◆
夕方五時。僕は、台所で忙しそうに夕飯の支度をしている母さんの目を盗んでこっそり家を抜け出した。
なるべく音をたてないように玄関のドアを開け閉めして、ガレージに置いてある自転車を取り出すと、陽咲と待ち合わせをした近所の公園へと急ぐ。
先に着いたのは僕。陽咲は無事に家を抜け出せるだろうか。
僕の家も陽先の家も、門限は五時。その時間に家に帰ることはあっても家から抜け出すことはまずない。
今日の計画は、僕か陽咲のどちらかが親に見つかってしまったらアウトだ。
雨に寄る劣化でペンキが剝がれかけている公園の時計を見上げながら少し心配していると、しばらくして自転車に乗った陽咲がやってきた。
「ごめん、ごめん。遅くなって」
僕の隣で自転車のブレーキをかけた陽咲が、眉尻を下げて笑う。
「大丈夫だった?」
「大丈夫、大丈夫。マンションの駐輪場で買い物帰りの大晴のママと鉢合わせしそうになっちゃって焦ったよ」
「え、それ、ヤバいじゃん」
「うん。ちょっとドキドキしちゃった。でも隠れてちゃんと見つからないようにしたから大丈夫」
眉根を寄せる心配性な僕を、陽咲が呑気に笑いとばす。
「行こう。行き方は事前に調べてあるんだ」
陽咲はそう言うと、自転車のペダルに足をかけて、僕を誘導するように漕ぎ出した。
「行ったことある場所なの?」
陽咲を追いかけながら、斜め後ろから少し声を張り上げる。追いついて隣に並ぶと、陽咲は僕のほうに顔を向けて「うん、幼稚園くらいのとき」と頷いた。
「お父さんが、自転車で連れてってくれたの。周りの景色が少しずつ田んぼと畑だらけになっていって、それからしばらくしたら、ぽわーってした小さな光が空中をいっぱい飛んでて。綺麗だなーって思ったのを覚えてる」
「へぇ」
陽咲の話を聞いて、昼間に図鑑で見たホタルが舞う川辺の景色の写真を思い出す。暗闇の中に点々と浮かぶ白い光は、写真で見ただけでも綺麗だった。
実際に見たら、もっと綺麗なのかな。頭の中でふんわりと想像が膨らんで、楽しみになってくる。
陽咲はホタルの見える場所は家から近いと言っていたけど、実際にはその道のりは遠かった。
ふたりで二十分くらい自転車を走らせても僕らは見慣れた住宅街から抜けられず、三十分が過ぎて「おかしいな……」と陽咲が不安そうにつぶやいた頃、ようやく周囲が開け始めて、田んぼや畑が見えてきた。
「そうそう、こんなところだった。どこかに川があって、その橋の近くで見たんだよ」
記憶にある風景が見えてきてほっとしたのか、陽咲が自転車のペダルを強く踏んでスピードを速める。しばらく田んぼ道を自転車で走っていくと、陽咲が言ったとおり石造りの橋が見えてきた。橋の下には子どもの足でも五歩くらいで渡れそうな細い川が流れていて、僕たちは自転車を停めると、橋の横から土手を下って川辺に降りた。
「今何時?」
「六時過ぎかな」
陽咲に聞かれて、僕が左腕に嵌めていたデジタルの腕時計に視線を落とす。
夏は日が暮れるのが遅い。六時を過ぎていたが、周囲がホタルの光がわかるような真っ暗な闇に包まれるまでにはもう少し時間がかかりそうだった。
「ここで座ってようか」
僕から離れて川辺を一歩、二歩と歩いていった陽咲が、ふたりで並んで座れそうな岩を見つけて指さす。僕たちはそこに座ると、ホタルを——。ホタルに姿を変えたばあちゃんが僕に会いに来てくれるのを待った。
だけど、隣に座る陽咲の顔が目を凝らしてようやく見えるほどにあたりが暗くなってもホタルは現れなかった。
初めは気にならなかった虫の声や蛙の鳴き声が、静かな夜の川辺にだんだんと大きく響き始めて。夜の川辺に僕らふたりだけが閉じ込められているような気がして、少し不安になってくる。
なんとなくだけど、これ以上待ってみてもホタルは現れないんじゃないか。そんな気がした。
図書室の図鑑で見た『亡くなった人の魂がホタルになって会いにくる』っていう話だって、よく考えてみたら全然現実的じゃない。昔の人が勝手に想像していたってだけの話だ。
それに、今日は七月七日。運よく雨は降っていないけれど、昼間は晴れていた空も今はどんよりと雲に覆われている。織姫と彦星だって空の上で再会できているかどうかわからないのに、毎年よくないことが起こる誕生日に、僕がホタルに姿を変えたばあちゃんと出会えるわけがない。
「帰ろっか」
諦めて声をかけると、陽咲が夜の闇に透明に輝く川の流れを見つめながら首を横に振った。
「帰らない。もう少し待ってみようよ」
何度か帰宅を促してみたけれど、陽咲は僕を誘った意地なのか、岩に座ったまま腰をあげようとしない。
陽咲を残してひとりで帰るわけにもいかないので、僕も一度は浮かしかけた腰を岩の上に落ち着けた。それから三十分。何も話そうとしない陽咲の隣でジッと座っていたけれど、やっぱりホタルは現れない。
周囲の闇は一層濃くなり、虫や蛙の鳴き声がうるさいくらいに耳に響いてくる。それに加えて、ほんの少しだけ夏の夜風に晒された腕が冷たく寒くなってきた。
「陽咲、そろそろ帰ろう」
もう一度声をかけると、陽咲が僕を振り向く。唇を噛んだその顔が泣きそうになっているのが、暗がりの中でもはっきりとわかった。
「でも、蒼月のおばあちゃんが……」
震えて響く陽咲の声に、僕も少しだけ泣きそうになる。
「うん。ばあちゃんに会えなかったのは残念だけど、いいよ、もう」
「でも……」
「ばあちゃんには会えなかったけど、陽咲が僕のためにここに連れてきてくれたことが嬉しかったから」
無理やりにこっと笑いかけると、陽咲が「ごめんね」と泣きそうな声でうつむいた。
「帰ろう。僕んちでも陽咲んちでも、僕らがいないことがそろそろバレてると思う」
先に立ち上がって手を差し出すと、陽咲が上目遣いに僕を見た。
「怒られるかな……」
「かもね」
苦笑いでそう返したとき、陽咲の視線がゆっくりと僕からそれた。
「蒼月、見て。ホタルだ」
陽咲が僕の後ろを指差して、つぶやく。
はっとして振り向くと、流れが緩やかな細い川の上に豆粒のような小さな光がひとつ浮かんでいた。黄色のような橙のようなその光はひどく弱々しく、今にも消えそうに右へ左へと揺らめいている。
暗闇に浮かぶホタルの光はたったひとつ。それだけだったけれど、僕も陽咲も儚くて小さな光に目を奪われていた。
一匹のホタルは、しばらく僕らの前をふわりふわりと浮遊したあと、川の反対岸の草むらの中に消えていった。
あれは、きっとばあちゃんだ。ホタルの光が消えるまで繋いだ手をぎゅっと力いっぱい握りしめてきた陽咲も、そう確信していたはずだ。
「会えたね」
「会えた」
陽咲とふたりで興奮気味にそう言い合ったとき、橋の上から儚いホタルの光よりも数百倍くらい眩しいライトの光が目を差した。
「お前ら、こんなところで何してんだ?」
ザラついた少し乱暴な声に、陽咲とふたりでビクリと肩を震わせる。
「逃げなきゃ」
そう言って先に駆け出したのは、僕だったのか陽咲だったのか。慌てて逃げ出そうとした僕のそばで、陽咲が転倒した。ドサッと鈍い音がして、数秒後に陽咲の悲鳴みたいな泣き声があたりに響き渡る。
「陽咲?」
陽咲のそばにしゃがんで顔を覗き込んだ瞬間、全身の血の気が引いた。川原に座り込んで泣き叫ぶ陽咲の額からは、大量の血液がだらだらと流れ落ちている。
「陽咲、大丈夫?」
陽咲の額から流れる血は止まらない。このまま止まらなかったらどうしよう……。
完全にパニックになった僕は、陽咲と一緒になって泣いてしまった。そのあとのことは、色んなシーンが静止画になって途切れ途切れに記憶に残っているが、詳しいことはよく覚えていない。
橋の上からライトを照らしてきたのは、近くに住むおじいさんで。転んで頭を切った陽咲を救急外来に連れて行き、陽咲が持っていたキッズ携帯で親に連絡をとってくれた。
陽咲は川辺の岩で額を切っていて、五針も縫う大怪我だった。
おじいさんが僕らの両親に連絡をとってくれなかったら……。陽咲を病院に連れていってくれなかったら……。考えただけでもぞっとする。
病院に迎えに来てくれた父さんは、待合室の椅子に座って背中を丸めている僕を見るなり、すごい剣幕で怒鳴りつけてきた。
「夜によその子を連れ出して。取り返しのつかないことになってたらどうするつもりだったんだ」
僕をきつく叱りつけたあと、父さんは陽咲の両親に「大切なお嬢さんにケガをさせて申し訳ありません」と深く頭を下げていた。
「いえ、うちの子が蒼月くんを誘ったみたいなんです……」
既に処置を終えた陽咲から事情を聞いていた彼女の両親は、恐縮そうにしていたけれど、父さんは何度も何度も今を下げて謝罪していた。
「どうして夜にふたりで遠いところまで行ったんだ」
病院から帰る車の中で呆れ顔の父さんに聞かれたけれど、僕はうまく答えられなかった。ばあちゃんに会いたかったからだと言ったって、きっと父さんには理解してもらえないだろう。
手のひらについて、渇いた陽咲の血。それを見つめながら、僕はやっぱり、七月七日にはろくなことが起きないのだと思った。
翌日、額にガーゼを貼って学校にきた陽咲に謝った。陽咲は「わたしがドジだっただけだよ」と明るく笑っていたけれど、額に貼られたガーゼはだいぶ痛々しかった。
しばらくしてガーゼが外れたあとも、陽咲の額にはうっすらと縫った傷跡が残っていた。その痕を目にするたびに僕はとても居た堪れない気持ちになって、今までどおりに陽咲と接することができなくなった。
少しずつ距離を置いて避けるようにしたら、中学に上がる頃には陽咲も僕にあまり話しかけてこなくなって。高校生になった今では、もうほとんど会話もしない。
遠ざかった僕らの距離は七夕の彦星と織姫みたいだ。
もちろん、僕らは七夕伝説のような恋人同士ではないし、想いあってもないけれど……。
夕方五時。僕は、台所で忙しそうに夕飯の支度をしている母さんの目を盗んでこっそり家を抜け出した。
なるべく音をたてないように玄関のドアを開け閉めして、ガレージに置いてある自転車を取り出すと、陽咲と待ち合わせをした近所の公園へと急ぐ。
先に着いたのは僕。陽咲は無事に家を抜け出せるだろうか。
僕の家も陽先の家も、門限は五時。その時間に家に帰ることはあっても家から抜け出すことはまずない。
今日の計画は、僕か陽咲のどちらかが親に見つかってしまったらアウトだ。
雨に寄る劣化でペンキが剝がれかけている公園の時計を見上げながら少し心配していると、しばらくして自転車に乗った陽咲がやってきた。
「ごめん、ごめん。遅くなって」
僕の隣で自転車のブレーキをかけた陽咲が、眉尻を下げて笑う。
「大丈夫だった?」
「大丈夫、大丈夫。マンションの駐輪場で買い物帰りの大晴のママと鉢合わせしそうになっちゃって焦ったよ」
「え、それ、ヤバいじゃん」
「うん。ちょっとドキドキしちゃった。でも隠れてちゃんと見つからないようにしたから大丈夫」
眉根を寄せる心配性な僕を、陽咲が呑気に笑いとばす。
「行こう。行き方は事前に調べてあるんだ」
陽咲はそう言うと、自転車のペダルに足をかけて、僕を誘導するように漕ぎ出した。
「行ったことある場所なの?」
陽咲を追いかけながら、斜め後ろから少し声を張り上げる。追いついて隣に並ぶと、陽咲は僕のほうに顔を向けて「うん、幼稚園くらいのとき」と頷いた。
「お父さんが、自転車で連れてってくれたの。周りの景色が少しずつ田んぼと畑だらけになっていって、それからしばらくしたら、ぽわーってした小さな光が空中をいっぱい飛んでて。綺麗だなーって思ったのを覚えてる」
「へぇ」
陽咲の話を聞いて、昼間に図鑑で見たホタルが舞う川辺の景色の写真を思い出す。暗闇の中に点々と浮かぶ白い光は、写真で見ただけでも綺麗だった。
実際に見たら、もっと綺麗なのかな。頭の中でふんわりと想像が膨らんで、楽しみになってくる。
陽咲はホタルの見える場所は家から近いと言っていたけど、実際にはその道のりは遠かった。
ふたりで二十分くらい自転車を走らせても僕らは見慣れた住宅街から抜けられず、三十分が過ぎて「おかしいな……」と陽咲が不安そうにつぶやいた頃、ようやく周囲が開け始めて、田んぼや畑が見えてきた。
「そうそう、こんなところだった。どこかに川があって、その橋の近くで見たんだよ」
記憶にある風景が見えてきてほっとしたのか、陽咲が自転車のペダルを強く踏んでスピードを速める。しばらく田んぼ道を自転車で走っていくと、陽咲が言ったとおり石造りの橋が見えてきた。橋の下には子どもの足でも五歩くらいで渡れそうな細い川が流れていて、僕たちは自転車を停めると、橋の横から土手を下って川辺に降りた。
「今何時?」
「六時過ぎかな」
陽咲に聞かれて、僕が左腕に嵌めていたデジタルの腕時計に視線を落とす。
夏は日が暮れるのが遅い。六時を過ぎていたが、周囲がホタルの光がわかるような真っ暗な闇に包まれるまでにはもう少し時間がかかりそうだった。
「ここで座ってようか」
僕から離れて川辺を一歩、二歩と歩いていった陽咲が、ふたりで並んで座れそうな岩を見つけて指さす。僕たちはそこに座ると、ホタルを——。ホタルに姿を変えたばあちゃんが僕に会いに来てくれるのを待った。
だけど、隣に座る陽咲の顔が目を凝らしてようやく見えるほどにあたりが暗くなってもホタルは現れなかった。
初めは気にならなかった虫の声や蛙の鳴き声が、静かな夜の川辺にだんだんと大きく響き始めて。夜の川辺に僕らふたりだけが閉じ込められているような気がして、少し不安になってくる。
なんとなくだけど、これ以上待ってみてもホタルは現れないんじゃないか。そんな気がした。
図書室の図鑑で見た『亡くなった人の魂がホタルになって会いにくる』っていう話だって、よく考えてみたら全然現実的じゃない。昔の人が勝手に想像していたってだけの話だ。
それに、今日は七月七日。運よく雨は降っていないけれど、昼間は晴れていた空も今はどんよりと雲に覆われている。織姫と彦星だって空の上で再会できているかどうかわからないのに、毎年よくないことが起こる誕生日に、僕がホタルに姿を変えたばあちゃんと出会えるわけがない。
「帰ろっか」
諦めて声をかけると、陽咲が夜の闇に透明に輝く川の流れを見つめながら首を横に振った。
「帰らない。もう少し待ってみようよ」
何度か帰宅を促してみたけれど、陽咲は僕を誘った意地なのか、岩に座ったまま腰をあげようとしない。
陽咲を残してひとりで帰るわけにもいかないので、僕も一度は浮かしかけた腰を岩の上に落ち着けた。それから三十分。何も話そうとしない陽咲の隣でジッと座っていたけれど、やっぱりホタルは現れない。
周囲の闇は一層濃くなり、虫や蛙の鳴き声がうるさいくらいに耳に響いてくる。それに加えて、ほんの少しだけ夏の夜風に晒された腕が冷たく寒くなってきた。
「陽咲、そろそろ帰ろう」
もう一度声をかけると、陽咲が僕を振り向く。唇を噛んだその顔が泣きそうになっているのが、暗がりの中でもはっきりとわかった。
「でも、蒼月のおばあちゃんが……」
震えて響く陽咲の声に、僕も少しだけ泣きそうになる。
「うん。ばあちゃんに会えなかったのは残念だけど、いいよ、もう」
「でも……」
「ばあちゃんには会えなかったけど、陽咲が僕のためにここに連れてきてくれたことが嬉しかったから」
無理やりにこっと笑いかけると、陽咲が「ごめんね」と泣きそうな声でうつむいた。
「帰ろう。僕んちでも陽咲んちでも、僕らがいないことがそろそろバレてると思う」
先に立ち上がって手を差し出すと、陽咲が上目遣いに僕を見た。
「怒られるかな……」
「かもね」
苦笑いでそう返したとき、陽咲の視線がゆっくりと僕からそれた。
「蒼月、見て。ホタルだ」
陽咲が僕の後ろを指差して、つぶやく。
はっとして振り向くと、流れが緩やかな細い川の上に豆粒のような小さな光がひとつ浮かんでいた。黄色のような橙のようなその光はひどく弱々しく、今にも消えそうに右へ左へと揺らめいている。
暗闇に浮かぶホタルの光はたったひとつ。それだけだったけれど、僕も陽咲も儚くて小さな光に目を奪われていた。
一匹のホタルは、しばらく僕らの前をふわりふわりと浮遊したあと、川の反対岸の草むらの中に消えていった。
あれは、きっとばあちゃんだ。ホタルの光が消えるまで繋いだ手をぎゅっと力いっぱい握りしめてきた陽咲も、そう確信していたはずだ。
「会えたね」
「会えた」
陽咲とふたりで興奮気味にそう言い合ったとき、橋の上から儚いホタルの光よりも数百倍くらい眩しいライトの光が目を差した。
「お前ら、こんなところで何してんだ?」
ザラついた少し乱暴な声に、陽咲とふたりでビクリと肩を震わせる。
「逃げなきゃ」
そう言って先に駆け出したのは、僕だったのか陽咲だったのか。慌てて逃げ出そうとした僕のそばで、陽咲が転倒した。ドサッと鈍い音がして、数秒後に陽咲の悲鳴みたいな泣き声があたりに響き渡る。
「陽咲?」
陽咲のそばにしゃがんで顔を覗き込んだ瞬間、全身の血の気が引いた。川原に座り込んで泣き叫ぶ陽咲の額からは、大量の血液がだらだらと流れ落ちている。
「陽咲、大丈夫?」
陽咲の額から流れる血は止まらない。このまま止まらなかったらどうしよう……。
完全にパニックになった僕は、陽咲と一緒になって泣いてしまった。そのあとのことは、色んなシーンが静止画になって途切れ途切れに記憶に残っているが、詳しいことはよく覚えていない。
橋の上からライトを照らしてきたのは、近くに住むおじいさんで。転んで頭を切った陽咲を救急外来に連れて行き、陽咲が持っていたキッズ携帯で親に連絡をとってくれた。
陽咲は川辺の岩で額を切っていて、五針も縫う大怪我だった。
おじいさんが僕らの両親に連絡をとってくれなかったら……。陽咲を病院に連れていってくれなかったら……。考えただけでもぞっとする。
病院に迎えに来てくれた父さんは、待合室の椅子に座って背中を丸めている僕を見るなり、すごい剣幕で怒鳴りつけてきた。
「夜によその子を連れ出して。取り返しのつかないことになってたらどうするつもりだったんだ」
僕をきつく叱りつけたあと、父さんは陽咲の両親に「大切なお嬢さんにケガをさせて申し訳ありません」と深く頭を下げていた。
「いえ、うちの子が蒼月くんを誘ったみたいなんです……」
既に処置を終えた陽咲から事情を聞いていた彼女の両親は、恐縮そうにしていたけれど、父さんは何度も何度も今を下げて謝罪していた。
「どうして夜にふたりで遠いところまで行ったんだ」
病院から帰る車の中で呆れ顔の父さんに聞かれたけれど、僕はうまく答えられなかった。ばあちゃんに会いたかったからだと言ったって、きっと父さんには理解してもらえないだろう。
手のひらについて、渇いた陽咲の血。それを見つめながら、僕はやっぱり、七月七日にはろくなことが起きないのだと思った。
翌日、額にガーゼを貼って学校にきた陽咲に謝った。陽咲は「わたしがドジだっただけだよ」と明るく笑っていたけれど、額に貼られたガーゼはだいぶ痛々しかった。
しばらくしてガーゼが外れたあとも、陽咲の額にはうっすらと縫った傷跡が残っていた。その痕を目にするたびに僕はとても居た堪れない気持ちになって、今までどおりに陽咲と接することができなくなった。
少しずつ距離を置いて避けるようにしたら、中学に上がる頃には陽咲も僕にあまり話しかけてこなくなって。高校生になった今では、もうほとんど会話もしない。
遠ざかった僕らの距離は七夕の彦星と織姫みたいだ。
もちろん、僕らは七夕伝説のような恋人同士ではないし、想いあってもないけれど……。