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 目の前に落ちていた昼下がりの柔らかい日差しは、いつの間にか夕焼けの色に変わっていた。
 あれから一時間ほどが経った今、おじさんとおばさんは先ほどの姿勢のまま浅い仮眠をとっており、僕はというと、眠る紬のそばでただぼんやりと考えごとをしていた。
 ただじっと待っていても彼女が目を覚ますかどうかなんてわからないのに。
 暇つぶしに何かをして時間を潰そうという気は微塵も起こらないため、結局ただ黙って待つしかなかった。
(このまま紬の目が覚めなかったらどうしよう)
 何度目ともわからない不安が頭の中を巡り、弱気になって俯く。
(紬……)
 掴んでいた紬の手を無意識にぎゅっと強く握りしめた……その時だった。
 一瞬、彼女の手が僕の手を握り返すよう、ぴくりと動いた。
「……!」
 ほんの僅かな反応に、バッと顔を上げて食いつくように彼女を見やる。
「紬……?」
 目は瞑ったまま。返事もない。
 けれど、僕の呼びかけに反応するよう彼女の手がもう一度だけぴくりと動いた。
「紬……」
 この機会を逃すものかと、僕は縋るように彼女の手を強く握りしめる。両手でしっかりと、包み込むように。
 すると僕の呼びかけが届いたのか、彼女がゆっくりと瞼を持ち上げた。
「つ、紬っ!」
「……」
 僕は慌てて身を乗り出し、部屋の片隅にいるおじさんとおばさんに声を投げる。
 おじさんとおばさんはハッとして飛び起きると、転がるようにこちらにやってきた。
「紬! 紬、起きたのね?」
「母さん、先生を……あ、いやまずナースコールだ!」
 事前に取り決めた話では、万が一彼女が目覚めても普段通りのリアクションをとるはずだったのだが、やはりそう平常心でいられるものでもない。二人は見るからに慌てた様子でああでもないこうでもないと言い合っている。
 そんな自分の両親をぼんやりと見つめた紬は、ナースコールをしようとしたおばさんの手に、自分の手をそっと重ねた。
「つ、紬……?」
「……」
 戸惑うように紬を見下ろすおばさん。
 紬は僅かに微笑むと、静かに首を横に振った。
 まるで、もう自分が助からないことを悟っているかのように。
「つむ……」
「あり、がと」
 おじさんとおばさんに視線を向けたまま、そう呟く紬。
 その声はひどく掠れていたけれど、深い感謝が込められた声だった。
 二人が唇をかみしめて押し黙ると、紬は次いでおばさんに向けて心から詫びるよう声を絞り出す。
「おか、あさん……ごめ、んね……」
「なに言って……」
「わがまま……いっぱい、ごめん……」
 おばさんは込み上げる涙を必死に堪えるような顔でなんとか微笑むと、やがて娘の意思を尊重するようナースコールから手を離した。
 そして、努めて明るい声で言う。
「何言ってるのよ……もう。あなた、我慢してばっかりでわがままなんてほとんど言ってくれなかったじゃない。本当によく頑張ってるわ」
「お、か、さん……」
「ほら、そんなことより、千隼くんが来てるわよ。母さんたち先生呼んでくるから、ゆっくりお話でもしてなさい。ねえ、あなた」
「ああ、そうだな母さん。紬、ずっと千隼くんと話をしたがってたし、我々がいたらゆっくり話せないもんなあ。父さんも邪魔はしない。すぐ近くにいるから、好きなだけ二人で話しなさい」
 二人は涙声で言葉を詰まらせながらも、精一杯微笑んで見せる。
 二人からの愛情をしっかりと受け取った紬は感謝するよう深く頷き、両親から差し出された手をそっと握りしめた。
 長らく無言で手を握り締め、見つめ合う三人。
 やがておじさんとおばさんが紬の頭を撫でて病室の外に出ると、室内には僕と紬の二人きりになった。
 紬が僕の方を見る。
 ――目が合った。僕たちの間には、少しの沈黙と穏やかな空気だけが流れていた。
 おばさんとの約束通り、僕は何食わぬ顔で言葉を紡ぐことにする。
「……おはよ」
 普段通りの、ごく普通の挨拶をしたつもりだったが、僕の声は上擦っていた。
 彼女の弱々しい呼吸が、力の籠らない眼差しが、細すぎる機械音が――。
 それらの全てが、もう限界だと悲鳴をあげているように見えて、僕はそれ以上なにもいえなくなり、思わず俯く。
 我慢していたのに。
 俯いた僕の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
「泣か、ないで」
 宥めるような、励ますような、包み込むような柔らかい声が僕を慰める。
 僕は顔を背けて、紬に見えないよう袖口で目元を拭ってから、無理やりすっとぼけた声を返した。
「泣いてない」
「そう……」
 涙声だし、鼻水はズルズルだし、秒速でバレたであろう僕の嘘を受け止めた紬は少しおかしそうに微笑んで、どこか遠くを見つめた。
 その澄んだ美しい瞳は、涙の幕に覆われて心なしか揺らいでいるようだった。
「ごめんね」
「……え?」
「約束、守れそうに……なくて」
 約束――紬の小説を本にする、そして表紙を僕が描くという約束のことを言っているのだろう。
 心のどこかでこうなることはわかっていたのに、それが現実に迫ると途端に頭が真っ白になって、どうしたって上手い返事が出てこない。
「まだ諦めるのは早いよ。紬が書きたがってた新作だって、まだプロットしかできてないでしょ。すごくいいプロットに仕上がってるんだから、今諦めるのはもったいないと思うんだ」
「……」
「だからさ、その、もう少し体調が良くなったらさ、少しずつでいいから……」
 焦りと、縋るような想いが綯い交ぜになって早口で訴える僕。
 しかし紬は、すでにもう自分の寿命を悟っているかのように穏やかな微笑みを崩さない。
「夢の続き……千隼くんに、お願いしていい?」
 目を見開く僕に、紬はコードのつながった腕を僅かに動かし、サイドテーブルを指差す。
 彼女の指先を辿ると、そこには彼女が大事にしていたいつもの手帳があった。
 僕が浅間から取り返し、後日、病院へ見舞いに来た際に受付越しに渡していたものだ。
「千隼くんになら、きっとできるから」
「いや、だ……」
 僕はまだ、紬と一緒に創作活動をしたい。
「わたし、嬉しかったよ。千隼くんと一緒に創作ができて。挿絵とか……動画とか……夢みたいで、すごく楽しかったし……学校で、庇ってくれて、嬉しかった」
「いやだよ……僕は……」
 僕はまだ、紬に生きていてほしい。
「ありがとう、千隼くん」
「……」
「私……たちの……物語、よろしく……ね」
 紬はずるい。そんな顔をしたら、僕が断れなくなることを知っているくせに。
 僕は強く拳を握りしめて必死に涙を堪えながらも、たった一言、振り絞るような返事をする。
「わかった……」
 すると彼女は、心から安堵するよう微笑んでみせた。
 僕はたまらず彼女から顔を背ける。今、彼女の顔を見つめていたらきっと泣いてしまうだろうと思ったからだ。
 そっぽを向いたまま鼻をすんすん鳴らす僕を見て、紬が再び気力を振り絞るような声を出す。
「ねえ、千隼くん」
「……ん」
「千隼くんの絵……見たい」
「……」
「手帳に、もらったやつ……たくさん、挟んで、あるから」
 目尻に涙を滲ませながら優しく囁く紬に、僕は唇を噛み締める。
 溢れ出しかけていた涙を袖口でゴシゴシと拭うと、僕は彼女の手帳――ではなく、床に置いていた自分のスクール鞄を膝の上まで持ち上げた。
「……?」
 不思議そうにこちらを見つめる彼女の前で、僕は鞄の中から自分のタブレット端末を取り出す。
 慣れた動作で作業用のフォルダを開き、一枚の絵をタップして全画面表示すると、彼女が見やすいようそれを傾けて差し出した。
「え……」
 紬が驚きで目を大きく見開いた。
 画面には、間違いなく僕がこの二週間で描き上げた渾身の新作イラストが表示されている。
 画面の中央で、一人の少年が天に向かって手を伸ばしているイラスト。
 少年の視線の先には、天から舞い降りてきた翼の生えた美しい紬似の少女がおり、二人の世界には迸るように輝く無限の『色』が広がっている。
「こ、れ……」
「本当は物語が完成したら見せようと思ってたんだけど……」
 まだまだ荒削りだし色の選択も熟れていなくて、ぎこちない配色かもしれないが、自由に生き生きと、好きなだけ好きな色を使って自分らしい世界を表現できたと思う。
「紬の新作小説の装画をイメージして描いたんだ」
 ようやく僕の絵に灯ったカラフルな『色』――。
 モノクロにしか見えない彼女の瞳には、いったいどのように映っているのだろう。
「紬が僕の世界に、色を取り戻してくれたんだよ」
 目を細めながらそう呟くと、大きく見開かれた紬の目から大粒の涙が一筋、こぼれ落ちた。