4.

 リハビリが終わって廊下へ出ると、先ほどの病院着姿の彼女が、ソワソワした様子で誰かを待っていた。
「あ……」
(あれ……)
 目が合えば、彼女は長い髪の毛を靡かせてこちらへパタパタと駆け寄ってくる。
 やはり見間違いでも自惚れでもなく、僕のことを待っていたようだ。
 彼女は僕の目前までやってくると、息を整えるよう小さな深呼吸をしてから、こちらを見上げた。
「あの、えっと。さっきはありがとう」
「あ、いや。別に礼を言われるほどのことは……」
「ううん。本当にすごく助かったの。私、その。実は脳の病気で『色』が見えなくて」
「……!」
「でも、それを言ったらみんなに心配されちゃうでしょう? だからずっと内緒にしてて。ユイちゃんに色を塗って欲しいって頼まれたとき、きちんと断るか正直に話せばよかったんだけど、ものすごく期待された目で頼まれちゃったからどうしても断れなくて……」
 彼女の説明を聞き、ようやく腑に落ちる僕。
 どうりでおかしいと思った。いや、それが日常である彼女に向かって『おかしい』だなんていったら失礼なのかもしれないけれど。
 不可解に思っていた彼女の言動にようやく納得がいったと同時に、なんだか不思議な気持ちにもなっていた。
 僕の世界にも、今は『色』がない。
 かつて〝イラストレーター〟になることを目指していた僕は、あることがきっかけで〝カラーセンス〟についていわれなき誹謗中傷を受けて以来、ショックと、悲しみと、当てどころのない憤りとトラウマで、色が塗れなくなってしまったのだ。
「そういうことだったんだ……」
 いずれにしても――。
 病気で色が見えない彼女と、トラウマで色を失っている僕。
 そんな二人が、この広い世界の中で偶然出会うだなんて。
「うん。情けない話だよね。だから、あなたが代わりに色を塗ってくれたとき本当に助かったの。ユイちゃんもすごく喜んでくれてたし、それに、あの色……」
「い、いや、僕はちょっと色を重ねてなんとなく塗りつぶしただけだから」
「でも――」
 自分と似た境遇にある存在と遭遇できたことは、どこか安堵感みたいなものを覚えて心強さを覚えたりもしたけれど、正直、僕はまだ彼女の口から自分の塗り絵の評価を聞くのが怖かった。だから……。
「そ、それよりもさ。あの男の子が言ってた『余命』ってのは……本当なの?」
 ついうっかり、最低な話の遮り方をしてしまった。
「……」
「あ、いや……言いたくないならいいんだけども……」
 慌ててフォローを入れたが、思いの外彼女から重い沈黙が返ってきて僕はつくづく自分が最低な男だと嫌悪する。
 たぶん僕は、あの少年が口走った『余命三ヶ月』という言葉を、まだ受け入れきれていなかったんだと思う。
 だって。目の前にいるのは僕と同じ高校生くらいの女の子だったし。
 ずいぶん華奢で妙に色白なことさえ除けば、髪の毛は滑らかのサラサラで肌だってつやつしてるし、彼女が纏う美少女オーラは俗にいう『クラスや学校中の男子から注目を集める人気女子』みたいな空気をひしひしと醸し出していて、そういう恵まれて見える子が〝死〟に直面しているだなんて到底思えなかったから。
 だからてっきり、笑い飛ばして否定してくれるものだとばかり思っていた。
「うん。本当だよ」
 ――でも、返ってきたのは穏やかな笑みと、嘘偽りのないその一言で。
 僕は、思いのほかこの世は非情と無情で満ち溢れているものなんだということを思い知らされた気がした。
「そう、なんだ……」
 真実を目の前に突きつけられても、僕は未だにそれを現実として受け入れられはしなかったが、でもだからといってその理不尽さを本人にぶつけても仕方がないし、物分かりの悪さを曝け出すのも気が引けたので、結局僕は、なんとなくわかった風の返事をこぼす。
「それは大変……だね」
「びっくりさせちゃってごめんね。初対面なのにこんな話聞かされてもって感じだよね」
 他にかける言葉が見つからなくてもごもご口篭っていると、彼女の方が僕に気を遣ってくれたようだった。
「いや、それは別に……」
「大丈夫、気にしないで。昨日今日でわかったことでもないし、小さい頃からいつ死んでもおかしくないって言われながら育ってきたぐらいだから。だから……もうそこまで気にしてないっていうか」
「……」
「気にして生きてても寿命が伸びるわけじゃないから。だったら気にするより前を向いて生きていた方が人生お得でしょ?」
 まるで死に向かっているだなんて思わせないような、凛とした声色と表情で健気にそう告げてくれる彼女。
「だからあなたも、いつも通り普通に接してくれていいよ。その方が私も気が楽だし」
「……そっか」
 ここまで気丈に振る舞ってくれているのに、それでも困惑顔を押し通すほど僕も無神経ではない。
 表面上は納得して見せ、普段通りの自分を装う。そして僕は何食わぬ顔で「元気そうに見えるのに意外だよね」などと実に実のない相槌を打ちながら、手に持っていたスクールバッグを肩にかけ直した。
 それを見た彼女が、明るく話題を変えるように切り出してくる。
「あ、ねえ。それよりさ。君が着てるのって、花坂北高の制服だよね? あなたはそこの学生?」
 ふいに問われ、僕は目を瞬く。
「え? うん、まあ」
「やっぱり。私と一緒だ」
「君も?」
「うん。入退院を繰り返しているからまともには通えてないんだけどね。でも、単位だけはなんとかクリアしてるし、学校側もその辺は配慮してくれてるから、春からは無事に二年生になれるはずなの」
「まじか。学年まで一緒とか」
「あなたも春から二年生?」
「うん。そう」
「そっか。すごい奇遇だね」
 どことなく嬉しそうな声色で、ほのかに頬を染める彼女。
「私、雪谷紬。もし学校で会ったらよろしくね」
 控えめな声でそう告げてくる彼女に、僕も慌てて名乗り返す。
「あ、うん。僕は小鳥遊千隼。こちらこそよろしく」
 年頃の僕たちは握手を交わしてスキンシップをはかるようなことはなかったが、目が合えば、彼女はまるで花が開いたように笑った。
 その笑顔を見て、僕は思わずどきりとしてしまったし、彼女のことを素直に『可愛い』と思ってしまったりもして……。
 なんだかちょっと顔が熱くなったので照れを隠すようにそっぽを向いていると、彼女はさらに興味津々といった感じで尋ねてきた。
「千隼くんは足を怪我したの?」
「うん。新歓イベントの練習でちょっとしくじっちゃって」
 そう答えると、彼女は首を捻った。学校は同じといえど休みがちだったと先ほど言っていたし、おそらく一年の時、彼女はそのイベントに不参加だったのだろう。僕はふと、鞄の中に『新歓の暫定予定表』が入れっぱなしになっていたことを思い出し、それを見せながら説明しようと、鞄の中に腕を突っ込んでそれを取り出そうとした――のだが。
「あ」
 紙がノートに引っかかってうまく引き上げられず、うっかり一冊のノートを床に落としてしまった。
「……」
 あろうことかそれは、僕の落書きが詰まった数学のノート。
 とはいえ、偶然開かれたページに書かれた数式はたったの二行で、あとは全て謎のポーズの人物像だったり、窓の外にとまっていた雀だったり、特に意味のない手の形のデッサンなんかで埋め尽くされていた。
「わ……!」
 しまった、と思った時にはすでにノートは拾われており、彼女は手の中の数学ノートを食い入るように見つめていて、ドッと汗が吹き出た。
「すごい……。千隼くん、色の塗り方がすごく手慣れてると思ってたけど、やっぱり色塗りだけじゃなくて、絵も上手だったんだね」
「……っ」
 どちらかというと好意的に聞こえたその一言。
 褒めてくれているのだろう。そうであるならもちろん嬉しいけれど、でも、なんだか気恥ずかしいし、どうしても素直になれなくて、僕は慌てて彼女の手の中から無言でノートをひったくる。
 まずい。顔が熱い。セルフフォローしようにもうまく誤魔化せそうな言葉が見つからない。
 押し黙る僕を見て、彼女は場をとりなすよう沈黙を破った。
「って、勝手に見ちゃってごめん。えと、その……実は私も小説を書いてて」
「え?」
「なっ、内緒だよ? 下手だからあまり自信なくて、まだ誰にも言えてない秘密の趣味なんだけど……。ほら、私、色が見えないじゃない? でも、文字だったらどんな色を描いたって自由だし、体が弱くて思うように外出ができなくても、小説の中でだったらどんな場所にだって行けるし、自由に生きることができるから」
「……」
「あの、だからなんだって言われれば困るんだけど、絵も小説も、『創作』っていう意味では同じだし、なんだか『仲間』を見つけたみたいで嬉しくて。だから、つい、その……」
 ほのかに頬を赤らめながらも、一生懸命自分の気持ちを説明しようとしている健気な彼女を見て、僕は妙に心を絆された。
 きっと、彼女も彼女なりに思い切って告白してくれたんだろうなって、伝わったから。
 だから僕も、いつまでも女々しく押し黙るのはやめようと思った。
「まあ、確かに……いかにも小説書いてそうな顔してるよね」
「えっ、そう?」
「うん。本とか好きそう」
「好きだよ。体弱いからそれぐらいしか趣味なくて」
「そか。小説家……目指してるの?」
「遠い夢だよ。なれればいいなとは思うけど、そんなに簡単になれるわけがないと思ってる」
 どこか儚げな表情で呟く彼女。困難だと思う理由の一つに『余命』という言葉が影響しているのだろうか。
 聞きたい気もしたけれど、もちろんそんなこと聞けるはずがない。
「そう……って言っても、実際に読んでみないと君の実力がわからないからなんともいえないな。僕、しばらくリハビリでこの病院に通うし、もしまた次に会えそうなら、その時に読ませてよ」
「へっ⁉︎ いやでも、それはちょっと恥ずかしい、かも」
「僕の落書きみたんだし、それでオアイコでしょ」
 本気で恥ずかしそうに言う彼女があまりにも可愛くて、つい意地悪く言ってしまった。
 素直すぎる彼女は撃沈したように「うぅ」と唸った後、ふと思いついたように、僕を見上げた。
「そうだ。なら、交換条件」
「うん?」
「私も千隼くんの描いた絵がもっと見たい」
 頬を染めたまま、瞳を輝かせてそんなことを言い出す彼女。
 もちろん僕は面食らい、内心でウッと呻いた。
「い、いや。僕は別に、絵描きを目指してるわけじゃないから」
「うそ? 上手なのにもったいないよ。漫画家とか、興味はないの?」
「話を考えるのが苦手だから、漫画家は無理だと思ってる。でも、イラストレーターなら確かになりたいと思ってた時期があった」
「!」
 普段なら絶対に口にしないであろう本音をポロリとこぼす僕。
 もしも彼女が、僕に『余命』の件や、『小説家になりたい』といった、だいぶ込み入った秘密話を曝け出していなければ、僕はきっと自分のことも話さなかったと思う。
 彼女がきちんと僕にぶつかってきてくれたから、僕もぶつかってみたくなったっていうか。本当にただそれだけのことだったんだけれど、思いの外彼女は感心するような表情で僕を見上げていた。
「イラストレーター……」
「僕も本を読むのが好きだから。自分の好きな小説の表紙とか挿絵とか、そういうのが描けたらいいなって、昔は結構憧れてて」
「――いいと思う」
「へ?」
「絵、すごく上手だと思ったし、千隼くんならなれるよ絶対」
「いや、もうすでに諦めてる夢だし、僕ぐらいの画力ならゴロゴロいるよ」
「そんなことない。……ほら、私さ、病気で色が見えないって話したじゃない? でも、さっき千隼くんが塗ってくれた夕焼けの海の絵は、なぜかね、うっすらとだけど色づいて見えた気がしたの」
「え? それ、本当?」
「うん。もしかしたらそんな気がしただけかもしれないけど。でも、昔にも一度だけ似たようなことがあってね、きっと……心の問題っていうか。淀んだ世界で本心から綺麗だと思える物に出会えたから、その時は色づいて見えたんじゃないかって、なんとなくだけどそんな気がしてて……」
「……」
「だからお世辞なんかじゃない。あんなに綺麗な夕焼けの海を表現できる千隼くんなら、本気でプロを目指せるんじゃないかって、そう思うの」
 真剣な眼差しでそう訴えてくる彼女。
 その強い眼差しと実感のこもった言葉には、嘘偽りはないように思えた。
 僕は唇をかみしめて視線を伏せる。
 素直に喜びたい気持ちと、過去のトラウマに支配されて滅入る気持ち。
 どちらが勝るかといえば当然後者で、僕は彼女の言葉に浮かされることなく冷静な声で告げた。
「気持ちは嬉しいよ。でもホント、僕程度じゃ通用しないような厳しい世界だってわかってるから、あんまり期待しないで」
「千隼くん……」
「まあ、その話は別にしても、交換条件ってことなら文句はないし、何かリクエストがあるなら次回までに何か描いて持ってくるよ。鉛筆書きの線画でよければ、だけど」
 僕は逃げるように話題を引き戻し、そんな軽はずみなことを申し出る。
 彼女をがっかりさせないよう、僕ができるせめてもの提案だ。
 彼女は一瞬残念そうにしながらも、気持ちを切り替えたように微笑んで頷き、じゃあ、と、『翼の生えた少女の絵』をリクエストしてきた。
 さすがは創作家を自称するだけあって想像力豊かな乙女らしい要望だ。上手く描けるかはわからないけれど、たしか以前、クリスマスの時に一回だけ英太にも同じようなリクエストを受けて天使の絵を描いたことがあり、なんだかんだで上手く描けた気がしたので、今回もきっと大丈夫だろう。
 僕は了承し、じゃあまたと、次もまた彼女に会えるだろうという淡い期待に胸を弾ませながら、その場を立ち去ろうとした。
「ねえ千隼くん」
 行きかけた僕を、彼女の声が引き止める。
「……ん?」
「千隼くんは絵を描くことは好き?」
 別れ際に放たれた質問に、僕の全身がどくん、と脈を打つ。
 かつてのトラウマが胸を締め付け、僕は返事に窮した。
「……」
 もう傷つきたくないという防衛本能が自身の正直な気持ちに蓋をして、結局、否定も肯定もできないまま、ただ静かに苦笑して誤魔化した。
 そうして僕はそのまま彼女と別れ、病院を後にした。