「よろしく。兄ちゃん」
「に、に兄ちゃん?」
母親の再婚で、ひとつ年下の弟ができた。
両親は俺が高校一年のときに離婚して、それ以来二年間母親が女手一つで育ててくれた。そんな母親にはとても感謝しているし、尊敬もしている。それでも、予想もしていなかったひとつ年下の弟の出現に、動揺を隠しきれない。
「驚かせてごめんね。お母さん、再婚しようと思うの。ただそうすると名字も変わってしまうし転校もしなければならない。もしそれが嫌なら言ってね? あなたが卒業するまで再婚は待つから」
母親の隣で俺の顔を覗き込んでいる男性が、再婚相手……。
「名字が変わって、転校も?」
母親の言った言葉を小声で反復する。
「月臣、どうかな?」
――これは、今までの自分を切り捨てるチャンスなのでは?
思わぬ出来事に、一気に希望の光が見えてくる。自分のことを誰も知らない世界へ行く、絶好のチャンスが訪れたのだ。ただ……。
再婚相手の横でニコニコと愛想を振りまいている青年を、気付かれないように横目で観察した。
染めてはいなさそうだが、色素の薄い髪。いやに愛想のいい雰囲気は、彼を軽く見せる。何の悩みもなさそうな笑顔と、初対面の俺を「兄ちゃん」と呼ぶ図々しさ。背だって俺より十センチ以上は高そうだし、モデルみたいにイケメンだしスタイルもいい。それにこいつは……。
――絶対に陽キャだ。そして学校のカースト上位確定。図々しく踏み込んできそうだな。
そう。俺が最も苦手とし、関わりたくない人種第一位。クラスの輪の中心にいて、いつもたくさんの友人に囲まれている奴ら。楽しそうに笑う彼の姿が目に浮かぶようだ。
――どうしたらいいんだろう。名字が変わることも転校することも嬉しいことなんだけど。陽キャと兄弟になるのは……。
俺の中で二つの感情が激しくぶつかり合う。それでも女手一つで育ててくれた母親の再婚を反対するなんてできず……結局新しい家族を認めることとなった。
それから数カ月後、生まれ育った街を離れる日がやって来た。あの出来事があった場所から、あの忌々しい記憶から、ようやく離れられる。ここで自分の過去を知っているのは、母親だけだ。これからは自分を偽らずに生きていけるかもしれない。
「月臣君。さあ行こうか」
「よろしくお願いします」
母の再婚相手であり新しい父親となる篤志さんが、大きなワゴン車で迎えに来てくれた。今の高校で思い出と言えるような物なんてほとんどなくて、積み込むダンボール箱があまりにも少ない。自分の人生の空虚さを突き付けられているようだ 。
両親が離婚してから住んでいた市営住宅も、今日でお別れ。別れを惜しむ友人も、寄せ書きや花束なんかもなくて。逃げるように街を後にする。
そして高校三年の春、百瀬月臣に名前が変わって、太陽っていう名前の弟ができた。
◇◆◇◆
突然車窓から差し込んでくる日差しに眉を寄せる。いつの間にか眠っていたようだ。運転席には篤志さんがいて、助手席には母さんがいる。二人は楽しそうに笑っていた。それを見て、この家族を受け入れてよかったと思う。母さんが幸せそうで俺は嬉しかった。
ふと窓の外に視線を移せば、太陽の日差しを浴びてキラキラと輝く広い海。決して止まることのない波に、少し開けた窓から漂う磯の香り。
「海なんて、久しぶりに見たな」
実の父親はとても厳しい人で、馬鹿が付くほど真面目な外科医だった。祖父の代から受け継がれてきた病院を俺に継がせたかったのだろう。毎日毎日勉強ばかりさせられて、家族旅行になんて行ったことがなかった。そんな家族だったから、海を見たのは中学校の修学旅行が最後かもしれない。
そもそも、こんなにも広くてキラキラ輝く海は自分には似合わない。今の俺には、お寺の庭にある池くらいがお似合いだろう。大きな海も、輝く太陽も……俺には眩しすぎる。
「到着! 月臣君、疲れただろう? 元々住んでた場所から大分離れてたから」
「いえ、全然」
「今日からここがみんなの家だ」
その家は小高い丘の上に立っている、絵本に出てくるような家だった。外壁は真っ白で、青い屋根には煙突が立っている。広いウッドデッキからは、海が一望できることだろう。風に乗ってくる潮の香りを思い切り吸い込んだ。
「さぁ、暗くなる前に荷物をおろしちゃおう。おーい、太陽! 帰ってきたぞ!」
「え、もう!?」
バタバタともの凄い騒音と共に、パーカーにハーパンというラフな出で立ちの太陽が駆け下りてくる。
「兄ちゃんの部屋、まだ全然片付いてないよ!」
「はぁ? まだ片付いてないだって? 私が出てから大分時間がたっただろうに!」
「なんだよその言い方! だいたいあの部屋はあんたが……」
「ふふっ。まぁまぁ篤志さん落ち着いて。太陽君、お久しぶりね。今日からお世話になります」
「いらっしゃい! 佐和子さん」
母さんが咄嗟に親子喧嘩の仲裁に入る。そんな母さんを見た太陽は、純粋に嬉しそうな顔をした。きっと素直に家族が増えることが嬉しいんだろう。彼は俺と違って、人と距離を縮めるのに躊躇いがなさそうだ。
「とりあえず兄ちゃんの部屋に案内するよ。行こう」
「え? ちょ、ちょっと待ってよ!」
いきなり腕を引かれて戸惑う俺に構わず、太陽はどんどんと二階へと階段を駆け上がって行った。
「ここが兄ちゃんの部屋。ごめん、まだ片付けが終わってなくて」
太陽が申し訳なさそうに扉を開けた瞬間、飛び込んできた光景に言葉を失った。
「凄い本だ……」
目の前に広がっているのは、棚だけでは収まらず、椋木でできた床にまで積み上げられている大量の本だった。しゃがみ込んで何冊か手に取ってみると、ミステリーから恋愛系、はたまた図鑑や地図と、ジャンルは多種多様だ。子供が読むような児童書や絵本まである。
「凄い。宝の隠し部屋みたいだ……」
俺はグルッと見渡してから呟く。こんなにたくさんの本を全部読み終えるとしたら、一体何年かかるだろうか。
「凄い量だろう? ここは元々親父の寝室兼、書斎だったんだ」
「篤志さんの?」
「そう。あの人、百瀬海吏ってペンネームで小説書いてんだよ」
「百瀬、海吏……」
「そうそう。この『あの海から波が消える日』って話は案外有名らしいよ。ほらこれ」
そう言いながら一冊の本を床から拾いあげた。
「俺、全然本なんか読まないんだけど、兄ちゃん知ってる?」
「知ってるもなにも……もう何回も何回も繰り返し読んだよ! 君、こんな名作読んだことないのか!? 本当に素晴らしいお話なんだよ! この話はなぁ、有名なコンクールで受賞して……って、ごめん」
「あははは! よっぽど親父の本が好きなんだね。なんだかさ、素直にありがとうって思える」
ムキになった俺がよほど可笑しかったのか、太陽がケラケラ笑っている。
「じゃあ片付けちゃおうか。本に埋もれてベッドも使えないし」
「え? 片付けるって、どうするの?」
「紐で束ねて資源ゴミ」
「駄目だよ、勿体ない! 俺はベッドなんかいらないから、捨てないで。お願いだから!」
「……うん、わかったよ。そんなに言うなら」
こんなにも素晴らしい本を捨ててしまうなんて。あまりにも必死な形相の俺を見て、太陽が大きく息を吐いてから笑った。
それからの時間は、引っ越し初日だというのにダンボール箱を廊下に積み上げて放置したまま夢中で本を読んでいた。気がついた時には辺りは真っ暗になっていて、充実した時間が過ごせたことに満足しながら本を閉じた。
「兄ちゃん、飯できたって」
初めて新しい家族四人で食卓を囲んだけど、照れくさいような、擽ったいような……まだある程度の距離は感じる。でもこれくらいの関係のほうが、今の俺にとっては居心地がいい。
これからどんな家族になっていくのか分からないが、あんな事件を起こしてしまった街に比べたら、ここは天国に違いない。
◇◆◇◆
「兄ちゃん、兄ちゃん。こんなとこで寝てたら風邪ひくよ」
体を揺らされる感覚に、夢の中から引き戻される。目を開くと、心配そうな顔の太陽がいた。俺はいつの間にか本を枕に、床で眠り込んでしまっていたらしい。
「太陽君……」
「兄ちゃん、この部屋のベッドは使えないから俺の部屋においでよ。布団敷いたから」
「大丈夫、ベッドなんかいらないよ」
「駄目だよ、ほら立って」
「え、ちょ、ちょっと、待てよ!」
「いいからいいから」
あまりにも自分本位な太陽にイライラしてしまう。こっちの気持ちも考えずに、だから陽キャは嫌いなんだ。俺に触れようとする手を勢いよく振り払った。
「あのさ、いい加減にしろよ! 俺はここでいいって言ってんじゃん!」
「わっ! 兄ちゃん!」
弾みでバランスを崩してしまった俺は、抱き留められる体勢で太陽に支えられる。
「兄ちゃん痩せてるなぁ、もっとご飯食べなきゃ駄目だよ! ほら、行くよ」
俺の怒りなんて、なんにも届いていない。嫌だ、一人で寝かせてくれ。そう言う暇もないくらい強引に、隣にある太陽の部屋に引き摺られて行く。
海の近くのこの家はこぢんまりとしていて、二階には二部屋しかない。母さん達は一階の寝室で休んでいるようだ。
強引に太陽の部屋に連れてこられた俺は、ここでも予想外の光景に目を見開いた。なぜならその部屋には、可愛らしいぬいぐるみが所狭しと並べられていたからだ。こんなにもたくさんぬいぐるみはあるのに、それ以外には小さな本棚に勉強机だけ。そして、部屋の真ん中に二組の布団が並んで敷いてある。その異様な景色に違和感を覚えた。
「何もない部屋でしょ?」
「ううん。すごくたくさんのぬいぐるみだね」
「あー、これね。俺可愛いものが好きだから。意外だって言われるんだけど……。それに、俺が小さい頃に母親が死んじゃって兄弟もいなかったから、いつも寂しくて」
愛おしそうにぬいぐるみを抱きしめる太陽に、知らず知らずのうちに見とれていた。何をしていても、やっぱりこいつはかっこいい。それが却って癪に触る。所詮、太陽と俺は元々住んでいる世界が違うんだ。
「だからさ、兄ちゃんができるって親父から聞いたとき、めちゃくちゃ嬉しかったんだ。兄弟ってずっと憧れだったから」
開かれた窓から吹き込む冷たい風が、太陽の髪をサラサラと揺らす。照れくさそうにはにかむ太陽を見ると、胸が罪悪感に締め付けられる。なんて、素直なんだろう。素直過ぎてしんどい……気持ちが更に落ち込んでいく気がする。
「まだ会うのは二回目なのに、修学旅行みたいでワクワクするね」
ニコニコ笑いながら、自分の隣に敷かれた布団をポンポンと叩いている。ぎこちない態度のまま、渋々太陽の隣の布団に腰を下ろした。ほぼ初対面の奴と部屋で二人なんて……。口から心臓が出そうなくらい緊張している。深呼吸しても治まらない動悸に耐えきれず、勢いよくその場から立ち上がる。
「や、やっぱり、俺自分の部屋で寝るよ! ちょっと一人にして!」
部屋から出て行こうとすると、ギュッと手を握られ体が飛び跳ねる。振り返ると、少しだけ寂しそうに笑う太陽と視線が合った。
「大丈夫だよ。俺が隣の部屋で寝るから」
「え、でも……」
「だって、兄ちゃんが引っ越してくるまでにあの部屋を掃除をしておかなかった俺が悪いんだもん」
「あ、あのさ太陽君!」
「全然平気だから、兄ちゃんはここで寝て?」
「本当にいいから!」そう言いかけた俺の頭をポンポンッと優しく撫でてくれたあと、隣の部屋へ行ってしまう。一人残された部屋は怖いくらい静かだった。
歩み寄ろうと、仲良くしようとしてくれている太陽に酷いことをしてしまった。そう思うと、悪いなという気持ちがないわけではない。……でもそれ以上に、深く関わってほしくないと思ってしまうんだ。
「ごめんね、太陽君。でも俺は、誰かと時間を共有するっていうことが苦手なんだ。だからもう俺に気を使わないで……マジで疲れる……」
俺は両手で顔を覆って、その場に蹲った。
◇◆◇◆
翌朝、母さんが用意してくれた制服に袖を通す。
もうすぐ高校を卒業する俺は、転校先の高校を昨年卒業したという近所の人から制服を譲り受けた。いままでの制服は学ランだったから、ブレザーに少しだけ違和感を感じる。
「あ、月臣君。ネクタイが曲がってるからこっちに来なさい」
「すみません、篤志さん」
支度が終わり玄関に向かう俺に篤志さんが声をかけてくれて、ネクタイを締め直してくれた。それがなんだか擽ったい。
「今日は太陽と一緒に行くといい」
「え? 太陽君と?」
篤志さんが振り返った先には、まだ眠そうに大きな欠伸をしている太陽。よく見るとネクタイの色が自分の物と違った。
「ん? あ、これか……」
不思議そうに見つめる俺を見て、太陽が自分のネクタイを引っ張りだして見せてくれる。
「俺は体育コースだから青のネクタイ。兄ちゃんは特別進学コースだから赤いネクタイ。ちなみに特別進学コースは、学年の上位十人しか入れない頭脳明晰軍団だよ」
「太陽君は体育コースなんだね」
「まぁね。これでも柔道では全国大会常連だから」
「へぇ、凄いな」
「兄ちゃんだって弓道やってたんだろう? それに、転校早々特別進学コースなんて本当に化け物だよ」
太陽の言葉になんて返したらいいかわからずに、居心地の悪さを感じる。だって、俺は元々頭がいいわけじゃない。人の何倍も努力している。自分には何の取り柄もないから、勉強するしかないんだ。
「行こう、兄ちゃん。教室まで案内するよ」
大きく伸びをしながら、太陽が笑った。
転校初日。
今回の学校では、周りの人達とうまく付き合っていこう。そう決めていたのに、しょっぱなから散々な結果になってしまった。
「も、百瀬月臣です……よろしくお願いします」
十人しかいないクラスメイトに自己紹介するだけなのに、蚊の鳴くような声しか出せなかった。加えて、休み時間に気を利かせて話かけてきてくれた女子達のパワーに圧倒されて、まともなコミュニケーションが取れない。放課後になる頃にはヘトヘトに疲れきっていた。やっぱりコミュ障の俺には、円滑な人間関係を構築する……なんて難易度が高過ぎたのかもしれない。
なんとかいつものように、ぎこちない笑顔を見せるのがやっとだった。
「なんだよ、あいつらのパワーは……付き合ってらんねぇ」
フラフラになりながら下駄箱へ向かうと、パタパタと自分に近づいてくる足音がする。今度はなんだよ? 俺は溜息をつきながら顔を上げた。
「兄ちゃん! 今日部活ないんだ。一緒に帰ろう」
「太陽君か……。あー、うん。一緒に帰ろう」
「少しだけ待ってて、教室にかばんを取りに行ってくるから」
にっこり微笑む太陽の背中が小さくなっていくのを見つめる。一人で帰りたかったんだけどな……。
「太陽! また明日な」
「おう。バイバイ!」
色んな人が太陽に声をかける光景を見た俺は、やっぱり住んでいる世界が違うんだと思い知らされる。
「友達がいっぱいいるんだなぁ」
太陽は学校でも輝いていた。
新しい家から高校までは、バスに乗らなければならない。バスの窓から入ってくる海と潮の香りに、やっと深く呼吸をすることができた。
「疲れた?」
「あ、うん。ちょっとだけ……。でも大丈夫だよ」
太陽にかっこ悪いと思われたくなくて、無理して笑ってみせる。そんな俺を、少しだけ拗ねたような顔をしながら太陽が見つめた。
「体育コースと特別進学コースの教室めっちゃ離れてるのに、俺の所まで転校生の噂が流れてきた」
「え? もしかして、それ……」
「兄ちゃんのことでしょ? 凄く可愛い人が転校してきたって女子が騒いでたよ」
「可愛い? なんだそれ。可愛いわけないだろ」
「本当だよ。全然可愛くない」
「え? ご、ごめん……」
「なんで謝るの? 兄ちゃんは何も悪くないじゃん」
吐き捨てるように言い放ってから、唇を尖らせてバスから見える風景を眺めている太陽。何か怒っているように見えるんだけど、こんな時に気の利いた言葉なんて思いつくはずがなくて……沈黙のまま、家までの道のりをやりすごす。
夕食が終わって、ようやく本だらけの自分の部屋のベッドに体を預られる時間になった。母さん達には、「絶対に部屋に入らないで」って口を酸っぱくして言ってあるから、俺がこんな部屋にいるなんて知らないだろう。でも、本が積み上げられた空間はとても落ち着く。クンクンと匂いを嗅げば、古いインクの香りがする。たしかに雑然とはしているが、俺はこの部屋をとても気に入っていた。
昨夜みんなが寝静まった頃、俺の代わりにこの部屋で寝てくれている太陽の様子を見に来て、申し訳なさで胸がいっぱいになった。体の大きな太陽は、本まみれのベッドで縮こまらせて眠っていた。俺が大人しく太陽の部屋で寝ていれば、こんな窮屈な思いをさせないですんだのに……。
「ごめんね、太陽君」
その時、明日は太陽の部屋で一緒に寝かせてもらおうと腹をくくった。兄弟なんだから仲良くしようって。人とうまく付き合うには、まず家族からだ……。きっと母さんも、篤志さんもそれを望んでいるはずだ。
「でも……あんまり深く付き合っていくのもなぁ……」
スヤスヤと穏やかな寝息をたてる太陽の寝顔を見つめながら、俺は途方に暮れていた。
「やっぱりここは寝にくいや」
昨日腹をくくったばかりなのに、自分の部屋で寝られるか念のため試してみる。たけどやっぱり本だらけのベッドは、太陽より背の低い俺でも体を伸ばして寝ることはできない。かといって今から本を全部整理するなんて、気が遠くなる作業だ。
「よし!」
俺は意を決して立ち上がった。
コンコン。太陽の部屋の扉をノックすると、無機質な音が響き渡る。それと同時に、変な汗が手に滲んだ。
「あ、兄ちゃんどうした?」
扉を開けてくれた太陽が、俺の顔を見て少しだけ驚いた顔をした。
「あの、あのさ……」
「もしかしてあっちの部屋寝られない? じゃあ俺がまた向こうで……」
「違う、違うんだ」
「じゃあなんだよ、そんなに緊張して」
「あのさ、太陽君の言う通りあっちの部屋は寝づらいから、今日はこの部屋で寝ていい?」
俺は勇気を振り絞って太陽の顔を見上げた。昨日の今日でどう思われるだろう……そう思うとまた鼓動が速くなる。だけどそれ以上に、昨日太陽の優しさを拒絶してしまったことに自分もひどく傷ついていた。不安が顔に滲む……そんな俺を見て、太陽が手招きをした。
「兄ちゃん、ほらこっちに来て。一緒に海見ようよ」
「え?」
「夜の海が綺麗だよ」
別に寝るだけでいい……そう言いかけた言葉を飲み込む。
太陽が大きな窓を開ければ、冷たい夜風が火照った頬を優しく撫でてくれ、浅くなっていた呼吸が整う。半ば勢いで太陽の部屋に来てはみたけど、会話の糸口が見つからない。黙って外を見ていたら、太陽がポツリポツリと話し出した。
「俺さ、兄弟ができるって親父から聞いたとき、めちゃくちゃ嬉しかった。それに初めて兄ちゃんを見たとき、凄く可愛い人だなって思ったんだ」
「なんだよお前、この前から可愛いって……。男の俺が可愛いわけないだろう」
「ううん、可愛いよ。ウォンバットみたいで」
「はぁ!? ウォンバットって……ふざけんなよ」
「あははは! すぐそうやってムキになる」
心外だ、と言わんばかりに目を見開いた俺を見て、太陽がケラケラと笑っている。
母親似の俺は顔立ちが幼くて、中性的な雰囲気を持っている。目も子供みたいにクリクリしてるし、年相応に見られないことも多い。顔を隠したくてまとまらない猫っ毛を伸ばしているからか、女の子に見間違えられることもあったけど……ウォンバットってなんなんだ。
「昼間、可愛くないなんて言ってごめんね。俺さ、せっかくできた兄貴をもう誰かにとられちゃうんじゃないかって。少しだけヤキモチ妬いちゃった」
「ヤキモチ?」
俺なら決して口にできない台詞をサラリと言う太陽。。なんで自分が思ったことを、こんなにも素直に言葉にできるのだろう。男の俺にヤキモチってのは、意味がわからないけど。
「それに、兄ちゃんの名前を聞いたとき。あぁ、この人は運命の人だって感じたんだ」
「運命の、人?」
「そう。兄ちゃんは『月』で、俺は『太陽』。普通だったら絶対一緒にいることができない月と太陽が、今こうして一緒にいられる。ね? これって運命だと思わない?」
屈託のない笑顔を向けられると、「まぁ、そうかもな」とも思えてくるから不思議だ。
それでもやっぱり、月の俺からしてみたら、太陽は眩し過ぎる。これ以上近づいたら、熱で溶けてしまうかもしれない。
「じゃあ、寝よっか。布団敷くからちょっと待っててね」
俺が来たことがよほど嬉しいのだろうか。鼻歌を歌いながら布団を敷いてくれる。
「なぁ、兄ちゃん。本当のことを言っても怒らない?」
「なにが?」
俺の様子を窺いながら太陽がポツリと口を開く。まるで悪戯してしまったことを母親に白状する時の子供のようだ。
「実は、兄ちゃんの部屋、わざと片づけなかった。ベッドが使えなかったら、兄ちゃんは俺の部屋で寝てくれるかなって思ってたんだ」
「なんでそんなことを……」
「俺、寝るときもいつも一人だったから、夢だったんだよ。兄弟と寝る前に今日あったこととか、見たテレビ番組の話をしながら寝ることが。くだらないことかもしれないけど、俺にとったらずっと叶わない夢だった。だからわざとあの部屋の本を片付けなかったんだ。ごめんね」
怒られた子供のような顔で俯く太陽。
こんなに友達が多くて明るい太陽も、寂しいって感じることもあるんだ。それがとても意外に感じられる。
「でも、やっぱり修学旅行みたいでワクワクするね」
太陽が照れくさそうに笑った。
「に、に兄ちゃん?」
母親の再婚で、ひとつ年下の弟ができた。
両親は俺が高校一年のときに離婚して、それ以来二年間母親が女手一つで育ててくれた。そんな母親にはとても感謝しているし、尊敬もしている。それでも、予想もしていなかったひとつ年下の弟の出現に、動揺を隠しきれない。
「驚かせてごめんね。お母さん、再婚しようと思うの。ただそうすると名字も変わってしまうし転校もしなければならない。もしそれが嫌なら言ってね? あなたが卒業するまで再婚は待つから」
母親の隣で俺の顔を覗き込んでいる男性が、再婚相手……。
「名字が変わって、転校も?」
母親の言った言葉を小声で反復する。
「月臣、どうかな?」
――これは、今までの自分を切り捨てるチャンスなのでは?
思わぬ出来事に、一気に希望の光が見えてくる。自分のことを誰も知らない世界へ行く、絶好のチャンスが訪れたのだ。ただ……。
再婚相手の横でニコニコと愛想を振りまいている青年を、気付かれないように横目で観察した。
染めてはいなさそうだが、色素の薄い髪。いやに愛想のいい雰囲気は、彼を軽く見せる。何の悩みもなさそうな笑顔と、初対面の俺を「兄ちゃん」と呼ぶ図々しさ。背だって俺より十センチ以上は高そうだし、モデルみたいにイケメンだしスタイルもいい。それにこいつは……。
――絶対に陽キャだ。そして学校のカースト上位確定。図々しく踏み込んできそうだな。
そう。俺が最も苦手とし、関わりたくない人種第一位。クラスの輪の中心にいて、いつもたくさんの友人に囲まれている奴ら。楽しそうに笑う彼の姿が目に浮かぶようだ。
――どうしたらいいんだろう。名字が変わることも転校することも嬉しいことなんだけど。陽キャと兄弟になるのは……。
俺の中で二つの感情が激しくぶつかり合う。それでも女手一つで育ててくれた母親の再婚を反対するなんてできず……結局新しい家族を認めることとなった。
それから数カ月後、生まれ育った街を離れる日がやって来た。あの出来事があった場所から、あの忌々しい記憶から、ようやく離れられる。ここで自分の過去を知っているのは、母親だけだ。これからは自分を偽らずに生きていけるかもしれない。
「月臣君。さあ行こうか」
「よろしくお願いします」
母の再婚相手であり新しい父親となる篤志さんが、大きなワゴン車で迎えに来てくれた。今の高校で思い出と言えるような物なんてほとんどなくて、積み込むダンボール箱があまりにも少ない。自分の人生の空虚さを突き付けられているようだ 。
両親が離婚してから住んでいた市営住宅も、今日でお別れ。別れを惜しむ友人も、寄せ書きや花束なんかもなくて。逃げるように街を後にする。
そして高校三年の春、百瀬月臣に名前が変わって、太陽っていう名前の弟ができた。
◇◆◇◆
突然車窓から差し込んでくる日差しに眉を寄せる。いつの間にか眠っていたようだ。運転席には篤志さんがいて、助手席には母さんがいる。二人は楽しそうに笑っていた。それを見て、この家族を受け入れてよかったと思う。母さんが幸せそうで俺は嬉しかった。
ふと窓の外に視線を移せば、太陽の日差しを浴びてキラキラと輝く広い海。決して止まることのない波に、少し開けた窓から漂う磯の香り。
「海なんて、久しぶりに見たな」
実の父親はとても厳しい人で、馬鹿が付くほど真面目な外科医だった。祖父の代から受け継がれてきた病院を俺に継がせたかったのだろう。毎日毎日勉強ばかりさせられて、家族旅行になんて行ったことがなかった。そんな家族だったから、海を見たのは中学校の修学旅行が最後かもしれない。
そもそも、こんなにも広くてキラキラ輝く海は自分には似合わない。今の俺には、お寺の庭にある池くらいがお似合いだろう。大きな海も、輝く太陽も……俺には眩しすぎる。
「到着! 月臣君、疲れただろう? 元々住んでた場所から大分離れてたから」
「いえ、全然」
「今日からここがみんなの家だ」
その家は小高い丘の上に立っている、絵本に出てくるような家だった。外壁は真っ白で、青い屋根には煙突が立っている。広いウッドデッキからは、海が一望できることだろう。風に乗ってくる潮の香りを思い切り吸い込んだ。
「さぁ、暗くなる前に荷物をおろしちゃおう。おーい、太陽! 帰ってきたぞ!」
「え、もう!?」
バタバタともの凄い騒音と共に、パーカーにハーパンというラフな出で立ちの太陽が駆け下りてくる。
「兄ちゃんの部屋、まだ全然片付いてないよ!」
「はぁ? まだ片付いてないだって? 私が出てから大分時間がたっただろうに!」
「なんだよその言い方! だいたいあの部屋はあんたが……」
「ふふっ。まぁまぁ篤志さん落ち着いて。太陽君、お久しぶりね。今日からお世話になります」
「いらっしゃい! 佐和子さん」
母さんが咄嗟に親子喧嘩の仲裁に入る。そんな母さんを見た太陽は、純粋に嬉しそうな顔をした。きっと素直に家族が増えることが嬉しいんだろう。彼は俺と違って、人と距離を縮めるのに躊躇いがなさそうだ。
「とりあえず兄ちゃんの部屋に案内するよ。行こう」
「え? ちょ、ちょっと待ってよ!」
いきなり腕を引かれて戸惑う俺に構わず、太陽はどんどんと二階へと階段を駆け上がって行った。
「ここが兄ちゃんの部屋。ごめん、まだ片付けが終わってなくて」
太陽が申し訳なさそうに扉を開けた瞬間、飛び込んできた光景に言葉を失った。
「凄い本だ……」
目の前に広がっているのは、棚だけでは収まらず、椋木でできた床にまで積み上げられている大量の本だった。しゃがみ込んで何冊か手に取ってみると、ミステリーから恋愛系、はたまた図鑑や地図と、ジャンルは多種多様だ。子供が読むような児童書や絵本まである。
「凄い。宝の隠し部屋みたいだ……」
俺はグルッと見渡してから呟く。こんなにたくさんの本を全部読み終えるとしたら、一体何年かかるだろうか。
「凄い量だろう? ここは元々親父の寝室兼、書斎だったんだ」
「篤志さんの?」
「そう。あの人、百瀬海吏ってペンネームで小説書いてんだよ」
「百瀬、海吏……」
「そうそう。この『あの海から波が消える日』って話は案外有名らしいよ。ほらこれ」
そう言いながら一冊の本を床から拾いあげた。
「俺、全然本なんか読まないんだけど、兄ちゃん知ってる?」
「知ってるもなにも……もう何回も何回も繰り返し読んだよ! 君、こんな名作読んだことないのか!? 本当に素晴らしいお話なんだよ! この話はなぁ、有名なコンクールで受賞して……って、ごめん」
「あははは! よっぽど親父の本が好きなんだね。なんだかさ、素直にありがとうって思える」
ムキになった俺がよほど可笑しかったのか、太陽がケラケラ笑っている。
「じゃあ片付けちゃおうか。本に埋もれてベッドも使えないし」
「え? 片付けるって、どうするの?」
「紐で束ねて資源ゴミ」
「駄目だよ、勿体ない! 俺はベッドなんかいらないから、捨てないで。お願いだから!」
「……うん、わかったよ。そんなに言うなら」
こんなにも素晴らしい本を捨ててしまうなんて。あまりにも必死な形相の俺を見て、太陽が大きく息を吐いてから笑った。
それからの時間は、引っ越し初日だというのにダンボール箱を廊下に積み上げて放置したまま夢中で本を読んでいた。気がついた時には辺りは真っ暗になっていて、充実した時間が過ごせたことに満足しながら本を閉じた。
「兄ちゃん、飯できたって」
初めて新しい家族四人で食卓を囲んだけど、照れくさいような、擽ったいような……まだある程度の距離は感じる。でもこれくらいの関係のほうが、今の俺にとっては居心地がいい。
これからどんな家族になっていくのか分からないが、あんな事件を起こしてしまった街に比べたら、ここは天国に違いない。
◇◆◇◆
「兄ちゃん、兄ちゃん。こんなとこで寝てたら風邪ひくよ」
体を揺らされる感覚に、夢の中から引き戻される。目を開くと、心配そうな顔の太陽がいた。俺はいつの間にか本を枕に、床で眠り込んでしまっていたらしい。
「太陽君……」
「兄ちゃん、この部屋のベッドは使えないから俺の部屋においでよ。布団敷いたから」
「大丈夫、ベッドなんかいらないよ」
「駄目だよ、ほら立って」
「え、ちょ、ちょっと、待てよ!」
「いいからいいから」
あまりにも自分本位な太陽にイライラしてしまう。こっちの気持ちも考えずに、だから陽キャは嫌いなんだ。俺に触れようとする手を勢いよく振り払った。
「あのさ、いい加減にしろよ! 俺はここでいいって言ってんじゃん!」
「わっ! 兄ちゃん!」
弾みでバランスを崩してしまった俺は、抱き留められる体勢で太陽に支えられる。
「兄ちゃん痩せてるなぁ、もっとご飯食べなきゃ駄目だよ! ほら、行くよ」
俺の怒りなんて、なんにも届いていない。嫌だ、一人で寝かせてくれ。そう言う暇もないくらい強引に、隣にある太陽の部屋に引き摺られて行く。
海の近くのこの家はこぢんまりとしていて、二階には二部屋しかない。母さん達は一階の寝室で休んでいるようだ。
強引に太陽の部屋に連れてこられた俺は、ここでも予想外の光景に目を見開いた。なぜならその部屋には、可愛らしいぬいぐるみが所狭しと並べられていたからだ。こんなにもたくさんぬいぐるみはあるのに、それ以外には小さな本棚に勉強机だけ。そして、部屋の真ん中に二組の布団が並んで敷いてある。その異様な景色に違和感を覚えた。
「何もない部屋でしょ?」
「ううん。すごくたくさんのぬいぐるみだね」
「あー、これね。俺可愛いものが好きだから。意外だって言われるんだけど……。それに、俺が小さい頃に母親が死んじゃって兄弟もいなかったから、いつも寂しくて」
愛おしそうにぬいぐるみを抱きしめる太陽に、知らず知らずのうちに見とれていた。何をしていても、やっぱりこいつはかっこいい。それが却って癪に触る。所詮、太陽と俺は元々住んでいる世界が違うんだ。
「だからさ、兄ちゃんができるって親父から聞いたとき、めちゃくちゃ嬉しかったんだ。兄弟ってずっと憧れだったから」
開かれた窓から吹き込む冷たい風が、太陽の髪をサラサラと揺らす。照れくさそうにはにかむ太陽を見ると、胸が罪悪感に締め付けられる。なんて、素直なんだろう。素直過ぎてしんどい……気持ちが更に落ち込んでいく気がする。
「まだ会うのは二回目なのに、修学旅行みたいでワクワクするね」
ニコニコ笑いながら、自分の隣に敷かれた布団をポンポンと叩いている。ぎこちない態度のまま、渋々太陽の隣の布団に腰を下ろした。ほぼ初対面の奴と部屋で二人なんて……。口から心臓が出そうなくらい緊張している。深呼吸しても治まらない動悸に耐えきれず、勢いよくその場から立ち上がる。
「や、やっぱり、俺自分の部屋で寝るよ! ちょっと一人にして!」
部屋から出て行こうとすると、ギュッと手を握られ体が飛び跳ねる。振り返ると、少しだけ寂しそうに笑う太陽と視線が合った。
「大丈夫だよ。俺が隣の部屋で寝るから」
「え、でも……」
「だって、兄ちゃんが引っ越してくるまでにあの部屋を掃除をしておかなかった俺が悪いんだもん」
「あ、あのさ太陽君!」
「全然平気だから、兄ちゃんはここで寝て?」
「本当にいいから!」そう言いかけた俺の頭をポンポンッと優しく撫でてくれたあと、隣の部屋へ行ってしまう。一人残された部屋は怖いくらい静かだった。
歩み寄ろうと、仲良くしようとしてくれている太陽に酷いことをしてしまった。そう思うと、悪いなという気持ちがないわけではない。……でもそれ以上に、深く関わってほしくないと思ってしまうんだ。
「ごめんね、太陽君。でも俺は、誰かと時間を共有するっていうことが苦手なんだ。だからもう俺に気を使わないで……マジで疲れる……」
俺は両手で顔を覆って、その場に蹲った。
◇◆◇◆
翌朝、母さんが用意してくれた制服に袖を通す。
もうすぐ高校を卒業する俺は、転校先の高校を昨年卒業したという近所の人から制服を譲り受けた。いままでの制服は学ランだったから、ブレザーに少しだけ違和感を感じる。
「あ、月臣君。ネクタイが曲がってるからこっちに来なさい」
「すみません、篤志さん」
支度が終わり玄関に向かう俺に篤志さんが声をかけてくれて、ネクタイを締め直してくれた。それがなんだか擽ったい。
「今日は太陽と一緒に行くといい」
「え? 太陽君と?」
篤志さんが振り返った先には、まだ眠そうに大きな欠伸をしている太陽。よく見るとネクタイの色が自分の物と違った。
「ん? あ、これか……」
不思議そうに見つめる俺を見て、太陽が自分のネクタイを引っ張りだして見せてくれる。
「俺は体育コースだから青のネクタイ。兄ちゃんは特別進学コースだから赤いネクタイ。ちなみに特別進学コースは、学年の上位十人しか入れない頭脳明晰軍団だよ」
「太陽君は体育コースなんだね」
「まぁね。これでも柔道では全国大会常連だから」
「へぇ、凄いな」
「兄ちゃんだって弓道やってたんだろう? それに、転校早々特別進学コースなんて本当に化け物だよ」
太陽の言葉になんて返したらいいかわからずに、居心地の悪さを感じる。だって、俺は元々頭がいいわけじゃない。人の何倍も努力している。自分には何の取り柄もないから、勉強するしかないんだ。
「行こう、兄ちゃん。教室まで案内するよ」
大きく伸びをしながら、太陽が笑った。
転校初日。
今回の学校では、周りの人達とうまく付き合っていこう。そう決めていたのに、しょっぱなから散々な結果になってしまった。
「も、百瀬月臣です……よろしくお願いします」
十人しかいないクラスメイトに自己紹介するだけなのに、蚊の鳴くような声しか出せなかった。加えて、休み時間に気を利かせて話かけてきてくれた女子達のパワーに圧倒されて、まともなコミュニケーションが取れない。放課後になる頃にはヘトヘトに疲れきっていた。やっぱりコミュ障の俺には、円滑な人間関係を構築する……なんて難易度が高過ぎたのかもしれない。
なんとかいつものように、ぎこちない笑顔を見せるのがやっとだった。
「なんだよ、あいつらのパワーは……付き合ってらんねぇ」
フラフラになりながら下駄箱へ向かうと、パタパタと自分に近づいてくる足音がする。今度はなんだよ? 俺は溜息をつきながら顔を上げた。
「兄ちゃん! 今日部活ないんだ。一緒に帰ろう」
「太陽君か……。あー、うん。一緒に帰ろう」
「少しだけ待ってて、教室にかばんを取りに行ってくるから」
にっこり微笑む太陽の背中が小さくなっていくのを見つめる。一人で帰りたかったんだけどな……。
「太陽! また明日な」
「おう。バイバイ!」
色んな人が太陽に声をかける光景を見た俺は、やっぱり住んでいる世界が違うんだと思い知らされる。
「友達がいっぱいいるんだなぁ」
太陽は学校でも輝いていた。
新しい家から高校までは、バスに乗らなければならない。バスの窓から入ってくる海と潮の香りに、やっと深く呼吸をすることができた。
「疲れた?」
「あ、うん。ちょっとだけ……。でも大丈夫だよ」
太陽にかっこ悪いと思われたくなくて、無理して笑ってみせる。そんな俺を、少しだけ拗ねたような顔をしながら太陽が見つめた。
「体育コースと特別進学コースの教室めっちゃ離れてるのに、俺の所まで転校生の噂が流れてきた」
「え? もしかして、それ……」
「兄ちゃんのことでしょ? 凄く可愛い人が転校してきたって女子が騒いでたよ」
「可愛い? なんだそれ。可愛いわけないだろ」
「本当だよ。全然可愛くない」
「え? ご、ごめん……」
「なんで謝るの? 兄ちゃんは何も悪くないじゃん」
吐き捨てるように言い放ってから、唇を尖らせてバスから見える風景を眺めている太陽。何か怒っているように見えるんだけど、こんな時に気の利いた言葉なんて思いつくはずがなくて……沈黙のまま、家までの道のりをやりすごす。
夕食が終わって、ようやく本だらけの自分の部屋のベッドに体を預られる時間になった。母さん達には、「絶対に部屋に入らないで」って口を酸っぱくして言ってあるから、俺がこんな部屋にいるなんて知らないだろう。でも、本が積み上げられた空間はとても落ち着く。クンクンと匂いを嗅げば、古いインクの香りがする。たしかに雑然とはしているが、俺はこの部屋をとても気に入っていた。
昨夜みんなが寝静まった頃、俺の代わりにこの部屋で寝てくれている太陽の様子を見に来て、申し訳なさで胸がいっぱいになった。体の大きな太陽は、本まみれのベッドで縮こまらせて眠っていた。俺が大人しく太陽の部屋で寝ていれば、こんな窮屈な思いをさせないですんだのに……。
「ごめんね、太陽君」
その時、明日は太陽の部屋で一緒に寝かせてもらおうと腹をくくった。兄弟なんだから仲良くしようって。人とうまく付き合うには、まず家族からだ……。きっと母さんも、篤志さんもそれを望んでいるはずだ。
「でも……あんまり深く付き合っていくのもなぁ……」
スヤスヤと穏やかな寝息をたてる太陽の寝顔を見つめながら、俺は途方に暮れていた。
「やっぱりここは寝にくいや」
昨日腹をくくったばかりなのに、自分の部屋で寝られるか念のため試してみる。たけどやっぱり本だらけのベッドは、太陽より背の低い俺でも体を伸ばして寝ることはできない。かといって今から本を全部整理するなんて、気が遠くなる作業だ。
「よし!」
俺は意を決して立ち上がった。
コンコン。太陽の部屋の扉をノックすると、無機質な音が響き渡る。それと同時に、変な汗が手に滲んだ。
「あ、兄ちゃんどうした?」
扉を開けてくれた太陽が、俺の顔を見て少しだけ驚いた顔をした。
「あの、あのさ……」
「もしかしてあっちの部屋寝られない? じゃあ俺がまた向こうで……」
「違う、違うんだ」
「じゃあなんだよ、そんなに緊張して」
「あのさ、太陽君の言う通りあっちの部屋は寝づらいから、今日はこの部屋で寝ていい?」
俺は勇気を振り絞って太陽の顔を見上げた。昨日の今日でどう思われるだろう……そう思うとまた鼓動が速くなる。だけどそれ以上に、昨日太陽の優しさを拒絶してしまったことに自分もひどく傷ついていた。不安が顔に滲む……そんな俺を見て、太陽が手招きをした。
「兄ちゃん、ほらこっちに来て。一緒に海見ようよ」
「え?」
「夜の海が綺麗だよ」
別に寝るだけでいい……そう言いかけた言葉を飲み込む。
太陽が大きな窓を開ければ、冷たい夜風が火照った頬を優しく撫でてくれ、浅くなっていた呼吸が整う。半ば勢いで太陽の部屋に来てはみたけど、会話の糸口が見つからない。黙って外を見ていたら、太陽がポツリポツリと話し出した。
「俺さ、兄弟ができるって親父から聞いたとき、めちゃくちゃ嬉しかった。それに初めて兄ちゃんを見たとき、凄く可愛い人だなって思ったんだ」
「なんだよお前、この前から可愛いって……。男の俺が可愛いわけないだろう」
「ううん、可愛いよ。ウォンバットみたいで」
「はぁ!? ウォンバットって……ふざけんなよ」
「あははは! すぐそうやってムキになる」
心外だ、と言わんばかりに目を見開いた俺を見て、太陽がケラケラと笑っている。
母親似の俺は顔立ちが幼くて、中性的な雰囲気を持っている。目も子供みたいにクリクリしてるし、年相応に見られないことも多い。顔を隠したくてまとまらない猫っ毛を伸ばしているからか、女の子に見間違えられることもあったけど……ウォンバットってなんなんだ。
「昼間、可愛くないなんて言ってごめんね。俺さ、せっかくできた兄貴をもう誰かにとられちゃうんじゃないかって。少しだけヤキモチ妬いちゃった」
「ヤキモチ?」
俺なら決して口にできない台詞をサラリと言う太陽。。なんで自分が思ったことを、こんなにも素直に言葉にできるのだろう。男の俺にヤキモチってのは、意味がわからないけど。
「それに、兄ちゃんの名前を聞いたとき。あぁ、この人は運命の人だって感じたんだ」
「運命の、人?」
「そう。兄ちゃんは『月』で、俺は『太陽』。普通だったら絶対一緒にいることができない月と太陽が、今こうして一緒にいられる。ね? これって運命だと思わない?」
屈託のない笑顔を向けられると、「まぁ、そうかもな」とも思えてくるから不思議だ。
それでもやっぱり、月の俺からしてみたら、太陽は眩し過ぎる。これ以上近づいたら、熱で溶けてしまうかもしれない。
「じゃあ、寝よっか。布団敷くからちょっと待っててね」
俺が来たことがよほど嬉しいのだろうか。鼻歌を歌いながら布団を敷いてくれる。
「なぁ、兄ちゃん。本当のことを言っても怒らない?」
「なにが?」
俺の様子を窺いながら太陽がポツリと口を開く。まるで悪戯してしまったことを母親に白状する時の子供のようだ。
「実は、兄ちゃんの部屋、わざと片づけなかった。ベッドが使えなかったら、兄ちゃんは俺の部屋で寝てくれるかなって思ってたんだ」
「なんでそんなことを……」
「俺、寝るときもいつも一人だったから、夢だったんだよ。兄弟と寝る前に今日あったこととか、見たテレビ番組の話をしながら寝ることが。くだらないことかもしれないけど、俺にとったらずっと叶わない夢だった。だからわざとあの部屋の本を片付けなかったんだ。ごめんね」
怒られた子供のような顔で俯く太陽。
こんなに友達が多くて明るい太陽も、寂しいって感じることもあるんだ。それがとても意外に感じられる。
「でも、やっぱり修学旅行みたいでワクワクするね」
太陽が照れくさそうに笑った。