「婚約者同士ですから、許してください」
 
 悠真(ゆうま)様は、よく私のことを抱き締めてくれる。
 抱きしめ癖があるのではないかと思うくらい……日々を生きることに不安を感じている私のことを、いつも優しさと温もりで包み込んでくれる。

「練習をさせてください、悠真様」

 いつもなら、蝶と言葉を交わす子()は輪の外へと追いやられる。

「……今日は、特別だ」

 人の熱を感じることができないまま、私は独り放置されてしまう。
 
「……ありがとうございます、悠真様」

 でも、今日は初めて悠真様と両想いの真似事ができた記念日。

「年下は、年上の方に甘えられるのでいいですね」
結葵(ゆき)、調子に乗りすぎだ……」
「ふふっ」
 
 互いが、体を背けたいくらいの羞恥に駆られていると信じたい。
 一瞬だけ視線を外してしまった悠真様だったけれど、すぐに私を抱き締める腕の力を強めてくれた。

「経験のない年下を指導するのは、大人の役割ですよ」

 蝶と言葉を交わす子()は、ずっと世間から拒絶されてきた。
 誰かに触れることを拒絶されることが当たり前だったから、私は触れてはいけないと思っていた。
 蝶と言葉を交わす子()に、触れたい人なんていないと思いながら生きてきた。
 そう思い続けてきたはずなのに、彼は私に触れることを躊躇わない。

「正直に言うと……不安だった」

 悠真様の腕に、力が入る。
 より強い力で抱き締められた私は、益々勘違いしていく。

筒路森(つつじもり)がやってきたことを知ったら、結葵は筒路森(つつじもり)を拒絶すると思い込んでいた」

 悠真様も、不安。
 私も、不安。
 どちらも抱えている感情が同じで、同じを共有できることが、その不安を和らげてくれる。

「不安にならないでください」

 悠真様と私は、両想いなんじゃないかって。
 勘違いしそうになる。

「私は紫純琥珀蝶(しじゅんこはくちょう)が存在する限り、悠真様のお傍にいますから」

 でも、今やっていることは、ごっこ遊びに過ぎない。
 すべては勘違い。
 悠真様は、世界を知るために旅に出られる方。
 私は、これから先も蝶を想って生きる側の人間。

「幸せになりましょう」

 出会ったときから、世界を交えてはいけない人だった。

「互いがいなくなった世界でも、必ず幸せになるために」

 世界を交えてはいけなかったはずなのに、私たちの世界は交わってしまった。
 だから、私は、人を好きになるという感情を知ってしまった。

「……なんだか、矛盾した言葉の羅列だな」
「ですね、蝶が存在する限り、私たちの縁は切れることがないのに」
「ああ、結葵を手放すつもりは毛頭ない」

 私も、できる限り腕に力を込める。
 悠真様の幸せを願って。

「結葵のいない世界なんて、考えられない」

 その言葉をくれるのなら、紫純琥珀蝶(しじゅんこはくちょう)が飛ばなくなったがあとの人生も。
 あなたと一緒に生きていきたいです。
 そんな言葉を付け加えてください。
 中途半端な言葉は、私の涙を誘う原因になってしまう。

「結葵は?」

 名前を呼ばれると同時に、私を抱き締めていた腕が離れていく。
 婚約者としてのやりとりが終わってしまうと嘆く前に、悠真様は私の下唇を指先で優しく撫でてくる。
 悠真様の問いかけに答えを返さなければいけないのに、意識が唇へと集中する。

「結葵」

 唇に触れる悠真様の指に魅入られていた私は、悠真様に名前を呼ばれることで悠真様と視線を交えてしまった。

「悠……」

 悠真様の瞳には私が映っていて、私の瞳には悠真様が映っている。
 そんな自覚が生まれたことが羞恥に繋がった私は、彼の名前を呼ぶことすら忘れてしまった。

「結葵」

 悠真様は、私の名前を呼んでくれる。
 私がされて嬉しいことを、悠真様にもしてあげたい。
 そう思って、彼の名前を音にしようとした。

「悠真さ、っ……」

 刹那、声が塞がれた。
 優しく重なり合った唇。
 触れるだけの口づけ。
 私たちの婚約者ごっこは、ここで終わった。