(どうして、悠真(ゆうま)様がここに……?)

 漏れ出しそうな声を必死に両手で抑えながら、掛け布団に顔を伏せた状態の悠真様に視線を向ける。

(ずっと……傍にいてくれた?)

 椅子の背にもたれ掛かって、休んでいたのだろうと悟る。
 でも、疲労感に襲われた彼の体は、私が横たわっていたベッドへと傾いた。
 私が体を起こし辛かった原因は、悠真様の重さが私の体に乗っかっていたからだと気づく。

「っ」

 直接、体に触れられたわけじゃない。
 掛け布団を挟んだ上で、悠真様は私の脚に体を預けるかたちになっていた。
 薪ストーブの心地よさに屈した悠真様が、掛け布団の上で睡魔に襲われたことは想像できる。想像できるけれど……。

(恥ずかしい……)

 無性に、なぜか、恥ずかしくなった。
 私の脚と、悠真様の体の間には掛け布団の存在がある。
 それなのに、まるで彼が私の脚に直接触れているかのような恥ずかしさが込み上げてくる。

「ん……」

 声は、なるべく出さないように心がけた。
 平常心を装った。
 でも、心音だけは抑え切れなかった。
 そのせいかもしれない。

「んんー……」
「……筒路森(つつじもり)様?」

 激しく動く心臓の音が、もしかすると彼の鼓膜に届いてしまったのかもしれない。
 私の心臓に悠真様の耳を当てているわけでもないのに、私の心臓音があまりにも激しすぎて悠真様まで届いてしまったのかもしれない。

「朝……?」
「朝……ではないと思います」

 障子戸の向こうから、太陽の光が差し込んでこない。
 閉じられた部屋で得た時間の感覚が、紫純琥珀蝶が好む夜の時間がやってきたのだと告げてくる。

「ああ、悪い、寝過ぎた」

 寝惚け眼の悠真様。
 深い眠りに落ちていた彼は、机の上から眼鏡を手に取った。
 眼鏡をかける直前の、初めて見る彼のぼんやりとした様子になだか可愛さのようなものを感じてしまった。

「お疲れですか」

 悠真様の意識が覚醒していないのをいいことに、私は彼の頭をなるべく優しい手つきで撫でてみた。
 幼い子どもたちの頭を撫でるような感じで失礼だとは思っても、彼に触れたいという厚かましい願いを抱いてしまった。

「いいな」

 悠真様から、不思議な言葉が返ってきた。

「何が……ですか……?」

 私の問いかけに、彼は返事をくれない。
 何度か瞬きを繰り返した後に、彼は名残惜しそうにゆっくりと体を起こした。
 そして私は、体を起こした彼の頭を撫でることができなくなった。

「一緒に暮らしてると、何が幸せなのか……わからなくなる」

 寝起きで頭を働かせることができないだけだと思っていたけど、彼の喋り口調はとてもしっかりしていた。
 眠そうに見えたのは彼の瞳だけで、意識ははっきりしていたのかもしれない。

「申し訳ございません!」
「結葵?」

 勝手に頭を撫でたことを謝罪しなければいけないのに、私は自分が犯した行動すら言葉にできなくなっていた。混乱しているのは、私の方だった。

「あの……」

 言葉に詰まる。
 訳の分からない謝罪は、彼を困らせるしかできない。

「意外と気持ちいいと思ったけどな」
「え」
「頭を撫でてもらえて」
「っ、大変申し訳ございませんでした……!」

 謝罪するときの頭の角度がどうとか、紫純琥珀蝶と出会う前の私なら筒路森の婚約者に相応しい教育を受けてきたはず。
 それなのに、ただただ謝りたいという気持ちが先走って、腰が折れ曲がりそうなそうな角度で謝罪の言葉を紡いでしまった。

「ふふっ、ははっ」

 朗らかに笑う声。
 知的な印象を細いフレームの眼鏡の向こう側に待っている優しい瞳は、戸惑いを隠しきれない私のことを引き込んだ。

「あの、失礼があったときに謝るのは当然のことかと……」
「そうだな、結葵の言うことに間違いはない」

 整った顔立ちをされているだけでも困るのに、彼から穏やかな笑みが絶えることはない。

「いや、ふふっ、悪かったな……」

 私の滑稽な姿を見て、悠真様が笑い声を上げているのが分かる。

「結葵の勘違いを解くところから始めないとだな」

 悠真様は私の頭に手を置き、指先で優しく髪を梳いた。

「俺は結葵に頭を撫でられたことを、不快には思っていない」

 彼の表情は穏やかで、決して誰かを咎めるときに見せるような顔ではないことが分かる。

「謝るところではないと、理解してもらえたか」

 筒路森のご当主様は二十歳になられたばかりとはいえ、彼が積み重ねてきた経験からくる優しさを包容力の深さにどうしたらいいか分からなくなる。

「はい……」

 私は私で十六年という年月を歩んできたはずなのに、一畳分で得られる経験なんてたかが知れているところが恥ずかしい。

「無理をしないで、自分の速度で歩めばいい」

 心の中を見透かされているような、その言葉。
 胸の奥が温かくなるのを感じたけれど、四歳差の空白への恥じらいを消すことができない。

「少しは熱が下がって、良かったな」
「何から何まで面倒を見ていただき、感謝しております」

 食欲が出てきた私のために、お粥が運ばれてきた。
 米を食べられること自体が贅沢なことすぎて、白米を口にできることがあまりにも久しぶりすぎて、これはこれで緊張が走ってしまう。

「食べたくないときは無理しなくても……」
「いただきます」

 これは、私の意思です。
 食べたいから、食べる。
 私の中に、そういう感情があることを悠真様に知ってもらう。

「……美味しい…………?」
「結葵、美味しさは強要されるものじゃない」

 咎めるための言葉ではなく、苦笑いを浮かべて私が無理していることを見破ってくる悠真様。

「……申し訳ございません」

 食に関心のなかった人間が、いきなり美味しいと言葉にするのは明らかに不自然だった。
 適当なお世辞ほど人を傷つけるものはないのだから、そこは反省しなければいけない。

「でも……美味しい気がします」

 そう、素直な気持ちを彼に伝えた。