6.
「あーもう、ホント苦しい……」
「笑いすぎだから」
お化け屋敷を出た僕たちは、その足ですぐ近くにある大観覧車乗り場へやってきたわけなのだが、彼女は先ほどからずっと、僕の失態を笑い続けている。
「ごめんごめん。だって、まさかあんなに驚いた千隼くんが見られるなんて思ってもみなかったから……ぷふっ」
係員の指示に従って丸いゴンドラに乗り込みながら、指で目元の涙を拭う紬。
笑ってもらえて何よりだが、泣くほど笑うなんてとちょっとひどくないか……と、さりげない屈辱を味わいつつ、僕も彼女の後に続いてゴンドラに乗りこむ。
「まさか最後の最後であんなに火力の高い仕掛けをぶっ込んでくるだなんて誰も思わないでしょ。あのお化けも人が悪いんだよ……」
あたかも自分の失態がお化けのせいであるかのように、僕は口を尖らせてそっぽを向く。
ちなみに今の席の配置は隣同士だ。はじめは向かい合って座ろうとしたのだが、面と向き合うのがあまりにも気まずすぎたため横という配置になった。
ゴンドラ内では移動しないでくださいと言われているのでそのまま大人しく着席しており、少し顔を背ければ彼女に不貞腐れ顔を見られる心配がないのが、不幸中の幸いである。
「まあそうだけど。でも、賭けは私の勝ちかな」
僕を横目で見やりながら、勝ち誇ったように言う彼女。
もちろん僕は、すぐさま反論することにした。
「いやだからさっきのは『恐怖』じゃなく『驚き』で上げた悲鳴だから無効だよ。それに、そもそも悲鳴なら紬の方が先にあげてたじゃない」
「あれは『お化け』じゃなく『虫』で上げた声だし、ほとんど悲鳴とはいえないような声だったから無効だもん」
しかし即座に屁理屈で対抗され、僕はぐぬぬと口ごもった。
確かに彼女のは悲鳴と判定できるかわからないような、鼻から抜けたような声だった。
悲鳴らしさでいえば圧倒的に僕の方が上だ。これはやはりこちらの敗北だろうかと素直に悔しがる僕を見て、紬はくすくすと笑いながら言った。
「……なんて、冗談だよ。どっちもどっちだし、引き分けってことにしておこうか」
「いや……まあ、確かに驚きだろうとなんだろうと悲鳴は悲鳴だし、あれだけ大きな声をあげたんだから僕の負けでいい」
「千隼くん……」
「聞くよ、なんでも。何がいい?」
〝負けた方が勝った方の言うことをなんでもひとつ聞く〟
事前に取り決めた通り腹を括ってそう申し出ると、紬は目を瞬いた後、すぐさま、
「いいの?」
と、小首を傾げてきた。
「うん」
男に二言はない。隣り合う彼女に向けて、僕は神妙な顔で頷いてみせる。
すると彼女は、観覧車の外に広がる夜景を眺めたまま、しばし何かを考えているように押し黙った。
僕の位置からでは彼女の表情は見えない。
願い事を考えているのだろうか。
あるいは、すでに願い事は決まっていて、言葉を選んでいるだけなのか。
表情が見えないのでそのどちらなのかはわからないが、今の僕にできるのは彼女の言葉が整うまで待つことだけだ。
ライトアップされた園内を覆うBGMや、ジェットコースターの音、はしゃぐ人々の賑やかな声が、わずかに開いた窓からから風とともに流れ込んでくる。
ほどなくすればこのゴンドラもてっぺんに到達するだろう。時計の針になったような気持ちで頂点を目指していると、ようやく考えがまとまったように、紬が僕を見た。
「じゃあ私からのお願い」
「うん?」
彼女は静かに目を細めて、自分の望みを口にする。
「いつか私が死ぬ時がきても、千隼くんは決して歩みを止めないでね」
息が止まるような『願い』が、彼女の口から放たれる。
「な……」
余命三ヶ月であることを知ってから、ずっと避け続けていた『死』という言葉。
その言葉は僕たちの間で、禁句(タブー)になっていたとすら思っていたのに。
急に目の前に『現実』を突きつけられて、僕は二の句が継げずに固まる。
それまで聞こえていたジェットコースターの走行音や園内アナウンスの声が、刹那、はるか彼方に遠のいたように聞こえた。
「なに……言って……」
「大事なことだから、よく聞いて」
そんな僕の目をまっすぐに見つめて、彼女は真剣に訴えるよう丁寧に続ける。
「近い将来、私はこの世からいなくなる。そんな日が来たら、千隼くんは優しいからきっと私のために泣いてくれるんじゃないかな」
「……」
「私に出会わなければ、そんな気持ちになることなんかなかったのに……悲しい思いさせてごめん。でも、私は千隼くんが……千隼くんの絵が好きだから、足枷にはなりたくない。どうせなるなら千隼くんの力になりたい」
何か言いたいのに胸が苦しくて、張り裂けそうで、何も言葉が出てこない。
そんな僕に、彼女はただ優しい顔で精一杯微笑んで、必死に僕の未来を守ろうとしている。
「だからね、すぐには無理でもいつかは立ち上がって、前を向いて、できればまた絵を描いて、たくさんの人に千隼くんの絵を届けてもらいたい。私と一緒に夢を追いかけたこと、無駄にしてほしくないんだ」
「紬……」
「それで、たくさんの人を千隼くんの絵で笑顔にして、幸せな気持ちを届けて、千隼くん自身も素敵な恋をして、結婚して……」
そこまで順調に、気丈に言葉を紡いでいたはずの紬の瞳から、大筋の涙が一粒溢れる。
まるでそこだけは、嘘をつくことを躊躇するような、そんな苦渋にまみれた涙が、白く陶器のような肌を滑り落ちていく。
「どうか、私の分までたくさん幸せになってほし――」
「もう、いいよ」
彼女の悲愴な顔を見ていられなくて、気がつけば僕は、彼女の上半身を抱き寄せていた。
ふわりと香る、彼女の柔らかいシャンプーの匂い。
「もうわかったから」
精一杯宥めるようにその言葉を吐き出すと、僕の懐にもたれ掛かっていた彼女の眼から幾重もの涙が零れ落ち、僕の胸元が涙でじんわりと滲んだ。
「大丈夫だよ、僕は。紬は僕の心配より自分の心配してよ」
「でも……」
「辛い時は無理して笑わなくていいよ。泣きたければ泣けばいいし、怖ければ怖いって言えばいい。僕も紬と一緒に病気と闘うから」
「……」
「だから……せめて僕の前でだけは、強がらないで」
願いを込めるようそう告げて、震える彼女の背をそっと撫でる。
すると彼女は、堰を切ったように嗚咽を漏らした。
長年積み重なってきた彼女の苦しみが一気に解き放たれたように、紬はしばらく僕の懐で泣いていた。
ゆっくりと空を進んでいく観覧車が、ようやく頂点に達する。
それでもやはり、紬は景色に目を向けることはなく、救いを求めるよう僕の懐にしがみつき、華奢な肩を震わせていた。
よほど今までの闘病生活が厳しく、辛いものだったのだろう。
最近病気を知ったような僕が、どんな言葉を掛ければ彼女の心を救えるというのか。
僕なりに必死に頭を悩ませたけれど、今ここで僕が何を言っても薄っぺらい言葉にしかならない気がして、妥当な言葉は見つからなかった。
それでも――。
「紬」
「……ん」
それでも僕は……僕だけは。
「これ、受け取ってくれる?」
余命、だなんて言葉に縛られず、足掻き続けていたいから。
涙にまみれた顔でこちらを見上げた彼女に、僕は自分の携帯電話を差し出した。
「……え?」
「紬、来月が誕生日って言ってたから。少し早いけど、プレゼント」
もちろん、薄汚れて画面の割れた携帯電話をプレゼントしようってわけじゃない。
僕は画面をタップし、画面下部に現れた再生ボタンを押す。
二人の間で明滅する携帯の画面。
やがてそこには、かつて紬が好きだと言っていた少し流行遅れの音楽と、色のない、白黒のフィルム動画がパラパラと流れはじめた。
「……っ」
心に染みる優しい歌声に合わせて、白黒のイラストカットが緩やかに流れる。
真っ白な世界の中心で、蹲って泣いている一人の少女。
彼女のもとに一人の少年がやってきて、手を差し伸べた。
少女は少年の手を掴む。すると、二人の真っ白な世界には少しずつ色が灯り始める。
白から薄い灰色、やや重みのある灰色、深く濃い灰色、黒に近い灰色、黒――。
濃淡がくっきりとつき、二人に陰影が生まれ、やがて彼らは立体感のある少年少女へ変貌を遂げる。
「これ……」
「紬の小説の宣伝動画だよ」
「……っ」
「僕のイラストカット数枚と、紬の小説のフレーズを掛け合わせて作ってみたんだ。……ほら紬、小説の閲覧数が全然増えないって嘆いてたから」
驚いた顔でこちらを見る紬。なんだか急に照れ臭くなった僕は、苦笑をこぼして頬をかく。
「で、でも千隼くん、デジタル画は封印中だって……」
「ん。ずっと逃げてた。でも……紬に出会って、もう一度絵を描きたいと思えるようになって、紬の小説が本になったら僕が表紙をつけたいっていう夢ができて……避けて通れない道だと思ったから、隠れてずっと練習してた」
「千隼くん……」
「結局カラーをのせるところまでは無理だったんだけど。でも、なんとかデジタルでの線画はクリアして、その勢いでせめて陰影だけでもと思ってさ……グレースケールで絵全体に陰影をつけて、それらしいタッチで仕上げたの。こういうの〝グリザイユ画法〟っていうんだけど……って、言ってもよくわかんないと思うけど」
イラストレーター志望の人間がデジタル画で絵を描くなんて、別に普通のことだと思われるかもしれないし、僕の持つ道具が鉛筆からペンタブに変わったところで肝心な色が塗れなければなんの意味もないかもしれない。
それでも、僕にとってはトラウマを克服するための貴重な進歩で、再生に向けての新たな第一歩でもあった。
「まだ昔の感覚は戻らないし、結局カラフルな色も塗れなかったけど……これからもっと頑張って、せめて来年には間に合わせるようカラー絵の練習しておくからさ。だから……」
「……」
「来年の誕生日、またここで祝わない?」
僕はまだ、諦めていない。
彼女の生きる力を。
出会ったばかりで何がわかるんだって言われるかもしれないけれど、でも。
せめて僕だけは、彼女の〝生〟を、信じ続けていてあげたかった。
「そのためにはさ、まず、少しでも病気の進行を遅らせることが大事だと思うんだ」
「……」
「治療に専念したら、もしかしたら執筆に影響が出ちゃうのかもしれないけど、僕はいくらでも待つし、一瞬たりとも執筆を中断したくないっていうなら、紬の書きたいものを口頭で伝えてもらって、それを僕が代わりにメモなり絵なりで書き起こしていって、少しずつ二人で形にしていけばいい」
「……」
「そうすればきっと、創作だって諦めずに済むと思うから。だからまずは、体のことを最優先してほしくて」
「……」
「あ、いや、その。余計なお節介かもしれないけど、最近、ちょっと無理して見えたからなんか心配だったっていうか。分けられる負担は少しでも分けてほしいなって思って……」
うまく言葉にできなくて、それでもなんとかこの気持ちを伝えたくて必死に自分の思いをありのままに伝えると、
「……うん」
彼女は唇をかみしめたままこくりと頷き、俯いたまま静かにぽろぽろと涙をこぼした。
「ありがとう、千隼くん」
微かに聞こえた紬の掠れ声。
その声はどこか嬉しそうに聞こえた気がする。
「僕はまだ何もしてないよ」
「そんなことないよ……」
「そんなことあるって。でも、今にきっと、紬の小説の表紙にふさわしい最高のカラーイラストを描いてあげるつもりでいるからさ。楽しみに待ってて」
「うん」
「じゃあ、体を最優先するって約束」
「ん……」
小指を差し出せば、彼女はそこに自分の小指を絡める。
目が合えば、紬は頬を涙に濡らしながらも顔をくしゃくしゃにして笑ってくれた。
紬の笑顔は僕の心をいっそう奮い立たせる。
互いが指を話した時、大観覧車はすでに頂点を超えて地上へと向かっていた。
僕たちはほとんど外の景色なんて堪能できなかったけれど、あれだけ辛そうにしていた彼女が、今は少し吹っ切れたように笑ってくれているのが何より嬉しかったし、まあいいかと思うことにする。
「ねえ。今の動画もう一回見せて」
「いくらでもどうぞ」
「ふふ。なんだか書籍化通り越してメディア化した気分」
それから紬は、僕が献上したプレゼント動画を何回も再生しては嬉しそうに頬を緩め、時折僕のスマホを抱きしめては浸るように目を瞑っていた。
やがてゴンドラが地上に戻ると、淡く儚い夢の時間が終わりを迎える。
夜はまだ少し風が冷たく肌寒い三月の下旬。
少しだけ寒いね、と、肩を寄せ合った僕と紬は、お揃いのもふもふカチューシャを揺らしながら夜の遊園地を後にした。
「あーもう、ホント苦しい……」
「笑いすぎだから」
お化け屋敷を出た僕たちは、その足ですぐ近くにある大観覧車乗り場へやってきたわけなのだが、彼女は先ほどからずっと、僕の失態を笑い続けている。
「ごめんごめん。だって、まさかあんなに驚いた千隼くんが見られるなんて思ってもみなかったから……ぷふっ」
係員の指示に従って丸いゴンドラに乗り込みながら、指で目元の涙を拭う紬。
笑ってもらえて何よりだが、泣くほど笑うなんてとちょっとひどくないか……と、さりげない屈辱を味わいつつ、僕も彼女の後に続いてゴンドラに乗りこむ。
「まさか最後の最後であんなに火力の高い仕掛けをぶっ込んでくるだなんて誰も思わないでしょ。あのお化けも人が悪いんだよ……」
あたかも自分の失態がお化けのせいであるかのように、僕は口を尖らせてそっぽを向く。
ちなみに今の席の配置は隣同士だ。はじめは向かい合って座ろうとしたのだが、面と向き合うのがあまりにも気まずすぎたため横という配置になった。
ゴンドラ内では移動しないでくださいと言われているのでそのまま大人しく着席しており、少し顔を背ければ彼女に不貞腐れ顔を見られる心配がないのが、不幸中の幸いである。
「まあそうだけど。でも、賭けは私の勝ちかな」
僕を横目で見やりながら、勝ち誇ったように言う彼女。
もちろん僕は、すぐさま反論することにした。
「いやだからさっきのは『恐怖』じゃなく『驚き』で上げた悲鳴だから無効だよ。それに、そもそも悲鳴なら紬の方が先にあげてたじゃない」
「あれは『お化け』じゃなく『虫』で上げた声だし、ほとんど悲鳴とはいえないような声だったから無効だもん」
しかし即座に屁理屈で対抗され、僕はぐぬぬと口ごもった。
確かに彼女のは悲鳴と判定できるかわからないような、鼻から抜けたような声だった。
悲鳴らしさでいえば圧倒的に僕の方が上だ。これはやはりこちらの敗北だろうかと素直に悔しがる僕を見て、紬はくすくすと笑いながら言った。
「……なんて、冗談だよ。どっちもどっちだし、引き分けってことにしておこうか」
「いや……まあ、確かに驚きだろうとなんだろうと悲鳴は悲鳴だし、あれだけ大きな声をあげたんだから僕の負けでいい」
「千隼くん……」
「聞くよ、なんでも。何がいい?」
〝負けた方が勝った方の言うことをなんでもひとつ聞く〟
事前に取り決めた通り腹を括ってそう申し出ると、紬は目を瞬いた後、すぐさま、
「いいの?」
と、小首を傾げてきた。
「うん」
男に二言はない。隣り合う彼女に向けて、僕は神妙な顔で頷いてみせる。
すると彼女は、観覧車の外に広がる夜景を眺めたまま、しばし何かを考えているように押し黙った。
僕の位置からでは彼女の表情は見えない。
願い事を考えているのだろうか。
あるいは、すでに願い事は決まっていて、言葉を選んでいるだけなのか。
表情が見えないのでそのどちらなのかはわからないが、今の僕にできるのは彼女の言葉が整うまで待つことだけだ。
ライトアップされた園内を覆うBGMや、ジェットコースターの音、はしゃぐ人々の賑やかな声が、わずかに開いた窓からから風とともに流れ込んでくる。
ほどなくすればこのゴンドラもてっぺんに到達するだろう。時計の針になったような気持ちで頂点を目指していると、ようやく考えがまとまったように、紬が僕を見た。
「じゃあ私からのお願い」
「うん?」
彼女は静かに目を細めて、自分の望みを口にする。
「いつか私が死ぬ時がきても、千隼くんは決して歩みを止めないでね」
息が止まるような『願い』が、彼女の口から放たれる。
「な……」
余命三ヶ月であることを知ってから、ずっと避け続けていた『死』という言葉。
その言葉は僕たちの間で、禁句(タブー)になっていたとすら思っていたのに。
急に目の前に『現実』を突きつけられて、僕は二の句が継げずに固まる。
それまで聞こえていたジェットコースターの走行音や園内アナウンスの声が、刹那、はるか彼方に遠のいたように聞こえた。
「なに……言って……」
「大事なことだから、よく聞いて」
そんな僕の目をまっすぐに見つめて、彼女は真剣に訴えるよう丁寧に続ける。
「近い将来、私はこの世からいなくなる。そんな日が来たら、千隼くんは優しいからきっと私のために泣いてくれるんじゃないかな」
「……」
「私に出会わなければ、そんな気持ちになることなんかなかったのに……悲しい思いさせてごめん。でも、私は千隼くんが……千隼くんの絵が好きだから、足枷にはなりたくない。どうせなるなら千隼くんの力になりたい」
何か言いたいのに胸が苦しくて、張り裂けそうで、何も言葉が出てこない。
そんな僕に、彼女はただ優しい顔で精一杯微笑んで、必死に僕の未来を守ろうとしている。
「だからね、すぐには無理でもいつかは立ち上がって、前を向いて、できればまた絵を描いて、たくさんの人に千隼くんの絵を届けてもらいたい。私と一緒に夢を追いかけたこと、無駄にしてほしくないんだ」
「紬……」
「それで、たくさんの人を千隼くんの絵で笑顔にして、幸せな気持ちを届けて、千隼くん自身も素敵な恋をして、結婚して……」
そこまで順調に、気丈に言葉を紡いでいたはずの紬の瞳から、大筋の涙が一粒溢れる。
まるでそこだけは、嘘をつくことを躊躇するような、そんな苦渋にまみれた涙が、白く陶器のような肌を滑り落ちていく。
「どうか、私の分までたくさん幸せになってほし――」
「もう、いいよ」
彼女の悲愴な顔を見ていられなくて、気がつけば僕は、彼女の上半身を抱き寄せていた。
ふわりと香る、彼女の柔らかいシャンプーの匂い。
「もうわかったから」
精一杯宥めるようにその言葉を吐き出すと、僕の懐にもたれ掛かっていた彼女の眼から幾重もの涙が零れ落ち、僕の胸元が涙でじんわりと滲んだ。
「大丈夫だよ、僕は。紬は僕の心配より自分の心配してよ」
「でも……」
「辛い時は無理して笑わなくていいよ。泣きたければ泣けばいいし、怖ければ怖いって言えばいい。僕も紬と一緒に病気と闘うから」
「……」
「だから……せめて僕の前でだけは、強がらないで」
願いを込めるようそう告げて、震える彼女の背をそっと撫でる。
すると彼女は、堰を切ったように嗚咽を漏らした。
長年積み重なってきた彼女の苦しみが一気に解き放たれたように、紬はしばらく僕の懐で泣いていた。
ゆっくりと空を進んでいく観覧車が、ようやく頂点に達する。
それでもやはり、紬は景色に目を向けることはなく、救いを求めるよう僕の懐にしがみつき、華奢な肩を震わせていた。
よほど今までの闘病生活が厳しく、辛いものだったのだろう。
最近病気を知ったような僕が、どんな言葉を掛ければ彼女の心を救えるというのか。
僕なりに必死に頭を悩ませたけれど、今ここで僕が何を言っても薄っぺらい言葉にしかならない気がして、妥当な言葉は見つからなかった。
それでも――。
「紬」
「……ん」
それでも僕は……僕だけは。
「これ、受け取ってくれる?」
余命、だなんて言葉に縛られず、足掻き続けていたいから。
涙にまみれた顔でこちらを見上げた彼女に、僕は自分の携帯電話を差し出した。
「……え?」
「紬、来月が誕生日って言ってたから。少し早いけど、プレゼント」
もちろん、薄汚れて画面の割れた携帯電話をプレゼントしようってわけじゃない。
僕は画面をタップし、画面下部に現れた再生ボタンを押す。
二人の間で明滅する携帯の画面。
やがてそこには、かつて紬が好きだと言っていた少し流行遅れの音楽と、色のない、白黒のフィルム動画がパラパラと流れはじめた。
「……っ」
心に染みる優しい歌声に合わせて、白黒のイラストカットが緩やかに流れる。
真っ白な世界の中心で、蹲って泣いている一人の少女。
彼女のもとに一人の少年がやってきて、手を差し伸べた。
少女は少年の手を掴む。すると、二人の真っ白な世界には少しずつ色が灯り始める。
白から薄い灰色、やや重みのある灰色、深く濃い灰色、黒に近い灰色、黒――。
濃淡がくっきりとつき、二人に陰影が生まれ、やがて彼らは立体感のある少年少女へ変貌を遂げる。
「これ……」
「紬の小説の宣伝動画だよ」
「……っ」
「僕のイラストカット数枚と、紬の小説のフレーズを掛け合わせて作ってみたんだ。……ほら紬、小説の閲覧数が全然増えないって嘆いてたから」
驚いた顔でこちらを見る紬。なんだか急に照れ臭くなった僕は、苦笑をこぼして頬をかく。
「で、でも千隼くん、デジタル画は封印中だって……」
「ん。ずっと逃げてた。でも……紬に出会って、もう一度絵を描きたいと思えるようになって、紬の小説が本になったら僕が表紙をつけたいっていう夢ができて……避けて通れない道だと思ったから、隠れてずっと練習してた」
「千隼くん……」
「結局カラーをのせるところまでは無理だったんだけど。でも、なんとかデジタルでの線画はクリアして、その勢いでせめて陰影だけでもと思ってさ……グレースケールで絵全体に陰影をつけて、それらしいタッチで仕上げたの。こういうの〝グリザイユ画法〟っていうんだけど……って、言ってもよくわかんないと思うけど」
イラストレーター志望の人間がデジタル画で絵を描くなんて、別に普通のことだと思われるかもしれないし、僕の持つ道具が鉛筆からペンタブに変わったところで肝心な色が塗れなければなんの意味もないかもしれない。
それでも、僕にとってはトラウマを克服するための貴重な進歩で、再生に向けての新たな第一歩でもあった。
「まだ昔の感覚は戻らないし、結局カラフルな色も塗れなかったけど……これからもっと頑張って、せめて来年には間に合わせるようカラー絵の練習しておくからさ。だから……」
「……」
「来年の誕生日、またここで祝わない?」
僕はまだ、諦めていない。
彼女の生きる力を。
出会ったばかりで何がわかるんだって言われるかもしれないけれど、でも。
せめて僕だけは、彼女の〝生〟を、信じ続けていてあげたかった。
「そのためにはさ、まず、少しでも病気の進行を遅らせることが大事だと思うんだ」
「……」
「治療に専念したら、もしかしたら執筆に影響が出ちゃうのかもしれないけど、僕はいくらでも待つし、一瞬たりとも執筆を中断したくないっていうなら、紬の書きたいものを口頭で伝えてもらって、それを僕が代わりにメモなり絵なりで書き起こしていって、少しずつ二人で形にしていけばいい」
「……」
「そうすればきっと、創作だって諦めずに済むと思うから。だからまずは、体のことを最優先してほしくて」
「……」
「あ、いや、その。余計なお節介かもしれないけど、最近、ちょっと無理して見えたからなんか心配だったっていうか。分けられる負担は少しでも分けてほしいなって思って……」
うまく言葉にできなくて、それでもなんとかこの気持ちを伝えたくて必死に自分の思いをありのままに伝えると、
「……うん」
彼女は唇をかみしめたままこくりと頷き、俯いたまま静かにぽろぽろと涙をこぼした。
「ありがとう、千隼くん」
微かに聞こえた紬の掠れ声。
その声はどこか嬉しそうに聞こえた気がする。
「僕はまだ何もしてないよ」
「そんなことないよ……」
「そんなことあるって。でも、今にきっと、紬の小説の表紙にふさわしい最高のカラーイラストを描いてあげるつもりでいるからさ。楽しみに待ってて」
「うん」
「じゃあ、体を最優先するって約束」
「ん……」
小指を差し出せば、彼女はそこに自分の小指を絡める。
目が合えば、紬は頬を涙に濡らしながらも顔をくしゃくしゃにして笑ってくれた。
紬の笑顔は僕の心をいっそう奮い立たせる。
互いが指を話した時、大観覧車はすでに頂点を超えて地上へと向かっていた。
僕たちはほとんど外の景色なんて堪能できなかったけれど、あれだけ辛そうにしていた彼女が、今は少し吹っ切れたように笑ってくれているのが何より嬉しかったし、まあいいかと思うことにする。
「ねえ。今の動画もう一回見せて」
「いくらでもどうぞ」
「ふふ。なんだか書籍化通り越してメディア化した気分」
それから紬は、僕が献上したプレゼント動画を何回も再生しては嬉しそうに頬を緩め、時折僕のスマホを抱きしめては浸るように目を瞑っていた。
やがてゴンドラが地上に戻ると、淡く儚い夢の時間が終わりを迎える。
夜はまだ少し風が冷たく肌寒い三月の下旬。
少しだけ寒いね、と、肩を寄せ合った僕と紬は、お揃いのもふもふカチューシャを揺らしながら夜の遊園地を後にした。