3.
「うああっ」
「え?」
「……っ!」
ぜぇ、ぜぇと乱れる息を吐き出す。
気づいたら僕は、あの浅間を体当たりで壁際までふっ飛ばしていた。
床に尻餅をついた浅間は、突然の出来事に意表をつかれて唖然とするように僕を見上げている。
そりゃそうだろう。浅間にとって雑魚でしかない存在の僕が、いきなり体当たりしてくるだなんて夢にも思っていなかっただろうし、普段の僕だったら絶対にありえない行動だから、僕自身、自分の無茶ぶりに驚いていた。
その場にいた野次馬たちも、水を打ったようシンと静まり返り、緊迫した面持ちでこちらを見ている。
「千隼く……」
「い、いってぇな、おい小鳥遊てめえ! いきなりなにし……」
「返せよ」
「あ?」
「返せよその手帳。それ、僕のだ。雪谷は関係ない」
「……は?」
咄嗟に口からついて出た嘘。目の前の浅間は怪訝そうに目を瞬き、呆気にとられていた紬も、驚いたように僕を見つめている。
「なに寝ぼけたこと言ってんだお前。どう考えても女物だし中に書いてある文字だって……」
「どんな手帳を持とうがお前には関係ない。たまたま僕の手帳を彼女が持ってたってだけの話だ」
「はあ? なんだそりゃ。そんな都合のいい嘘通用するわけねえだろ、雑魚がなに格好つけようとしてんだよ? っつうかじゃあなにお前?? このきんもい設定やだっせぇタイトルのメモ、全部お前が考えたっていうのか?」
紬を庇いたいという僕の思惑に気づいている浅間は、ニヤニヤと歪んだ顔で笑うと、立ち上がり圧をかけるよう僕を見下ろしてくる。
僕は構わずに、正面から浅間を見返して言った。
「ああそうだ。僕は……プロのイラストレーターを目指してる」
「な……」
「だから、そこに書いてある設定やタイトルは、新作イラストの構想として全部僕が考えたものだ。それのなにが悪い?」
嘲るように半笑いでこちらを見下ろしてくる浅間に対し、僕は一ミリも笑わずに真顔でピシャリと言い返してやった。
ざわりとどよめく周囲。でも――。
守りたいものができた。
どうしても叶えたい夢ができた。
そんな僕に、怖いものはもうなにもなかった。
何かがふっきれたように前を向く今の僕に、周囲の雑音なんて関係ない。
わなわなと震えた浅間は、なにがなんでも僕を貶めようと喰らいつくよう挑発を返してくる。
「ぷ、プロのイラストレータぁー? ブッ、ぶははは! やっべえウケる小鳥遊お前マジかあ。あー……そういや確かにお前、あの〝ヒーロー気取り野郎〟が生きてた頃から、なんかクソだせえイラストこちょこちょ書いてたっけ。キモいからちゃんと見たことはねえけど、普通よりちょっと絵がうまいってだけだろ? なに調子に乗って勘違いしちゃってんの?」
「……」
「いるんだよなあ、プロの厳しさを知らずにそういう夢見ちゃう勘違い野郎。夢を語るのは勝手だし、どうせ女の前だからって格好つけたいだけなんだろうけど、現実見えてねえ男ほどダセェもんはねえっての。そもそもプロ目指したいんならさあ、ありがたく人様の忠告を……」
「余計なお世話だ! 意見してくれだなんて誰も頼んでないし、人の努力や夢を嘲笑って生きてるお前の生き方の方がクソダセえよ!」
「なっ」
止まらなかった。
今までずっと溜め込んできた思いを全て吐き出すように。
僕は浅間の胸ぐらを掴んで、人生で生まれて初めて感情をむき出しにするように、大声で叫ぶ。
「それからこれだけは訂正しろ! 僕はダサくてもいい。けどあいつは……英太はダサくなかった。英太は最後まで誰かのために体を張れる正真正銘のヒーローで、最高に格好良かった‼︎」
「……っ!」
「お前の価値観だけでダサいとかゴミだとか無理だとか、勝手に決めつけてんじゃねえよ!」
「なんだとてめえっ!」
振り上げられて腕が、目に見えない速さで飛んでくる。
次の瞬間には自分の左頬に鈍い音と激痛が走っていて、浅間に思いっきり殴り飛ばされていた。
「ちっ、千隼くんっっ!」
「きゃあっっ!」
「お、おい誰か担任っ、いや、誰でもいいから教師呼んでこい!」
火をつけたように騒然とするその場。
「おい、もっぺん言ってみろよ! 誰がダセェだと⁉︎ ああ⁉︎」
「何度でも言ってやるよ! 人の夢を嘲笑って生きることでしか自分を満たせないお前の方がダサいし、何者にもなれない負け犬だ!」
「てめっ」
締め上げるように胸ぐらを掴み上げられたかと思ったら、ゴンッ、と、強烈な頭突きが飛んでくる。
――痛い。目の前がチカチカする。頭の中も真っ白だ。
喧嘩なんかしたことないし、たったの一、二発食らっただけでこんなにもフラッフラになるだなんて、やっぱダサいよな、僕。
でも負けるわけにはいかない。絶対に譲れない。僕は奴の腕にしがみつき、奴の手の中から紬の手帳が離れるまで、無我夢中で食らいつき、抗い続けてみせた。
「くそ、雑魚がイキがりやがって! はっ。お前あれだろ、その女のこと好きなんだろ? だから必死になって……」
「ああ好きだよ、悪いかよ! だからってお前には関係ないし、いいからその手帳返せ!」
僕たちの必死の攻防戦に、きゃあきゃあ騒ぎ立てる周囲の野次馬たち。
売り言葉に買い言葉が度を超えて思わず公開告白した気がしないでもなかったが、浅間とのやりとりに必死になりすぎて、紬がどんな顔をしているかなんて窺う余裕はなかった。
ただ無我夢中で紬の手帳に向かって手を伸ばす。
闘病仲間から託されたという大事な手帳。
英太が守った手帳。
僕と紬が紡いだ物語が詰まっている手帳。
病の紬が、自分の思いを形に残すために、必死に向き合い続けてきた大事な手帳。
そんな重みのある手帳を、僕たちの努力をなにも知らない浅間なんかに奪われるわけにはいかない。
蹴られ、髪の毛を掴まれながらも僕は、気力を振り絞って浅間の腕――紬の手帳が握られた方の手だ――を両手で掴み、思いっきり壁に叩きつける。
するとようやく、浅間の手から紬の手帳がポロリと取り落とされた。
すかさず僕は、床に転がった手帳を庇うよう廊下に蹲る。
「てめえッッ」
激昂したように拳を握りしめる浅間。
だめだ、殴られる。いや、もう充分殴られたり蹴られていたわけなんだけど、身構えた状態で攻撃を受けていた今までとは違って、今の僕は背中がガラ空きだ。
「……っ」
歯を食いしばって、殴られる痛みに耐えようとした――そのとき、
「おい、浅間! なにをしてるんだ、やめなさい!!」
野太い声が僕らの死闘を遮った。
ハッとしたように動きを止めて振り返る浅間と、恐々と顔を上げて声の出元を見やる僕。
そこには、騒ぎを聞きつけてやってきたと思しき体育会系の教師が、怖い顔で野次馬の輪を掻き分けている姿があった。
ちっ、と、短く舌打ちした浅間はひどく忌々しげな顔で僕をひと睨みすると、
「くそ、覚えとけよてめえ!」
そう吐き捨てるなり、逃げ出すようその場を立ち去っていく。
「あ、おいこら待ちなさい浅間!」
教師が声を張り上げるが、もちろんあの浅間が歩みを止めるはずもない。
どっと安堵の息を漏らす僕。浅間の追跡を諦め、「大丈夫か?」と、こちらに駆け寄ってくる先生のおかげで、なんとか事態は無事におさまったようだった。
野次馬たちのざわつきがいっそう大きくなり、「血が出てる! 誰かティッシュかタオル!」などと、騒がしい声が飛び交う。
僕は腕に手帳を抱えたまま、力尽きたように床に転がった。
(勝った……のか……?)
あの浅間相手に勝ったとまでは言い難いが、負けもしなかったのは事実だ。
(英太……)
報復なんて微塵も怖くない。
もう、どんな罵声を浴びせられても構わないとさえ思った。
ぼんやりとした視界に、紬の姿が映る。
紬は両手で口元を覆い、泣いているようだった。
無事だった僕を見て、顔をくしゃくしゃにして。
安堵ゆえか、それとも極限を超えた緊張の末か。
(紬……)
心なしか朝よりも顔色が悪いように見えた。
些細な変化かもしれないけど、この状況で心臓発作なんかを起こしてしまわないかどうかがひどく心配で、手を伸ばして彼女に触れて確かめたかったけれど、体が痛くて動かなかった。
情けないな自分、と、苦笑をこぼしかけたのだが――。
どさり、と音がして僕は閉じかけた瞼を押し上げる。
「つっ、紬ちゃん⁉︎」
「き、きゃあ! 紬ちゃんがっ!」
再び騒然とする声が、遥か彼方の出来事のように僕の鼓膜に届く。
気がつけば紬が、僕が意識を手放すよりも先にその場に倒れていたのだった。
「うああっ」
「え?」
「……っ!」
ぜぇ、ぜぇと乱れる息を吐き出す。
気づいたら僕は、あの浅間を体当たりで壁際までふっ飛ばしていた。
床に尻餅をついた浅間は、突然の出来事に意表をつかれて唖然とするように僕を見上げている。
そりゃそうだろう。浅間にとって雑魚でしかない存在の僕が、いきなり体当たりしてくるだなんて夢にも思っていなかっただろうし、普段の僕だったら絶対にありえない行動だから、僕自身、自分の無茶ぶりに驚いていた。
その場にいた野次馬たちも、水を打ったようシンと静まり返り、緊迫した面持ちでこちらを見ている。
「千隼く……」
「い、いってぇな、おい小鳥遊てめえ! いきなりなにし……」
「返せよ」
「あ?」
「返せよその手帳。それ、僕のだ。雪谷は関係ない」
「……は?」
咄嗟に口からついて出た嘘。目の前の浅間は怪訝そうに目を瞬き、呆気にとられていた紬も、驚いたように僕を見つめている。
「なに寝ぼけたこと言ってんだお前。どう考えても女物だし中に書いてある文字だって……」
「どんな手帳を持とうがお前には関係ない。たまたま僕の手帳を彼女が持ってたってだけの話だ」
「はあ? なんだそりゃ。そんな都合のいい嘘通用するわけねえだろ、雑魚がなに格好つけようとしてんだよ? っつうかじゃあなにお前?? このきんもい設定やだっせぇタイトルのメモ、全部お前が考えたっていうのか?」
紬を庇いたいという僕の思惑に気づいている浅間は、ニヤニヤと歪んだ顔で笑うと、立ち上がり圧をかけるよう僕を見下ろしてくる。
僕は構わずに、正面から浅間を見返して言った。
「ああそうだ。僕は……プロのイラストレーターを目指してる」
「な……」
「だから、そこに書いてある設定やタイトルは、新作イラストの構想として全部僕が考えたものだ。それのなにが悪い?」
嘲るように半笑いでこちらを見下ろしてくる浅間に対し、僕は一ミリも笑わずに真顔でピシャリと言い返してやった。
ざわりとどよめく周囲。でも――。
守りたいものができた。
どうしても叶えたい夢ができた。
そんな僕に、怖いものはもうなにもなかった。
何かがふっきれたように前を向く今の僕に、周囲の雑音なんて関係ない。
わなわなと震えた浅間は、なにがなんでも僕を貶めようと喰らいつくよう挑発を返してくる。
「ぷ、プロのイラストレータぁー? ブッ、ぶははは! やっべえウケる小鳥遊お前マジかあ。あー……そういや確かにお前、あの〝ヒーロー気取り野郎〟が生きてた頃から、なんかクソだせえイラストこちょこちょ書いてたっけ。キモいからちゃんと見たことはねえけど、普通よりちょっと絵がうまいってだけだろ? なに調子に乗って勘違いしちゃってんの?」
「……」
「いるんだよなあ、プロの厳しさを知らずにそういう夢見ちゃう勘違い野郎。夢を語るのは勝手だし、どうせ女の前だからって格好つけたいだけなんだろうけど、現実見えてねえ男ほどダセェもんはねえっての。そもそもプロ目指したいんならさあ、ありがたく人様の忠告を……」
「余計なお世話だ! 意見してくれだなんて誰も頼んでないし、人の努力や夢を嘲笑って生きてるお前の生き方の方がクソダセえよ!」
「なっ」
止まらなかった。
今までずっと溜め込んできた思いを全て吐き出すように。
僕は浅間の胸ぐらを掴んで、人生で生まれて初めて感情をむき出しにするように、大声で叫ぶ。
「それからこれだけは訂正しろ! 僕はダサくてもいい。けどあいつは……英太はダサくなかった。英太は最後まで誰かのために体を張れる正真正銘のヒーローで、最高に格好良かった‼︎」
「……っ!」
「お前の価値観だけでダサいとかゴミだとか無理だとか、勝手に決めつけてんじゃねえよ!」
「なんだとてめえっ!」
振り上げられて腕が、目に見えない速さで飛んでくる。
次の瞬間には自分の左頬に鈍い音と激痛が走っていて、浅間に思いっきり殴り飛ばされていた。
「ちっ、千隼くんっっ!」
「きゃあっっ!」
「お、おい誰か担任っ、いや、誰でもいいから教師呼んでこい!」
火をつけたように騒然とするその場。
「おい、もっぺん言ってみろよ! 誰がダセェだと⁉︎ ああ⁉︎」
「何度でも言ってやるよ! 人の夢を嘲笑って生きることでしか自分を満たせないお前の方がダサいし、何者にもなれない負け犬だ!」
「てめっ」
締め上げるように胸ぐらを掴み上げられたかと思ったら、ゴンッ、と、強烈な頭突きが飛んでくる。
――痛い。目の前がチカチカする。頭の中も真っ白だ。
喧嘩なんかしたことないし、たったの一、二発食らっただけでこんなにもフラッフラになるだなんて、やっぱダサいよな、僕。
でも負けるわけにはいかない。絶対に譲れない。僕は奴の腕にしがみつき、奴の手の中から紬の手帳が離れるまで、無我夢中で食らいつき、抗い続けてみせた。
「くそ、雑魚がイキがりやがって! はっ。お前あれだろ、その女のこと好きなんだろ? だから必死になって……」
「ああ好きだよ、悪いかよ! だからってお前には関係ないし、いいからその手帳返せ!」
僕たちの必死の攻防戦に、きゃあきゃあ騒ぎ立てる周囲の野次馬たち。
売り言葉に買い言葉が度を超えて思わず公開告白した気がしないでもなかったが、浅間とのやりとりに必死になりすぎて、紬がどんな顔をしているかなんて窺う余裕はなかった。
ただ無我夢中で紬の手帳に向かって手を伸ばす。
闘病仲間から託されたという大事な手帳。
英太が守った手帳。
僕と紬が紡いだ物語が詰まっている手帳。
病の紬が、自分の思いを形に残すために、必死に向き合い続けてきた大事な手帳。
そんな重みのある手帳を、僕たちの努力をなにも知らない浅間なんかに奪われるわけにはいかない。
蹴られ、髪の毛を掴まれながらも僕は、気力を振り絞って浅間の腕――紬の手帳が握られた方の手だ――を両手で掴み、思いっきり壁に叩きつける。
するとようやく、浅間の手から紬の手帳がポロリと取り落とされた。
すかさず僕は、床に転がった手帳を庇うよう廊下に蹲る。
「てめえッッ」
激昂したように拳を握りしめる浅間。
だめだ、殴られる。いや、もう充分殴られたり蹴られていたわけなんだけど、身構えた状態で攻撃を受けていた今までとは違って、今の僕は背中がガラ空きだ。
「……っ」
歯を食いしばって、殴られる痛みに耐えようとした――そのとき、
「おい、浅間! なにをしてるんだ、やめなさい!!」
野太い声が僕らの死闘を遮った。
ハッとしたように動きを止めて振り返る浅間と、恐々と顔を上げて声の出元を見やる僕。
そこには、騒ぎを聞きつけてやってきたと思しき体育会系の教師が、怖い顔で野次馬の輪を掻き分けている姿があった。
ちっ、と、短く舌打ちした浅間はひどく忌々しげな顔で僕をひと睨みすると、
「くそ、覚えとけよてめえ!」
そう吐き捨てるなり、逃げ出すようその場を立ち去っていく。
「あ、おいこら待ちなさい浅間!」
教師が声を張り上げるが、もちろんあの浅間が歩みを止めるはずもない。
どっと安堵の息を漏らす僕。浅間の追跡を諦め、「大丈夫か?」と、こちらに駆け寄ってくる先生のおかげで、なんとか事態は無事におさまったようだった。
野次馬たちのざわつきがいっそう大きくなり、「血が出てる! 誰かティッシュかタオル!」などと、騒がしい声が飛び交う。
僕は腕に手帳を抱えたまま、力尽きたように床に転がった。
(勝った……のか……?)
あの浅間相手に勝ったとまでは言い難いが、負けもしなかったのは事実だ。
(英太……)
報復なんて微塵も怖くない。
もう、どんな罵声を浴びせられても構わないとさえ思った。
ぼんやりとした視界に、紬の姿が映る。
紬は両手で口元を覆い、泣いているようだった。
無事だった僕を見て、顔をくしゃくしゃにして。
安堵ゆえか、それとも極限を超えた緊張の末か。
(紬……)
心なしか朝よりも顔色が悪いように見えた。
些細な変化かもしれないけど、この状況で心臓発作なんかを起こしてしまわないかどうかがひどく心配で、手を伸ばして彼女に触れて確かめたかったけれど、体が痛くて動かなかった。
情けないな自分、と、苦笑をこぼしかけたのだが――。
どさり、と音がして僕は閉じかけた瞼を押し上げる。
「つっ、紬ちゃん⁉︎」
「き、きゃあ! 紬ちゃんがっ!」
再び騒然とする声が、遥か彼方の出来事のように僕の鼓膜に届く。
気がつけば紬が、僕が意識を手放すよりも先にその場に倒れていたのだった。