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その日は、ふだん客の来ないカフェにはめずらしく、スタンド看板を表に出してすぐにお客さんがやってきた。
扉を開けたのは小柄な女性客だった。
おとなしい雰囲気で黒縁眼鏡をかけているせいか、浮遊した眼鏡がのぞき込んでいるみたいに見えた。
「すみません」
「はい」
「ここって食事できますか」
「はい、もちろん」と、お団子頭を押さえながら潮が歩み寄る。「あれ、さっき看板出したはずなんですけど」
「いえ、出てましたけど、店内に明かりが見えなかったもので」
「あら、やだ、本当だ」と、壁の照明スイッチを押す。「もう、ごめんなさいね」
そんな様子に困惑しながら明るくなった店内に入ってきた客がおずおずとたずねた。
「あの、ここって出るんですか?」
「ええ、食事は出ますよ」
「いえ、そうじゃなくて」と、一瞬ためらった表情を見せた客が眼鏡のフレームをクイッと上げた。「妖怪です」
「はあ……」
「噂で聞いたんです。猫又のいるカフェだって」
フミャーオ。
中庭の開いたドアから、呼ばれたかのようにポムが現れた。
「こらっ、ポム、ダメでしょ。お客さんいるんだから」と、羽美香が慌てて追いかけてくる。
「もしかして、この子が猫又ですか?」と、すかさず客がしゃがんで手を伸ばす。
フニャッ?
「すんごく太ってますね」
フニャーゴ!
後足で立ち上がって引っかこうとするのを羽美香が押さえて抱き上げた。
「ダメダメ、あっちに行ってようね」
中庭に連れ戻そうとすると、不機嫌に暴れ出すので、羽美香は肩に担いで背中を撫でた。
「あんたまた重くなったね。業者さんの米袋じゃあるまいし。いくら茶トラだからってさ、虎より重たいんじゃないの?」
――そんなわけあるか!
「えっ!?」
時間が固まったかようにみんなの注目が猫に集中する。
しばらくの沈黙の後で、客がおそるおそるつぶやいた。
「今、しゃべりましたよね?」
フニャ……。
ナーオ、ゴロニャーゴ。
潮が両手を広げて肩をすくめる。
「まさか。誰が言ったか知りませんけど、空耳ですよ。猫が人間の言葉をしゃべるわけないじゃないですか」
「でも、たしかに聞こえましたよ」
「ホントにもう、羽美香も変な声出さないでよ」と、ペンチでひねるように無理矢理話を曲げる。
「え、私?」と、一瞬眉を寄せた羽美香が、思いっきり頬を引きつらせて作り笑いを浮かべた。「お、オホホ、やだぁ、もう、びっくりして変な声出ちゃった。ごめんなさーい」
暴れる猫を中庭に連れ出す羽美香の背中を呆然と見送る客の前に立ちはだかって、潮が窓際の席をすすめた。
釈然としない表情で席に着いた客は、あたりを見回しながらたずねた。
「あのう、メニューは?」
「うちはあるものしかないんですよ」
眉を寄せながら客が潮を見上げる。
「あるものってなんですか」
「今日は豆腐ですね」
「豆腐……ですか。冷や奴とか?」
「ええ、まあ」
「あの、他には何があるんですか」
「豆腐しかないです」
「ああ、そうなんですか」
唇をとがらせ、細くため息を漏らすと客が席を立とうとした。
「すみません。また出直してきます」
「ちょっと、おねえ、言い方」と、中庭から羽美香が慌てて飛び込んでくる。「本日のお料理は、『精進料理をまさかの地中海風にアレンジしたフルコースのおもてなし』になります」
「へえ、そうなんですか。おいしそうですね」と、座り直す。
「はい、ただ今すぐにご用意いたしますので」
潮の背中を押して厨房へ急ぐが、姉は不満たらたらだ。
「ちょっと、あんた、精進料理ってどういうことよ。地中海とか意味分かんないし」
「いいから、どうにでもなるでしょ。おねえは天才なんだから」
「おだてたって、何もできないわよ」
「焼き肉のタレで作るマーボー豆腐とか、裏ごしした豆腐にオーロラソースを混ぜてパン粉で揚げたクリームコロッケとか、豆腐のキーマカレーとか、あと、ほら、豆腐のドリアとか、いろんなの作ってたじゃないのよ」
「そんなの全然覚えてないけど」
「クリームチーズがなくて豆腐にピリッとするなんかを混ぜて作ったグリッシーニにぴったりないい感じのディップとかもあったじゃん。あれ、めちゃくちゃワインに合ってた」
「だっけ?」と、潮は眉間にしわを寄せながら首をかしげる。「逆じゃないの。豆腐がないからクリームチーズで白和えを作ったんじゃなかったっけ」
「ああ、もう、とにかく、豆腐の角に頭ぶつけるとか、豆腐見てれば何か思いつくでしょ。おねえは天才、やればできる子なんだから」
「もうアラサーも回りきったよ。子供みたいなのはあんたたちでしょ」
「はいはい、分かりました。天才シェフ様、お客様がお待ちですよ」
「しょうがないねえ。柚子と三つ葉でものせて、あんたお得意の京都風湯豆腐とか言って出しちゃえば」
羽美香がキョトンと立ち尽くす。
「おねえにしちゃ、普通だよね」
「あたしは元々普通でしょ」
「あ、でも、今日は地中海風って言っちゃったから」
「それじゃ……」と、柚子と三つ葉を載せた湯豆腐に、朝食で残った味噌汁の余り汁をかける。「はい、地中海風」
「ちょっと、猫まんまじゃないんだから」
「いいから、次の用意するから持っていって」
姉に背中を押され、羽美香は渋々客席に料理を運んだ。
「こちら、湯豆腐の地中海風です」
「見た目は和風ですね」と、客は疑いの目で見つめている。
「はい。でも、世の中には似たような見た目のお料理はたくさんありますので」
いぶかしげに箸でつまんで柚子のかけらをのせて口に入れた客が目を丸くして口を押さえる。
「わあ、本当に地中海の香りがする」
「はあ?」と、羽美香はあからさまに眉間に皺を寄せて首をかしげた。
「魚介のお出汁がブイヤベースみたいで、想像以上に地中海風ですね。これは海老が入ってるんですか?」
――あん肝の味噌汁なんだけど。
正直に言いそうになったところで、厨房から潮の声がした。
「ねえ、次のできたけど、何してんの?」
「はいはい、今行きまーす」と、戻りかけたところで、客が呼び止めた。
「あの、すみません」
「はい、何か?」と、羽美香がミュージカル女優のように手を広げてターンする。
「実は、もう一つ、噂を聞いてきたんですけど」
「うちは猫又以外はいませんけど」
「いえ、それではなくて」と、箸を置いた客が眼鏡をクイッと上げる。「心の凝りをほぐしてもらいたいんです」
「ああ」と、一瞬窓の外の海へ視線を流した羽美香が、客を安心させるようににっこりと笑みを浮かべてうなずいた。「かしこまりました。ただいまワインとグラスをお持ちますのでお待ちくださいね」
中庭の開いたドアからかすかに波の音が聞こえてくる。
真鍮製テーブルの上では、太った茶トラの猫があくびをしながら尻尾を振っていた。
ここは《島のカフェ こころのこり》
小骨のように刺さった心残りを抱えた人がたどり着く御飯処。
正解は見つからなくても、おいしい御飯で心の凝りをほぐします。
そんな白い壁のカフェを見つけたいときは、まず猫を探してください。
お待ちしております。