生まれ育った街を離れて一週間たったのに、俺の心は変わらずザワザワしている。新しい人間関係になかなか慣れることができずにいたからだ。
 最初の頃は動物園のパンダみたいに注目の的で、いろんな人が話しかけてきてくれた。でも顔を上げることさえない俯いたままのパンダにみんなの興味は徐々に薄れていって。前の学校の時みたいに、結局また一人になってしまった。
「でもこれでいい。嫌われるくらいなら最初から一人のほうが……」
 まだ少しだけ冬の香りを含んだ春風が広い校舎を吹き抜けていき、俺の心まで冷やしていくようだった。
 ただひとつだけ、適応能力の低い俺でも慣れてきたことがある。それは、太陽の部屋で一緒に寝ること。最初のうちは慣れない人がいる空間が気になってなかなか眠れなかったけど、今ではぐっすり眠れるようになった。

 ふとした時に散乱した本を片付けようと手に取るけど、結局そのまま床に戻す。この部屋を片付けてしまったら、太陽が寂しがるような気がしたから。彼が兄弟を求めているなら、少しくらいその役割を演じてやってもいいと思った。
「あ、悪ぃ! 太陽大丈夫か!」
「あははは! どこにボール蹴ってんだよ! 大丈夫大丈夫!」
 昼休みに太陽の声がしたから渡り廊下から覗いてみれば、数人の友達と中庭でサッカーをしている姿を見つけた。その友達は学校内でもとても目立つタイプの子。いわゆる陽キャ軍団だ。その人達がいるだけで場が盛り上がるし、雰囲気が変わる。俺が近寄りたくない集団。
「太陽! ボールあったよ!」
「あ、奈々(なな)ありがとう! こっちに蹴って!」
 数分その光景を眺めていただけなのに、何回も「太陽」って名前を呼ばれるのを聞いた。みんなの輪の中心にいる人気者。嫌だな、眩しい。近寄り難くなってしまう。せっかく表面上だけでも仲良くやっていこうと思えてきたのに……。
「あ、見て見て。太陽がサッカーしてる」
「本当だ。やっぱりかっこいいよね。あたし、告っちゃおうかな」
「えー、マジで! あたしも太陽狙ってたのにぃ!」
 楽しそうに笑いながら太陽を見ている女子グループ。逃げるように俺は渡廊下を後にした。

◇◆◇◆

「君がこの前転校してきた、百瀬月臣君?」
「あ、うん。そうだけど……」
「はじめまして。俺、太陽と同じ柔道部で部長をやってる岩瀬」
「え? そうなんだ。いつも太陽がお世話になってます」
「とんでもない! こっちこそ太陽には世話になりっぱなしで!」
 初めて『弟がお世話になってます』なんて挨拶をした俺は、自分からいっておいて恥ずかしくなってしまった。これじゃあ、本当の兄弟みたいだ……岩瀬を目の前に顔がどんどん火照り出してしまう。
「ずっと君に話しかけてみたかったんだけど、君太陽とまた違ったイケメンで。俺とは住んでる世界が違うっていうか、ちょっと話しかけにくくて」
「あ、ごめん」
 俺は咄嗟に岩瀬に向かって謝罪する。話しかけにくい……今まで何度も言われてきた言葉だから、今更何も感じないけど。太陽にまで迷惑をかけてしまうことは嫌だった。これからは太陽もいるのだから気を付けないと……そう気を引き締めた。
「太陽は、入学早々にレギュラーを勝ち取って以来、我が部のエースでさ。太陽がいないければ、うちもここまで強くはなれなかったかもしれない」
「へぇ、そうなんだ」
 岩瀬はいかにも柔道部部長といった恵まれた体格の持ち主だ。身長だって俺が見上げる程高いし、筋肉はまるで岩のようだ。しなやかに筋肉がついている太陽とは、また違った逞しさだった。
 そのくせ笑顔は悪戯っ子のようで。それがとても魅力的に感じられた。

「俺、太陽が弟になってからまだそんなに日が経ってないんだけど、あいつって学校ではどんな感じなの?」
「あぁ、太陽? 太陽はそうだなぁ」
 そう言いながら岩瀬は上目遣いになり考えを巡らせはじめる。自分の知らない太陽のことを知ることができるのはとても興味深いけど……それと同時に心の中がモヤモヤしてくる。
 この岩瀬という男は、確実に自分より太陽のことを知っているはずだ。そう思えば面白くない。
 ――でも、俺はもっと太陽のことが知りたい。
 いつの間にか、自分が太陽に好奇心を抱いていたことを思い知った。
 なんで太陽はあんなに素直で生き生きとしているのだろうか。その答えを、俺はずっと探しているような気がした。
「太陽はすごく真っ直ぐなんだ。素直だし、強くなるためには努力は惜しまない。すごい根性の持ち主だよ」
「へぇ……」
「もともと運動神経はいいのかもしれないけど、それだけじゃない。あいつは天性の負けず嫌いだし努力家だ。それがあいつの強さの秘密なんだろう」
「努力家……」
「あぁ。それにめちゃくちゃ優しいし、仲間思いだ。だからみんなに好かれるんだろうな」
「そっか」
 それを聞いた俺は正直驚いてしまう。なぜなら、太陽は生まれながらに色々な才能に恵まれていたのだと思っていたから。負けず嫌いで努力家……太陽はいつも笑っているから、陰でそんな苦労をしているなんて思いもしなかった。
 それに、俺が持っている太陽のイメージは、甘えん坊な弟だったから、意外な一面を知ってびっくりしてしまった。
「加えてあいつはすごくモテるぞ」
「え?」
「毎年、あいつ目当てでマネージャーになる子はいるし、柔道場にはいつも女の子が太陽目当てに見学に来てる。しかも、他校の生徒もいるくらいだ」
「それはすごいね」
「だろう? でもあいつ、告白されてもいつも断っちゃうんだよ。ずっと前から好きな人がいるから……とか言ってさ」
「……好きな人?」
「あぁ。恋愛においても一途で、太陽らしいよなぁ」
「そっか……。やっぱり太陽ってすごい奴なんだね」
「とんでもなくすごい奴だよ。そんなの全然顔には出さないけどな」
 そのとき、廊下にチャイムが鳴り響く。

「あ、俺、次移動教室なんだ。突然話しかけてすまなかったな」
「いや、別に大丈夫だ」
「あまりにも太陽が兄貴の自慢話ばっかりするから、どんな奴か見てみたかったんだ」
「俺の、自慢話?」
「そうだよ。自分の兄貴は頭もいいし見た目もいいって、いつも君の話題ばっかだよ。早くもみんなに『ブラコンだな』ってからかわれてるぜ。じゃあ、またな」
「あ、うん」
 笑顔で手を振る岩瀬に向かい、自分も手を振り返す。明るくて元気いっぱいで……岩瀬はどことなく太陽に似ていた。自分とは全く違う世界を生きている二人が、とても羨ましく感じられる。
「太陽ってやっぱりすごい奴なんだな」
 ポツリと呟く。自分の望むとおりに太陽のことを知ることができたのに、なんだか心が落ち着かない。それに、自分のことを他人に話しているなんて想像もしていなかっただけに、今になって恥ずかしくなってきた。
 自分は、太陽の思っているような自慢の兄ではないけれど……心の中がくすぐったくなる。
「そう言えば、太陽、好きな子がいるんだ」
 太陽がずっと思いを寄せている子とはどんな子だろうか。今までお互いの恋愛の話なんてしたことなんてなかったけど。
きっと可愛らしくて素直で、元気いっぱいで。みんなの人気者に違いない。一緒にいるだけで絵になるようなそんな二人……。
「どんな子なんだろう」
 俺は大きく息を吐いて、教室へと戻った。

◇◆◇◆

『悪いんだけど、部活が終わるまで待ってて。そしたら一緒に帰ろう』
 転校した翌日に、半ば強引に太陽とそう約束させられた。子供じゃないんだから帰り方だってもうわかってるし、バスにだって乗れる。そんな「納得できない」といった顔をしてしまったんだろう。太陽がにっこり笑った。
「図書室で勉強しててよ。部活が終わったら迎えに行くから」
 そう言われてしまうと、無下に断るのも悪い気がする。
「なんで俺が待ってなきゃいけないんだよ」
 仕方なく俺は、図書室で勉強をしながら太陽を待つのが日課になっていた。もうすぐこの学校に来て初めての中間試験があるから、丁度いいと言ったら丁度いい。誰もいない放課後の図書室を独り占めできるなんて幸せでもある。
時間を忘れて数学の公式を解いていると、遠くからバタバタと騒がしい足音が向かってくる。
「あ、終わったのかな……」
「兄ちゃん、お待たせ! 帰ろう」 
 今日は肌寒いのに、図書館に入ってきた太陽はびっしょり汗をかいている。
「なぁ、毎日一緒に帰らなくてもよくないか? 部活終わってからわざわざ四階の図書室までくるのも大変じゃない? 明日からは別々に帰ろうよ」
「駄目だよ、絶対に駄目!」
「なんで? わざわざ待ってる身にもなれよな」
 ムキになって突っかかってくる太陽に圧倒されながらも言い返した。
「痴漢に襲われるかもしれないだろう? だから俺と一緒に帰らなきゃ駄目だ」
「はぁ? 痴漢? 俺、男なんだけど?」
「男でも可愛ければ痴漢に合うかもしれないだろう! ここは田舎だから心配なんだよ」
 あまりにも突拍子もない発想に思わず笑いそうになったけど、太陽の真剣な顔を見ると、本気で俺のことを心配してくれていることが伝わってくる。諦めるしかないか……俺は大きく息を吐いた。
「はぁ。わかったわかった。じゃあ帰ろうか」
「うん」
 今度は嬉しそうに笑う。俺の痛みも全く気付かない、名前通り「太陽」のような笑顔で。やっぱり俺には眩しいけど……でもコロコロ変わる表情を見ていることが、少しだけ楽しいと感じている自分に気付いた。

◇◆◇◆

「ただいま」
「おかえり、月臣君。どうだい? 学校にはもう慣れたかな?」
「あ、え、はい……」
 笑顔で篤志さんが出迎えてくれたのに、一瞬で終わる会話。。未だに篤志さんの目を見ることもできない。なんとかしなきゃ、仲良くしなきゃ……そう思えば思うほど、顔が強ばっていく。
「ねぇ、佐和子さん。弁当めちゃくちゃ美味しいんだけど、全然足りない。部活の前に食えるように、おにぎりも作ってくれない?」
「あらあら、ごめんなさい。月臣が普段食べてる量じゃ太陽君は足りないのね。何かおにぎりの具にできる材料があるかしら」
「俺、鮭おにぎりが好き。あと焼きおにぎりとか」
「丁度鮭があるわ。じゃあ明日からおにぎりも作るからね」
「ありがとう! 佐和子さんの料理めちゃくちゃ好きだよ」
「嬉しいわ。頑張らなきゃね!」
 それに比べて太陽は、すっかり母さんと馴染んでいる。今みたいに遠慮なく話せるし、甘えるのも上手だ。俺とは正反対のそんな太陽の姿を見る度に、胸がザワザワする。焦燥感、嫉妬、羨望……? なんでこんな難しいこと、あいつはあんなにも簡単そうにやってのけるのか。
マイナス思考の俺は、よくできる弟と常に比べられているような被害妄想に襲われた。
「ほら、月臣君。ご飯ができたみたいだぞ」
「はい」
 篤志さんに肩を叩かれ、俺は家族が揃うリビングへと向かった。

「……俺って、なんでこんなにもうまくやれないんだろう」
 本に埋もれたベッドで、膝を抱えて蹲る。結局今日もテスト勉強で精一杯で、本を片付けることができなかった。太陽みたいにもっと要領よく生きられたら、どんなに楽だろうか? いつもそう思う。片付けられないどころか、俺は試験がある度にストレスで食事がとれなくなってしまう。
『今回も一位を取らなければ。母さんをガッカリさせたくない……』
 自分で自分の首を絞め、プレッシャーに押し潰されてしまうのだ。だって俺は、真面目ということしか取り柄がないのだから。弓道部の部長に生徒会長。そういった冠が自分を取り繕ってくれる。嫌なところを隠してくれる気がして……。そんなことをしているうちに、本当の自分を見失ってしまった気がする。最初のうちは嬉しかった肩書や名誉も、いつの間にか虚しく感じるようになってしまった。
 先日、太陽のクラスで漢字の小テストがあったらしい。太陽は百点満点中八点。八点の下には42/42と書いてある。これは四十二人のうちの四十二位ということなんだろう。この結果には温厚な篤志さんも黙ってはいられなかったようで、太陽にお説教を始める。でもそんなものは太陽には全く関係ない。馬の耳に念仏とはこういうことを言うのだろう。
「なぁ、親父。42分の42って1だろ?」
「まぁ、そうだな」
「つまり、俺は一位ってことだよ!」
 そう無邪気に笑っていた。
「……こんなに勉強を頑張って、俺は何がしたかったんだろう」
 天真爛漫で前向きな太陽。彼の傍にいると、今まで以上に、どんどん自分のことを嫌いになっていく。窓から吹き込む潮風が、そんな溜息を夜の彼方にさらって行った。

「なんでこんな真っ暗な部屋にいるんだよ!」
 突然部屋につけられた照明に、思わず目を細める。
「眩しいから消してよ」
「どうしたんだよ。なんかあったの?」
「俺は薄暗い場所が好きなんだ。根暗だから。雨の日が好きだし、夜が長い冬が好き。これでいいんだよ。お願い、電気を消して一人にしてくれ……」
 自分の膝に顔を埋めて更に丸くなる。もう放っておいてほしい。
「……ねぇ、こっちに来て? 兄ちゃんに見せたいものがあるんだ」
「嫌だ。放っておいて。一人でいたいんだ」
「でも俺は兄ちゃんといたい。だから早く」
「なんなんだよ……」
 人懐っこい笑顔で手招きされると、もうこれ以上拒絶するのも気が引ける。渋々太陽の後に続いた。
「俺の部屋さ、ロフトがあって、そこから屋根に出られんだよ」
「屋根に?」
「そう。いつか大切な人ができたら一緒に屋根で海を見ようって決めてたんだけど、兄ちゃんにはどうしても見せたくて」
 照れくさそうにはにかみながら、ロフトに上り天窓を開けた。天窓からは、 キラキラと輝く星が見えている。
「おいで」
 捕まれ、と言わんばかりに手を差し出されたけど、人の手を即座に取れるほどのコミュ力は持ち合わせていない。
「ほら、早く」
「うん」
 恐る恐る手を伸ばすと、ものすごい力で引き上げられた。
 自分の人生で、屋根に上るなんてイベントが発生するとは。潮の香りに優しい波音。吸い込まれそうな真っ黒な海の上には、真ん丸な月が浮かんでいた。
「……綺麗」
「だろ? 俺の宝物の場所なんだ」
 嬉しそうに目を細める太陽。髪を掻き上げる姿は本当に絵になる。どこまでも魅力的な太陽の隣に並ぶと、自分がどんどん価値のないモノに思えた。
「俺は夜の海が好きなんだ。真っ黒で吸い込まれそうに感じるんだけど、月明かりがそんな恐怖を和らげてくれる。海面でユラユラ揺れる月を見ると心が落ち着く。だから俺は月も好き」
「月が、好き?」
「うん。月は人間に安らぎを与えてくれるでしょ? それに、一日中太陽がギラギラしてたら疲れちゃう。だからきっと、みんな月も好きだよ」
「え、あ、うん。そうだね」
 別に自分のことを好きだと言われたわけではないのに、心臓が一瞬大きく波打つ。それに気付かれたくなくて、あえて素っ気ない返事をした。

「俺、兄ちゃんが好きだよ」
「わっ! ちょ、ちょっと太陽君」
 突然太陽に抱き締められ、びっくりして全身が硬直する。
「あー、兄ちゃんいい匂い。同じシャンプー使ってんのになぁ」
「おい、いい加減にしろよな」
 力を入れて体を離そうとしても、ビクともしない。伺うように顔を上げれば、優しく笑う太陽。いたたまれなくなって俯いた。
 陽キャって、友達同士でもこういうスキンシップを取るのだろうか。それとも兄弟ならこれくらい当たり前とか……。色々な思いが頭の中を駆け巡り、目眩がしそうだ。
「兄ちゃんも月も、大好きだ」
 余裕なんてない俺は、そんな太陽の呟きに気付いてなんてやれなかった。

◇◆◇◆

 その日は太陽が部活の試合だったから、一人で下校した。太陽の部活が終わるのを待っている必要がないから、いつもより早く帰ることができて。バス停から家までの道のりを歩いていた。
「月臣」
 もうすぐ家に着く、というところで聞き慣れた声に呼び止められた。振り返ると、そこには自分によく似た初老の男。
「あ……父さん……」
「久しぶりだな、月臣。もうすぐ受験だろう。勉強は頑張ってるのか?」
 俺はこの人の威圧的な話し方が苦手だ。常に見下されている気分になる。全身に力が入って、体が震える。それでも、そんな父親は自分とそっくりな顔をしていて……吐き気がした。
「お前は私の一人息子だ。もし医者になるというなら、学費は全部出してやる。だからお前だけ帰ってきなさい」
「え?」
「それとも、まだあの気色悪い性癖が治らないのか?」
 吐き捨てるような冷たい物言いに、カッとなって父親を見上げた。
「男が好きなどという馬鹿な考えは捨てて、医者になれ。医者になって良家の娘さんと結婚する。それがお前の幸せじゃないのか」
「父さん、俺は……」
「それともお前は、家族をバラバラにしておいて、まだ男が好きだとでも言うのか?」
 呆れたような父親の視線に、唇を噛み締める。会いたくなかった人物の突然の訪問、そしていきなり核心を突く言動に動揺が隠しきれない。なんて言い返したらいいのかがわらからなくて、呼吸がどんどん浅くなる。それと同時に呼び起される、過去の苦い記憶。
 ジットリと嫌な汗が流れ出し、目の前が暗くなる。意識が少しずつ遠退きガクンと膝が折れた瞬間、温かくて逞しいものに体を受け止められた。
「大丈夫か? 兄ちゃん」
「……あ、太陽」
 太陽の顔を見た瞬間、ホッとして涙が出そうになる。
「あんた、兄ちゃんに雰囲気が似てる。もしかして兄ちゃんの……」
「ほう。その話しぶりだと君は月臣の義弟になった奴か」
「あぁ、そうだ。あんた今更兄ちゃんに何の用だよ」
「そうか。君はまだ知らないのか? なぜ私と佐和子が離婚したのかを……」
「はぁ?」
「教えてあげるよ。君自身の身を守るためにも」
 父親の言葉を聞いた瞬間、一気に頭に血が上る。
「父さん、お願い、やめて……!」
 誰にも知られたくない俺の過去。知られたくなくて、逃げるように生まれ育った街を後にした。過去の自分を切り捨てて新しい自分になりたくて、夢中で今の環境に馴染もうと努力した。そして、少しずつだけど心の整理ができているのを感じていた。それなのに……。

「そいつは同性愛者だ。男のくせに男が好きっていう気色悪い奴なんだよ」
「……え?」
「だから、君もそういう目で見られているかもな?」
「本当なのか? 兄ちゃん……」
「君もそいつに手を出される前に……」
「父さん! お願い。それ以上は言わないで。太陽には関係のないことだ。それから二度と目の前に現れないでほしい。もう俺に関わらないで……お願いだから……」
 二人の話に割って入ってはみたものの、グズグズと力が抜けていくのを太陽が支えてくれる。やっぱり俺は、全然成長なんかしていない。過去の自分に背を向けることで成長した……なんて勘違いしていただけだ。なんて馬鹿な思い上がりだろう。
「帰ろう、太陽」
「兄ちゃん、でも……」
「帰ろう」
「……うん」
 フラフラしている俺を心配してか太陽が手を繋いでくれたが、静かにそれを振り払う。こんなところを父親に見られて勘違いされたくなかったし、綺麗で真っ直ぐな太陽を、俺のせいで汚したくなかった。
 家に帰ってからも、食欲がない俺を太陽が心配しているのがよくわかった。でも余計なことを聞いてくるわけでもないし、母さん達に言いつけることもしない。たくさんの食事が並べられたテーブルを前に俯く俺の手を、母さん達に見えないようにそっと握ってくれていた。その優しさが痛かったし、余計に俺を苦しくさせる。

「あのさ、太陽」
「ん?」
 リビングにいる太陽にそっと声をかけると、俺の言葉を待っていたのか弾けるように顔を上げた。その視線が痛くて一瞬躊躇われたけど意を決して口を開く。
「あの、あのさ。父親が言ってた通り、俺は同性愛者だよ」
「兄ちゃん……」
「でも大丈夫だよ。俺は君をそんな目で見たりしないから。だから今まで通り弟として普通に接してほしいんだ」
「……そっか、わかった」
 太陽から逃げるように俺はその場から立ち去る。
「もうお仕舞いだ。せっかく新しい居場所ができたのに……」
 太陽に知られたくなかった真実を知られてしまったことが悲しくて、俺は声を押し殺して泣いた。心がバラバラになってしまったかのように痛かった。