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 それから何度か訪れた休憩時間、昼休みを経ても、彼女に話しかけるチャンスは一向に訪れなかった。
 久しぶりに登校した彼女の周囲には常に学友が輪を作り、付け入る隙がないためだ。
(くっそう……まさかここまでとは……)
 かくして五限目。机に突っ伏しながらしょぼくれた目を擦る。
 僕の疲労感もだいぶ限界に達していた。
(それにしても眠い……)
 ――というのも。
 昨晩、紬から今日登校するという旨の連絡をもらって、居ても立っても居られず勢いでイラストを数枚描き上げて持参していた。万が一、学校で彼女に話しかける勇気が出なかったとしても、二人の共通点である絵さえあれば、それをきっかけとして自然に声をかけられるかもしれないと思ったからだ。
 しかしその目論見もまるで見当はずれだったといえる。
イラストがあったところで僕の積極性が増すわけでもないし、そもそも彼女は恥ずかしいからと、自分が創作活動をしていることを僕や家族以外には秘密にしていると言っていたことを今さらながらに思い出したのだ。
(はあ。結構良い絵が描けたと思ったんだったんだけどな……)
 僕は自分の空回りを呪うよう、ごしゃごしゃと髪の毛をかきむしりつつ、机上にある数学ノートの表紙をぼんやり見つめる。
(僕が英太ぐらい明るくて社交性のある性格だったら、女子に声をかけることぐらいワケなかったのに……)
 昔からずっと、自分の意気地のなさには辟易していた。
 彼女に許された登校期間は三日間しかないというのに、気がつけばそのうちの一日目がすでに終わろうとしている。
 結局、その後もなにも進展がないまま放課後を迎えてしまった僕は、がっくりと項垂れながらも、まあ初日だし今日は諦めて明日に賭けようと心に決めてから席を立つ。
 帰り際、せめてもう一度だけ彼女の制服姿を目に焼き付けておこうと思って、二つ離れた教室前を不自然に横切って中をチラ見したけれど、残念ながら彼女の姿はなく、騒がしい話し声と賑やかな活気だけがそこに渦巻いていた。
(いない、か。明日こそ学校で話せるといいんだけど……)
 ため息をひとつ。僕は今度こそ諦めて、長い廊下の先にある階段を降りようとした……その時だった。

「うっわ〜! 出たよポエムノート! 久しぶりに見たと思ったらおまえ、まだこんなモン持ってたのかよ」
 階段の踊り場に差し掛かると、ロの字となった校舎の別角度の廊下から、聞き覚えのある不愉快な声が聞こえてきて、僕は思わず歩みを止める。
(この声……)
 忘れたくても忘れられない、高圧的で傲慢な男子生徒の声。
「返してっ……返してよ!」
 対してもう一方は、今にも泣き出しそうなか細い声で、懸命に抗議をしている女子の声。
 無性に嫌な予感がして、僕は声がした方へ足早に歩みを進める。
 階段脇の広い廊下に野次馬の輪ができていたため、僕はなんとか体をよじって隙間を潜り、輪の中心が見える位置まで移動した。
 するとそこには、目の前の不良に大事な手帳を巻き上げられ、必死に背伸びしたり飛びついたりして、それを取り返そうとしている真っ青な顔色の紬の姿があった。
(つ、紬……!)
 思わず目を見開く僕。咄嗟に輪の中へ飛び込もうとしたけれど、野次馬が邪魔でなかなか前に進めない。二人はなにやら揉めているようだった。
「お願いだから返して!」
「おいおいおい〜。それが拾い主に対する態度かあ? まずは拾ってくださってありがとうございます、だろお?」
「そ、そっちが、ぶつかって……」
「はーん? んな震えた声でボソボソ言ったって聞こえねえからぁ! っつうかおまえさあ。なんかビョーキなんだろ? だったらさあ、こういうわけわかんねえポエムばっか書いてねーで運動しろっての運動!」
「……っ」
「ったく、人がせっかく川に投げ捨ててやったっていうのに、あのダっサいヒーロー気取り野郎が余計なことすっからさあ、いまだにこんなもん隠し持ってコソコソ気色悪いポエム量産するハメになんだよ」
 紬の目の前に立ちはだかっているのは――浅間だ。
 新入生歓迎会のイベントで僕にブルー役を押し付け、クラスの冴えないメンバーたちにも次々と面倒なヒーロー役を押し付け、自分は高みの見物で人を笑いものにし、さらには……小学校時代、紬に意地悪をして英太が死ぬ原因を作った張本人の浅間洋佑。
 関わりたくない一心でずっと避けてきたアイツが、今、僕の目の前で、再び紬の大切な手帳を取り上げて、歪な笑みを浮かべていたのだ。
(浅、間……)
 握りしめた拳が、噛み締めた唇が静かに震える。
「ってか昔っから疑問に思ってたけどこのポエムっていったいなんなん?」
「だ、だめっ。中見ちゃ……」
「えーっとなになに。『タイトル=君と私の世界に色が灯るまでの三ヶ月間(仮)』?? 『主人公はモノクロ村に住む弱虫だけどすっごく心優しい男の子。ヒロインは男の子の幼馴染で……』??? え、なにこれ。ポエムじゃなくてなんかの設定?」
「……っ」
「なあなあ。これおまえの手帳だよな? てか、マジでなんなのこのキモいメモ。もしかして自作小説の設定とか? ぶふっ。なにおまえ、もしかしてガチで『小説家』とか目指しちゃってる系?」
「……」
「おいおい、冗談だろ〜? まさかこんなダッサいタイトルとゴミみたいな設定でプロ目指してるとか言わねえよなあ? 恥ずかしいからやめとけって〜。大体さあ、『小説家』だなんてどれだけの人間がなれると思ってんだよ。ダサいポエムしか書けないようなお前には絶対に無理だし、そもそもこんなゴミ設定の底辺小説誰も読まねえっての。夢見るならもっと現実的な夢見ろよな〜」
 鼻で笑われ、ゴミ扱いされ、頭から否定されて。
 肩を静かに震わせて、目に大粒の涙を溜めたまま俯く紬。
 周囲にいる生徒たちは、不良の浅間相手には逆らえず、ただヒソヒソと小声を交わして傍観者を徹しているようだった。
 そのざわめきは、果たして浅間の横暴な振る舞いに対するものなのか、それとも、小説家という無謀な夢を抱いている紬に対してのものなのか。
 いったいそのどちらなのだろう? 僕にはわからない。
『だっせえなあ』
『そもそもこの程度のレベルでプロ目指してるとか、夢見過ぎだろー』
 この無責任で否定的な言葉と空気が、過去、僕自身がSNSで受けたバッシングの嵐を彷彿とさせるようで、胃がキリキリと痛んだ。
 ――でも。
(ダサいヒーロー気取り野郎……?)
(ダサいポエムしか書けないようなお前には絶対に無理……?)
「……」
 それ以上に、煮え滾るような大きな憤りが、僕の中で弾けた。
 ずっと、ずっと……それこそ英太が死んだ時から今日までずっと溜め込んでいた僕のなかの『何か』かが音を立てて砕け散るように。
 顔をあげ、野次馬の輪を無理やりかき分け、まっすぐに突き進んで全身全霊でぶつかるように、僕は巨躯の浅間に向かって、無我夢中で突進していたのだった。