「私、お父さんとお母さんに、た~くさんのお金をあげるって約束、守れなかったの」

 残酷な言葉が告げられた。
 私たち姉妹が、両親と金で繋がっている。
 家族としての絆が存在しないことを知らしめる言葉に、私の心臓は痛みを訴える。

「誰からも、愛されなくなっちゃった」

 私が妹と対峙している時間を、狩り人のお二人が守ってくれている。
 私にできることは、妹が従えている蝶を苦しみから解放すること。
 自分にできることに意識を集中させ、妹に嫌悪と憎悪の感情を抱いている蝶を探し出す。

「ねえ、無視しないでよっ!」

 妹の瞳が冷たく光ったような気もしたけれど、そこで怯んでいる暇はない。

「私も愛されたいっ! 愛されたいっ! 愛されたいっ!」

 彼女の表情には憎しみが刻まれていて、かつての可愛らしい妹の面影は見る影もない。

「悠真様をちょうだいっ! 私も、筒路森(つつじもり)の寵愛を受けたいっ!」

 妹が用意した香りに酔った蝶は、狩り人のお二人に向かって襲いかかっていく。
 でも、銃を構えた二人を前に蝶は成す術なく、次々と撃破されていく。

「お願いっ! 紫純琥珀蝶(しじゅんはこはくちょう)っ」
「私が本物よ! さあ、この香りを好きなだけ浴びなさい」

 妹は冷笑を浮かべながら、蝶へと命じていく。
 心が揺らぐ隙のあった初さんと違って、妹の表情が揺らぐ気配は感じない。

(この手は、使いたくない)

 蝶が意志を持つように襲いかかってくるけれど、それは香りに酔わされているだけに過ぎない。
 その香りを打破するには、妹の意志を止めるしか手段がない。

(使いたくない……)

 ひっそりと、大きく息を吸い込む。

(けど……!)

 そして、吸い込んだ空気を一斉に吐き出して覚悟を決める。

「紫純琥珀蝶」

 私の声に反応した一匹の蝶が舞い降り、私を見上げるように羽を広げた。

「妹が、あなたたちを苦しめて……本当にごめんなさい」

 胸元を押さえながら、膝をつく。
 閉じた瞼の裏に、蝶の記憶が流れ込んでくる。
 安全が確保された研究施設で気高く生きてきた蝶たちが、人間の欲望によって支配されていく苦しみを受け止める。

「馬鹿ねっ! 紫純琥珀蝶に、意思なんてものはないっ!」

 蝶たちの声にならない叫びを飲み込んで、私はもう一度、自分の脚を鼓舞する。

「偽物には、蝶たちの記憶を受け取る覚悟もないの……?」
「私が本物っ! 私が、蝶の寵愛を受けている本物よっ!」

 自分の瞳が涙に濡れているのを感じながらも、決して涙を溢れさせないように手に力を込める。

「ここで、終わらせよう? 美怜ちゃん」

 前回に妹と対峙したときとは違って、明らかに蝶が荒れている。
 愛されたいという感情が高ぶった妹は、人間には感じられない強烈な香りを用意するほど狂気に満ちていく。

「ええ、今すぐに、記憶を消してあげるっ!」

 意のままに他人を操りたいといっても、誰かの記憶を消していいわけがない。
 意のままに他人を操りたいからといって、始めから関係性をやり直すことは許されるものではない。
 それを理解していない妹は、姉の私が引き受けるべきだと使命感を働かせる。

「力を貸して! 紫純琥珀蝶っ!」

 私の言葉を合図に、妹の背後を舞っていた蝶たちが音もなく宙へ舞い上がった。
 一瞬だけ、風のうねりが巻き起こり、その舞い上がった風にすら美しさを感じてしまった。

「私の言うことを聞きなさいっ! 紫純琥珀蝶っ!」

 蝶が、どちらの声を選んだか。
 答えは、確認するまでもなかった。

「っ」

 蝶たちは、恐れるだけの存在ではない。
 蝶たちは、蝶の存在に理解を示す人間に更なる力を与える。

「どうして、私に……私に……っ、来ないで! 来ないでっ!」

 悠真様たちの銃弾を受けたくない。
 生存を望んでいた蝶たちが、静かに妹の元へと降り立つ。

「助けてっ! 助けてっ! 悠真様っ! 初様っ!」

 蝶が、妹の命を奪うことはない。
 私が命じた通りに動く蝶を見て、作戦が上手く進んだことに安堵の気持ちを抱く。
 狩り人のお二人には、蝶の様子を見守ってほしいと合図を送る。

「結葵」
「これで、いいです……」

 蝶たちは躊躇なく、妹を目がけて飛び込んでいく。
 私は、妹を守るための最後の選択を下した。

「結葵」
「っ」

 自分が背負う罪を思えば、心が潰れそうになる。
 でも、そんな穢れた私を、悠真様は救うために寄り添ってくれる。
 狩り人のお二人を振り返ることができなくなった私の手に、そっと触れてくれた。

「結葵の力は、新しく人生を始めるためにある」

 忌み嫌われている力を包み込むような響きに、堪えていた涙が溢れていく。
 背を向けたままだった背中から、ほんの少し力を抜く。

「これで、また、始まることができます……」

 彼の手が、私の肩に触れたその瞬間。
 蝶たちは、妹の元から散っていく。
 華麗に宙を舞う蝶たちは安全を求めて、閉じられた巨大な硝子箱を開けてくれとねだってくる。

「初、蝶を中に戻してやってくれ」
「あ……うん……」

 静けさが戻る中、妹は呆然とした顔で佇んでいた。
 事態を把握した私は拳を握り締め、苦しみに耐えるために俯いた。

「妹が、迷惑をかけて……申し訳ございませんでした」

 声が震えているのに気づいたけれど、悠真様は気づかぬふりをしてくれた。

「第二令嬢がこのまま生き続ければ、世界の滅亡へと利用されるのは目に見えている」

 私の強がりを笑うこともなく、解くこともしない彼に感謝の気持ちを抱く。

「結葵は第二令嬢に、何も知らず、穏やかな人生を送らせたいと願った」

 彼の優しい瞳に吸い込まれそうになって、私は短く息を吸って、平常心を整えていく。

「姉として、妹を思いやった。その気持ちを誇りに、な」
「はい」

 決意を固め、ゆっくりと妹の元へと近づく。

「……あなたは?」

 研究室の小窓から月明かりが差し込み、微かに揺れる影が不安を煽る。
 影を作り出していた正体は、私の妹。
 彼女は虚ろな目で、差し込んでくる月明かりを楽しんでいた。

「美怜ちゃん」
「だぁれ……?」

 紫純琥珀蝶に記憶を喰われた妹は、私のことを理解できていないみたいだった。
 そんなの嘘だよねとか、冗談だよねとか、笑って済むような話じゃないんだってことが、美怜ちゃんをまとっている空気から伝わってくる。