「あの……」

 悠真(ゆうま)様を見つめてばかりいるのも申し訳ないと感じた私は、一瞬だけ彼から目を逸らした。

結葵(ゆき)

 そんな時機を見計らって、悠真様は私に話しかけてきた。
 だから、私は悠真様に視線を戻すべき時機が分からなくなってしまって、視線をなぜか暖炉の方へと向けたまま。
 けれど、彼の視線は私の体に突き刺さる。

(狡い……)

 悠真様の話を、ちゃんと聞きたいと思っていたのに。
 私が悠真様から離れた瞬間を狙うなんて、悠真様は本当に狡すぎる。

「悠真様のお話、聞かせてください」
「……ありがとう、結葵」

 悠真様の方に視線を向けられない状況ができてしまった私は、悠真様に送りたくて仕方がなかった言葉をようやく送る。
 何も焦ることはないからって気持ちを込めながら、なんとか悠真様が声にすることを躊躇っている言葉の数々を引き出せるように試みる。

「少し、こっちに来てくれないか」

 悠真様が身を預けていたソファは仮眠用に使われる者なのか、三人くらいが腰かけても大丈夫そうな広さを誇っている。

「…………」

 悠真は、ほぼ横になっている状態。
 完全に寝ているわけではないけれど、身長の高い悠真様がソファを占領してしまったら私はどこにお邪魔すればいいか分からない。

「…………少しだけですよ」

 お疲れの悠真(ゆうま)様には少しでも早く身体を休めてもらいたい。
 そう思って、なるべく早く会話を切り上げるにはどうしたらいいかと思案しながら悠真様の元へと近づいた。
 そんな私を見かねた悠真様は手招いて、もっと傍に寄るよう私のことを呼び寄せる。

「無理です……」
「無理じゃないだろ」

 さっきから、このやりとりを繰り返す。
 
「無理……」
「大丈夫」

 悠真様と出会ったときから、そうだった。
 私が無理と否定をすると、悠真様は大丈夫だと肯定してくれる。
 私たち、正反対だった。
 出会った頃も、今も。

「意識しすぎだ」

 私たちが揉めている原因は、ただ一つ。
 ソファに身を預けている悠真様は、私にもソファを使うように促してくる。
 一緒に休もうと言いたいのは分かるけれど、悠真様が靴を脱いで仰向けに体を寝そべらせている状態で私はどこに座ればいいのか分からない。

「っ」

 悠真様が両腕を広げて、私の到着を待つ。
 そこまでされれば、自分がどうするべきか分かっている。
 私の体を、彼に預ける。
 彼が求めているのは、そういうこと。
 私が応えなければいけないのは、そういうこと。

「……無理です」
「ちゃんと抱き留める。ちゃんと抱き締める」

 聴覚に高すぎる熱を落とされて、もっともっと触れてほしいという感情が湧き上がる。

結葵(ゆき)をソファから落とすわけがないだろ」
 
 悠真様の甘い声が、鼓膜を刺激してくる。
 甘えた声で私を誘惑してくるのが分かって、その声に抗いなさいと体が命令してくる。

(悠真様は何も想っていないかもしれないけど……)

 悠真様にとって、私はただの婚約者。
 紫純琥珀蝶(しじゅんこはくちょう)と呼ばれる蝶が存在しているからこそ、私たちは婚約者という関係を築くことができる。
 だから、こういう戯れた的なことを平気で行うことができるって頭では理解している。でも……。

(私にとって悠真様は、大切な人だから……)

 悠真様は私のことを特別意識していなくても、私は悠真様のことを特別に意識してしまう。こういうのは、こういう行為は、本当に愛し合っている者同士ではないとやってはいけないと思う。

「……これが命令だったら、結葵は受け入れてくれるか?」

 私に安心感を与えながら、私を怖がらせないように、悠真様は私に慎重に触れてくる。
 その、ふわりとした感覚に体がくすぐったさを覚える。

「悠真様は、そんな命令しません……」
「確かに、俺たちは主従関係ではないからな」

 これで、ようやく諦めてくれる。
そう安堵の息を零そうとすると、悠真様は私をおとなしくさせるための言葉を新たに投げつけてくる。

「じゃあ、夫婦になったときの練習をした方がいいな」
「っ」

 悠真様のことを、未来の旦那だと思ってはいけない。
 私たちの関係は、契約結婚のようなもの。
 そんな風に必死に働かせている思考を、悠真様はあっさりと読み取ってしまう。
 決して表に出してはいけない思考を、悠真様は簡単に見破ってしまう。
 悠真様にさえ、話したことがないのに。
 このことは、誰にも話したことがなかったのに……。

「……練習、させてもらえるのですか?」

 違う。
 違う。
 こういう言葉を言いたいんじゃない。
 でも、悠真様の体に馬乗りのような体勢になるには、適当な言葉を並べなければ勇気が湧いてこない。だから、心で思ってもいない言葉を口にしながら、私は悠真様が望むがままに悠真様が身を預けているソファに自身の体を乗せた。

「ふっ、本当に君は頑固だな」

 悠真様に馬乗り状態だったのも一瞬の出来事で、悠真様は私の腕を引いて体勢を崩しにかかる。自分の体重を支えきれなくなった私は、悠真様に体の全部を預けることになってしまって……。

「軽いな……」

 腰回りに手を回されて、私は悠真様に抱き締めてもらえた。
 悠真様は、私のことを抱き締めてくれる。
 そう思ったけど、その想いも願いも何も叶うことはなかった。

「ちゃんと食べているか」
「食事は、いつも悠真様といただいていますよ」
「間食の時間を増やすべきか……」
「嫁がふくよかになってしまったら、世間に顔向けができません」

 私たちは横向きになった状態で向かい合う。
 私は悠真様に抱き締められることなく、悠真様の横に添えられた抱き枕のようなものなのかもしれない。