観覧車が鉄骨をきしませながら、おもむろに高台の斜面を転がり始める。百メートルの大車輪が木々をなぎ倒しながら轟音を上げる。
 キャプテンはなんと、その行く手に立ちはだかった。いくらキャプテンがデカいとはいえ、百メートルと二メートルでは勝ち目がない。
「潰されちゃうよ!」
 叫ぶアタシに向かって、キャプテンは親指を立ててニカッと笑った。口元に白い牙が光った……けれど、やっぱりどうにもキマらない。だってパンダだし。
 あと少しで潰されちゃう! 目を閉じそうになった瞬間、キャプテンが叫んだ。
堕天使の戦鎚(ルシファーズ・ハンマー)!」
 キャプテンと観覧車の間の空間がまばゆく輝いたかと思うと、長さ八十メートルのピコピコハンマーが現れた。巨大ピコハンはキャプテンの両腕でしっかりと支えられ、観覧車の行く手をさえぎっている。さすがはアタシの夢……スケールがデカい!
「いまだお! アイコ、観覧車を再構築だお!!」
「さ、再構築!?」
 何だ、何をどうすれば良いんだ!? 突然振られたって、何をすればいいか解らず慌ててしまう。
「制服を出した要領だお! 観覧車を思い描いて、高台の上に再構築するお!」
「無理だよ! アタシ、観覧車なんか乗ったことないもん!!」
「アイコは乗ったことがあるんだお、この観覧車に! アイコならできるお!!」
 観覧車になんか、乗ったことはないはずだ。そんな記憶なんて無い。それどころか、遊園地に来たことすら無いのだから。
 その時、キャプテンが食い止めている観覧車のゴンドラに、人影が見えた。すべてのゴンドラに人が乗っている。すべての人影が、同じ人のように見えた。
 母と子の親子連れだ。子供は五歳くらいの女の子だろうか。大変な事態になっていると言うのに、楽しげに窓の外を指差してはしゃいでいる。母親も女の子の指さす先を楽しそうに見つめている。
「もしかして……アタシ!?」
 そうだ、間違いない。
 パンダのぬいぐるみを抱いて、外を指さし笑っているのは幼い頃のアタシだ。そして一緒にいるのは若き日のママだ。もしかしてママが、アタシを遊園地に連れてきてた?
 疑問が頭をよぎった瞬間、記憶がよみがえった。一度だけ遊園地に連れてきてもらったことがある。夕暮れ時になってママが帰ろうと言うのに、帰りたくないってワガママを言って……そうだ、あのときママはワガママを聞いて、最後に観覧車に乗せてくれたんだ。
 茜色に染まる夕焼け空をみながら、ママと二人で観覧車に乗った……どうして忘れていたんだろう。
「ママ……」
 そうつぶやくと、知らぬ間に涙が頬をぬらしていた。
 頬をつたう涙が、夢の世界へとこぼれ落ちる。するとキャプテンが食い止めていた観覧車が闇に溶けるように消え、代わりに高台の上に壊れる前の観覧車が再構築されていく。
 観覧車が消えその場に残された夢喰バグの群は、ふたたび高台に現れた観覧車へ取り付いて鉄骨をかじり始めた。駄目だ、このままではまた観覧車がやられてしまう……。
「観覧車が! 観覧車がまた食べられちゃう!」
 涙声の叫びに、キャプテンが力強く応える。
「心配すんな! 最終奥義でキメるお!」
 なんだそれ。そんな技があるのなら、最初から使えっつーの!
「クールにキメるぜ!」
 叫んでキャプテンは、八十メートルのピコピコハンマーを大きく振りかぶる。
「大熊猫彗星打《メテオ・ストライク》!!」
 巨大なハンマーが観覧車を打ち、轟音が響き渡る。観覧車に取り付いていた夢喰バグは、衝撃で砕けて霧散していった。
 そして破壊されたものは、バグだけではなかった。観覧車に……いや、観覧車の在る空間自体に亀裂が入り、ボロボロと崩壊を始めている。ひび割れた空間の向こう側は光があふれるばかりで、様子をうかがうことができなかった。
「この技を使うと夢が強制終了するんだお。二度とココに来られなくなるんだお……」
 そう言うとキャプテンは、寂しそうに笑った。
「大切な記憶を思い出すことができた……アイコはもう大丈夫だお」
 八十メートルの巨大ピコハンを担いだキャプテンが、アタシに優しい笑顔を向けている。
 ハンマーが打ち砕いた空間を中心に、亀裂は遊園地中に走り、夢のあちこちで崩壊が始まっている。キャプテンとアタシの間にも、大きな亀裂が走る。
「お別れだお。無茶したから、現実に影響が出たらゴメンにょ」
 突然の別れに、何を言えば良いのか解らなかった。影響とか適当な仕事してるんじゃないわよと悪態をつきたい衝動に駆られたけど、そんな余裕なんてなさそう。
 だから一言だけ叫んだ。
「ありがとう!」
 アタシの言葉に、キャプテンが親指をピンッと立てる。ニカッと笑った口元に白い牙が光ったけれど、やっぱりどうにもキマらない。だってパンダだし。

     ◇

 朝日のまぶしさに目がさめる。カーテンの開け放たれたサッシから差し込む朝日が、アタシの顔を直撃している。
 覚めきらぬ目をこすりながら布団から這いだして、畳の上で伸びをする。早くに寝たはずなのに、体がだるい。寝汗でパジャマが、ぐっしょりと濡れていた。
 夢を見ていたような気がする。いつもなら見ていた夢を思い出すことなんてできないのに、今日はハッキリと憶えている。キャプテンがアタシの夢を……ううん、アタシを助けてくれたことを憶えている。夢を憶えているだなんて……これが強制終了の影響なんだろうか?
 天気が良い。窓の外を見て、まぶしさに目を細める。サッシを開けて部屋に新鮮な空気を取り込む。窓枠の歪んだサッシはガタピシと開くことを拒んだけど、それでも最後にはあきらめて全開になった。吹き込む風が気持ちいい。
 隣のキッチンに、人の気配がある。きっとママが帰ってきている。顔を合わせるのは、三日ぶりだろうか。
 部屋とキッチンを仕切るふすまを開けると、下着姿のママが険しい表情でスマートフォンをにらんでいた。アタシの顔をチラリと見やると、興味なさそうにまたスマートフォンに視線を戻した。くわえたタバコから、灰が落ちそうになっている。
「おはよう」
 アタシが挨拶すると、ママが驚いた表情で顔を上げた。
 呆気にとられた口元から火のついたタバコが床に転がる。慌てて拾い上げると、ママは飲みかけのチューハイの缶に放り込んだ。
 椅子に座り直して深い溜息をついたママは、不安げに見つめるアタシを見やった。
「お、おはよう……」
 そう言うとママは、照れくさそうに笑った。

(了)