしてたから眠たい。ふぁあ……」
 大きな欠伸をしながら更にギュッと抱き締められる。髪に顔を埋められてしまえば、完全に太陽の腕の中に閉じ込められた形だ。
 初めて学校を休む罪悪感と太陽に抱き締められたことで、心臓がドキドキして苦しくて仕方ない。これも陽キャなら普通のことなのか……? さすがにやりすぎなんじゃ……。それでも穏やかな太陽の吐息を聞いていると、段々と瞼が重くなってくる。
「兄ちゃん、おやすみ」
 優しく髪を撫でられることが気持ちよくて、無意識に頭を太陽の手に擦り付ける。え、俺、なんでこんなこと……?
「可愛い」
「……え……?」
 甘い囁きと共に唇にフワリと温かいものが触れた感覚……もはやそれが夢か現実かわからなかったけど、そのまま俺は眠りに落ちていった。

「兄ちゃん、起きて」
 体を優しく揺すられ、静かに目を開けた。
「体調は大丈夫? バスに乗って帰れる?」
「あ、うん」
「俺、佐和子さん達に連絡するのが遅くなっちゃって……二人とも心配しているから帰ろう」
 まだ寝ぼけ眼の俺は、ここがどこなのかも理解できなくて。ボーッと太陽の顔を見つめた。久しぶりによく眠れた気がする。大きな窓から差し込むのは、夕日……? もしかして、もう夕方なのか?
「太陽君、ずっとここにいてくれたの?」
「うん。兄ちゃんの寝顔が可愛くてずっと見てた」
「な、なんだよ、それ……」
 いつも太陽は優しく髪を撫でてくれる。今日はなんだかその大きな手が、いつも以上に温かくて気持ちいい。うっとりと目を細めた瞬間、唇にまた温かくて柔らかいものが触れた。
「ん……ッ! え、ちょっと、太陽君、なに……!」
 突然のキスに太陽の肩を突き飛ばそうとしたけど、その手をいとも簡単に掴まれてしまった。
 ……なんだよ、これ。意味がわかんない。
「なんでこんなこと……お前、俺がゲイだって知っても気持ち悪いとか思わないの? それともからかってんのか?」
「ゲイ? そんなの関係ないよ。俺が兄ちゃんのことが好きだっていうことに変わりはないから」
「た、太陽も男が好きなのか?」
「男が好き? そんなん考えたこともないからわかんねぇ。ただ、兄ちゃんにキスしたかったからしただけ。そういうのいちいち考えるの苦手だ」
 どこまでも太陽は真っすぐだけど、こんな説明じゃまだ全然意味がわからない。でも、びっくりしたけど、嫌だったわけじゃないかも……。そんな自分に強い戸惑いを感じた。

「さ、兄ちゃん、帰ろうか」
 ケロッとした太陽に手を握られて、朝フラフラになりながら通った歩道を戻る。あんなことがあったあとに手なんて繋いだら、余計意識してしまう……。
「太陽君。俺は大丈夫だよ」
「駄目だよ。兄ちゃんはすぐ無理するんだから」
 朝迷惑をかけてしまった手前、何も言い返すことはできない。
「見て、兄ちゃん。海に月が映って綺麗だよ」
 太陽の視線の先には、海の上に浮かぶ真ん丸な月。淡い青色で世界を包み込んでいた。海面に映し出された満月が、波が揺れるのと同時にユラユラと揺れる。潮風が髪を優しく揺らして気持ちいい。こんな綺麗な世界、今まで知らなかった。
「綺麗だね」
「え?」
「月は綺麗だね」
 優しく微笑みながら太陽に見つめられると、なんだか急にハッとさせられる。この壮大な海と太陽の笑顔を見ると、期末テストだとか学校の出席日数なんて本当に些細なことに思えた。
 いいな。俺も太陽みたいに生きてみたい。
 自分がゲイだから他人と違うとか……そんなことを気にせず生きていける強さがほしい。
「テストの結果とか、ゲイだからとか……そんなんどうでもいいよ。いざとなれば俺が嫁にもらってやるからさ」
「よ、嫁に……?」
「あははは! そう嫁にね、おいで」
 楽しそうに声を出しながら笑う太陽を見ていると、スッと心が軽くなる気がした。結局バスの中でも太陽に寄りかかって寝てしまった俺は、息子達の帰りを待つ両親の元へと向かった。
 学校から俺と太陽が登校していないと連絡を受けた母さんは、本当に心配をしていたらしい。太陽が連絡を入れたときには、警察沙汰になる寸前だった。家に着くなり涙ぐみながら俺に飛びついてくる。
「佐和子さん、連絡するの遅くなってごめんなさい」
 太陽が詳しく事情を話すと、母さんは涙を流しながら「無理させてごめんね」って繰り返していた。母さんのせいなんかじゃないのに……。
 篤志さんからは「連絡はできるだけ早く入れるように」って言われたけど、怒られはしなかった。それから篤志さんに連れられて、夜間の救急病院に行って一日が終わっていく。
いつもだったら丸一日勉強しないだなんてありえないけど、今日は太陽のおかげで「こんな日もあるか」と思うことができた。

 病院から戻った俺を、太陽が心配な顔をして待っていてくれた。
「兄ちゃん、大丈夫?」
「ワッ!」
 駆け寄ってきた太陽を見た瞬間、カッと全身が熱くなる。あの時は疲れと眠気に負けてうやむやになっちゃったけど、俺達、キスしたんだよな? なんであんなこと……。
冷静になった途端、恥ずかしさがぶり返す。顔が火照り慌てて太陽から顔を背けた。心臓が痛くてギュッと目を閉じて、体を硬くする。
「兄ちゃん、よかった」
 検査の結果特に何も異常がなかった俺を、太陽が抱き締めてくる。あんなことがあった手前、太陽のスキンシップに戸惑いを隠せずにはいられない。
「よかった」
「太陽君……」
 そんな俺の気持ちとは裏腹に、太陽からは本当に自分のことを心配してくれてるんだってことが痛いくらいに伝わってくる。その真っ直ぐ過ぎる優しさが、かえって申し訳ない。
「大丈夫だよ、ありがとう。だからもう離れて」
「これからはもう無理しないで、お願いだから」
「うん」
 いつも強がって見栄を張って生きているけど、太陽の前では少し素直になれるような気がした。

 それから期末テスト本番を迎えた。丸一日勉強をしなかった割には、それなりに良くできたと思う。あの日以来、日付が変わる頃には太陽が迎えに来て、彼の部屋で一緒に寝るようになった。
 食事も食べないでいると、「兄ちゃん食わなきゃ駄目だよ」と、太陽が料理を口元まで運んでくる。それはいわゆるカップルがする「あーん」というやつで……。俺は恥ずかしくて「やめろよ!」なんて強く言ってしまう。
両親の前だけでも仲良くしていようと思っていたのに……。そんな俺達を、「仲がいいのね」って母さんが嬉しそうに笑って見ている。
 やっぱり太陽が勉強しているところなんて見ないまま、無事に期末テストは幕を閉じたのだった。