5.

 紬のおばさんは、驚くほどに疲弊していた。
 目を真っ赤に充血させ、髪の毛はボサボサ。心なしか頬はこけ、全体的にやつれている印象を受ける。
 無理もない。あれだけ大切にしていた自分の娘が倒れたのだから。食事はおろか、睡眠もろくに取れていないのだろう。
「ちょっといいかしら」
 おばさんのその一言で僕たちは受付を離れ、フロアの端にある小スペースに移動する。
 公衆電話と自動販売機が置いてあるだけのそこは、そばに非常階段があるのみで本当に何もない空間だが、ひと気がないだけにひそひそ話をするには最適な場所だった。
 おばさんは持っていたハンドタオルで目元を覆った後、しぼりだすような声色で言った。
「千隼くん、紬が入院してからずっと面会に通い続けてくれてたんですってね……。ちょっと余裕がなくて、なにも連絡できずにいてごめんなさいね」
「いえ。気にしないでください。面会できないとわかっていながら、僕が勝手に通っていただけのことですから」
 僕の一言に、おばさんは力なく苦笑してから、言葉を選ぶようにしばらくぼうっと病室の方を見つめる。
「あの、それで、紬さんは……」
 いてもたってもいられずこちら側から尋ねると、やがて掠れたような声が返ってきた。
「ずっと昏睡状態が続いているの。ようやく昨晩、一度だけ目を覚ましたかと思ったんだけど……すぐにまた、意識を落としちゃって……」
「昏睡……」
「ええ。それで……その……」
「……はい」
「今日がね、山場なんですって」
 ずしりと、腹の底に重い鉛が落ちる。
 眩暈がして、すぐにはその言葉の意味が理解できなくて……いや、厳密には理解はしていたんだけど認めることができなくて、僕は震える手で持っていたスクール鞄を強く握りしめた。
 おばさんはおさえていた涙を再び溢れさせながらも、精一杯に口元に笑みを刻んで、その先を続ける。
「昨晩、ひと時目を覚ました時も、本当に普通に、おはようって、挨拶を交わしたんだけどね……やっぱり、もうね、さすがに無理みたいで……」
 言葉を詰まらせるおばさんに返す言葉がみつからなくて、僕は呆然と立ち竦んだまま虚空を見つめる。
(山、場……)
 放心状態の僕に、おばさんは辿々しい言葉で現状を説明してくれた。
 遊園地デートの後、彼女は衰える体力とは正反対に、今までで一番精力的に創作活動に励んでいたこと。
 薬剤の処方が増え、いっときは病状が良くなったように見えたものの、徐々にまた薬の副作用による体調不良を訴える機会も増え始めていたこと。
 それでも彼女は、愚痴をこぼすことなく前向きに治療に励んでいたこと。
 そんな矢先に決まった一時退院は決して容態が良くなったからではない。むしろその逆で、もうこれ以上、彼女の体調が飛躍的に改善されることはないだろうと判断された結果、『最期の思い出作り』として、許された一時の猶予だったらしいことを改めて聞かされた。
「紬は……入院直後の昏睡状態に入る前も、一時的に目が覚めた昨晩も、ずっと千隼くんのことを気にしていたの。だから本当はもっと早くに千隼くんをあの子の元へ案内するべきだとも思ってたんだけどね。いつ目が覚めるかもわからないから、どうしようもなくて」
「……」
「本当にごめんなさいね。まさかタイミングよく会えるとは思っていなかったんだけど、これも何かの運命かもしれないわ。もしかしたら、今の衰えた姿のあの子を見て驚くかもしれないけど……千隼くんさえ良……」
「会わせてください」
 おばさんが言い切る前に、前のめりで返事をする僕。
 泣き腫らした目を上げたおばさんがこちらを見ると、僕はもう一度、言った。
「どんな姿でも構いません。紬さんに会わせてください」
 僕のまっすぐな返事に、おばさんは目に大粒の涙を滲ませながら静かに頷いてみせる。
 僕たちはその場で、二つの約束を交わした。
 一つ目は、もし万が一、彼女が途中で目を覚ましても、普段通りに接すること。
 二つ目は、もし万が一、彼女が途中で目を覚まして死期を問われても、今日が山場であることは答えないこと。
 紬は長い間昏睡状態の中にいて、生と死の狭間でずっと彷徨い続けている。
 そんな状態の彼女に少しでも不安を与えないよう、また、少しでも安らかな気持ちで死に際を送れるようにと、それがおばさんから出された面会の条件みたいなものだった。
 僕は二つ返事で了承し、自宅にはあらかじめ事情を説明し、今日遅くなるかもしれない旨の連絡を入れておいた。
 おばさんも泣き腫らした目を何度もタオルで拭って、なんとか平然を装える顔色に戻してから踵を返し、改めて紬が待つ病室へ僕を案内した。