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 なんの情報も得られないまま病院から帰宅したその日の夜――。
 空虚な気持ちで一日を終えようとしていた僕の元に、追い討ちをかけるよう一通のメールが届く。
『小鳥(ことり) 遊(ゆう)様。お返事が遅くなり申し訳ありません。スターライト文庫編集部の秋山(あきやま)です』
〝小鳥 遊〟――本名を文字っただけという僕の絵師としてのペンネームで、送り主は、以前僕がメールを送ったイラストコンテスト主催の某大手文庫レーベル担当編集者からだった。
 目まぐるしい日々を送っていたせいですっかり忘れていたが、どうやら約一ヶ月前に僕が応募した作品は『落選』していたらしい。
 すでにネット上の公式HPでも結果発表が行われていたようだが、落選者には通知がいかないため、当然のことながら僕はその事実をメールで知った。
 滅入っていた気持ちがさらに沈み込む。
 だが、今は紬のことで頭がいっぱいになっているせいで、思ったほどは落ち込まなかった。
 虚無を感じながらも手持ち無沙汰に目線で文面を追う。メールには久しぶりの挨拶と、返事が遅くなったことへの詫びが丁寧に綴られており、その先には今回僕が応募した作品についての総評までもが几帳面に記されていた。
『まずは弊社レーベルが主催する定期イラストコンテスト〝テーマ:再生〟へ、ご参加くださいまして誠にありがとうございました。残念ながら今回は落選という結果になりましたが、今期コンテストの担当者と連携しまして、私の方でも小鳥さんの作品を拝見させてもらいました』
 心臓がどくん、と鳴る。
 自分から〝アドバイスが欲しい〟と送っといてなんだが、ダメ元でのコンタクトだったのでまさか本当にアドバイスが貰えるとは思っていなかった。
 褒められるのか貶されるのか。かつてネット上に溢れていた誹謗中傷を思い出して一瞬血の気が引きそうになったが、邪念を振り払う。相手は名も無きアンチではない。プロの編集者だ。ちゃんと向かい合わなければならない。
 僕は手に汗を握りながら、すがるような気持ちで続きを目で追う。
『色々とご事情があり筆を折られていたとのこと、大変でしたね。そんな中で描かれた今回の絵は、まさに〝再生〟を想起させる力強いタッチが印象的でした。構図、テーマに対する解像度は申し分ありません。また、陰影を強調するようなグレースケールのみでの着色も非常にインパクトがありました。しかしながら……いかなる事由があったとはいえ、小鳥さんのモノトーン勝負はどうしても〝逃げ〟に見えてなりません』
 ――ずしりと重くのしかかる、担当者からの核心をついた指摘。
『これだけ精密な陰影をつけられるのなら、おそらく頭の中にはフルカラー着色後のイメージがあったはずです。にもかかわらず〝批判への恐れ〟〝色を選ぶことへの恐怖心〟が勝り、カラーを重ねることを放棄してモノトーンで終わらせてしまった、そんな心情や経緯が読み取れました』
 担当者の指摘が的確すぎて、ぐうの音も出ない僕。
 全てを見透かされている気がしてスクロールをする手が震える。
 でも――。
 逃げたくなくて。
 夢を諦めたくなくて、僕は続きを追った。
『大変なご苦労を経験された小鳥さんの気持ちは理解できます。ですが、そもそも創作の世界に〝正解〟や〝不正解〟はありません。作者が本当に魅せたい色や構図で相手の心を掴みにいかなければ、〝小鳥さんが魅せたい世界〟は誰にも伝わりません』
 強烈な一言が、僕の心を突き刺す。
 魅せたい、色。
 魅せたい、構図。
 僕の表現したい世界――。
『おそらくプロになれば今以上に注目を浴び、時として理不尽な批判に晒されることもままあります。それでも、今活躍している世界中のプロたちが絵を描き続けていられる理由は、きっと、自分の描いた絵で幸せになれる誰かがいることをちゃんと知っているからです』
 いつか紬も言っていた。
〝ごく一部の否定的な意見を持つ人のためだけに、筆を折ってしまうのは勿体ないと思ったの。きっと、私みたいな静かなファンが千隼くんの帰りをずっと待ってるから〟
 ――と。
『あなたの絵を不要だと思っている人に向けて書く必要はありません。あなたの絵を必要だと思っている人に向けて描いてみてください。下手でもいいんです。未熟でもいいんです。私は小鳥さんが描くカラフルな物語を、もう一度この目で見てみたいです』
 メールの最後は、そう括られていた。
 真摯に向き合ってくれた担当者の言葉に、自ずと熱くなる目頭。
 頭の中に紬からもらった言葉が蘇る。
〝千隼くんの描いた絵がもっと見たい〟
〝だってこの絵、好きなんだもん〟
〝私は千隼くんの絵が大好きだから〟
 待ってくれている人がいる――その事実が、僕の心を奮い立たせるようだった。
「……」
 目を瞑り、深呼吸を一つ。
(下手でもいい。僕の色を……魅せたい世界を……)
 再び目を開いた僕に、もう迷いはなかった。
 僕はすぐさま担当者に深いお礼を綴ったメールを作成し、送信する。
 そしてその日から、いや、その瞬間から僕は、貪るように絵を描いた。
 葛藤や苦悶、試行錯誤を繰り返しながらも、逃げ出しそうになるたびに紬の顔を脳裏に思い描いて。必死に手元のペイントアプリのカラーパレットと向き合う。
 描いては消し、悩んでは手を止め、苦しみながらも毎晩創作の世界に没頭し、昼は学校が終わると長らく面会謝絶中の紬に会いに病院へ向かった。
 幾日もそれが続き、受付で追い返されつつも諦めずに創作と見舞いを続ける。
 三日が過ぎ、一週間が過ぎ、さらにもう一週間が過ぎ、そして――。

 ――五月二日。紬と出会って八十八日目。

「千隼……くん?」
「あ……」
 学校帰りに病院に立ち寄り、いつものごとく面会受付をしようとしていた僕は、偶然病室から出てきた紬のおばさんと、ついに対面を果たしたのだった。