「大丈夫か」
筒路森のご当主様の優しい声が耳元に届く。
床に体を打ちつけることに慣れてしまっていた私は、自分の体が痛みを感じなかったことに涙を浮かべながら、彼の胸に顔を埋めた。
「ありがとう、ございます……」
震える声で呟いた言葉が、彼に伝わったどうかは分からない。
何も言葉を返してもらえなかったけれど、彼は私をしっかりと抱き締めてくれた。
「災いを招き寄せる者には、容赦なく手を上げるおつもりですか」
「当然です! その娘がいるから、我々は蝶の脅威にさらされているのですぞ!」
娘の名前を忘れてしまったのか。
娘の名前を始めから知らなかったのか。
父が、私の名前を呼んでくれることはなかった。
「美怜、美怜! 立ちなさい!」
「なんで、この人が私のお姉ちゃんなの……」
妹は、蝶と言葉を交わす姉を恥じた。
「あの子は、あなたの姉でもなんでもないわ!」
母は、化け物染みた力を持つ私を娘ではないと言葉にした。
「酷い有様だな」
筒路森様は、北白川家を見放す言葉を口にする。
私の身体を支えてくれた手は優しいのに、筒路森様は北白川に対して軽蔑的な眼差しを向ける。
「筒路森様……」
「腫れが引いていないんだ。おとなしく……」
「お願いがあります」
どうか、北白川家を見捨てないでください。
そう言葉を続けたかったけれど、それは引き取ってもらう側が言葉にしてはいけないことだと理解している。
「蝶と、話す時間をください」
筒路森様の信頼を取り戻すには、祝言の場の空気を変えた数匹の蝶を追い払わなければいけない。
この場を上手く収めることができたら、妹は筒路森家に嫁ぐことができる。
「私に、家族を助けるための時間をください」
頬に下された痛みなんて、忘れてしまった。
我慢することには、慣れているから。
頬に痛みが残っても、頬に痕が残っても、それらは私の未来に影響を与えることはない。
(ありがとうございます)
私はとうの昔に、人として生きることを許されなかった子だから。
(初めてお会いする、筒路森悠真様)
私が歩んでいく未来に愛する人がいないことは、とうの昔に決まっていたことだから。
「紫純琥珀蝶様っ」
蝶に、様という敬称を付けることを愚かと言えるのかもしれない。
「聞いてください」
そんな奇妙な私を、悠真様は自由にしてくれた。
蝶と言葉を交わすことができるという、人とは違った存在の私を解放してくれた。
「お願いします。この場を、これ以上、乱さないでください」
拙い言葉。
もっと威厳ある言葉で蝶と言葉を交わせばいいのに、どちらが偉い立場にいるのか分からないから困ってしまう。
「お仲間を殺してしまった私たちに非があることは承知しております」
蝶を従わせることができればいいのに、私にできることは蝶と言葉を交わすのみ。
どちらかが絶対的な強さを持っているわけではなく、私と紫純琥珀蝶は幼い頃からずっと平行線の関係を保っている。
「ですが、今日はハレの日という……」
人の記憶を喰らい尽くすときのように、殺気立った空気をまといながら人々へと襲いかかっていた蝶が私の言葉に注目してくれる。
「大変おめでたく、特別な日です」
その場へととどまり、人間に襲いかかることをやめる蝶々。
これでは、私が蝶を従わせていると思われても仕方がない。
家族の外へ追いやられて、私は当然の行いをしている。
私は、やっぱり人の子ではないのかもしれない。
「どうか、どうか荒ぶる気持ちをお収めください」
おとなしく蝶が、私の言葉に耳を傾けてくれている。
こんなにも蝶から慕ってもらっているのに、私は蝶以外から愛情を受け取ったことがない。だからこそ、ときどき考えてしまう。
「私に差し出せるものがあるのなら、なんなりとお申しつけください」
紫純琥珀蝶が飛び交う世界においで。
人間が生きる世界に、おまえの居場所はないよって。
紫純琥珀蝶が、私を蝶の世界に手招いているのではないかということを。
「あ……」
紫純琥珀蝶は、私の願いを聞き届けてくれた。
けれど、私の言葉が通じたということは、それだけ私が異質な存在だということを大勢の前で証明することになってしまった。
「ありがとうございました」
開きっぱなしの扉から、ゆっくりとした振る舞いながら紫純琥珀蝶がお帰りになる。
感謝の気持ちを込めて、蝶へと礼を送る。
でも、そんな私の振る舞いを許さない人がいるということを知っている。
「なんなの……」
妹の声が、鋭く響き渡った。
たった一言しか発していないのに、彼女の声から痛みを感じた。
「お姉ちゃんはっ! 私に幸せになってほしくないの!?」
「なってほしいから……幸せになってほしいから……」
「昔っから、そうだよね! お姉ちゃんは、私の幸せを奪ってばかり!」
妹は拳を握りしめ、震える声で叫んだ。
姉が紫純琥珀蝶と言葉を交わすことができるばかりに、妹も同類とばかりに奇異的な目を向けられてきたのかもしれない。
一畳間に閉じ込められていた私の知らないところで、妹は多くの涙を零していたのかもしれない。
「蝶を追い払って手柄を立てて、筒路森様の寵愛を受けるつもりだった!?」
「違う……」
「それ以外に考えられない……!」
怒りと、憎しみが混ざった声に対して、向ける言葉がない。
「違う……」
「違わないっ!」
妹の幸せを邪魔したいわけでも、自分の手柄を立てるつもりもなかった。
でも、結果的に私は妹の祝言を妨げた。
今更、何を弁明しても信じてもらえない。
「筒路森様、この娘は北白川と一切関係のない娘です!」
「どうか、どうか美怜のことを……」
何を言っても信じてもらえないのなら、謝るしかない。
そう言葉を紡ごうと、口を動かそうとしたときのことだった。
「倍の価格をお支払いします」
これ以上、私が言葉を紡がないように。
私の言葉を塞き止めるために、筒路森家のご当主様の手の甲が唇へと触れる。
「彼女を私の嫁にいただきたい」
彼の言葉に、誰もが信じられないという表情で筒路森家のご当主様を見つめた。
「どうして……?」
妹が涙を浮かべながら、震える声で婚約者に尋ねる。
「車、用意できました」
筒路森様の側近の方の呑気な声が、部屋を漂う殺伐とした空気を打ち破った。
「って、あれ? まだ話、終わってないんですか」
事の成り行きを見ていなかった青年は朗らかな喋りで、この場の空気を壊しにかかる。
「いや、もう済んでいる」
「それは良かった」
筒路森の当主に、手を引かれる。
私はもう言葉を紡ぐことができるようになったはずなのに、何を言葉にすればいいのか分からない。
「お……お待ちくださいっ! 筒路森様!」
「倍では足りませんか? では、更に倍の額をお支払いします」
「その娘は、その娘は……!」
こんなときになっても、父は私の名前を呼んでくれない。
「この子は、美怜と違って不出来なのです」
母も、私の名前を忘れてしまったのかもしれない。
「私の方が、妻として相応しい振る舞いを……」
妹は、姉よりも優位であり続けようと必死だった。
「筒路森様……私は、あなたの妻に、は……」
「聞こえなかったか」
私が身を引くことで、この場は丸く収まる。
筒路森のご当主様の腕から抜け出そうと試みると、彼は私の手をしっかりと握り締めた。
まるで、もう二度と離さないと言われているかのような錯覚。
心が激しく鼓動を打ち、溢したくないはずの涙が涙腺を揺さぶり始める。
「俺は、君を嫁に欲しいと言っているんだ」
彼の温かい手の感触が、まるで安心感を与えるように心へと染みていく。
心には躊躇いの気持ちがあるはずなのに、彼の真剣な眼差しを自身の瞳に焼きつけたいと願ってしまった。
「私は……蝶の子で……」
手を繋いでいない方の片手を、自分の胸元あたりへと運ぶ。
早く、良い結末を迎えられるようにと祈りを込める。
「筒路森様っ! お待ちくださいっ! その子は世界を滅ぼすために産まれてきた子! 筒路森の品格を失わないためには、美怜との婚約を……」
「申し訳ございません。聞こえていなかったようですね」
彼と共に歩き出すと、周囲のざわめきや妹の悲痛な叫び声が遠ざかっていくように感じた。
「彼女がいいと、お伝えしたはずですが」
彼の腕の中で、初めて自分が守られていると感じることができた。
でも、その温かな腕に守られることは、蝶と密談を交わすことのできる子には許されない。
温かさに守られるのは、真っ当に生きていくことができる人間に与えられた権利。
「その娘は、紫純琥珀蝶を操るのですぞ! 忠告しましたからな!」
父は、自分の声をかき集めて叫ぶ。
私よりも、妹の方が筒路森に相応しいと訴える。
その発言に間違いはひとつもなく、どうすれば妹を立てることができるのか必死に頭を動かす。
「筒路森さ……」
いつだって父は正しい。
私は父の願いを叶えるために、彼の腕から抜け出そうと抵抗を示す。
でも、そんな些細な抵抗は見抜かれていたのか、私は更に強い力で抱き寄せられる。
「筒路森の品格を、北白川が落とすわけには……」
「彼女が、私の妻になる女性です」
筒路森の様の熱を感じるのは初めてのはずなのに、その温もりに抱かれることが必然だったかのように思えてしまう。
初めて感じた温もりに、懐かしさを抱いてしまうほど恋焦がれてしまいそうになる自分を恥じた。
「筒路森様っ、私は、私は、あなたの妻になるためだけに……」
晴れやかな衣服は、筒路森のご当主様に見てもらうためだけに用意されたもの。
筒路森様のために用意した美しさある衣服を引きずりながら、美怜ちゃんは未来の旦那様へと縋ろうとする。
「私の人生は、筒路森様に捧げるためのもので……」
「美怜ちゃ……」
「私に話しかけないでっ! 私の邪魔をしないでっ!」
そんな妹のみすぼらしい姿を見ていられなかった私は、今度こそ筒路森様の熱から解放されようと身体を動かした。
すると、筒路森様は、ようやく私を解放すると同時に頭を優しい手つきで撫でてくれた。
やっと私は彼から解放されるのだと安堵の気持ちに包まれるはずなのに、彼の熱から解放された私は冷えゆく一方。
「北白川美怜様」
筒路森様は妹と目線の高さを合わせるために、その場へと屈んだ。
「筒路森様っ!」
父の静止を無視して、筒路森様は美怜ちゃんのことを視界に映す。
ご自分の立場を気にすることなく、美怜ちゃんと対等であろうとする姿勢が窺えた。
「北白川の名に縛られることなく、自由に生きていかれることを願っております」
美怜ちゃんの瞳から、涙が零れる。
「どうか、お幸せに」
その涙を拭ったのは、筒路森様ではない。
その涙を拭ったのは、私たち姉妹を産んでくれた父と母だった。
「結葵、行くぞ」
私に与えられた名を呼んでくれるのは、紫純琥珀蝶しかいなかった。
彼が私の名前を呼んだ瞬間、自分が新しい未来に向かって進み出したことを実感した。
とうとう堪えきれなかった涙が頬を伝い、私は彼から抵抗することを諦めた。
『そうだ……! この子の食べ物と着る物を、美怜に……!』
明日、食べる物に困ったことがある。
明日、着る物に困ったことある。
表向きだけでも裕福を装ってきた北白川家には限界があって、北白川家の外に追い出された私は真っ先に費やすお金を減らされる対象だった。
『死なない程度の最低限の食事でいい。育児を放棄したと悟られないように……』
明日は、どこで寝かせてもらえるのか。どこで生きていけばいいのか。
そんな悩みを抱く日々を過ごして、私は生きることが怖くなった。
「っ、は、あ……」
穏やかな夢を見たかったけれど、高い熱は夢の中まで侵食していった。
魘されて目が覚めると、ここまで呼吸が乱れるのかと不安になる。
「はぁー」
息を吐き出す。
白い息は、部屋の室温が低いことを伝えてくる。
「…………」
外の冷たい空気に体が晒されないように、体を掛け布団の中へと収める。
吐き出す息が白くならないように、頭まで掛け布団でしっかりと体を覆う。
布団の中で呼吸すれば、息は白くならないから。
「寒い……」
筒路森が所有する車の中で、私の熱は上がり切ってしまって意識を失った。
せっかく北白川家を出ることができたのに、外の景色を眺める余裕すらなく私は一人部屋へと隔離された。
(早く……元気にならなきゃ……)
汗をかけば、体温は下がる。
それを実践したいと思ってはみるものの、汗が出てくるほど体が熱を持っていない。
体温計は熱があることを訴えていたはずなのに、私の体は熱を放出できない。
だから、苦しい。
だから、いつまで経っても治らない。
体はずっと、悪寒に襲われたままだった。
「なんで、この屋敷は、こんなに寒いんだ」
「悠真くん、静かに! 中に病人がいるんだから!」
扉を叩く音よりも先に、失礼しますという言葉の方が先に聞こえてくる。
そして、遠慮することなく部屋と廊下を繋ぐ扉が開かれた。
「あとは俺がやるから、帰っていいぞ」
「人遣い荒いと、嫌われるからね……」
部屋に誰かが入ってきたのは分かるけれど、私は身体すべてを掛け布団で覆っている状態。
(いつ、声をかければ……)
突然声を出してしまうと、声の主を驚かせてしまうことに繋がる。
目的があって部屋を訪れた彼を驚かせることは望んでいない。
でも、このままでい続けたら、彼と喋る時間がなくなってしまうことも理解している。
「…………」
近くで、薪ストーブが点火される音が聞こえる。
部屋を暖めに来てくれたことが分かって、益々彼に話しかけたくなってしまう。
どうしよう。
どうしよう。
さっきから、そればかり。
勇気を出せない私は、永遠に彼と話す時間を得ることができない。
「はぁ……はぁ……」
身体を休めなければいけないのに、考えを巡らせてしまう。
思考も一緒に休めなければ、身体は休んだことにならない。
それは分かっている。
分かっているけど、私は考えることをやめたくなくて……。
「結葵?」
より近くで、彼に名前を呼ばれる。
部屋の入口付近にいたときと、声の聞こえ方が違う。
その、声の聞こえ方が違うことに私は安心感を抱く。
「苦しいか?」
体全部を覆っていた掛け布団が、正しい位置に戻されていく。
その様子を見つめながら、私はゆっくりとした時間の中で悠真様と視線を交わらせていく。
「ゆっくり休んでくれ」
「でも……」
「大丈夫だ。何も心配するな」
初めて出会ったときと同じで、悠真様は優しい手つきで私の頭を撫でてくれる。
「早く元気になって、悠真様のお手伝い……して……両親に……」
こんな風に、いつも体調を崩してばかりはいられない。
私の体調なんてどうでも良くて、私は筒路森悠真様を支えたい。
無理をする方が迷惑をかけると分かっていても、無理をして体調が悪いことすらも隠して悠真様を支えたい。
それが、北白川に産まれた人間の定めだから。
「じゃあ、尚更早く良くならないとな」
「はい……」
正直になるって、意外と難しい。
相手に嫌われないために嘘を吐くのは、いけないことなのか。
今の私には、まだよく分からない。
「…………」
薪の爆ぜる音が、私の思考を覚醒させる。
視界には揺らぐ炎が映り、部屋も体もより一層暖められていくのを感じられる。
どれだけ長い間眠りに就いていたのか判断できないくらい、深く眠ることができた気がする。
一体、時計の針は何周してしまったのか。
(そろそろ起きても大丈夫……)
何も、病み上がりに運動するわけではないけれど。
それでも体を起こすのに力が必要だと感じて、少し意気込みながら腕を使って自身の体を支えていく。
(……重い?)
意識ははっきりしているのに、体を起こすことが困難なことに気づく。
体を上手く動かせなくなるほど、自分は布団で体を休めていたということかもしれない。
そう思った私は無理をしないよう、ゆっくりと体を起こしていくつもりだったけれど……。
「悠……っ!」
大きな声を、上げそうになった。
(え、どうして? どうして悠真様が、ここに……?)
漏れ出しそうな声を必死に両手で抑えながら、布団に顔を伏せた状態の悠真様に視線を向ける。
(ずっと……傍にいてくれた?)
悠真様が、私の布団に顔を伏せているのは見て分かる。
私が体を起こし辛かった原因は、悠真様の重さが私の体に乗っかっていたからだって分かるけど……。
「っ」
直接、体に触れられたわけじゃない。
掛け布団を挟んだ上で、悠真様は私の脚に体を預けるかたちになっていた。
薪ストーブの心地よさに屈した悠真様が、掛け布団の上で睡魔に襲われたってことは想像できる。想像できる。想像できるけれど……。
(恥ずかしい……)
無性に、なぜか、恥ずかしくなった。
私の脚と、悠真様の体の間には掛け布団の存在がある。
それなのに、まるで悠真が私の脚に直接触れているかのような恥ずかしさが込み上げてくる。
「ん……」
声は、なるべく出さないように心がけた。
平常心を装った。
でも、心音だけは抑え切れなかった。
そのせいかもしれない。
「んんー……」
「……筒路森様?」
激しく動く心臓の音が、もしかすると悠真様の鼓膜に届いてしまったのかもしれない。
私の心臓に悠真様の耳を当てているわけでもないのに、私の心臓音があまりにも激しすぎて悠真様まで届いてしまったのかもしれない。
「朝……?」
「朝……ではないと思います」
障子戸の向こうから、太陽の光が差し込んでこない。
閉じられた部屋で得た時間の感覚が、紫純琥珀蝶が好む夜の時間がやってきたのだと告げてくる。
「ああ、悪い、寝過ぎた」
寝惚け眼の悠真様。
初めて見る悠真様のぼんやりとした様子に、なんだか可愛さのようなものを感じてしまった。
「お疲れですか」
悠真様の意識が覚醒していないのをいいことに、私は悠真様の頭をなるべく優しい手つきで撫でてみた。
幼い子どもたちの頭を撫でるような感じで失礼だとは思っても、彼に触れたいという厚かましい願いを抱いてしまった。
「筒路森さ……」
「いいな」
私が悠真様を呼んだら、悠真様からは不思議な言葉が返ってきた。
「何が……ですか……?」
私の問いかけに、悠真様は返事をくれない。
何度か瞬きを繰り返した後に、悠真様は名残惜しそうにゆっくりと体を起こした。
そして私は、体を起こした悠真様の頭を撫でることができなくなった。
「一緒に暮らしてると、何が幸せなのか分からなくなる」
寝起きで頭を働かせることができないだけだと思っていたけど、悠真様の喋り口調はとてもしっかりしていた。
眠そうに見えたのは悠真様の瞳だけで、意識ははっきりしていたのかもしれない。
「申し訳ございません!」
「結葵?」
勝手に頭を撫でて、ごめんなさい。
何に謝罪しているかを伝えないといけないのに、私は自分が犯した行動すら言葉にできなくなっていた。混乱しているのは、私の方だった。
「あの……」
言葉に詰まる。
訳の分からない謝罪は、悠真様を困らせるしかできない。
「意外と気持ちいいと思ったけどな」
「え」
「頭を撫でてもらえて」
「っ、大変申し訳ございませんでした……!」
謝罪するときの頭の角度がどうとか、紫純琥珀蝶と出会う前の私なら筒路森の婚約者に相応しい教育を受けてきたはず。
それなのに、ただただ謝りたいという気持ちが先走って、腰が折れ曲がりそうなそうな角度で謝罪の言葉を紡いでしまった。
「ふふっ、ははっ」
朗らかに笑う声。
知的な印象を細いフレームの眼鏡の向こう側に待っている優しい瞳は、戸惑いを隠しきれない私のことを引き込んだ。
「あの、失礼があったときに謝るのは当然のことかと……」
「そうだな、結葵の言うことに間違いはない」
整った顔立ちをされているだけでも困るのに、悠真様から穏やかな笑みが絶えることはない。
「いや、ふふっ、悪かったな……」
私の滑稽な姿を見て、悠真様が笑い声を上げているのが分かる。
「結葵の勘違いを解くところから始めないとだな」
悠真様は私の頭に手を置き、指先で優しく髪を梳いた。
「俺は結葵に頭を撫でられたことを、不快には思っていない」
彼の表情は穏やかで、決して誰かを咎めるときに見せるような顔ではないことが分かる。
「謝るところではないと、理解してもらえたか」
筒路森のご当主様は二十歳になられたばかりとはいえ、彼が積み重ねてきた経験からくる優しさを包容力の深さにどうしたらいいか分からなくなる。
「はい……」
私だって十六年という年月を歩んできたはずなのに、一畳分で得られる経験なんてたかが知れていると恥ずかしい。
「無理をしないで、自分の速度で歩めばいい」
心の中を見透かされているような、その言葉。
胸の奥が温かくなるのを感じたけれど、四歳差の空白への恥じらいを消すことができない。
「少しは熱が下がって、良かったな」
「何から何まで面倒を見ていただき、感謝しております」
食欲が出てきた私のために、お粥が運ばれてきた。
米を食べられること自体が贅沢なことすぎて、白米を口にできることがあまりにも久しぶりすぎて、これはこれで緊張が走ってしまう。
「食べたくないときは無理しなくても……」
「いただきます」
これは、私の意思です。
食べたいから、食べる。
私の中に、そういう感情があることを悠真様に知ってもらう。
「……美味しい…………?」
「結葵、美味しさは強要されるものじゃない」
咎めるための言葉ではなく、苦笑いを浮かべて私が無理していることを見破ってくる悠真様。
「……申し訳ございません」
食に関心のなかった人間が、いきなり美味しいと言葉にするのは明らかに不自然だった。
適当なお世辞ほど人を傷つけるものはないのだから、そこは反省しなければいけない。
「でも……」
美味しい気がする。
そう素直な気持ちを悠真様に伝えた。
「少し調べさせてもらったが、ずっと幽閉されてきたようなものだったらしいな」
「……蝶と言葉を交わせる程度では、殺してはもらえませんでした」
「事故を装うとか、自害に見せかけるとか、いくらでもできそうだけどな」
悠真様が物騒な言葉を口にするけれど、それらは私に恐怖を与えるためのものではないような気がした。
どこかに、ほんのわずかな希望があるから殺さなかった。
そんな両親の思惑があったのかないのか知る術すらないけれど、私になんらかしらの希望があったと知らせるために悠真様が言葉をくれたと信じてみたい。
「いっそのこと、死ぬことができた方が楽だったかもしれないな」
家族から投げつけられた冷たい言葉の数々と、無慈悲な仕打ちは記憶の奥底まで深く刻まれている。
この傷跡の治し方なんて分かるはずもなかったのに、悠真様が私の痛みを感じるような憂いの瞳で見つめてくるものだから勘違いしそうになる。
(悠真様なら、私を愛してくれるんじゃないか……)
そんな浅はかな希望を抱く自分を恥じ、私は改めて筒路森のご当主様に言葉を紡ぐために口を動かした。
「死を選ぶべきだと思いましたが、侍女たちが哀れんで食事を差し出してくれるんです。それを、口にしてしまうんです。食べなければ自ら命を絶つこともできたのに、食べたい。生きるために食べたい。死ぬことができなくなってしまいました」
悠真様は、私に返す言葉を持ち合わせていなかった。
言葉を紡ぐことを諦めてくれたのをいいことに、私はほんの数日前まで行われていた出来事を悠真様に語っていく。
「生きているのか死んでいるのか、正直、分からない日々が続きました」
幼い頃の私が紫純琥珀蝶と話したことがきっかけで、北白川の未来は変わってしまった。
私は、その日を境に、すべてを奪われた。
人々の記憶を奪いなさいと蝶に命令しているわけでもないのに、私はすべてを失った。
そんな私に何を言えばいいのか。何を伝えればいいのか。
悠真様が言葉を見つけることができない、その気持ちが理解できなくもない。
「昨日食事を恵んでくれた人は今日、現れなくて……そうしたら傷だらけの足を哀れんで、靴下を恵んでくださる方が現れるんです」
紫純琥珀蝶と言葉を交わす私が忌み嫌われていたのは事実。
でも、まだ幼い子どもが一畳分の部屋に閉じ込められていたことに、胸を痛めてくれた人たちは少なからず存在していた。
「そういう毎日を繰り返していくと、期待というものが生まれるんです。私は、生きていくことを許されるんじゃないかって。明日死ぬかもしれないって言う恐怖が、明日も生きられるかもしれないっている希望や期待に変わっていくんです」
ほぼ初対面の悠真様に、こんな気持ちをぶつけていいわけがない。
それでも悠真様は私に時間を与えてくれるから、今まで抱えてきた感情に抑えが利かなくなってしまった。
「感覚が麻痺して、物事を考えることなんてどうでもいいと思い始める時期を見計らって、人が現れるんです。絶望に落とされて、そのあと救いの手を差し伸べられたら、手を離すことができなくなるんです」
私は、私を哀れんでくれる人たちのことを神様のように思った。
神様がやっと私を救ってくれるんだと思った。
これでやっと生きていける。
これでやっと、この世界で呼吸することを許される。
そんな実現するはずもない未来を夢見させられて、私は今日まで生きることを選択してしまった。
「だったら、俺の手も離さないでもらえそうだな」
悠真様は、口角を上げて笑みを浮かべた。
楽しい話も喜ばしい話も一切していないのに、悠真様は穏やかな笑みを浮かべてくれた。
「結葵を救う役目を、俺にも担わせてほしい」
筒路森悠真様は、妹の婚約者。
妹と添い遂げられるはずの、その人は私を救うための言葉をくれる。
「筒路森のご当主様が、そのような発言をされるのは……」
「将来の妻に優しくすることの、何がいけないんだ」
「…………それは……」
「返す言葉が見つからないのなら、優しさを素直に受け取ってくれ」
悠真様が立ち上がる準備を整えて、この部屋を去ろうと動き出す。
「筒路森様」
「ん? 食事が終わったら、皿は適当に……」
「食事をありがとうございますと……お伝えください」
私が生きていくために、食事の管理をしてくれている人たちがいる。
直接お会いしたことはないけれど、その人たちがいるおかげで私は明日を生きることができる。
「あと……乱雑な言葉をぶつけてしまって、申し訳ございませんでした」
「のちに夫婦の関係になるのに、遠慮されてもな」
「それでも……さきほどは、甘えすぎたと思います」
北白川の家にいたときも、何度も感謝の気持ちを述べようとして口を動かそうとしたことがある。
でも、碌な生活をさせてもらえなかった私は声を発することすら難しいときが何度もあった。
言葉を発するためには、健康に生きることがまず何よりも大事なのだと気づかされる。
「侍女に、人の心が残っていて良かったな」
悠真様は柔らかく微笑みながら、私の頭に手を伸ばして優しく撫でてくれた。
(感謝の気持ちだけは、ちゃんと伝えていきたい……)
私に優しくしてくれる人たちがいるのなら、伝えられるうちに感謝の気持ちだけは伝えていきたい。
悠真様を妹の元へと返す日が来たら、二人を元の関係に戻す日が来たら、私は今の生活を支えてくれる人たちに会うことが許されなくなるから。
「外の世界を知ることで、いろいろと気づき始めるとは思う」
言葉を返すことのなかった悠真様は、そのまま部屋を出て行くものだと思っていた。
けれど、悠真様はなぜか引き返してきて、再び畳へと座り込んだ。
「結葵」
「何……」
「口、開けられるか」
「…………」
自分で食事を進めようと思っていたら、いつの間にか主導権が悠真様に握られていた。
「え」
「まだ箸を使うことすら、苦労を伴うだろ?」
悠真様は、私にお粥を食べさせようとしている。
口を開くように促されるけど、私は逆に口を閉ざしてしまう。
「……子どもではありません」
「子どもなんて思っていない」
口で紡ぐ言葉と、心で思っていることは違う。
それを知っていながらも、悠真様が向けてくれる眼差しの真摯さに言葉を詰まらせてしまう。
「……子どもと思っていないなら、自分で食べ……」
「恋仲としてなら、何も問題ないだろう」
筒路森悠真様は、妹の美怜と添い遂げるはずだった人。
悠真様にとっては、北白川の美しい容姿を引き継ぐ娘ならどちらでも構わないのかもしれない。だから、こんなにも私に優しさと愛情を注いでくれるのかもしれない。
「からかって悪かった、ほら。自分で食べ……」
ぱくっという効果音が響くわけではない。
でも、そんな効果音が聞こえてきそうな勢いで、私は悠真様が用意してくれたお粥を口中へと含む。
「将来の旦那様の好意を無下にするわけにはいきませんので」
たとえ容姿が目当てだとしても、筒路森の機嫌を損ねるわけにはいかない。私は両親に多額のお金を送る機会を得ることができたのだから、悠真様が妹に気持ちが向くまで悠真様に好かれ続けなければいけない。
「結葵は、変なとこで頑固だな」
口を開けて、お粥の到着を待つはずだった。
ただそれだけの予定すら狂わされるくらい、悠真様は私に柔らかな笑みを向けてくれる。
その笑顔に惹かれて、私はこのあと何をすべきなのか忘れてしまう。
「美味いか?」
「……味、よくわかりません」
「そうか」
穏やかすぎる笑みを浮かべながら、悠真様は私の瞳を覗き込んでくる。
それすらも恥ずかしいって思ってしまう私は、少し感傷的になりすぎているかもしれない。いつか悠真様との別れが訪れるかもしれないという未来予想図は、私に何もかもを意識させていくのかもしれない。
「ふっ、恥ずかしくなったらやめてもいいんだぞ」
下がりつつある熱が、再び上昇していくような気がした。
「恋仲とは、こういうものなのですよね」
熱い。
暑い。
薪ストーブが勢いよく部屋の温度を上げているのかもしれない。
「はぁ…………はぁ…………はぁ……」
食事が終わる頃、まるで体全体を使った運動をしたかのように息が乱れた。
私の呼吸は荒れていても、悠真様は平然とお皿の片づけをしている。
「本当に……恋仲同士とは、こういうことするのですか?」
「さあな」
「え?」
声にならない声を上げる私。
そんな私の反応が可笑しかったのか、素直に笑い声を漏らす悠真様。
「わからないことは、二人で学んでいくしかないだろ」
「……筒路森様にも、わからないことがあるのですか」
「人間だからな。歳を重ねても、学びは尽きない」
私ばかりが恥ずかしい想いをして、悠真様ばかりが幸せそうな表情をしているのは、なんだか狡いと思ってしまう。
「これから好きも嫌いも、たくさん増やしていくといい」
「私の、好きと嫌い?」
「結葵の、好きって感情のことだ」
悠真様の柔らかい笑みを見ていると、頑張らないといけないって。
小さな勇気が、いくつも生まれてくるのを感じる。
「好きな人を、大切な人を増やしていくといい」
でも、悠真様。
「俺がいなくなっても、結葵の好きを増やしていってほしい」
私は、こんなにも悠真様にたくさんの勇気をもらっているのに。
「悠真様も……ですよ」
自分が幸せになるための方法が分かりません。
「悠真様の好きという気持ちが、これから出会う人を幸せにすると……」
幸せを、望めません。
私は、私を産んでくれた両親の笑顔を見ること以外の幸せを知りません。
「私は信じています」
ぱちぱち。
ぱちぱちっ。
部屋の薪ストーブが音を立てて、その音は私たち二人を黙らせる。
聞き入ってほしい。
炎が消える、最後の最後まで聞き入ってほしい。
そんな願いを、託されているかのように。
私たちの間には、静かな時間が流れた。
「……すみません、あの、本当に……」
「そんなに緊張するな。悪いようにはしない」
世間にとっては、存在してもしなくてもどうでもいい存在だった北白川家。
身支度を整えてくれる侍女を控えるなんて贅沢をする余裕もなく、北白川家が見栄を張るための僅かなお金は筒路森家と祝言を成立させる妹につぎ込まれた。一畳分の部屋に閉じ込められてきた私は、お洒落というものにも疎かった。
「あの……でも、恥ずかしいので……」
「その羞恥を取り払ってくれるか」
送られる言葉はいつだって真摯さが込められていて、自分だけが取り乱しそうになるから恥ずかしい。
「っ、努力いたします……」
髪に、優しく触れる人がいる。
繊細であり、陶器のように美しくもある、その手。
「こんなご時世じゃなかったら、人々を美しく着飾る職を目指していたくらい美容への関心は高いつもりだ」
「こんなご時世……」
「紫純琥珀蝶が飛び交う世でなければ、という意味だ」
「…………」
私に触れたところで、私は壊れたりなんかしない。
それなのに、まるで割れ物を取り扱うときのような優しさで触れてくれる。
「筒路森様は……」
「悠真」
心の中では、筒路森のご当主様のことを名前で呼んでいることを見透かされたのかと思って焦った。
「君も、そのうち筒路森の姓になるんだぞ。いつまでも筒路森と呼ばれてもな」
「……申し訳ございません」
筒路森悠真様のことは幼い頃から存じ上げていたけれど、その存じ上げるというのは名前を見聞きしたことがある程度のもの。
「呼び方を強制するつもりはないが、いつまでも強情を張っていると……」
「…………?」
「そのうち言い間違えるからな」
「……滑らかに名乗ることができるように努力します」
こうして言葉を交わし合うのは、初めてのことのはずなのに。
私は、筒路森悠真様と過ごす時間を心地よいと感じるようになってきてしまった。
「君の人生は、努力をすることだらけだな」
柔らかい笑みを向けてくださる悠真様を見て、私も悠真様のような優しさを心に秘めていたいなと思う。
「中途半端な生き方をしてしまったもので……」
紫純琥珀蝶と言葉を交わす前の幼少期は、華族との政略結婚を成立させるための教育を受けてきた。
けれど、紫純琥珀蝶と喋ることができると判明してからは、北白川の残された財産が私につぎ込まれることはなくなった。
私に注いできたお金はすべて、妹が美しく生きるために使われてきた。
「中途半端な教育しか受けていないと言えばいいのでしょうか……」
華族と政略結婚するのに相応しいのは、蝶と話せる私ではない。
普通の生き方ができる妹の美怜だと、父は判断した。
北白川という名を守りたいという両親は、いらなくなった私を殺すことができなかった。
生かしたくもないけれど、殺人に手を染めるくらいなら仕方なく生きさせてやる。
私を生かすために、両親には長年辛い思いをさせてしまったと思う。
「私が、筒路森様に相応しい妻になれるのか……」
「自信がないか?」
言葉を選びながら話をしている私を、悠真様は咎めることも急かすこともなかった。
私なりの速度で言葉を選べるように、悠真様は待ってくれる。
その気持ちを感じられるからこそ、心が悠真様へと懐いていくのが分かる。
「政略結婚から始まる関係だ」
悠真様の言葉には棘のようなものを感じてしまうのに、私の髪に触れる際の手つきは優しい。
「互いに得るものさえあれば、そこまでかしこまる必要はないだろ」
私を美しく着飾ろうとしてくれているのが分かるからこそ、悠真様の声で奏でられる言葉たちの冷たさに戸惑ってしまう。
「金が欲しければ、いくらでも言ってくれ」
「…………」
「そこを遠慮してどうする? 俺たちの関係は政略結婚から始まったんだ。なんでも要求してほしい」
「……努力しま……」
何度、努力しますという言葉を繰り返すつもりなのか。
私の言葉遣いに笑いが堪えきれなくなった悠真様は、声を出して笑いを溢れさせた。
「変に難しく考えるから君の人生は努力だらけになるんだと、よ~く理解した」
彼が笑った瞬間、障子の向こう側にある庭園で色褪せた落ち葉が風で舞った。
世間は薄暗さを知る時間帯になってきているはずなのに、筒路森の庭園は夜という時間を演出する工夫が施されているらしい。
いつ、どんなことがあっても、美しい生き方をしなければいけないという華族としての誇りのようなものを感じた。
「何も考えていないときの方が、素直に名前を呼べるらしいぞ」
「……いつ、私が筒路森様の名前を呼んだのか記憶にないのですが」
「それは秘密にさせてくれ」
心で、彼を名前で呼んでいることに気づかれたのか。
筒路森には特殊な能力が授けられているのかと焦りやら羞恥やら、様々な感情が混ざりすぎて可笑しくなりそう。
障子の隙間から見える季節の移り変わりに目を向け、心を落ち着けようと意識したときのことだった。
「ああ、外の景色が気になるのか」
悠真様は些細な変化に、とても敏感だった。
「空気を入れ換えるために少し開けていたんだが……全開にすると、さすがに身体に堪えると思ってな」
空気が澄み渡り、朝晩の冷え込みが一層厳しくなってきた今日この頃。
息が白くなることで冬の訪れを感じられるようになって、ああ、手足の先が凍える毎日が始まるのかと恐れを抱いていた。
「病み上がりに無理をさせたくないんだ。これくらいの隙間で我慢してくれ」
でも、今年は久しぶりに暖を取ることができる。
凍てつくほどの冷たい空気に怯え、手足の感覚がなくなることもない。
彼の優しい微笑みは、私のことを守ってくれる。
そんな自惚れに酔いしれながら、赤らめた頬の熱が早く引くように両手で頬を覆った。
「身支度ができたら、外に出よう」
「どこへでもお供いたします」
「ははっ、いちいち堅苦しいな」
せっかく私の相手をしてくれるのだから、私と接してくれる方にも心地のよい時を過ごしてもらいたい。
欲を出すのなら、悠真様を大きな優しさで包み込んであげられるような人間でありたい。
そうは思っていても、悠真様は私よりも大きな愛をくださるから困ってしまう。
「先程、中途半端な生き方と言ったが……」
「はい」
「綺麗な髪だな」
「……ありがとうございます」
私の髪が綺麗なのは、筒路森家に来てから、とても良くしてもらっているからだと思う。
外の世界には、こんなにも大きな贅沢が待っていたのかと驚かされるほど、筒路森家の財力の高さには感謝をしている。
「痛くないか?」
「こんなの、痛みのうちに入りません」
悠真様の手がそっと伸び、私の髪へと触れた。
綺麗な髪とおっしゃってくれたものの、筒路森のご当主様に触れてもらうほどの価値があるとは思えない。
「この髪を、もっと引き立てるには……」
私の髪に触れている間、悠真様は一人きりの世界に没頭されていた。
ときどき発せられる言葉に何かを返したいと思っても、何を返していいのかさえ分からない。でも、彼の声で伝わってくる言葉の数々に勇気づけられていく。その言葉の数々を受け入れると、自分の口角が上がっていくのが感じてしまって恥ずかしい。
(今なら、勇気を出せるかもしれない……)
たとえこの婚約に何か裏があったとしても、自分が大切にされていることに変わりはない。
悠真様が与えてくれる優しさに、応えられる人間でありたい。
そんな小さな夢を実現させるために、閉じたままだった唇を動かすことを私は選んだ。
「悠真様の手の温もりが、とても心地よいです」
優しく穏やかな悠真様の熱が、髪の上で動きを止める。
「……悠真、様?」
心の中で呟くだけで、肝心の言葉が出てこなかった。
彼の名前を呼びたいのに、緊張で声が出ない。
心の中では何度も練習をしていて、それをやっと自分の声に乗せることができたのに、悠真様の返事はなかった。
「あ……やはり突然、お名前でお呼びして失礼……」
「違う、そうじゃなくて……」
鏡越しに映る悠真様の表情だけでは満足いかなかったらしくて、私は後ろを振り返りたい気持ちに駆られる。でも、髪が乱れることを恐れて、それができない。
「悠真さ……」
「想像していたよりも、嬉しいものだな……」
「……何、が……」
「結葵に名を呼んでもらうことだよ」
悠真様が丁寧に私の髪を梳かすことで、私の髪には艶やかさが増していく。
悠真様の手には、魔法みたいな力が宿っているのかもしれない。
「悠真様……」
「あ、悪い。痛かったか?」
「想像していたよりも、嬉しいものですね……」
「結葵?」
悠真様がくださるお言葉にも、魔法のような力が宿っているのかもしれない。
「悠真様に、名前を呼んでもらえることが……です」
さっきから、自然に上がっていく口角。
こんなにも楽しくて、こんなにも幸福を感じられるのは、人生で初めてのことだった。
「ふふっ、ははっ」
満面の笑みという言葉が、どういう笑みを指すのか分からなかった。
でも、今日という日に。
(悠真様が見せてくれる、その表情を……)
私は人生で初めて、満面の笑みという言葉の意味を知ることができたかもしれない。
(とても愛おしく思う)
悠真様から伝わってくる優しさと、髪に触れる一生懸命さが、私に極上の幸せを運んできたような気がする。
「よし、完璧だな」
華族に嫁ぐ人間として育てられていた頃は、見た目を気遣うように言われていた。
没落寸前の北白川家にお洒落を決め込む余裕などなかったけれど、それ相応に相応しい格好をしなければいけないと思っていた。
「美しすぎて、言葉もでないか?」
そんな生活は終わりを迎え、髪は伸びていく一方のみすぼらしい生活が始まった。
一度は華族の婚約者にもなれないほど落ちぶれたはずなのに、こうして私は悠真様の手で美しく着飾っていただけた。
「……調子に乗ってしまいそうになります」
「君は調子に乗るくらいが、ちょうどいいんじゃないか」
妹から奪い取った、筒路森悠真様の婚約者の座。
妹が悠真様に好意を抱いていたかは分からないけど、筒路森のご当主様に縋った妹の最後の姿が目に焼きついて離れない。
妹の中に、彼への未練は確実に残っている。
どんなに多額のお金を北白川に送ったところで、私は妹に許してもらうことはできない。
「……言葉の割に、元気がなさそうに見えるが」
「鏡に映っているのが自分とは思えなくて、喜びで言葉を失っているだけのことです」
悠真様とは、政略結婚で結ばれた間柄。
私は筒路森のために尽くしていかなければいけない。
そして、その働きに応じて、家族が何不自由なく暮らしていけるだけのお金を北白川北白川家に送らなければいけない。
(私は、幸せになってはいけない)
自分には幸せを感じる資格はないと言い聞かせていることを悟られてしまったのか、いつの間にか悠真様に顔を覗かれていた。
「嘘を吐いても、演技をしても、それは君の自由だ」
言葉通りの政略結婚を、成立させることの難しさを感じる。
「だが、体調が悪いときだけは無理をしないでくれ」
筒路森の当主として、北白川家の人間を気遣っているだけに過ぎない。
そうは思っていても、こんなにも人を気にかけてくれる言葉をくれる悠真様は本当に優しい方なのだと思う。
「悠真様」
きっと、私が知らないところで多くの人たちを気にかけている。
もちろん敵と呼ぶような方も存在するのだろうけど、その敵すらも一掃するだけの人望を悠真様はお持ちだと容易に想像ができる。
「悠真様のお気遣いに、心から感謝申し上げます」
筒路森悠真様との出会いは、まだ私たちが幼い頃に両親が仕組んで導かれたもの。
「んー……」
「悠真様?」
本来なら、私たちは出会うことがなかった。
「やはり堅苦しい」
「あ……申し訳ございません……」
「それが君の性格というなら、これ以上、俺が何かを言うことはできない」
出会ってしまったことを運命と呼んでしまうのは簡単。
「でもな」
でも、きっと、私たちが出会えたことは運命だったのではないか。
そんな風に、自惚れてしまう。
「結葵との間に距離を感じるのは、かなり寂しい」
悠真様とは、まったくの縁もゆかりもなかったはずの私。
悠真様の瞳に映る予定だったのは、妹の美怜。
それなのに、悠真様が私のために言葉を送ってくださることが嬉しすぎて涙腺が揺らされる。
「上手く生きる必要はないんだからな」
政略結婚という言葉を辿ると、もっと愛のないところから始まるものだと思っていた。思い込んでいた。
でも、実際には悠真様から、こんなにも大切にされているのが伝わってきて怖いくらい幸せで困ってしまう。
「人は上手く生きたいと……願ってしまうものですよ」
悠真様が与えてくれる優しさから逃げてしまってもいいのに、私は、その優しさを受け取ってしまった。
それが、私と悠真様との間に引かれた境界線を取り払うきっかけとなってしまった。
「悠真様も、筒路森の当主として立派に生きておられるではないですか」
「……だといいんだがな」
深い溜め息を漏らして、悠真様は一瞬だけ目を伏せた。
「悠真様が、ここにいる。それが、立派に当主を務めあげている証明になるのだと思いますよ」
言葉通りの、政略結婚。
それで良かった。
それだけで良かった。
そんな言葉通りの未来を、私は生きるものだと思ってきた。
「ここにいる、か……」
「はい」
ただの、普通の、特別な関係なんて何もない政略結婚と関係。
特別なんていらないから、普通が欲しかった。
悠真様と、言葉通りの政略結婚という関係を築いていきたかった。
だけどそれは、私が一方的に抱いていた妄想だったのだと気づかされる。
「俺が当主にならなかったら、結葵とも出会えなかったわけか」
「そうですね」
紫純琥珀蝶で結ばれた、少し奇妙な縁ではある。
そんなことを思うけれど、紫純琥珀蝶は私と悠真様を繋ぐ唯一の存在。
蝶が存在するから、私は悠真様と話すことができる。
蝶が存在することで、私と悠真様は時間を共有することを許される。
(悠真様にとっては重くて辛い、私という名の荷物を背負わせてしまうことにはなるけれど……)
紫純琥珀蝶が生き続ける限り、私たちの関係は永遠になる。
(蝶を介した繋がりなんて、脆いものでしかないのに)
悠真様と永遠の関係を望んでいるのかと言われれば、恐らくそんなことは望んでいない。
それなのに、悠真様との繋がりを断ちたくないと思ってしまうのは、短い時間の中で与えられる悠真様の優しさが私の感覚を麻痺させてしまった証なのかもしれない。
「結葵」
「はい」
「傍にいてもらえるか」
「命じられなくとも」
両想いなんて、おこがましい。
ううん、おこがましいなんてものじゃない。
悠真様にとっては、政略結婚という関係ですら迷惑なものかもしれない。
政略結婚以上の感情を私が抱くなんて、そんな奇跡みたいな日が訪れたら悠真様はきっと私を拒絶すると思う。
「悠真様こそ、私に要求してください」
でも、そんな日、絶対に訪れさせない。
私は、政略結婚という関係を守り続けてみせる。