8.

 六月末日。
 紬が死んで一ヶ月以上が経ったその日、僕は自宅自室のベッドに腰をかけたまま、ただぼんやり窓の外の雨を眺めていた。
「……」
 爽やかだった五月の陽気はいつの間にかじめじめした梅雨の季節に移行しており、その日も朝から土砂降りの雨が降っていた。
 昼を過ぎても外の雨が止む気配はない。ここしばらくすっきりと晴れ上がらない雨模様の空は、まるで僕の心の中を映し出しているかのようで妙に親近感を覚えている。
 あれから僕は、自分がどのように今日までの日々を過ごしてきたのかよく覚えていない。
 紬のお通夜や告別式、そして四十九日にだってきちんと参列したし、学校にも休まず登校。そのいずれにおいても僕はいつも以上の平静さを保っており、逆に周囲から心配されたほどだ。
 話しかけられれば普通に答えるし、気を遣って洒落でも言われようものならちゃんと愛想笑いを浮かべて返す。涙はすでに枯れ果てていたから、隠れてめそめそ泣くようなこともなかった。
 悲しくないわけじゃない。ただ――。
 虚無だった。何もかも。
 心にポッカリ穴が空いたように、ただ時間と日々だけが砂のように流れて落ちていく。
 もちろん紬との約束を果たそうと思って何度もイラストを描こうとしたけれど、どうしても筆が進まなかった。
 僕がイラストを描いたところで、一番に見せたい相手は……紬は、もういない。
 そのことが僕のせめてもの創作意欲を粉々に打ち砕いていたのだが、それでも僕は彼女との約束を反故にしたくなくて、苦しんで、もがき続けて。
 結局、今日までの日々を何もできないまま無駄に過ごしてしまった。
 まるで生きる屍のようだと自覚しながらも、それでも何かをする気力が持てずに無心で窓の外を眺めていると、ふと、今日は以前――面会謝絶中で紬に会えなかった期間――に、勢いで応募したイラストコンテストの結果発表日であることを思い出した。
 僕は緩慢な動きで手元に転がっていたスマホを持ち上げて画面をタップする。
 コンテストの掲載サイトを表示すると、『第七回イラストコンテスト結果発表』のバナーが真っ先に視界に飛び込んできた。
 応募作はグレースケールのみで描いた絵だったはず。どうせ入選するはずがないだろう、という自虐的な気持ちと、『でももしかしたら』という少しばかりの期待が入り混じる。煩悩に弄ばれながら、僕はそのバナーをタップした。
「……」
 結果は落選。
 何度リストを読み返してもそこに自分のペンネームは載っておらず、かなりの数の受賞作が出ているというのに、僕の作品は佳作や奨励賞にかすりもしていなかった。
(落選、か……)
 僕は持っていたスマホをその場に転がし、深く息を吐き出しながら目を瞑る。
 目の前が真っ暗になって、辛うじて保っていた創作意欲が、一気に崩壊した気分だった。
 もうボロボロだ。
 せっかく『色の世界』を取り戻したというのに、僕はまた、弱虫でダメな自分に戻ろうとしている。
(紬……)
 寂しい。会いたい。苦しい――。
 希望が何も見えなくて、真っ暗な未来だけが自分の中に広がっていく。
 紬の顔を思い浮かべて感傷に浸っていると、ふと死の間際に聞いた彼女の声が脳裏に蘇った。
『千隼くんの絵、大好き』
『それから、千隼くんのことも……』
 せめてあの言葉の続きが聞けていれば、少しは頑張れたかもしれないのに。
 僕は力なく倒れ込むように、ベッドにボスっと転がろうとした――そのとき。
 脇にある本棚に体がぶつかり、その振動で中途半端に収納されていた『あるもの』が、僕の頭上目掛けて勢いよくドスっと降ってきた。
「いでっ」
 短い悲鳴を上げながら、僕は涙目で自分の脇に転がったソレを見る。
 紬の手帳だ。
 不甲斐ない僕にまるで喝を入れるように降ってきたソレは、紬から――厳密には紬の両親から正式に――譲り受けていたものだ。
 その手帳には創作に関するメモしか書かれていないようで、紬はかねてから自分の死後この手帳は僕にと、両親に口酸っぱく言い聞かせていたらしい。
 僕自身、その手帳について存在は知っていたし、彼女がことあるごとに創作のメモを書き溜めていたことや、その手帳を大切にしていたことも知っている。
 だが、中身を見たことは一度もなかった。
 僕はいつも、この手帳に書き溜められたプロットを実際に小説化した原稿データの形で彼女とやりとりをしていたし、新作の話をするときは、この手帳に書き綴られたメモを彼女の口頭から聞かされるか、あるいはそれを手書きしたメモ用紙、あるいは文章データで渡されていたような状態だったから、実際に手帳の中身を見る機会がなかったのだ。
 本人もプロットのメモを見られるのは自分の脳みそを覗かれているようで恥ずかしいし、殴り書きが多く字も汚いからと頑なに見せてはくれなかった。
 なんとなくその気持ちもわからなくはないので、無理に中を確認することもなかったし、彼女の死後、手帳を譲り受けたはいいが、どうにも彼女への遠慮が働いてしまって今日までその手帳を開くこともできずにいたというわけだ。
(これは……読め、ってことか?)
 都合よく解釈して、僕は額をさすりながら手帳を持ち上げる。
 彼女が長年愛用し、たくさんのプロットを綴ってきただけのことはあり、それなりの重みがある。
 僕は手帳の表紙をひと撫ですると、パラパラと中をめくった。
 今まで僕が読んできた短編、中編、長編小説のタイトルと共に、設定やストーリーのメモなどが併記されている。
 懐かしさと、感慨深さで食い入るように文字を追う僕。
 この作品の内側にはこういう思いがあったのか……とか、この作品は読んだけどこっちの作品は読んだことないな、どこかにデータがあるのかな……とか、タイトルごとにそれぞれの思いを馳せていると、やがて見覚えのある作品タイトルが目が留まった。

『君と僕の世界に色が灯るまでの九十日間』

 僕がイラストを描いた、新作のプロットだ。
 僕はこの作品について、大まかな内容しか聞いていない。
 主人公はとある村に住む弱虫な少年で、頼りないが心優しい。
 ヒロインは色盲の天使で、色が見えるようになる〝魔法の玉〟を探し求めて下界に降りてきた、という設定。ひょんなことからそんな二人が出会い、手を取り合って〝魔法の玉〟を探しに世界中を旅するファンタジー物語だと聞いている。
 おそらく、実際に色が見えない彼女自身の経験をヒロインに落とし込んで、理想を盛り込んだ世界で自由に冒険する話なのだろうと勝手に推測していたのだが――。