「さあ、悠真。私たちに手を貸しておくれ」
冷たい月の光が差し込む薄暗い部屋の中、父親と対峙しているだけのことで手の震えが止まらなかった。
明かりが灯らない部屋ということが幸いして、自分が父に対して恐怖を抱いているということを勘づかれなかったのは不幸中の幸いか。
「紫純琥珀蝶が、記憶を消すことができるか確かめなければいけないんだ」
民を蝶の脅威から守るという表向きの顔を用意しておきながら、裏では民を蝶の脅威に陥れる。
そうすることで栄えてきたのが、筒路森家だった。
筒路森家に産まれたときから、俺は紫純琥珀蝶の力を利用するために生きていくことが義務づけられた。
「蝶を操ることができないと、私たちは路頭に迷ってしまう」
金持ち連中を相手に、都合よく記憶を消すことで巨額の富と高い地位を得ることができる。
今日も、その都合の良さを継続するための実験が始まった。
「私は、家族を愛している。家族に、そんな苦労を伴わせたくない。理解してくれるな?」
目の前にいるのは自分の親のはずなのに、冷酷な目で見降ろされているような気持ちになってしまうのはどうしてなのか。
「大丈夫。また記憶が消えても、私はおまえのことを愛している」
息子を庇った母は、数分前に紫純琥珀蝶の餌食となった。
記憶を失った母が床にうつ伏せの状態で倒れていて、一刻も早く母の無事を確かめたいのに父はそれを許さない。
「これは人類が、人生を何度もやり直すための第一歩へと繋がる貴重な実験!」
父が、どんと壁を叩いた瞬間。
心臓が壊れそうなほどの恐怖を抱いた。
「何も怖がることはない。ただ、今まで生きた記憶を消すだけのこと」
手から温度が抜けゆくのが分かり、指先が寒さで痺れていくかのような感じがした。
「悠真、愛してる。幸子と一緒に、また一から家族をやり直そう」
鏡のない場所では、自分がどんな表情をしているのか確認することができない。
父が無情な目で息子を見つめているのなら、きっと自分も冷たい視線を父に向けていることだろう。
(母さんが記憶を失うのは、これで何度目のことか……)
心が悲しみと絶望で満たされていくのを感じるけれど、不思議と父に対する怒りの気持ちも悔しさのような気持ちも湧き上がらない。
「さあ、悠真。目を伏せるんだ」
父が母を愛していたのは確かな事実で、父は一度も母に暴力を振るったことがない。
ただ、俺を守るために反抗的な態度をとったときだけ、蝶の力を利用して母の記憶を奪う。
そうして記憶を失った母を洗脳して、また一から愛ある家族関係を築いていくのが父のやりかただった。
(愛のある家庭、か……)
そんな歪さに体も心も慣れ切ってしまったせいで、父に逆らうという言葉の意味を忘れてしまったのかもしれない。
父の命令に従うため、目を伏せようとしたときのことだった。
「っ、違う! 私じゃない! 私の方に来るな!」
父に飼い慣らされていた紫純琥珀蝶が、父に復讐を志したかのようにねっとりと寄りついていく。
決して、父から離れるつもりはないのか。
それとも自分の事を助けてくれたのかという、おとぎ話のような妄想を繰り広げてしまう。
(自業自得とは、こういうことを言うのか……)
一回の瞬きを終えると、父は母と一緒に床へと伏せていた。
二人が床に体を打ちつけていないか確認しようと近づくと、一匹の紫純琥珀蝶が肩へと舞い降りた。
「……助けてくれたのか」
問いかけたところで、蝶が言葉を返すことはなかった。
「そのつもりはなくても、記憶を残してくれたことは感謝している」
肩に乗っただけでは記憶が奪われることはないと確認し、人差し指で蝶に触れようとした。
すると蝶は、抵抗を示した。
触れられることを嫌がったのか、触れたら記憶を消してしまうという警告なのか。
蝶は月明かりが優しく差し込む部屋で、ふわりと舞を踊った。
「これで、蝶を使えば記憶を消すことができると証明できたな」
父が記憶を失ったおかげで、筒路森の当主の座を奪うことに成功した。
自分が蝶の力を利用して父の記憶を消すという算段を整えていたが、結果的に父の失態で自分は手を汚さずに済んだ。
(これから多くの穢れに塗れていくのに……)
蝶に配慮されたところで、これからを生きていく自分は穢れていく一方。
それなのに、蝶は両親を手にかけることを許さなかった。
「まさか本当に、筒路森の当主になっちゃうなんてね」
一人でも多くの味方が欲しい。
そう画策はしていくことで、字見家の息子である初を味方につけることができた。
ただ、今も昔も人材選びにだけはどうしても慎重さを求めてしまう。
「記憶を失って、ようやくあの人たちも蝶の呪縛から解放されるだろ」
「あの人たちって……一応は、悠真くんの両親だよ」
幼い頃に、母は言った。
演じる必要はない。
好きなように生きなさいと。
ただし、人を愛してはいけないよと言われた。
相手の人生を、相手の未来を、変えてしまうことに繋がるから。
『私は、生きていくことを許されるんじゃないかって。明日死ぬかもしれないって言う恐怖が、明日も生きられるかもしれないっている希望や期待に変わっていくんです』
一人の女性として愛しているとか、そういうことは考えたこともなかった。
紫純琥珀蝶と交渉をしていくための貴重な存在だとは思っていたが、その貴重という感覚は母との約束を破ることになると気づいた。
『結葵を救う役目を、俺にも担わせてほしい』
だったら、俺は、すべてを愛することを選ぼうと思った。
結葵と、結葵の人生に関わるすべてを愛することを決めた。
すべてに愛情を注ぐことができれば、自分の穢れを祓うことができるかもしれない。
そんな安易は、初めての恋心へと繋がっていった。
「悠真、様……」
月明かりが窓から差し込む部屋で、結葵はすやすやと眠っていたはずだった。
薄手の毛布を彼女にかけようとした際に、ふわりとした風が顔に当たってしまったのかもしれない。眠りの世界から無理矢理に呼び戻された結葵は、ぼんやりとした眼差しで俺の名前を呼んだ。
「悪い、起こしたな」
結葵の瞼がゆっくりと上がっていき、俺が結葵の瞳に映り込む。
そのとき感じた幸福を、俺は一生忘れることができないと思った。
冷たい月の光が差し込む薄暗い部屋の中、父親と対峙しているだけのことで手の震えが止まらなかった。
明かりが灯らない部屋ということが幸いして、自分が父に対して恐怖を抱いているということを勘づかれなかったのは不幸中の幸いか。
「紫純琥珀蝶が、記憶を消すことができるか確かめなければいけないんだ」
民を蝶の脅威から守るという表向きの顔を用意しておきながら、裏では民を蝶の脅威に陥れる。
そうすることで栄えてきたのが、筒路森家だった。
筒路森家に産まれたときから、俺は紫純琥珀蝶の力を利用するために生きていくことが義務づけられた。
「蝶を操ることができないと、私たちは路頭に迷ってしまう」
金持ち連中を相手に、都合よく記憶を消すことで巨額の富と高い地位を得ることができる。
今日も、その都合の良さを継続するための実験が始まった。
「私は、家族を愛している。家族に、そんな苦労を伴わせたくない。理解してくれるな?」
目の前にいるのは自分の親のはずなのに、冷酷な目で見降ろされているような気持ちになってしまうのはどうしてなのか。
「大丈夫。また記憶が消えても、私はおまえのことを愛している」
息子を庇った母は、数分前に紫純琥珀蝶の餌食となった。
記憶を失った母が床にうつ伏せの状態で倒れていて、一刻も早く母の無事を確かめたいのに父はそれを許さない。
「これは人類が、人生を何度もやり直すための第一歩へと繋がる貴重な実験!」
父が、どんと壁を叩いた瞬間。
心臓が壊れそうなほどの恐怖を抱いた。
「何も怖がることはない。ただ、今まで生きた記憶を消すだけのこと」
手から温度が抜けゆくのが分かり、指先が寒さで痺れていくかのような感じがした。
「悠真、愛してる。幸子と一緒に、また一から家族をやり直そう」
鏡のない場所では、自分がどんな表情をしているのか確認することができない。
父が無情な目で息子を見つめているのなら、きっと自分も冷たい視線を父に向けていることだろう。
(母さんが記憶を失うのは、これで何度目のことか……)
心が悲しみと絶望で満たされていくのを感じるけれど、不思議と父に対する怒りの気持ちも悔しさのような気持ちも湧き上がらない。
「さあ、悠真。目を伏せるんだ」
父が母を愛していたのは確かな事実で、父は一度も母に暴力を振るったことがない。
ただ、俺を守るために反抗的な態度をとったときだけ、蝶の力を利用して母の記憶を奪う。
そうして記憶を失った母を洗脳して、また一から愛ある家族関係を築いていくのが父のやりかただった。
(愛のある家庭、か……)
そんな歪さに体も心も慣れ切ってしまったせいで、父に逆らうという言葉の意味を忘れてしまったのかもしれない。
父の命令に従うため、目を伏せようとしたときのことだった。
「っ、違う! 私じゃない! 私の方に来るな!」
父に飼い慣らされていた紫純琥珀蝶が、父に復讐を志したかのようにねっとりと寄りついていく。
決して、父から離れるつもりはないのか。
それとも自分の事を助けてくれたのかという、おとぎ話のような妄想を繰り広げてしまう。
(自業自得とは、こういうことを言うのか……)
一回の瞬きを終えると、父は母と一緒に床へと伏せていた。
二人が床に体を打ちつけていないか確認しようと近づくと、一匹の紫純琥珀蝶が肩へと舞い降りた。
「……助けてくれたのか」
問いかけたところで、蝶が言葉を返すことはなかった。
「そのつもりはなくても、記憶を残してくれたことは感謝している」
肩に乗っただけでは記憶が奪われることはないと確認し、人差し指で蝶に触れようとした。
すると蝶は、抵抗を示した。
触れられることを嫌がったのか、触れたら記憶を消してしまうという警告なのか。
蝶は月明かりが優しく差し込む部屋で、ふわりと舞を踊った。
「これで、蝶を使えば記憶を消すことができると証明できたな」
父が記憶を失ったおかげで、筒路森の当主の座を奪うことに成功した。
自分が蝶の力を利用して父の記憶を消すという算段を整えていたが、結果的に父の失態で自分は手を汚さずに済んだ。
(これから多くの穢れに塗れていくのに……)
蝶に配慮されたところで、これからを生きていく自分は穢れていく一方。
それなのに、蝶は両親を手にかけることを許さなかった。
「まさか本当に、筒路森の当主になっちゃうなんてね」
一人でも多くの味方が欲しい。
そう画策はしていくことで、字見家の息子である初を味方につけることができた。
ただ、今も昔も人材選びにだけはどうしても慎重さを求めてしまう。
「記憶を失って、ようやくあの人たちも蝶の呪縛から解放されるだろ」
「あの人たちって……一応は、悠真くんの両親だよ」
幼い頃に、母は言った。
演じる必要はない。
好きなように生きなさいと。
ただし、人を愛してはいけないよと言われた。
相手の人生を、相手の未来を、変えてしまうことに繋がるから。
『私は、生きていくことを許されるんじゃないかって。明日死ぬかもしれないって言う恐怖が、明日も生きられるかもしれないっている希望や期待に変わっていくんです』
一人の女性として愛しているとか、そういうことは考えたこともなかった。
紫純琥珀蝶と交渉をしていくための貴重な存在だとは思っていたが、その貴重という感覚は母との約束を破ることになると気づいた。
『結葵を救う役目を、俺にも担わせてほしい』
だったら、俺は、すべてを愛することを選ぼうと思った。
結葵と、結葵の人生に関わるすべてを愛することを決めた。
すべてに愛情を注ぐことができれば、自分の穢れを祓うことができるかもしれない。
そんな安易は、初めての恋心へと繋がっていった。
「悠真、様……」
月明かりが窓から差し込む部屋で、結葵はすやすやと眠っていたはずだった。
薄手の毛布を彼女にかけようとした際に、ふわりとした風が顔に当たってしまったのかもしれない。眠りの世界から無理矢理に呼び戻された結葵は、ぼんやりとした眼差しで俺の名前を呼んだ。
「悪い、起こしたな」
結葵の瞼がゆっくりと上がっていき、俺が結葵の瞳に映り込む。
そのとき感じた幸福を、俺は一生忘れることができないと思った。