黒く染まったカサブタがはがれ始める頃、サキが部屋に来てくれた。
 顔を合わせるのはもう、十日ぶりになるだろうか。ワタシたちはお互いのタトゥーを舐め合いながら、久しぶりに一つになった。
 肌の温もりは不思議だ。いつも感じている孤独や焦燥そして自己嫌悪が、肌を合わせているときだけは無くなってしまう。サキと肌を合わせている時のワタシは、きっとワタシじゃなくて、サキと混ざりあった別の存在としてそこに在るような気がする。けれどもそんな中途半端な存在じゃなくて、ワタシはサキになりたい……その思いは変わっていない。
 その後もサキが部屋を訪れる回数は減っていき、ついには強く請わなければ来てくれなくなってしまう。そう、サキと一つになる事ができなくなってしまったのだ。
 元の不安にまみれた生活に戻っただけではあるのだけれど、あの頃と決定的に違うことがある。それはサキと出会ってしまったことだ。サキと肌を合わせる安らぎを知ってしまったことだ。
 眠れない夜には、以前よりも強く自分を傷つけるようになった。サキを想うがあまり、左腕の蝶をカッターで切り裂きたい衝動に駆られる夜もあった。けれどもたわむれるように舞う二匹の蝶は、ゆりとワタシをつなぐ唯一の(よすが)のように感じられて思いとどまった。
 サキになることができない寂しさを埋めるために、ワタシは男を求めるようになった。あれほど嫌っていた男性を求めていることに、自分でも驚いている。けれども決して、男性のことを恋しいと思っている訳ではない。ワタシの中では依然として、男性は嫌悪の対象として在り続けている。

 男を求めるようになったきっかけは、サキに会うために出かけたライブだった。
 ライブがハネたあと、楽屋にサキを訪ねた。予告もなく現れたワタシにサキは迷惑そうな顔もせず、それどころかバンドメンバーやスタッフの前だと言うのにワタシに口づけをしてくれた。けれども帰されてしまった。気をつけて帰りな、そう言ってサキは笑った。
 失意のままライブハウスを後にするワタシに声をかけてきたのは、一連のやり取りを見ていたスタッフの一人だった。食事に誘われた。面識もない男性と食事にいくだなんてありえないと思ったのだけれど、自棄になっていたワタシは誘われるがままに着いていってしまった。
 連れて行かれたのは居酒屋で、男はチューハイ一杯で上機嫌だった。酔いに任せてしゃべる男の話は退屈で、誰それのライブでPAをやったことがあるとか、誰それに会ってサインをもらったことがあるとか、そんな自慢話ばかりだった。あまりに退屈だったから帰ろうかとも思ったのだけれど、独りの部屋でまた静寂の音に耐えなければならないのかと思うとそんな気も失せてしまった。
「ワタシとヤリたい?」
 サキのように振る舞ってみた。彼女はいつだって、まどろっこしい手順なんてスッ飛ばして欲望を叶える最短距離をはしる。
 絶句した男が、呆けた顔をしてワタシを見つめていた。

 初めてのラブホテルは想像していたよりも普通だったけど、天井が鏡貼りなことと、シャワールームを仕切る壁がガラスで丸見えってことには驚いてしまった。噂に聞く丸くて回るベッドではなくて、普通のダブルベッドだった。
 男性と肌を合わせるのは初めてだったのだけれど、女性の体とはまるで違っていて戸惑ってしまう。滑らかさのない肌や、ゴツゴツとした硬い体に好感をもつことはできなかった。下手くそで生臭いキスは最低だったし、逃げ出したくもなったのだけれど、それでも求められているんだと思うと我慢することができた。
 初めて受け入れた男性自身はワタシの中でぎこちなく前後に動くばかりで、サキが操るディルドのような巧みさの欠片すらなかった。嫌悪の対象でしかない男性に体をつらぬかれているという事実だけが、ワタシを燃え上がらせた。身勝手なセックスで乱暴に扱われるほどに、熱くなることができた。
 精を放った男が我に返って上辺だけの優しさをまとい直そうとすることを、ワタシは断固として拒絶した。
「もっとして、乱暴に……」
 正気に戻らないように耳元でささやいた。硬さを失ないだらしなく垂れさがった男性自身をにぎると、グニャリとした頼りのない感触に悪寒がはしった。思わず沖縄の海で踏んだ真っ黒なナマコを思い出して、気持ち悪くなってしまう。どう扱えば良いのか解らずにぎこちなく触っていると、垂れさがるばかりのナマコは徐々に硬さを取り戻し、男の方も再び無骨な手つきでワタシの体をまさぐり始めた。

 スタッフの男と寝たことは後にサキの知るところとなり、ワタシではなくて男のほうが彼女の叱責を受けることになった。そしてサキは、なぐさめるかのようにワタシを抱いた。
「ごめん。寂しかったよね……」
 生乾きの自傷の痕に舌をはわせながら、サキが侘びていた。
 違う、サキはあやまる必要なんてない。確かにサキと重なり合えない寂しさはあったのだけれど、ワタシはサキになろうとしただけなのだから。欲望に素直で、欲望を叶えるためにまっすぐに進むサキのように……。サキに抱かれなくても、ワタシはサキになることができる……そのことを確かめたかっただけなのだ。
 巧く説明できずただ首を横にふるばかりのワタシを、サキは胸に抱いて頭をなでてくれた。大丈夫だよ、サキ。ワタシはもう、サキになれるのだから。

 その後やっぱりサキは部屋に来てくれなくなり、ワタシはマッチングアプリや出会い系サイトを使って男を探すようになった。男たちの欲望のはけ口になることは、それだけで心地がよかった。ワタシのことを乱暴に扱う男であれば、なおのことだ。頭の上で手首を縛られ、レイプするかのように押さえつけられたときは、それだけで恍惚にひたってイキそうになってしまった。
 もっとぞんざいに、もっと物のように扱われたいという思いは積もるばかりで、ついにはワタシのことを殴ってくれる男を求めるようになった。殴ってほしいだなんて狂った募集には、さすがにマッチする相手が居ないだろうと思っていた。だけど寄ってくる男は、思いのほか多かった。
 けれども実際に会ってみれば、前戯の一環として尻を叩くような男とか、痛み自体を快感だと勘違いしているような男ばかりだった。腹を殴り尻を蹴飛ばしたあとに「どう? 気持ちいい?」と問われたときには、情けなくて泣きたくなってしまった。殴られて気持ちいい訳がない。痛くて苦しいだけだ。そういうことではない、痛みがイコール快感なのではない。ワタシは理不尽に蹂躙(じゅうりん)されたいのだ。嫌がるワタシの意思を無視した暴力をふるわれたいのだ。ワタシがいくら泣き叫ぼうとも許されず、サンドバッグを殴るかのように淡々と殴り続けてほしいのだ。
 だけどワタシのことを、物のように扱ってくれる男には出会えなかった。身勝手なセックスの方が、まだ燃えることができた。どうしてあんなに身勝手に腰をふることができるくせに、身勝手に殴り倒すことができないのだろうか……両者の間に、さほどの差があるようには思えない。

 その男と出会ったのは、男漁りに絶望を感じ始めていた頃だった。
 デザイナーだと名乗ったその男は、中年だったけど腹は出ていなかった。
「顔もアリなの?」
 ホテルに入りプレイの打ち合わせを始めると、すぐに男が訊いた。
「痕にならない程度なら……」
 答えると間髪いれずに、平手で頬を張られた。
「脱げ」
 床に転がるワタシを見くだして、冷たく男が言いはなつ。
 突然のできごとに唖然としてしまい、動くことができなかった。
「早くしろ!」
 身動きできずにいるワタシのお尻を、強く男がけりあげる。
 あわてて立ちあがり、震える指先でブラウスのボタンをはずした。震えているのは怖いからではなくて、もちろん期待に胸をふくらませてのことだ。
 全裸になったワタシをベッドサイドに立たせると、男の視線が舐めるように体中をはい回った。
「痣だらけだな……。まぁいい、動くなよ。俺が許可するまで一歩も動くな」
 そう言って正面に立つと、ワタシの左頬を平手で張った。部屋に乾いた音が響く。そして返す手の甲で右の頬を張る。またもや小気味のいい音が響く。口の中に血の味が広がる。唇の上にむずがゆさを感じて手をやろうとしたのだけど男に制された。壁の鏡を盗み見れば、両方の鼻の穴から血が流れていた。とっさに鼻をすすり上げると、ドロリとした鉄の匂いが喉の奥を流れ落ちていった。
 鼻の奥に生まれた金属的な痛みを味わっていると、眼前に男の顔が近づいていた。唇を重ねて普通のセックスになだれ込むのかと思って落胆していると、男の舌が鼻先をなめた。驚きに声を上げそうになったのだけれど、やはり男がきつく制した。
 男の舌が鼻の下をはって鼻血をなめとり、続いて鼻の穴へと挿しこまれる。器用にすぼめられた舌先は、まるでディープキスでもするかのように鼻の穴をまさぐっている。舌先が鼻の中でうごめくたび、グチョグチョとした湿り気の多い音が鼻腔の中で間抜けに響いた。鼻血はいまだ止まる気配がなく、男の唾液と混じり合って口元を汚し続けている。顎にたまった赤黒い液体が、糸を引きながら胸元へと落ちていった。
 鼻の穴の中を舐め回されるという初めての体験に、自分が何をされているのか判らなくなってしまう。唾液の匂いにまみれ、息苦しさを感じながら、目を閉じて奇妙な感覚に耐え続けた。