「結葵、大丈夫か」
「戦う力もないのに、同行を許可してくれてありがとうございます」
雪が降る日は、空の色が灰色に染まってしまう。
その、灰色がほんの少し苦手だった。
だから私は、白で染まりゆく世界に視線を向ける。
「力のない人間を守るのが、狩り人の使命だ」
「とても心強いです」
明るい白は、心を高い位置へと運んでくれるような気がしたから。
もっと、もっと、幸せになりたい。
そんな残酷で美しい願いを抱き続けてもいいんだって、白い世界が肯定してくれるような。そんな気がしたから、私は冬の白に惹かれたのかもしれない。
(ここに、美怜ちゃんが)
静かな山間部に佇み、世間から存在を隠すように霧に包まれた研究施設。
初さんに初めて連れてきてもらったときは右も左も分からない状況だったけど、今では周辺を見渡す余裕がある。
建物は明治時代から始まった西洋建築の風潮を取り入れ、真紅に染まった煉瓦造りの壁は、年月を重ねたためか亀裂がいくつも走っている。
「家族が関わっている。酷だと感じたときは、ちゃんと声をかけろ」
「……行きます」
深い黒が広がる夜空から、白い雪がふわりと舞い降りてくる。
夜という色は、人を寂しい気持ちにさせる。
夜の冷たいこの空気も、今は心に突き刺さるかのように私たちを敵視している気さえしてくる。
「いい覚悟だ」
「私は将来、筒路森に嫁ぐ予定の者ですから」
私は、蝶の脅威に怯えながら生きる人々を守るために手を貸したい。
たとえ血の繋がりのある妹に何かがあったとしても、心が揺らぐようなことはあってはならない。
「私の力を、世を生きる人々のために」
研究施設の正面入口から挑もうとする彼に、目を見開く。
こんなにも正々堂々としていて大丈夫なのかと不安に思いながら中へ入ると、中からは温厚な声が私たちを迎え入れた。
「悠真様、お疲れ様です」
「ああ、ご苦労」
扉を開けば、中は活気に溢れていた。
白衣を身にまとう研究員たちが行き交い、私の隣にいる人物が筒路森の人間だと分かると次々に深く頭を下げてくる。
「これは一体……」
「蝶を利用してるのは一部の人間だけで、大抵の人間は蝶の研究に勤しんでいるだけだからな」
古びた石油洋灯が天井からぶら下がり、その橙色の光が研究施設を暖かく照らしていく。
「では、どこに妹と初さんが……」
「蝶が、最も多く飛び交っている部屋」
「っ」
「相手は、筒路森を没落させたい。そのために、世界を滅ぼす算段を企てているはずだからな」
好奇心旺盛な研究者たちを見ていると、この施設に疑念を掻き立てるものは何もない。
この和やかな空間に、人々の記憶を喰らう紫純琥珀蝶の脅威が潜んでいるとは誰も考えが及ばないと思った。
「お疲れ様です……えっと……」
「筒路森悠真、だろ」
「あ、申し訳ございません! 悠真様、お疲れ様です」
奥へ進めば進むほど、胸の奥に不快なざわめきが生まれ始める。
白衣を着た職員は熱心に研究へと集中しているように見えたけれど、その表情にはどこか空虚さが漂っている。
(まさか、もう蝶が活動を始めている……?)
施設の奥深くに進むにつれて、奇妙な現象が襲い始める。
急に、名前が出てこなくなる職員。
さっきまで話していた内容を忘れてしまう職員。
記憶が断片的に抜け落ちている様子を見て、施設全体に漂う異常な空気が不安を増幅させていく。
「それ以上、先には進ませないよ」
重々しい扉を押し開くと、薄暗い空間が広がっていた。
石油洋灯の明かりは存在しているはずなのに、施設で感じられた暖かさを感じない無機質な部屋が私たちを待っていた。
「奥の部屋に用があるんだ。通してくれ」
互いに銃口を向けたまま、静かな沈黙が私たちを包み込む。
悠真様の行く手を阻むため、字見初さんは拳銃の引き金に指をかける。
(声が、聞こえる)
淡い紫色の翅を羽ばたかせる蝶の姿は見当たらないけれど、二人が対峙している部屋を訪れることで蝶の声が聞き取れるようになった。
私が蝶の気配を察することができるということは、悠真様もその存在に気づいているはず。
(しっかりしないと)
自分の頬を、ぱちんと小さく叩いて気合いを入れ直す。
「……蝶の声が、聞こえたな」
「はい」
私の心臓は、不安に気づかない振りをしている自分を叱咤しているのかもしれない。
自分が不安抱いているなんて知られたら、紫純琥珀蝶の恐怖に怯えている人たちにも悪影響を及ぼしてしまう。
(平気な振りを装わなければいけない)
だけど、自分の体はごまかしが効かないということなのかもしれない。
「狩り人の中に、裏切り者はいないと」
閉じられた部屋で生きてきた私を、ずっと支えてきてくれた蝶たち。
私が言葉を交わす相手は蝶しかいなくて、その蝶と言葉を交わし合った時間は今も大切に想っている。
今も忘れることができない、大切な思い出として記憶に刻まれている。
「ですから、初さんは何をやっても無駄ということです」
だからこそ、私は蝶の言葉を信じる。
私を北白川の家から救い出してくれた、悠真様のことも信じる。
どちらも信じると決めた私は、嘘を吐くことなく言葉を紡いでいく。
「驚くくらい意味深な言葉だね~」
「楽しそうな顔をするな」
心が、体が、紫純琥珀蝶と過ごした日々を覚えている。
血の繋がりのある家族よりも、長い時間を共にした蝶たちの言葉が未来に繋がると信じたい。
「結葵様」
どんなときも人を勇気づけるような明るさを忘れないと思われていた初さんの声が、急に落ち着いたものへと変わる。
「狩り人は全員、裏切り者。の間違いじゃないのかな?」
物事が大きく動くような発言をされた初さんだけど、彼の顔から笑みは失われていない。
何も楽しいことは起きていないのに、生きているのが楽しくて仕方ないような柔らかな笑みを初さんは浮かべる。
「凄いね、悠真くん。本当に強大な力を手に入れちゃったね」
この場を仕切っていたように見えた悠真様は口を閉ざして、初さんが思う存分、話ができるように環境を整える。
「戦う力もないのに、同行を許可してくれてありがとうございます」
雪が降る日は、空の色が灰色に染まってしまう。
その、灰色がほんの少し苦手だった。
だから私は、白で染まりゆく世界に視線を向ける。
「力のない人間を守るのが、狩り人の使命だ」
「とても心強いです」
明るい白は、心を高い位置へと運んでくれるような気がしたから。
もっと、もっと、幸せになりたい。
そんな残酷で美しい願いを抱き続けてもいいんだって、白い世界が肯定してくれるような。そんな気がしたから、私は冬の白に惹かれたのかもしれない。
(ここに、美怜ちゃんが)
静かな山間部に佇み、世間から存在を隠すように霧に包まれた研究施設。
初さんに初めて連れてきてもらったときは右も左も分からない状況だったけど、今では周辺を見渡す余裕がある。
建物は明治時代から始まった西洋建築の風潮を取り入れ、真紅に染まった煉瓦造りの壁は、年月を重ねたためか亀裂がいくつも走っている。
「家族が関わっている。酷だと感じたときは、ちゃんと声をかけろ」
「……行きます」
深い黒が広がる夜空から、白い雪がふわりと舞い降りてくる。
夜という色は、人を寂しい気持ちにさせる。
夜の冷たいこの空気も、今は心に突き刺さるかのように私たちを敵視している気さえしてくる。
「いい覚悟だ」
「私は将来、筒路森に嫁ぐ予定の者ですから」
私は、蝶の脅威に怯えながら生きる人々を守るために手を貸したい。
たとえ血の繋がりのある妹に何かがあったとしても、心が揺らぐようなことはあってはならない。
「私の力を、世を生きる人々のために」
研究施設の正面入口から挑もうとする彼に、目を見開く。
こんなにも正々堂々としていて大丈夫なのかと不安に思いながら中へ入ると、中からは温厚な声が私たちを迎え入れた。
「悠真様、お疲れ様です」
「ああ、ご苦労」
扉を開けば、中は活気に溢れていた。
白衣を身にまとう研究員たちが行き交い、私の隣にいる人物が筒路森の人間だと分かると次々に深く頭を下げてくる。
「これは一体……」
「蝶を利用してるのは一部の人間だけで、大抵の人間は蝶の研究に勤しんでいるだけだからな」
古びた石油洋灯が天井からぶら下がり、その橙色の光が研究施設を暖かく照らしていく。
「では、どこに妹と初さんが……」
「蝶が、最も多く飛び交っている部屋」
「っ」
「相手は、筒路森を没落させたい。そのために、世界を滅ぼす算段を企てているはずだからな」
好奇心旺盛な研究者たちを見ていると、この施設に疑念を掻き立てるものは何もない。
この和やかな空間に、人々の記憶を喰らう紫純琥珀蝶の脅威が潜んでいるとは誰も考えが及ばないと思った。
「お疲れ様です……えっと……」
「筒路森悠真、だろ」
「あ、申し訳ございません! 悠真様、お疲れ様です」
奥へ進めば進むほど、胸の奥に不快なざわめきが生まれ始める。
白衣を着た職員は熱心に研究へと集中しているように見えたけれど、その表情にはどこか空虚さが漂っている。
(まさか、もう蝶が活動を始めている……?)
施設の奥深くに進むにつれて、奇妙な現象が襲い始める。
急に、名前が出てこなくなる職員。
さっきまで話していた内容を忘れてしまう職員。
記憶が断片的に抜け落ちている様子を見て、施設全体に漂う異常な空気が不安を増幅させていく。
「それ以上、先には進ませないよ」
重々しい扉を押し開くと、薄暗い空間が広がっていた。
石油洋灯の明かりは存在しているはずなのに、施設で感じられた暖かさを感じない無機質な部屋が私たちを待っていた。
「奥の部屋に用があるんだ。通してくれ」
互いに銃口を向けたまま、静かな沈黙が私たちを包み込む。
悠真様の行く手を阻むため、字見初さんは拳銃の引き金に指をかける。
(声が、聞こえる)
淡い紫色の翅を羽ばたかせる蝶の姿は見当たらないけれど、二人が対峙している部屋を訪れることで蝶の声が聞き取れるようになった。
私が蝶の気配を察することができるということは、悠真様もその存在に気づいているはず。
(しっかりしないと)
自分の頬を、ぱちんと小さく叩いて気合いを入れ直す。
「……蝶の声が、聞こえたな」
「はい」
私の心臓は、不安に気づかない振りをしている自分を叱咤しているのかもしれない。
自分が不安抱いているなんて知られたら、紫純琥珀蝶の恐怖に怯えている人たちにも悪影響を及ぼしてしまう。
(平気な振りを装わなければいけない)
だけど、自分の体はごまかしが効かないということなのかもしれない。
「狩り人の中に、裏切り者はいないと」
閉じられた部屋で生きてきた私を、ずっと支えてきてくれた蝶たち。
私が言葉を交わす相手は蝶しかいなくて、その蝶と言葉を交わし合った時間は今も大切に想っている。
今も忘れることができない、大切な思い出として記憶に刻まれている。
「ですから、初さんは何をやっても無駄ということです」
だからこそ、私は蝶の言葉を信じる。
私を北白川の家から救い出してくれた、悠真様のことも信じる。
どちらも信じると決めた私は、嘘を吐くことなく言葉を紡いでいく。
「驚くくらい意味深な言葉だね~」
「楽しそうな顔をするな」
心が、体が、紫純琥珀蝶と過ごした日々を覚えている。
血の繋がりのある家族よりも、長い時間を共にした蝶たちの言葉が未来に繋がると信じたい。
「結葵様」
どんなときも人を勇気づけるような明るさを忘れないと思われていた初さんの声が、急に落ち着いたものへと変わる。
「狩り人は全員、裏切り者。の間違いじゃないのかな?」
物事が大きく動くような発言をされた初さんだけど、彼の顔から笑みは失われていない。
何も楽しいことは起きていないのに、生きているのが楽しくて仕方ないような柔らかな笑みを初さんは浮かべる。
「凄いね、悠真くん。本当に強大な力を手に入れちゃったね」
この場を仕切っていたように見えた悠真様は口を閉ざして、初さんが思う存分、話ができるように環境を整える。



