フェリーチェの前の交差点で信号待ちをしていると、ちょうどガラス張りになった窓際の席で武田くんがオーダーを受けているのが目に入った。
 白シャツに黒のスラックスと腰巻のロングエプロンというシンプルな姿なのに、背が高くてスタイル抜群の武田くんにとても似合っている。
 注文している女性たちの目がハートになってしまうのも頷ける、納得のかっこよさだ。
 なにか言われたのか、武田くんの綺麗な顔に微笑みが刻まれた。それは作り込まれた完全無欠の営業スマイル。
 薄い唇の端をほんの少し持ち上げたその微笑みは、男の僕から見ても文句なしの笑顔だけど……。

 ――武田くんの本当の笑顔は、かわいいんだ。

 愛想笑いじゃない、無邪気に笑う武田くんの笑顔を思い浮かべながら、僕はちょっとした優越感を抱いていた。

「あ」

 オーダーを取り終えて一礼して踵を返した武田くんが、ふとこちらに気付いて視線がかち合った。そして、さっきとは比にならないほどの満面の笑みを向けたのだった。
 ――つい今しがた僕が思い浮かべた無邪気な笑顔で。
 その笑顔を見た瞬間、ぶわっと肌が粟立って心臓を鷲掴みにされたみたいに苦しくなる。
 それでも僕は、どうにか胸の前で小さく手を振って応えると、武田くんはさらに笑みを深めた。目尻の下がった笑顔は、普段の彼よりも幼さが滲み出て、かっこよさよりもかわいさが勝る。この笑顔を初めて見たとき、こんな笑い方もするんだ、と僕の知らない彼の一面を知れて嬉しくなった。
 ただのバイト仲間から友だちに一歩近づいたような、壁が一枚なくなったようなきがしたんだ。

「見て見て! あのカフェのイケメンが笑いかけてくれたんだけどー!」
「高校生かなぁ、かっこかわいいー! ちょっとお茶しに寄っちゃう?」

 どうやら僕と同じく信号待ちをしていた女性陣も、武田くんに見惚れていたらしい。
 イケメン、かっこかわいいという武田くんを褒めるワードに嬉しくなった。
 僕が褒められたわけでもないのに、なぜか誇らしさすら芽生えてくる。
 片道二車線の大通りの長い信号待ちを終えて、僕は軽い足取りでフェリーチェへと向かった。


「さっき、信号待ちしてるときね、僕の隣にいた女の人たちが武田くんのことかっこいいって言ってた」
 僕は、店内が比較的暇なのをいいことに、つい今しがたの出来事を嬉々として武田くんに報告した。
 昨日の今日で、武田くんとどう接したらいいのかわからなかった僕はいつも通りを心がけることに決めたのだ。昨日考えて出した答えの一つ。正しいかどうかは、わからないけれど。
 答え合わせをするように恐る恐る武田くんの顔を見上げると、なんだか複雑そうな表情を浮かべていて、ドキッと心臓が跳ねた。
 もしかして、対応を間違ってしまっただろうかと急に不安が押し寄せる。
 おろおろとするしかない僕に、武田くんは溜息を一つつくと「俺もまだまだだな……」とつぶやいた。

「え……? まだまだって……?」

 かっこいいって言われてまだまだって……、もっとキャーキャーしてほしいとか?
 いや、謙虚な武田くんに限ってそれはないか。
 じゃぁ、なんで?
 疑問に思って首を傾げていると、彼は長いまつ毛に縁どられた切れ長の目で僕をじっと見つめた後、口を開いた。

「だってさ、好きな人にかっこいいって思ってもらえないなら意味ないじゃん」
「――っ!」

 思いがけないセリフに、心臓が口から飛び出るかと思った。
 正直に白状しよう。僕は、いつも通りを心がけようと「武田くんの好きな人=僕」という事実を、極力考えないように頭の隅におしやっていたのだ。それを不意打ちのように目の前に突き付けられてしまい、体温が一気に上昇していく。
 火照る頬を冷まそうと、僕は手の甲で頬に触れる。けれども手も熱くて意味をなさず、どんどん上昇していく。このままだと、熱が出てしまいそうだ。

「だから、相良くんにかっこいいって思ってもらえるように、俺頑張るね」

 武田くんはにっこりと微笑みながら、僕の指先を取るとぎゅっと握った。するりと触れた肌の感触と温かさに、体が過剰に反応する。驚きのあまり手を引っ込めようとするも、しっかりと掴まれていて失敗に終わった。

「た、武田くん……お客さんがいるからっ」
「大丈夫、カウンターで見えないよ」

 その通り、カウンターの中にいる僕たちの手元は、お客さんからは死角になっている。
 そ、そうだけども……!
 必死に訴える僕に、武田くんは笑顔を崩さない。

「って、相良くん、それじゃぁ、お客さんがいないところならいいって風に聞こえちゃうよ?」
「い、いやっ、ちがっ、そんっ」

 そんなつもりじゃない。そう言いたいのに、武田くんが僕の指をすりすりとさするものだから、そっちに意識を奪われてしまう。捕らわれたままの手に視線を落とせば、武田くんの長い指が僕の指の輪郭を確かめるかのようになぞっていた。武田くんのぬくもりによって、僕の体が熱を帯びていく。
 熱と共に、その指先から武田くんの思いがしみ込んでくるようでいたたまれない。

 ――本当に僕のこと、好きなんだ……。

 自惚れ甚だしいこと間違いなしなのは自覚しているけれど、そんな確信めいた考えが僕の中に生まれたのには、理由がある。

『好きな人には、触れたくなるんだよな』

 昼休み、友情と恋愛の「好き」の違いについて訊いた、千紘の返答が頭の中に浮かんだ。

『一緒にいたいってのは、まぁ、程度の違いこそあれど友だちに対しても思うじゃん。でも、好きな人はそれだけじゃなくて、触りたい、触れていたいって思うのが違うとこかなー』

 女タラシの千紘の言葉を鵜呑みにするわけではないけれど、それを聞いたときに僕はなるほど、と腹落ちするものがあった。これまで恋愛感情を抱いたことはないけれど、千紘が言うように、僕自身、友だちに自分から触れたいなんて欠片も思ったことがないから。
 思考に耽っていると、頭上で武田くんの笑う気配がして僕は顔をあげる。

「相良くん、意地悪なこと言ってごめん」
「え?」
「でも、もっと俺のこと意識してほしいし、相良くんの頭の中、俺のことでいっぱいにしたいから、覚悟しといて」
「ふ……ふぇええ……」

 余裕綽々の笑顔を見せる武田くんとは対照的に、僕は完全キャパオーバー。だらしなく開いた口からは、変な声が零れ落ちるだけだった。