「遅くなって、悪かった」
私の涙が落ち着きを見せる頃、私は悠真様の熱から解放された。
悠真様と身体を触れ合わせることはできなくなってしまったけれど、悠真様は代わりに手を繋いでくれた。
初さんの前でも手を離さずに、私の手を離さずにいてくれる。
「そんなのはどーでもいいんですけど、結葵様は大丈夫ですか」
妹の傍で待機してくれていた初さんに顔を覗き込まれ、泣き跡を消すことができなかったことを申し訳なく思う。
「初さん、妹の異変に気づいてくれて、ありがとうございました」
「俺は何も……。悠真くんと、はぐれたおかげかもしれませんね」
私を落ち着けるために、初さんはいつもの前向きな声で話しかけてくれた。
ほんの少しの元気のなさが気になったけれど、初さんが私を気遣ってくれるのを感じて私は彼に頭を下げた。
「それでも、ありがとうございます」
何を言葉にすることもなかったけれど、悠真様と視線を交えることで彼は私の気持ちを察してくれた。
ゆっくりと指が解かれ、私は筒路森の婚約者から北白川家の娘としての表情を整えていく。
「俺は、部屋の外で待機してます」
姿勢正しく、何があっても冷静に対応していく初さんは狩り人として立派に職務を全うされている。
一方の私は隣に悠真様がいるはずなのに、心臓の震えが止まらずにどうしたらいいのかと焦りを感じている。
(これが、経験の差……)
一畳の部屋で授かった経験も、十六歳の私が授かった経験も、今の私を支えてはくれない。
襖に手が触れたとき、あまりの冷たさに心臓が一瞬止まったように感じてしまった。
指先に伝わった冷たさにすら恐怖を感じる私の傍に、妹の記憶を奪った蝶の姿は現れない。
「悪いな、蝶の代わりになれなくて」
心の中を読まれたのかと思って、傍にいる悠真様の顔を見上げた。
「……悠真様は、心を読む力が?」
「いや、そんなわけないだろ」
頭を撫でられることを子ども染みているように捉えていたけど、これが悠真様の優しさだと気づいて深呼吸を繰り返す。
「ずっと、蝶と過ごしてきたんだ。思うこともあるだろ」
紫純琥珀蝶と言葉を交わしたい気持ちと、妹の記憶を奪った蝶を殺さなければならないのかと、二つの気持ちが葛藤していた。
揺れ動く気持ちすら悠真様は拾い上げてくれて、こんなにも素晴らしい方の元に嫁げることに感謝の気持ちがやまない。
「付いてきてもらえますか」
決意を固め、ゆっくりと襖を開けた。
「……あなたは?」
薄暗い月明かりが障子越しに差し込み、微かに揺れる影が不安を煽る。
影を作り出していた正体は私の妹。
大切な、私が守らなければいけなかった、大切な妹が虚ろな目で差し込んでくる月明かりの楽しんでいた。
「美怜ちゃん」
「だぁれ……?」
紫純琥珀蝶に記憶を喰われた妹は、私のことを理解できていないみたいだった。
そんなの嘘だよねとか、冗談だよねとか、笑って済むような話じゃないんだってことが、美怜ちゃんをまとっている空気から伝わってくる。
「結葵」
「大丈夫です」
悠真様は、私から離れることなく傍にいてくれる。
それなのに、孤独になった手は冷たさを帯びていく。
自分の体から、温度が抜けていくような感覚に恐怖さえも感じてしまう。
「……誰? あなたは、だぁれ?」
初さんから連絡を受けたときから、何度も何度も言い聞かせている言葉だった。
落ち着いて。
落ち着いてほしいって両親に声をかけなければいけないのは姉である私なのに、今は何を言っても聞く耳すら持ってもらえないことが辛い。
「私は……」
紫純琥珀蝶に襲われたら、記憶を失ってしまう。
そんなのは小さいことから何度も聞かされてきたことなのに、いざ現実に起こるとどうしたらいいのか分からなくなる。
言葉を失うなんて言い方をしてしまうのは簡単で、実際何を言葉にしていいのか本気で分からなくなってしまった。
「私は……」
自分でも、自分の声が掠れているのが分かった。
第一声は……まず始めは、名前を呼びたいと思った。
大切な妹の名前を、はっきり呼びたいって思った。
だけど、私の声も心も情けない。
紫純琥珀蝶と言葉を交わすことができるはずなのに、私は大切な妹の名前を呼ぶことすらできないくらい心が動揺してしまっている。
「私は、あなたの双子の片割れです」
いつかは、家族の輪に入れてもらえるのではないか。
そんな風に、漠然と思っていた。
そんな明るい未来を想像していたはずなのに、実際に迎えた現実は少しも明るいものではなかった。
「双子……?」
笑わなきゃいけない。
記憶を失って不安なのは、私じゃない。
美怜ちゃんの方が、初めましての私を目にして混乱しているはず。
だから、美怜ちゃんが少しでも安心してくれるように、私はあなたに笑顔を見せたい。
「覚えていない、よね……?」
「……うん」
笑顔で会話を続けるって、こんなにも難しいことだと痛感する。
悠真様は私といつも笑顔で話をしてくれて、いつも私に安心感を与えてくれていた。
私は悠真様が見せてくれるような綺麗に笑顔を見せることはできているのか。
笑顔を装わなきゃいけないのは理解していても、実際に嘘でも笑顔を見せられているかといったら自信がない。
「初めましての人に……こんなこと言われても何って思うかもしれないけど、でも……」
どくん。
心臓が、そんな音を鳴らしたような気がする。何でそんな気がしたのか分からない。
けど、私を鼓舞するために心臓が一生懸命動いたような……そんな感じがした。
頑張れって。
伝えなきゃいけない言葉があるって。
「無事で……良かった……」
紫純琥珀蝶が、人の命を奪うなんて事例は存在しない。
紫純琥珀蝶が狙うのは、あくまで一番大切な人の記憶だけ。でも、私は思った。
「美怜ちゃんが生きていてくれて……本当に良かった」
これは、本当の気持ちだった。
私のことを忘れてしまっても、あなたが生きてくれていて本当に良かった。
私の涙が落ち着きを見せる頃、私は悠真様の熱から解放された。
悠真様と身体を触れ合わせることはできなくなってしまったけれど、悠真様は代わりに手を繋いでくれた。
初さんの前でも手を離さずに、私の手を離さずにいてくれる。
「そんなのはどーでもいいんですけど、結葵様は大丈夫ですか」
妹の傍で待機してくれていた初さんに顔を覗き込まれ、泣き跡を消すことができなかったことを申し訳なく思う。
「初さん、妹の異変に気づいてくれて、ありがとうございました」
「俺は何も……。悠真くんと、はぐれたおかげかもしれませんね」
私を落ち着けるために、初さんはいつもの前向きな声で話しかけてくれた。
ほんの少しの元気のなさが気になったけれど、初さんが私を気遣ってくれるのを感じて私は彼に頭を下げた。
「それでも、ありがとうございます」
何を言葉にすることもなかったけれど、悠真様と視線を交えることで彼は私の気持ちを察してくれた。
ゆっくりと指が解かれ、私は筒路森の婚約者から北白川家の娘としての表情を整えていく。
「俺は、部屋の外で待機してます」
姿勢正しく、何があっても冷静に対応していく初さんは狩り人として立派に職務を全うされている。
一方の私は隣に悠真様がいるはずなのに、心臓の震えが止まらずにどうしたらいいのかと焦りを感じている。
(これが、経験の差……)
一畳の部屋で授かった経験も、十六歳の私が授かった経験も、今の私を支えてはくれない。
襖に手が触れたとき、あまりの冷たさに心臓が一瞬止まったように感じてしまった。
指先に伝わった冷たさにすら恐怖を感じる私の傍に、妹の記憶を奪った蝶の姿は現れない。
「悪いな、蝶の代わりになれなくて」
心の中を読まれたのかと思って、傍にいる悠真様の顔を見上げた。
「……悠真様は、心を読む力が?」
「いや、そんなわけないだろ」
頭を撫でられることを子ども染みているように捉えていたけど、これが悠真様の優しさだと気づいて深呼吸を繰り返す。
「ずっと、蝶と過ごしてきたんだ。思うこともあるだろ」
紫純琥珀蝶と言葉を交わしたい気持ちと、妹の記憶を奪った蝶を殺さなければならないのかと、二つの気持ちが葛藤していた。
揺れ動く気持ちすら悠真様は拾い上げてくれて、こんなにも素晴らしい方の元に嫁げることに感謝の気持ちがやまない。
「付いてきてもらえますか」
決意を固め、ゆっくりと襖を開けた。
「……あなたは?」
薄暗い月明かりが障子越しに差し込み、微かに揺れる影が不安を煽る。
影を作り出していた正体は私の妹。
大切な、私が守らなければいけなかった、大切な妹が虚ろな目で差し込んでくる月明かりの楽しんでいた。
「美怜ちゃん」
「だぁれ……?」
紫純琥珀蝶に記憶を喰われた妹は、私のことを理解できていないみたいだった。
そんなの嘘だよねとか、冗談だよねとか、笑って済むような話じゃないんだってことが、美怜ちゃんをまとっている空気から伝わってくる。
「結葵」
「大丈夫です」
悠真様は、私から離れることなく傍にいてくれる。
それなのに、孤独になった手は冷たさを帯びていく。
自分の体から、温度が抜けていくような感覚に恐怖さえも感じてしまう。
「……誰? あなたは、だぁれ?」
初さんから連絡を受けたときから、何度も何度も言い聞かせている言葉だった。
落ち着いて。
落ち着いてほしいって両親に声をかけなければいけないのは姉である私なのに、今は何を言っても聞く耳すら持ってもらえないことが辛い。
「私は……」
紫純琥珀蝶に襲われたら、記憶を失ってしまう。
そんなのは小さいことから何度も聞かされてきたことなのに、いざ現実に起こるとどうしたらいいのか分からなくなる。
言葉を失うなんて言い方をしてしまうのは簡単で、実際何を言葉にしていいのか本気で分からなくなってしまった。
「私は……」
自分でも、自分の声が掠れているのが分かった。
第一声は……まず始めは、名前を呼びたいと思った。
大切な妹の名前を、はっきり呼びたいって思った。
だけど、私の声も心も情けない。
紫純琥珀蝶と言葉を交わすことができるはずなのに、私は大切な妹の名前を呼ぶことすらできないくらい心が動揺してしまっている。
「私は、あなたの双子の片割れです」
いつかは、家族の輪に入れてもらえるのではないか。
そんな風に、漠然と思っていた。
そんな明るい未来を想像していたはずなのに、実際に迎えた現実は少しも明るいものではなかった。
「双子……?」
笑わなきゃいけない。
記憶を失って不安なのは、私じゃない。
美怜ちゃんの方が、初めましての私を目にして混乱しているはず。
だから、美怜ちゃんが少しでも安心してくれるように、私はあなたに笑顔を見せたい。
「覚えていない、よね……?」
「……うん」
笑顔で会話を続けるって、こんなにも難しいことだと痛感する。
悠真様は私といつも笑顔で話をしてくれて、いつも私に安心感を与えてくれていた。
私は悠真様が見せてくれるような綺麗に笑顔を見せることはできているのか。
笑顔を装わなきゃいけないのは理解していても、実際に嘘でも笑顔を見せられているかといったら自信がない。
「初めましての人に……こんなこと言われても何って思うかもしれないけど、でも……」
どくん。
心臓が、そんな音を鳴らしたような気がする。何でそんな気がしたのか分からない。
けど、私を鼓舞するために心臓が一生懸命動いたような……そんな感じがした。
頑張れって。
伝えなきゃいけない言葉があるって。
「無事で……良かった……」
紫純琥珀蝶が、人の命を奪うなんて事例は存在しない。
紫純琥珀蝶が狙うのは、あくまで一番大切な人の記憶だけ。でも、私は思った。
「美怜ちゃんが生きていてくれて……本当に良かった」
これは、本当の気持ちだった。
私のことを忘れてしまっても、あなたが生きてくれていて本当に良かった。