(うい)は狩り人として、役に立っていますよ」
「何?」

 両親の冷たい視線は、言葉以上に私の心を刺すものだった。
 でも、彼の温かな視線は、言葉以上に私の心を救ってくれる。

(これが、経験の差……)

 一畳の部屋で授かった経験も、十六歳の私が授かった経験も、今の私を支えてはくれない。
 冷え行く一方だった自身の指に、心臓が止まったかのように感じてしまうほど。
 でも、その指先に伝わった冷たさに、今は熱を注いでくれる人がいることを自覚する。

「だって、初は、筒路森を支える重要な役職に就いていますから」
「そんなのは、見せかけの……」

 男性が、静かに床下へと視線を落とす。
 自分が踏みしめているはずの床に違和感を抱いた男性は、床が思っていた以上に軋むことに目を見開く。

「っ、何を……」
「見せかけじゃないってこと、ちゃんと証明しますよ」
「うわっ」

 その瞬間、床が大きく崩れ落ちた。
 身を投げ出してしまうほどの崩れ方はせず、男性が足元と取られる程度に床材が崩落した。

「父さんっ」

 男性は重心を崩して、ふらついた。
 その隙を逃すことなく、人質に取られていた初さんは父親である男性を取り押さえた。

「よくやりました」

 崩落した床材の隙間から、二匹の淡い紫色をまとった蝶が顔を見せる。
 ふわりと舞いながら私の肩へと舞い降りる。

「父さん……筒路森は、変わりつつあるんだよ……」
「放せっ! 放せと言ってるだろ!」

 崩れた床材に足を取られた男性は、自分を取り押さえる初さんを押し退ける。
 何度も何度も、初さんの体を強く叩く父親の姿に目を伏せたくなる。
 それでも初さんは、家族を更生させるために声を上げる。

「悠真くんが、世界を変えてくれる……」

 初さんの声が掠れ、涙が零れ落ちていく。

「出来損ないめっ! 筒路森に懐柔されたかっ!」

 重心を崩したくらいでは、男性は諦めの姿勢を見せない。
 たとえ息子に体を抑え込まれている状況でも、男性は強く握り締めた拳銃で息子の頭を狙う。悠真様は初さんを守るために、男性へと銃を構える。

(けれど、その銃は平和を守るために存在するもの)

 これ以上、優しい彼が傷つくことのないように。
 自分の力で事態を打破しようと、蝶に呼びかけようとしたときのことだった。

「蝶を、守ってくれ」

 私が動こうとしたのを察した悠真様は、銃を持たない片方の手で私の肩へと触れた。
 両肩に止まっていた蝶は、悠真様の手を避けるように宙へと舞い上がる。

(蝶を休ませろではなく、守ってくれ……?)

 少ない言葉数の中で、自分にできることを模索していく。
 それぞれが役割をこなすことで、世界を滅亡へと追い込もうとしている男性の意志を折ることができると信じる。

(この場にいる命を、守るための行動……)

 早く休まる場所へと行くことを願っている、蝶の記憶を辿る。
 字見初(あざみうい)さんの父親に虐げられた記憶を持つ蝶を探し、その蝶に共鳴する。
 強烈な香りに酔うことで、自分の意思とは違う行動をさせられた蝶を瞬時に探し出す。
 蝶と共鳴できたら、あとは蝶たちに協力を要請する言葉を向けるだけ。

「あなたの教育は、成功していますよ」

 激しく抵抗する男性は、未だに怒りと絶望の混じった瞳で悠真様を睨みつける。

「彼は私の意図を読んで、あなたを追い詰めるための手段を整えてくれた」

 彼が手をかざすと、まるで蝶の鱗粉のような粉が天井から噴射された。

「っ」

 眉をひそめて天井を見上げたままではいられず、男性は顔を手で覆おうとした。
 霧のように噴射された細やかな粉は、男性の意識をじわりじわりと侵食していく。

「彼はちゃんと、自分の力で上り詰めてきましたから」

 床に手をついて、自身を支えようとする男性。
 力を入れたいはずなのに、力が抜けていくのを止められないようにも見えた。

「彼は、努力の天才ですよ」
「くそっ……こんな……ところで……」

 男性の声は次第に弱まり、抵抗しようにもできなくなっていく。
 重くなる瞼を開こうとするものの、彼は静かに初さんの腕の中に崩れ落ち、深い眠りの世界へと誘われた。

「この粉は、なんなのですか」
「っ、ね、なんで、俺たちは平気……」

 私と初さんは、それぞれの質問を同時に悠真様にぶつけてしまった。
 そのせいで空気が一瞬、止まってしまう。
 気まずさが漂いかけたけれど、悠真様は小さく咳払いをして、私たちに目を配る。

「この粉は、侵入者対策で開発された睡眠薬」

 事件が解決されたことに勘づいたのか、蝶たちは早く巨大な硝子箱の中に帰してくれとせがんでくる。
 舞い終えた蝶たちを休ませるために、悠真様がからくり仕掛けの硝子箱を作動させる。巨大な水槽を模した硝子箱は、蝶たちのために解放される。

「狩り人に託されている銃弾が、からくりを動かすきっかけになっている」

 初さんのお父様が姿を見せる前に、悠真様と初さんが銃弾戦を繰り広げていたことを思い出す。

「実際に使用するのは初めてだったが、上手くいったな」

 銃弾が壁を撃ち抜いていたのは、相手を殺すつもりがなかったというのも本当。
 その一方で、銃弾を壁に撃ち込みながら、お二人はからくりが発動する準備を整えていたということ。

「この部屋にからくりが装備されてるのは知ってたけど、なんで俺たちは無事……」
「結葵の力に決まってるだろ」
紫純琥珀蝶(しじゅんこはくちょう)の……」

 月が雲に隠れてしまったせいか、鈍い銀色の月明かりが小窓を通して差し込んでくる。

「初は、ともかく……」
「俺だって、頑張った……」
「途中までは、本気だっただろ」
「それは……その……ごめん」

 視線を床に固定してしまいそうになった初さんを見かねて、私は彼へと歩み寄る。

「悠真様が欲しているのは、謝罪の言葉ではありませんよ」

 悠真様の声に、初さんを責める気持ちは含まれていない。
 ただ安堵の気持ちが込められていることに、初さんも気づいてほしい。
 そんな願いを込めて、彼へと声をかける。

「……結葵様、悠真くん」

 ぎこちなくではありながらも、初さんは口を開いていく。

「助けてくれて、ありがとう」

 淡い紫の翅たちは私たちを見守るように、月の揺らめきと共に夜を穏やかに照らしていく。
 蝶の翅が光り輝くわけがないのに、月明かりと混ざり合う薄紫の輝かしさに心惹かれていく。

「おかえりなさい、初さん」

 筒路森に力を貸す、大きな勢力が加わったことを蝶たちが祝福してくれる。
 目の前にある美しさは、筒路森のために思えて仕方がない。

「明日から、たくさん働いてもらうからな」

 世界を滅ぼす脅威が、完全に消え去ったわけではない。
 筒路森を快く思っていない人たちがいることを知り、私はあらためて自分に与えられた異能を彼に注ぐ決意を固める。

「私も混ぜてください、悠真様」

 ほんの少しだけ緊張の解けた表情で、私たちは月を仰いだ。