7.

 その日以降、僕は通院の度に彼女の病室を訪れては創作について議論を交わしたり、宿題のように出し合った小説と絵を互いに交換し合って黙々と読む、あるいは眺めるといった、非常に独特な空気の親睦を彼女と深めるようになっていた。
「はい、お見舞い」
「あ、千隼くん。来てたんだ」
 ――あれから二週間が経った、二月の半ば 。
 あれだけ憂鬱だったリハビリが、今ではわりと楽しみなイベントのひとつになっている。そんな自覚を持ちながら、いつものように彼女の病室を訪れた僕。
 ベッド上でノートパソコンを叩いていた彼女に向かって、売店で買ってきた五百ミリの紙パックミルクティを袋ごと差し出すと、
「ありがとう。気を遣わなくていいのに」
 と、彼女は恐縮しながらも見舞い品を喜んで受け取り、ストローを差すと美味しそうにそれを啜った。どうやら彼女は、これが大の好物らしい。
「いつも見舞品のお菓子を分けてもらってるし。そのお返しみたいなもんだよ」
 一方でもっぱらレモンティ派の僕は、ベッド脇にある丸椅子に腰掛けて同じメーカーの紙パックアイスレモンティを啜りながら、パソコンや創作メモの書かれたボロボロの手帳を片付ける彼女をぼんやり眺める。
 別に大人しく待ってるつもりだし、キリのいいところまで僕に構わず執筆を続けてくれてもいいのにと思うけど、以前それを言ったら、人の気配があると集中できないから無理だと言われた。
 なんとなくわからないでもないが、僕は線画であれば見られていても描けてしまうので、その辺が絵と小説の違いなのかと思うことにしている。
 ふと、彼女が畳もうとしたノートパソコンの画面を見て、僕は飲んでいたレモンティを吹き出しかける。
「ぶっ」
「わっ。どうしたの?」
「いやちょっと待って。なんでパソコンのデスクトップ画面、僕が描いた絵になってるの」
「すごいでしょ。病院の売店のコピー機にスキャナー機能がついてることに気付いて、やってみたらできたんだ」
「いやいやいや。やり方はどうでもよくてさ、なんでその絵をトップ画面にしてるのかって話だよ」
 というのも、彼女が背景画面に設定しているのは、僕が一番最初に彼女のリクエストに答えて描いた『翼が生えた少女』の絵だった。
 二週間近く付き合ってみてわかったことだけれど、天使に始まり鳥、ペガサス、ドラゴン、ラドン、ヒッポグリフなど、どうやら彼女は『翼が生えた生物』が好きらしい。
 いや、だからといって僕の走り描きみたいな絵をパソコンの背景画像に設定されるのは、さすがにちょっと忍びない。
「だってこの絵、好きなんだもん」
「でもそれ鉛筆書きだしただの落書きみたいなもんだよ」
「落書きなんて、そんなことない。私はすごく気に入ってるし大好きな絵だよ」
 むすっとした顔で返してくる彼女があまりにも可愛くて、くっそーと思いながらも思わず目を逸らす。
「そう言ってくれるのは嬉しいけど、壁紙にするならもっとちゃんとしたの描いてくるのに……」
「『ちゃんとした』って、カラーの絵ってこと?」
「……」
 首を傾げられ、僕は閉口する。
 彼女は僕が色を塗れなくなった理由を知っている。創作をする上でどうしても隠しきることができない部分だったので、『以前活動していた時に誹謗中傷を受け、色が塗れなくなった』程度ではあるけれど、包み隠さずに話していたのだ。
「いや。カラーはまだちょっと無理……」
「そっか……。最初に会った時に塗ってくれた夕日の海の絵、あれはやっぱり、特別だったんだね」
「うん、まあ」
「あの色、今でもまだ目に焼き付いてる。すごく綺麗だったのになあ」
 彼女の何気ない呟きが僕の心に突き刺さる。
 何か上手い言葉で場をとりなしたかったけれど、相変わらず僕はそういった機転の効かない男だった。
 ただ無言で曖昧に苦笑していると、彼女は気を利かせたように口元を引き締め、目を細めて言った。
「いつかまた、色が塗れるようになるといいね」
「……ああ」
「ねえ」
「ん?」
「ゆっくりでいいから。千隼くんに自信がついて、もう一度色が塗れるようになって、それで……」
「……?」
「いつか私の書いた小説が本になるような日がきたら、表紙の絵は千隼くんが描いてね」
 柔らかい日差しが差し込む昼下がり、ふいをつくように言われたその言葉。
 目が合うと、彼女は息を呑むほど美しく優しい表情で微笑んでいた。
「なんで僕……」
「だめかな?」
「いや、ダメじゃないけど、でも……。この世には僕なんかよりもっと上手いプロの人がたくさんいるのに」
「私は千隼くんの絵がいいの」
「色を塗れる日が永遠に来なかったら?」
「千隼くんの白黒の絵を表紙にする」
「それじゃせっかくのデビュー作が地味になりすぎて爆死しちゃうよ」
「逆に目立って売れるかもしれないじゃない」
「そんなに甘くないと思うけどなあ」
「やってみないとわからないよ」
「それはそうだけど、そもそも表紙の絵って作家が決めるものなの?」
「うーん。それはわからない。だけど、編集者さんに千隼くんの絵がいいですってあらかじめ言っておく」
「雪谷さん……」
「何度でもいうけど、〝紬 〟でいいよ。私も千隼くんって呼んでるし」
「じゃあ、その、紬」
「うん、なあに?」
「紬って、見かけによらずめちゃくちゃ頑固だよね」
 正直に告げると、紬はややショックを受けたような顔をこちらに向けた。効果音つけるなら『ガーン』って感じ。
「よく……言われる……」
「おとなしいのに創作論になるとめちゃくちゃ熱く語るし、創作以外のことなら割とすぐに諦めて身を引くくせに、僕の絵のことについてだけはなぜかやたらと絶対譲らないし」
「だ、だって私、千隼くんの絵のファンだし、千隼くん、何かにつけてすぐ無理だって諦めようとするから……」
「自信がないんだよ。前にも話したと思うけどトラウマで思うように色が塗れないし、世の中には僕より上手い人だってたくさんいるから」
「でも、絵を描くことが好きだから、今も私の創作活動に付き合ってくれてるんでしょう?」
「それは、まあ」
「だったら、色が塗れないってだけの理由で夢を諦めるのはもったいないと思う。『今』できないだけで明日には塗れるようになるかもしれないし、『健康な体』があるなら、ダメ元でも失敗しながらでもいい。少しずつ、一歩ずつ、やれることから進めて、焦らず千隼くんのペースで色を取り戻していけばいいと思うの」
「……」
 それを病人である彼女に言われると、僕は弱い。
「それに、それにね……」
 それになんか、必死に僕を奮い立たせようとムキになって力説する彼女がすごく健気で愛らしく見えて。
「もういいよ、わかった」
「へ?」
「負けたよ。もし紬の小説が正式な本になる日がきたら、僕が表紙を描くって約束する」
「……!」
「ただ本当に、その時までにまた色が塗れるようになるとは限らないからね。最悪、どうしても無理だったらモノクロ絵で押し通すからそこだけは覚悟してよ」
「千隼くん……」
「紬の小説が書籍化する日が先か、僕が色を取り戻す日が先か、勝負ね」
 折れたようにそう告げて苦笑すると、彼女は嬉しそうに顔を輝かせて僕を見上げた。
「うん!」
「じゃあ、まずはこないだ話してた短編小説、もう少し練り直してから例の投稿サイトのミニコンテストに応募してみよう。結果出るの早いみたいだし、実力を知るにはちょうどいいんじゃないかな」
 本当は、ここまで誰かに自分の存在価値を認めてもらえたことや、自分の描いたイラストを必要とされたことが嬉しくて仕方なかっただけなのだけれど、気恥ずかしさやちゃんと僕にできるんだろうかという不安な気持ちが入り混じり、うまく表情や言葉には出せなかった。
「わ、わかった……。ちょっと自信ないけどやってみる」
「OK。あとついでに、やっぱりそのデスクトップ画面、僕の絵にするのはナシでいこう」
「それは無理」
「頑固だな……」
 今まで散々自分の弱さから逃げてきた自分。せめて彼女の前でだけは強がって見せたくて、不安を垣間みせないよう精一杯明るい声色で振る舞うと、紬は朗らかな顔で笑っていた。
(まあ、そんなに簡単に書籍化なんてできないしね……)
 彼女は『余命三ヶ月』だなんていうけれど、嬉しそうに笑ってるし、顔色も良さそうだし、何よりこれが励みとなって少しでも病状がよくなってもらえるなら、約束通り本気でプロを目指すのも悪くないな……なんて。
 ひどく呑気に、この時の僕はそんなことを思っていたのだ。