「悠真様の優しさは嘘だったのかもしれませんが、私は悠真様の優しさを愛と感じました」
 世界が変わっていくというのは、そういうこと。

 広い世界を生きていくというのは、そういうこと。
 変わらない日々を歩むということは、私は両親からの愛しか知らずに日々を潰してしまうということ。
 でも、私を外に連れ出してくれる人がいた。私の人生を変えようとしてくれた人のために、私は生きたい。

「嘘も吐き続けていると、本当になるんですよ」

 雪が降り積もる真っ白な世界に、足跡をつける人間は私しかいなかった。
 北白川と名乗る私の家族は、足跡を残してくれなかった。
 私は蝶が舞う白い世界で、ずっと冷たい呼吸を繰り返していた。

「私は、すっかり悠真様の優しさに懐柔されてしまっています」

 でも、今なら、一緒に跡を残してくれる方と巡り合えたのかなと自惚れた。
 自分の足跡を見つけることすら、大変な日がやって来るかもしれない。
 それだけ彼の優しさに救われて、もう北白川に戻らなくてもいいのだと勇気をもらう。

「はぁー……」

 縁側に腰かけていたこともあって、彼が吐き出した息が白くなる。

「悠真様、中へ……」
「いや、ここがいい」

 けれど、この場にいるのは独りじゃない。
 白く染まる世界で私が何をやったとしても、言葉を返してくれる人が傍にいると気づく。

「結葵が育った屋敷を、ここで見ていたい」

 視線から表情が読み取れないことに怖気づきそうにもなるけれど、彼は腕をだらりとさせ、体から力を抜いていることが分かる。
 彼が私との距離を開くつもりはないということに安堵して、私は勇気を出す。

「もっと、近くに寄っても宜しいですか」
「っ」

 人間、予想もしていなかったことが身に降りかかると大きな声を上げてしまいそうになるらしい。
 でも、彼は漏れ出そうになった声を押さえ込むことに成功してしまった。

「……調子が狂う」
「狂ってください。私は悠真様の婚約者ですよ」

 空いている方の手で、自分の口を塞いだ悠真様。
 そんな様子に口角を上げながら、私は彼との距離を縮める。

「俺は、民の記憶を消したかもしれないのに……」
「していませんよ」
「っ、紫純琥珀蝶(しじゅんこはくちょう)が話したのか?」

 悠真様との距離が縮まったことを嬉しいと思ったけれど、肝心の彼は自分の手で顔を覆ってしまう。
 覗き込みたいはずの彼の顔を、どう顔の角度を傾けても知ることはできない。

「狩り人の中に、裏切り者はいない。蝶の記憶を介して、蝶の言葉を拾いました」

 頭をぐいっと後ろに反らして、彼はなんらかしらの考えごとに思考を巡らせる。

(うい)が、無実の可能性があるということか」
「可能性ではなく、確信で良いのかと私は踏んでおります」
「……なるほどな、事の全容がわかった」

 悠真様は顔を覆っていた手を下ろし、大きく息を吸い込んだ。

「俺は、俺の腕を撃った初のことを裏切り者だと疑った」

 険しい表情をしながらも、はっきりとした物言いで彼私に言葉を届けてくれる。
 そこには年下だから、未来の嫁だからという遠慮が感じられないことに、感謝の気持ちを抱く。

「それは事実でありながら、その裏に初を利用する人物がいる」

 どくん。どくん。
 心臓の鼓動が速まる。
 人は利用される生き物でも、利用するために存在する生き物でもないのに、悪意を持って利用する人間がいることに心臓が痛い。

「村人を人体実験に利用した、筒路森への復讐を目論んでいる何者か……いや、検討はついているな」

 ここで、久しぶりに彼と視線を交えることができた。

「初さんの、血縁者ですか」
「鋭いな」
「お父上が行方不明になっていると、少し雑談をさせてもらったので」

 私が、なんの力も持たない少女だとしたら、筒路森(つつじもり)家が国をも動かす大きな計画に関わっているということは知らされなかった。
 籠の中に囲われた鳥のような生き方をした私だったけれど、私は世界を知ることを許してもらえた。

「筒路森が民の信頼を裏切っていると世間に公表したい字見家と、北白川の第二令嬢の思惑が一致した。それが、世界を狂わせることに繋がった」

 人の記憶を喰らう蝶と言葉を交わすことのできる私は、悠真様の力になることができる。
 その一方で、世界にとっての大きな脅威にもなりえるということを胸に刻む。

「どこに潜んでいるか、ご存知なのですか」
「筒路森を失墜させるのに最適な場所は、ひとつしかない」
「蝶の研究施設、ですね」
「あそこから蝶が放たれれば、世界は大混乱に陥る」

 人の記憶を喰らうことで、生きながらえる紫純琥珀蝶(しじゅんこはくちょう)
 研究施設の中で生きる安全性を失った蝶たちは、自分たちが生存するために人々の記憶を喰らい始める。
 そんな流れになることは容易に想像でき、蝶が放たれた研究施設はなんだったのかと筒路森に責任を問う流れとなる。

「多くの恨みを買いすぎたな」

 深く溜め息を吐く彼の背を、そっと撫でる。

「初さんは、悠真様の側近として十分な働きをされていましたよ」
「随分と、初の肩を持つな」
「嫉妬ですか?」

 つまらなそうな顔を浮かべる彼が、四も年上の男性だと思えなかった私は口角を上げて笑みを溢れさせた。

「結葵」

 名前を呼ばれる。
 あと何回、悠真様に名前を呼んでもらえるのか。
 そんなことを考えただけで、心がぎゅっと絞めつけられるように痛くなる。

「結葵」

 悠真様の顔を見たら泣くわけではないけど、自分の心が弱くなっているのを感じた私は北白川の庭へと視線を集中させる。
 でも、そんな私の態度を、彼は気に食わなかったらしい。
 私は彼に腕を引かれ、彼の腕の中へと招かれた。

「筒路森の正妻になったところで、なんの手柄にも功績にもならないかもしれない」

 二人きりという空間は、より鮮明に彼の声を私に届けてくれる。
 彼の声をいとおしいと感じるのに、彼は謝罪の言葉しか述べてくれないことに心が痛む。

「むしろ、筒路森がやっていることが公になれば、結葵も無傷では済まなくなる」

 彼に抱き締められた私は、彼を視界に入れることができない。
 だから、彼の声だけに意識を注ぐ。

「それでも、俺は結葵の力が欲しい」

 あと何回。
 あと何回、私は私の名前を呼んでもらえるのか。
 私の名前を柔らかい音で呼んでくれる彼に、もっと名を呼んでほしい。

「結葵」

 名前を呼ばれる特別を知っている私は感傷的になってしまったけれど、彼はいつも通りに私を呼ぶ。
 いつもらしい彼の声で、私の名前を呼んでくれる。

「私が望んでいるのはいつだって、悠真様に必要とされることですよ」

 だから、私もいつもらしさを取り戻す。
 なるべく朗らかな笑みを浮かべられるように努めながら、彼を視界の中へと受け入れた。