「結葵」
「大丈夫です」

 悠真様は、私から離れることなく傍にいてくれる。
 それなのに、孤独になった手は冷たさを帯びていく。
 自分の体から、温度が抜けていくような感覚に恐怖さえも感じてしまう。

「……誰? あなたは、だぁれ?」
「私は……」

 紫純琥珀蝶(しじゅんこはくちょう)に襲われたら、記憶を失ってしまう。
 そんなのは幼い頃から何度も聞かされてきたことなのに、いざ、その力を自分が利用したことに言葉を失ってしまう。
 言葉を失うなんて言い方をしてしまうのは簡単で、実際は何を言葉にしていいのか本当に分からない。

「私は、あなたの姉です」

 自分でも、自分の声が掠れているのが分かった。

「お姉ちゃん……? 知らなぁい」

 第一声は、まず始めは、妹の名前を呼びたいと思った。
 大切な妹の名前を、はっきり呼びたいって思った。
 だけど、私の声も心も情けない。
 大切な妹の名前を呼ぶことすらできないくらい、心が動揺してしまっている。

「覚えてない、よね……?」
「……うん」

 いつかは、家族の輪に入れてもらえるのではないか。
 そんな風に、漠然と思っていた。

「どこか、痛いところはない?」
「ぜ~んぜんっ」

 明るい未来だけを見つめていたはずなのに、実際に迎えた現実は少しも明るいものではなかった。

「ここはどこ? 私、なんで、ここにいるの?」

 笑わなきゃいけない。
 記憶を失って不安なのは故意に妹の記憶を消した私ではなく、次から次へと初めましてを目にしている妹の方。
 彼女が少しでも安心できるように、姉としての柔らかな笑みを整えていく。

「もうすぐで、お家に帰れるよ」
「お家? 帰るの? でも、どこに帰るの?」
「でもね」

 笑顔で会話を続けるって、こんなにも難しいことだと痛感する。
 悠真様は私といつも笑顔で話をしてくれて、いつも私に安心感を与えてくれていた。
 私は、彼が見せてくれるような綺麗に笑顔を見せることはできているのか。
 笑顔を装わなきゃいけないのは理解していても、実際には嘘でも笑顔を見せられているかといったら自信がない。

「帰らなくてもいい」

 どくん。
 心臓が、そんな音を鳴らしたような気がする。

「もう、両親のために生きなくてもいいんだよ」

 私を鼓舞するために、心臓が一生懸命動いたような……そんな感じがした。
 頑張れって。
 伝えなきゃいけない言葉があるって。

「美怜ちゃんが、自分で選んでいいんだよ」

 女性が一人でいくには、厳しい時代だというのは承知している。
 でも、お金に執着した両親の元で、両親に囚われながら生きるのも酷だった。
 両親の笑顔に会うためだけに生きていくことの息苦しさを知っている同士だからこそ、私は妹の記憶を一方的に奪った。
 彼女の幸せは記憶を失うことだと決めつけて、彼女に一から人生を始めてもらうために記憶を奪った。

「結葵、人を呼ぶ」
「お願いします」

 姉のことを忘れてしまっても、妹が生きるという選択を選ぶ限り、未来は無限に広がっていくということを知っていってほしい。
 達成したい目標のために邁進することができる妹なら、まだ女性が生き辛い世界を変えていく力になるかもしれないと希望を託す。

「疲れたよね、少し横になって……」

 突如、明かりが照らすことができない部屋の死角から、重い足音が近づいてきた。

「使えない……役立たず……」

 石油洋灯の柔らかな灯りが、まるで舞台に立つ一人の男性を輝かせるように光を照らし出す。

「それらが、私たちに向けられてきた言葉だ! 筒路森悠真(つつじもりゆうま)っ!」

 五十代前半ほどの背が高い男性は、無造作に伸びた髪を自身の髪を乱していく。

「そんなこと、一言も申した記憶がないのですが」

 姿勢正しく、何があっても冷静に対応していく悠真様。
 一方の私は隣に悠真様がいるはずなのに、真の黒幕に対して心臓の震えが止まらなくなる。

「貴様の父親がっ……くそっ」

 男性は目に映るすべてを破壊しようとする意志を隠すことなく、蝶を避難させようとしていた初さんの頭を掴んだ。

字見(あざみ)さん、その手を離してもらえますか」
「私の息子も、散々、貴様に利用されてきたんだっ!」

 息子である初さんの安全を確保する気は毛頭ないらしく、初さんは父親の手で人質になってしまった。
 初さんを見つめる冷酷な視線を知っている私の心は凍りつき、字見家に家族の温かさが存在しないことを確認する。

「いつまで、いつまで、筒路森に見下されなければいけないんだ……」

 深く刻まれた眉間の皺と無精髭は、彼が長い年月に渡って何かを背負ってきたことを物語っていた。
 目には怒りの感情が宿りながらも、どこか悲しげな光が見え隠れしているのが印象的だった。

(私は、私にできることを……)

 この手段が駄目だったときは、次の手段を。
 そこまで考えを回していたのは良かったけれど、思い通りにいかない現状に苛立ちを隠しきれないところは男性の落ち度でもあると思った。

紫純琥珀蝶(しじゅんこはくちょう)、聞いて」

 力を持たない私や妹が人質に取られないように、そっと男性との距離を取り始める。
 男性が最も憎い筒路森に意識を集中させているうちに、私はそっと蝶への伝言を託す。

(彼は、あなたたちの命を脅かす可能性がある人だって)

 蝶たちが研究室の外に飛び出すことで、外には蝶の餌である人間の記憶が待っている。
 それこそが蝶の願いかもしれないけれど、蝶が自分たちの身を保証してほしい。
 そんな願いを抱く蝶がいることを、私は蝶の記憶を介して知っていく。

「筒路森を終わらせるのは、この私だ!」

 銃口が初さんの頭に向けられ、彼は息子を殺す覚悟で筒路森の没落を狙ってきた。
 研究室の床が男性の体重で軋み、それだけの勢いを持って計画を遂行しようとしている彼の意気込みを悟る。

「父さん、もう……もう……」
「おまえは、いつも私の邪魔をすることしかしないなっ! おとなしくしていろっ!」

 男性の声が鋭く響いて、思わず耳を塞ぎたくなってしまった。

「ご子息を、使えない。役立たずと称しているのは、字見さんの方では?」
「これは教育だっ!」
「父さん……父さん……っ」

 家族の間に、愛というものが存在しない環境下をよく知っている。
 いつも両親は子を責め、子の存在を否定するような言葉を浴びせてくる。

「子の未来を思って、正しい教育をすることが親に課せられた役目っ」
「でも、俺は幸せになれなかっ……」
「おまえが出来損ないだからだろ!」

 初さんの肩は小刻みに震え、初さんは父親に支配されているということが伝わってくる。
 初さんが溢れさせる気持ちが痛々しいほど響き、初さんの抱えている苦しみに自身の心が同調していく。

(私が、蝶の言葉を理解しなければ……)

 もしかすると、家族から愛されるという未来もあったかもしれない。
 でも、蝶は、私を呼んだ。
 私も、蝶に応えた。
 その事実は覆らず、自分の存在がいかに北白川で必要とされていないのかを、この場であらためて痛感していく。

「おまえが役に立つ人間なら、人生は変わった! 筒路森に虐げられることもなく、字見の名を世に広め……」 

 男性から、初さんに向けられる言葉の数々に心を痛める。
 心の痛みを誰かが気づくわけがないのに、この場には私の心の痛みを察してくれる人がいた。