7.
僕のカラーイラストを見つめたまま、大粒の涙を流す紬。
そんなにまじまじと見つめられると、なんだかちょっと恥ずかしい。
僕はぽりぽりと頬をかきながら口早にその沈黙を破った。
「えっと、その。来年の誕生日までにはって約束だったけど、紬が頑張ってるのを見たら僕ももっと頑張らなきゃって思ってさ。一念発起して頑張ったっていうか……」
「……」
「それで、まだ完璧には塗れていないし、ブラッシュアップも足りてないんだけど……でも、自分の中ではなかなか僕らしい色が出せたかなって気がしてて。あ、もちろん、カラーじゃよくわからないからモノクロの方がいいって言われた時のために、この絵の線画やグレースケールだけの画像もあって……」
「綺麗……」
ぽつんと落とされた呟きに、僕は一瞬、動きを止める。
「え?」
「本当に綺麗。夢みたい」
「待って。色、見えるの……?」
僕の問いかけに、彼女は画面から静かに視線を剥がす。そして、困惑している僕をまじまじと見上げてからぽろぽろと涙をこぼし、満面の笑みで頷く。
「うん」
「うそ……」
「ウソじゃないよ。ここは緑……こっちは赤……ここは黄色のグラデーション。ちゃんと、見えてる」
細い指で示された箇所にはたしかに彼女の答えた通りの色が塗られていて、僕は唖然とする。
「なんで……」
「この絵が、心から綺麗だと思うから」
いつか、紬が教えてくれた。
『昔にも一度だけ似たようなことがあってね、きっと……心の問題っていうか。淀んだ世界で本心から綺麗だと思える物に出会えたから、その時は色づいて見えたんじゃないかって』
――と。
結局それは過去に僕が描いた絵だと知るのには少し時間がかかったけれど、でも、あの時のことを思い出させるように、紬ははっきりとした口調で告げる。
「繊細で……温かくて……やさしい」
「……」
「よく、がんばったね。私にとってこの絵は、世界で一番、素敵な絵だよ」
紬の言葉が僕の心の芯まで響いた時、気がつけば僕は、涙を垂れ流して泣いていた。
それまで抱えていた心の傷がふっと和らいだような、まるで過去の呪縛から解き放たれたように、自分の中が無限の〝色〟で満たされていくのを感じた。
「泣いてる」
「泣いてない」
「涙でてるよ」
「これは汗だよ」
「ずいぶん汗っかきな目なんだね……」
僕の苦しい言い訳に紬は僅かな笑みをこぼし、それ以上は言及することなく震える手で画面に触れる。
細い指で確かめるよう色に触れ、しっかり目に焼き付けて心に刻むよう、色のついた世界を隅々まで丁寧になぞっていく。
「わたし、千隼くんの色、すごく好き」
「……ありがとう」
「この最高傑作、何かのコンテスト、出してね」
「それは紬の小説の表紙用だから」
「それじゃ、もったいない……」
「いいんだ。それに、まだ最高と呼ぶには早いよ。これからもっとブラッシュアップして、色の塗り方や見せ方も研究して、もっともっと完璧なカラーに仕上げる。それで、いつか絶対プロになって浅間にぎゃふんと言わせてやるから。楽しみにしてて」
僕は紬に向かって、不安を微塵も感じさせない強気な笑みを浮かべる。
すると彼女は、ぽろぽろと涙をこぼしながらも健気に笑っていた。
「そっか……楽しみにしてる」
その笑顔は、僕が紬と出会い、共に過ごした中で最も幸せそうな顔だったと思う。
「千隼くんの絵も……色も……本当に大好きだよ」
「ん。ありがと」
「それから、千隼くんのことも……」
「え?」
「……なんでもない」
「いや、今なんか言いかけたでしょ」
「千隼くんの絵で、たくさんの人が幸せになったらいいなって」
「あ、ごまかした」
「私……今すごく幸せ。だから……千早くんも、幸せになってね」
「紬……?」
「やくそく」
優しく微笑みながら、白くて細い小指をそっと立てる紬。
「……ん」
僕は、彼女を安心させるように笑顔でその小指を握った。
それが、僕たちの交わした最後の笑顔と言葉となる。
「それはそれとして、さっきの話の続き、気になるんだけど」
「……」
「『それから、千隼くんのことも……』の続き」
「……」
「……紬?」
僕が小指を離すと、紬の手はベッドの上に力なく垂れた。
彼女の持っていたタブレットが倒れて、ポスンと胸元に埋まる。
まるで紬が、絵を抱きしめているみたいだった。
「紬……」
返事はない。
紬は安らかな顔で眠っている。
きっと、もう二度と彼女が目を覚ますことはないだろう。
漠然とそんな予感がした。
(紬――)
よく頑張ったのは、彼女の方だ。
彼女の手に自分の手を重ね、僕はただ静かに嗚咽を漏らす。
ほどなくして外で待機していたおじさんやおばさん、担当医の先生がやってきて周囲は少し慌ただしくなったけれど、僕の想定していた通り、昏睡状態に入った紬が再び目を覚ますことはなかった。
そうして約一時間後――。
家族、担当医、そして偶然居合わせた僕に見守られながら、紬は書きかけの新作を完結させることがないまま、眠るよう穏やかに息を引き取ったのだった。
僕のカラーイラストを見つめたまま、大粒の涙を流す紬。
そんなにまじまじと見つめられると、なんだかちょっと恥ずかしい。
僕はぽりぽりと頬をかきながら口早にその沈黙を破った。
「えっと、その。来年の誕生日までにはって約束だったけど、紬が頑張ってるのを見たら僕ももっと頑張らなきゃって思ってさ。一念発起して頑張ったっていうか……」
「……」
「それで、まだ完璧には塗れていないし、ブラッシュアップも足りてないんだけど……でも、自分の中ではなかなか僕らしい色が出せたかなって気がしてて。あ、もちろん、カラーじゃよくわからないからモノクロの方がいいって言われた時のために、この絵の線画やグレースケールだけの画像もあって……」
「綺麗……」
ぽつんと落とされた呟きに、僕は一瞬、動きを止める。
「え?」
「本当に綺麗。夢みたい」
「待って。色、見えるの……?」
僕の問いかけに、彼女は画面から静かに視線を剥がす。そして、困惑している僕をまじまじと見上げてからぽろぽろと涙をこぼし、満面の笑みで頷く。
「うん」
「うそ……」
「ウソじゃないよ。ここは緑……こっちは赤……ここは黄色のグラデーション。ちゃんと、見えてる」
細い指で示された箇所にはたしかに彼女の答えた通りの色が塗られていて、僕は唖然とする。
「なんで……」
「この絵が、心から綺麗だと思うから」
いつか、紬が教えてくれた。
『昔にも一度だけ似たようなことがあってね、きっと……心の問題っていうか。淀んだ世界で本心から綺麗だと思える物に出会えたから、その時は色づいて見えたんじゃないかって』
――と。
結局それは過去に僕が描いた絵だと知るのには少し時間がかかったけれど、でも、あの時のことを思い出させるように、紬ははっきりとした口調で告げる。
「繊細で……温かくて……やさしい」
「……」
「よく、がんばったね。私にとってこの絵は、世界で一番、素敵な絵だよ」
紬の言葉が僕の心の芯まで響いた時、気がつけば僕は、涙を垂れ流して泣いていた。
それまで抱えていた心の傷がふっと和らいだような、まるで過去の呪縛から解き放たれたように、自分の中が無限の〝色〟で満たされていくのを感じた。
「泣いてる」
「泣いてない」
「涙でてるよ」
「これは汗だよ」
「ずいぶん汗っかきな目なんだね……」
僕の苦しい言い訳に紬は僅かな笑みをこぼし、それ以上は言及することなく震える手で画面に触れる。
細い指で確かめるよう色に触れ、しっかり目に焼き付けて心に刻むよう、色のついた世界を隅々まで丁寧になぞっていく。
「わたし、千隼くんの色、すごく好き」
「……ありがとう」
「この最高傑作、何かのコンテスト、出してね」
「それは紬の小説の表紙用だから」
「それじゃ、もったいない……」
「いいんだ。それに、まだ最高と呼ぶには早いよ。これからもっとブラッシュアップして、色の塗り方や見せ方も研究して、もっともっと完璧なカラーに仕上げる。それで、いつか絶対プロになって浅間にぎゃふんと言わせてやるから。楽しみにしてて」
僕は紬に向かって、不安を微塵も感じさせない強気な笑みを浮かべる。
すると彼女は、ぽろぽろと涙をこぼしながらも健気に笑っていた。
「そっか……楽しみにしてる」
その笑顔は、僕が紬と出会い、共に過ごした中で最も幸せそうな顔だったと思う。
「千隼くんの絵も……色も……本当に大好きだよ」
「ん。ありがと」
「それから、千隼くんのことも……」
「え?」
「……なんでもない」
「いや、今なんか言いかけたでしょ」
「千隼くんの絵で、たくさんの人が幸せになったらいいなって」
「あ、ごまかした」
「私……今すごく幸せ。だから……千早くんも、幸せになってね」
「紬……?」
「やくそく」
優しく微笑みながら、白くて細い小指をそっと立てる紬。
「……ん」
僕は、彼女を安心させるように笑顔でその小指を握った。
それが、僕たちの交わした最後の笑顔と言葉となる。
「それはそれとして、さっきの話の続き、気になるんだけど」
「……」
「『それから、千隼くんのことも……』の続き」
「……」
「……紬?」
僕が小指を離すと、紬の手はベッドの上に力なく垂れた。
彼女の持っていたタブレットが倒れて、ポスンと胸元に埋まる。
まるで紬が、絵を抱きしめているみたいだった。
「紬……」
返事はない。
紬は安らかな顔で眠っている。
きっと、もう二度と彼女が目を覚ますことはないだろう。
漠然とそんな予感がした。
(紬――)
よく頑張ったのは、彼女の方だ。
彼女の手に自分の手を重ね、僕はただ静かに嗚咽を漏らす。
ほどなくして外で待機していたおじさんやおばさん、担当医の先生がやってきて周囲は少し慌ただしくなったけれど、僕の想定していた通り、昏睡状態に入った紬が再び目を覚ますことはなかった。
そうして約一時間後――。
家族、担当医、そして偶然居合わせた僕に見守られながら、紬は書きかけの新作を完結させることがないまま、眠るよう穏やかに息を引き取ったのだった。