9.
 
(紬はいったいどんなストーリーを描きたかったんだろう)
 考えると少しわくわくしてきたし、やはり紬の頭の中をこっそり覗き見しているようで、手帳を持つ手に妙な緊張が走った。
 ごくりと喉を鳴らし、意を決してページを捲る。
 冒頭には、弱々しい筆跡でざっくりとした主要人物の紹介が書き殴られていて、僕はそれを順番に目で追った。
(これ……)
 主人公の少年は、天才的な絵の才能を持ちながらもひょんなことから自信を消失してしまい絵が描けなくなってしまった画家の卵・チハ。
 これは間違いなく僕。
 ヒロインである色盲の天使・ムギは、九十日間しか下界にいることができないという特殊なファンタジー設定を持った少女。
 これは言わずもがな紬だ。
 実際に僕と彼女が過ごしたのは八十八日間で多少日数のずれはあるにせよ、余命三ヶ月を告げられた彼女の境遇に酷似している。
 チハにムギ。千隼に紬。
 名前の後ろに一応〝仮名〟と付けられてはいるが、添えられた簡易イラストも誤魔化しようがないほど似ているし、これは紛れもなく僕であり紬だった。
 そこに綴られたプロットによれば、二人ははじめ、お互いに心に闇を抱えて孤独な世界を生きていた。しかし偶然出会い、夢を共有して手を取り合ったことによって、二人の人生が輝きを取り戻し始めるのだという。
【病院】【図書館】【水族館】【日常】【遊園地】【学校】――。
 出会いの【病院】では、ムギがピンチを救ってくれたチハに一目惚れをしてしまったり。
 再会したチハと夢を語らい、結託して〝魔法の玉〟を探しにいく約束を交わしたり。
 魔法の【図書館】では、過去の回想をすることで絆を深めたり、種族の差を感じながらも、ムギがチハへの恋情を深めたり。
 神秘の【水族館】では、宝箱からお揃いのクラゲのキーホルダーをゲットしたり、ミルク好きのムギがチハの影響でレモン好きに変わるイベントが発生したり、狸寝入りをして、束の間の急接近に胸をときめかせたり。
 何気ない【日常】で、チハへの愛情が膨れ上がりすぎてしまったムギは、天上界へ帰ることへの葛藤を抱えてしまったり、刻一刻と迫る期限を前に、予定より早く連れ戻しにやってきた両親に対し強く当たってしまい、それを後悔したり。
 落ち込むムギを慰めようと、チハは幻想の【遊園地】に彼女を誘い出す。
 幻想の【遊園地】では、二人がそこに棲まうヌシにもふもふの珍獣になる呪いをかけられてしまい、呪いを解くためにゴーストタウンで試練を潜り抜けたり、ハプニングから二人が急接近したり、クライマックスではチハからの思わぬプレゼントによってムギが喜びのあまり泣いてしまったり。
 その後――、チハが冒険の途中で【学校】に立ち寄るというので、それにムギもついていく……といった展開が仄めかされたところで、詳細な記述は終わっていた。
 おそらく紬本人が、その続きを書けないまま天上界へ帰ってしまったからだろう。
 最終的にはムギが〝魔法の玉〟を手に入れて〝色〟を取り戻し、チハへの未練――天上界の禁忌により告白することができないという最大の未練だ――を残したまま天上界へ帰る予定となっているらしいことだけは大まかにメモされていたが、詳細は不明のまま、いわば未完の状態となっている。
 小説のプロット、というよりは実話を元にした創作と日記のハイブリットに近い。
『チハは弱虫だし自分には向いていないと口癖のようにいうけど、ムギにとってチハは間違いなく唯一無二のヒーロー。チハはムギの夢を叶え、たくさんの幸せをくれた大切な存在。ムギは、チハが大好き。二人が別れた後も二人の絆は残る。チハは悲しみを乗り越えて夢を叶え、最後は必ず、チハ自身が幸せを手に入れる』
 それが手帳の最後に記された一文だった。
「……」
 狸寝入りとか。
 もふもふの珍獣とか。
 ゴーストタウンとか。
 唯一無二のヒーローとか。
「なに可愛いこと書いてんだよ……」 
 ――そこには、チハへの〝好き〟と、幸せだったムギの八十八日間が、これでもかと溢れんばかりに綴られていた。
 紬の笑顔を思い出し、僕は溢れ出して止まらない涙を腕で拭う。
 死を前にした彼女には辛いことだっていっぱいあったはずだ。
 それなのになぜこの物語が幸せなエピソードばかりで埋め尽くされているのか。
 僕にはわかる。優しい彼女はきっと、これを読んだ僕に、この作品が本になった時に出会う読者全てに、悲しい気持ちではなく幸せな気持ちになって欲しかったから、こんなにも明るく幸せなエピソードで溢れているのだろうと。
「……」
 長らくの沈黙の後、僕は立ち上がる。
 これは、紬に託された僕たちの物語だ。
 この作品まで死なせるわけにはいかない。
 未完では絶対に終わらせない――。
 僕は手帳を胸に抱えたままベッドから飛び降り、デスクに腰をかけると何日振りかもわからないタブレットや作業道具を広げる。
(待ってて、紬。必ず叶えてみせるから)

 ――そうして僕は、その日から再び前だけを向いて創作活動に没頭し続けた。
 SNSで冷やかされたり馬鹿にされても構わない。
 学校で浅間に会って嫌味を言われても決して屈することはなかったし、次々とコンテストに作品を送って幾度となく『落選』の現実を叩きつけられても、もう怯まなかった。
 僕は血の通った目で自分の創作と向き合い続け、迷うことなく突き進む。
 絶対に諦めない。
 いつの日かきっと僕たちの物語が世界中に届くと、そう信じて――。