「もっと、上手く生きられたらいいのですが」

 狩り人(かりびと)のみなさんが力を発揮される刻が訪れ、紫純琥珀蝶(しじゅんこはくちょう)は淡い紫色をまといながら姿を見せる。

「現実は酷なものですね」

 狩り人は、民を人々の記憶を喰らう蝶から守るために活動されている。
 私は呑気に、窓越しに寄ってきた蝶の記憶を今日も辿る。
 私は蝶の記憶を辿ることを呑気と称しているけれど、蝶の記憶を辿ることで蝶を殲滅させる術を探すという活動でもあった。

「こちらにいらっしゃいませんか」

 人間の力に加わってくれたら、狩り人の脅威から守るという交換条件。
 蝶が寿命以外の理由で死ぬことはありませんよと、私は今日も蝶を勧誘していく。

「また、お話ししてくださいね」

 穏やかな時間が終わりを告げ、狩り人の仕事を終えた悠真様が帰ってきたと連絡を受けた。

「お元気で」

 蝶と別れの挨拶を交わし、私は悠真様が使用している書斎へと足を運ぶ。
 紫純琥珀蝶が飛び交う時間帯は夜更けということもあり、彼は先に寝ていろと命じてくる。でも、私は、その命令にだけは背いていた。

(悠真様の無事を確認するまでは、眠りに就けないものですよ)

 ただの自己満足。
 悠真様を労うというよりは、ただ単に私が彼のお顔を拝見して安心したいだけ。
 そんな自己満足を抱えながら、今日も渡された鍵を使って書斎へお邪魔させてもらう。

(この鍵を使うのに、もう緊張もしなくなってきましたね)

 部屋に入ると、書斎に置かれている洋風の長椅子に体を横たえた悠真様を見つける。
 部屋に来訪者が現れたことに気づきもしないくらい深い眠りに落ちているらしくて、こんなにも無防備になっている姿を見て心が喜び始める。

(心臓が……速くなってる……)

 合鍵を使うことに緊張はしなくなったのに、彼と再会を果たすと心臓は忙しなく働き始める。
 真っ当な動きをする心臓が欲しいと思うけれど、この忙しなさを不快に思うこともできない。

(ただ、悠真様を視界に入れているだけなのに……)

 心臓の音がうるさすぎて、彼の睡眠を妨げてしまわないか。
 そんな心配をしてしまうくらい、心臓がどくどくと脈打つような。
 不思議な感覚に戸惑いつつ、彼が体を休めている書斎机へとそっと近づく。

「…………」

 悠真様の寝顔を見つめていられるくらい近くまでやって来ると、机の上には多くの写真が散在していることに気づいた。
 散在しているという言い方は悪いかもしれないけれど、写真の数があまりにも多すぎて、思わずそんな印象を受けてしまう。

(風景の写真……)

 北白川の、外の世界。
 外の世界を、そのまま切り取ってきたような鮮明な美しさ。
 白黒の写真に色彩は感じられないはずなのに、四季で彩られた風景に憧れを抱かずにはいられなくなる。

(外の世界に……怖いものは何もない……)

 まるで、そう語りかけてくるような。
 人の心を和らげて、外の世界に連れ出してくれるような魅力が詰め込まれている写真。
 これらは写真だけど、案内状。
 外の世界に導くための案内状。
 そんな気さえしてしまうくらい、机の上には鮮やかで輝かしい四季の風景が広がっていた。

「……おかえりなさいませ、悠真様」
「ただいま、結葵」

 私と関わってくれる人は、私の心臓を揺らすのが得意らしい。
 驚いた私は大きな声を出しそうになったけど、ここで大きな声を上げる必要はない。
 なぜなら、彼の前で怖いことは起きないと知っているから。

「あ……」
「どうした?」

 私は毎晩、彼の書斎を訪れている。
 私の習慣を熟知している彼は狸寝入りをしていたらしくて、私は言葉を失って固まってしまう。

「久しぶりすぎて、俺のことを忘れたか」

 書斎机に伏せていた彼は眼鏡を外していて、何もかけていない彼の瞳が印象的だった。いつもよりも、はっきりと彼の瞳を確認できた気がして思わず見惚れる。

「こっちは、いつだって結葵のことを考えているんだがな」

 こうして難なく、私と視線を交えてくれる彼
 視力矯正としての眼鏡という意味もあるのかもしれないけれど、彼の社会的地位や富、権威を象徴するための眼鏡でもあるのだと気づき始める。

「この写真とか、結葵は好きそうだな」

 言葉を発することができなくなっている私を見かねたのか、悠真様は四季の中でも最も鮮やかな写真……多くの花が咲き誇る春の季節の写真を見せてくれた。

「やっと笑ったな」

 笑った?
 私が?
 作り込むことなく笑顔を浮かべられるようになった自分に安堵しつつ、私も彼を安心させることができるようになってきたのだと嬉しくなる。

「こっちの写真も、おすすめだな」

 変わり始めているのかもしれない。
 自身に訪れている変化に心が穏やかになってくると、彼は次々に心惹かれる写真を私に提供してくれる。

「桜と……菜の花畑……?」
「白黒の写真でしかないが、桜の淡い色と、菜の花の鮮やかな黄色に差異がよく表れている」

 春という季節にしか見ることができない薄桃色の花びらが咲き誇る桜並木。
 そんな桜の木々に寄り添うように植えられた菜の花。
 一度も足を踏み入れたことのない土地だと分かっているからこそ、この花たちが輝く瞬間を自分の目で確かめてみたくなる。
 未来への希望のようなものが生まれてくる、素敵な写真だと思った。

「花が咲き誇る季節ですから、いい写真が撮れそうですね」
「時代が進めば、写真に色を残すこともできるんだろうが……そこまで生きられるのか不明なところが残念だ」

 首の後ろを触りながら、彼は悔しそうに唇をぎゅっと結んだ。

「あの、もしかして、この写真を撮影されたのは……」

 一度見たら忘れられなくなるような、心を奪う魅力溢れた写真たち。
 それらを撮影した方が目の前にいらっしゃるなんて、感動で言葉を失ってしまいそうになる。

「とても……とても素敵な写真です」

 もっと、外の世界を知りたくなった。
 北白川での生活しか知らなかった私が、外の世界を歩んでみたいと思えるようになった。
 そんな素直な気持ちを、彼へと伝えた。

「ありがとう、結葵」

 気持ちを隠すことなく伝えることで、私にはもったいないくらいのお礼の言葉を彼からいただいてしまった。