「人のことを化け物みたいな目で見るな」
「悠真様……」
古びた民家を背景にして佇む悠真様。
風に揺れる竹林の音がやけに耳をざわつかせるけど、そこに存在するのは間違いなく筒路森のご当主様。
「どうして、ここにいらっしゃるのですか……」
「心配になって、登山道を目指そうと思っただけの話だ」
初さんと一緒に行動しているはずの悠真様が一人で現れたことへの答えを得る方が先だと分かっていても、その答えを得る前に彼は跪いて私の足元へと視線を向ける。
「結葵、足は痛くないか」
「…………」
私と来栖さんの会話を悠真様が盗み聞いていたわけがないのに、なぜか自分が言葉にしてきたすべてが彼に筒抜けなのではないかと気まずい雰囲気が生まれてきてしまう。
(でも、無事で良かった……)
それと同時に安心感のようなものまで芽生えてきてしまうのは、悠真様が私に改めて優しさを注いでくださるからかもしれない。
「結葵? 大丈夫か?」
「…………はい」
なんで、かな。
なんで、なのか。
悠真様は私に会いたくなかったとしても、私は悠真様に会いたかったのだと自覚する。
「悠真様、お気遣いありがとうございます」
どうして。
どうして、か。
私が不安にしているときに会いに来てくれるのは、たとえ偽りだとしても私たちが恋仲という関係にあるからかもしれない。
「初は?」
「はぐれた」
来栖さんの投げかけに驚いたような表情を見せた悠真様だけど、すぐに申し訳なさそうな顔を浮かべて私たちを見た。
「朱色村には来たことあっても、その程度では駄目だな。どこを歩いてるのかわからなくなる」
「ご無事で何よりですよ」
「結葵も無事で良かった」
悠真様が与えてくれる優しさと温かさに浸っていたい。
そんな甘えた考えが浮かんでくるけれど、自分の心が整ったのなら次に向かって動かなければいけない。
「初さん、迷われていないといいのですが……」
普通の、ごく普通の、蝶が飛び交わない世界での生活を送ってみたい。
そう願う人たちがいることも、話には伺っている。
そんな方々の願いを叶えるためにも、狩り人のみなさんが国のあちこちを見回っている。
悠真様にとって村の見回りは日常の一環らしくて、初さんが欠けた世界でもお二人は冷静に見えた。
「結葵様のことも休ませてあげたい」
「結葵? 結葵、具合でも悪いのか?」
悠真様が心配そうな顔で、私のことを見てくる。
向けられる悠真様の真っすぐな視線から逃げ出したくなって、瞳を逸らしたくなる。
(ここは、大丈夫って返さなければいけない……)
悠真様の負担になる行動は取らない。
悠真様の迷惑になるような感情を、押しつけてはいけない。
「今日は蝶の気配が感じ取りにくくて……でも、もう大丈夫です。残りの仕事も付き添わせてくださ……」
「熱は?」
悠真様の右手が、私の額に触れてくる。
「え、あ……」
ただ、それだけ。
ただそれだけのことなのに、熱い。
体が熱くなってきて、徐々に頭の中まで熱に侵されていく。
高熱なんてないのに、まるで熱があるかのように思考がぼんやりとしていく。
「熱はないな」
「でも、結葵様の体調が悪いのは事実」
「だから、山登りはさせるなとあれほど……」
悠真様と来栖さんのやりとりを見ているだけで、心がほんの少し休まるような気がした。
これが、いつもの日常。
これが、平和な証拠。
「悠真様」
「ん?」
「私なら、大丈夫ですから」
額に当てられた筆の右手を、そっと取り払う。
これで悠真様の熱を感じなくなったはずなのに、私の額には悠真様の熱が残ったまま。逃げていかない。自分の体温に戻りたいのに、悠真様の熱の逃がし方が分からない。
「悠真様」
「結葵?」
「名前を呼ぶことができる幸福を、ありがとうございます」
私が恋仲である男性の名を呼ぶと、悠真様は私を見てくれた。
私を視界に入れてくれた。
これが、いつもの日常。
そう言葉にしなくても、悠真様の瞳がそう言ってくれているかのようで安心する。
「初さんを、探しにいきましょう」
いつもの日常が、繰り返される。
そう思っていた。
どんなに紫純琥珀蝶が飛び交う世界だとしても、私たちの日常は変わらないまま過ぎていくと思っていた。
だけど、変わらないことはないのだと思い知らされる。
同じ毎日は繰り返されない。
同じ日々は、二度と訪れないということを教えられた。
「っ!」
静寂という言葉で覆われた世界に、突如けたたましい音が鳴り響いた。
「ああ、不安にさせて悪い。この音は、初からの連絡だ」
狩り人のみなさんが持ち歩いているという端末が、初さんからの連絡を知らせる。
「初か? どこにいる……」
悠真様は端末を使いながら、初さんとの会話を進めていく。
端末の向こう側にいる初さんの声が私に聞こえないのは当たり前のことなのに、初さんがどうして連絡を寄こしたのかという点が私の不安を益々煽っていく。
「落ち着いて、説明しろ」
私たちは、悠真様の言葉を待った。
ただ言葉を待つだけなのに、心は何かを訴えかけるように窮屈な苦しみを受けていた。
「…………」
「悠真くん?」
悠真様は初さんとの会話を終えると、神妙な顔つきで何か考えごとをしていた。
悠真様の表情からは、普段の明るさというものが消えていた。
「どうか、なさいましたか……」
その問いかけは、とても弱々しい声だったかもしれない。
でも、端末を切った悠真様は私を無視することなく、真っすぐな視線を向けてくれた。
「結葵、落ち着いてくれ」
いつもの日常なんて、繰り返されるわけがない。
平和な日々なんて、いつまでも続かない。
月明かりが優しく照らす夜、心が不安に覆われていったときのことを私は忘れることができないと思う。
「北白川の第二令嬢が、記憶を失って発見された」
どこかの夜空を飛び交っている紫純琥珀蝶が、まるで私たちを嘲笑っているかのような気がした。
私を絶望に落とす残酷な言葉が、頭の中をぐるぐると回る。
「悠真様……」
古びた民家を背景にして佇む悠真様。
風に揺れる竹林の音がやけに耳をざわつかせるけど、そこに存在するのは間違いなく筒路森のご当主様。
「どうして、ここにいらっしゃるのですか……」
「心配になって、登山道を目指そうと思っただけの話だ」
初さんと一緒に行動しているはずの悠真様が一人で現れたことへの答えを得る方が先だと分かっていても、その答えを得る前に彼は跪いて私の足元へと視線を向ける。
「結葵、足は痛くないか」
「…………」
私と来栖さんの会話を悠真様が盗み聞いていたわけがないのに、なぜか自分が言葉にしてきたすべてが彼に筒抜けなのではないかと気まずい雰囲気が生まれてきてしまう。
(でも、無事で良かった……)
それと同時に安心感のようなものまで芽生えてきてしまうのは、悠真様が私に改めて優しさを注いでくださるからかもしれない。
「結葵? 大丈夫か?」
「…………はい」
なんで、かな。
なんで、なのか。
悠真様は私に会いたくなかったとしても、私は悠真様に会いたかったのだと自覚する。
「悠真様、お気遣いありがとうございます」
どうして。
どうして、か。
私が不安にしているときに会いに来てくれるのは、たとえ偽りだとしても私たちが恋仲という関係にあるからかもしれない。
「初は?」
「はぐれた」
来栖さんの投げかけに驚いたような表情を見せた悠真様だけど、すぐに申し訳なさそうな顔を浮かべて私たちを見た。
「朱色村には来たことあっても、その程度では駄目だな。どこを歩いてるのかわからなくなる」
「ご無事で何よりですよ」
「結葵も無事で良かった」
悠真様が与えてくれる優しさと温かさに浸っていたい。
そんな甘えた考えが浮かんでくるけれど、自分の心が整ったのなら次に向かって動かなければいけない。
「初さん、迷われていないといいのですが……」
普通の、ごく普通の、蝶が飛び交わない世界での生活を送ってみたい。
そう願う人たちがいることも、話には伺っている。
そんな方々の願いを叶えるためにも、狩り人のみなさんが国のあちこちを見回っている。
悠真様にとって村の見回りは日常の一環らしくて、初さんが欠けた世界でもお二人は冷静に見えた。
「結葵様のことも休ませてあげたい」
「結葵? 結葵、具合でも悪いのか?」
悠真様が心配そうな顔で、私のことを見てくる。
向けられる悠真様の真っすぐな視線から逃げ出したくなって、瞳を逸らしたくなる。
(ここは、大丈夫って返さなければいけない……)
悠真様の負担になる行動は取らない。
悠真様の迷惑になるような感情を、押しつけてはいけない。
「今日は蝶の気配が感じ取りにくくて……でも、もう大丈夫です。残りの仕事も付き添わせてくださ……」
「熱は?」
悠真様の右手が、私の額に触れてくる。
「え、あ……」
ただ、それだけ。
ただそれだけのことなのに、熱い。
体が熱くなってきて、徐々に頭の中まで熱に侵されていく。
高熱なんてないのに、まるで熱があるかのように思考がぼんやりとしていく。
「熱はないな」
「でも、結葵様の体調が悪いのは事実」
「だから、山登りはさせるなとあれほど……」
悠真様と来栖さんのやりとりを見ているだけで、心がほんの少し休まるような気がした。
これが、いつもの日常。
これが、平和な証拠。
「悠真様」
「ん?」
「私なら、大丈夫ですから」
額に当てられた筆の右手を、そっと取り払う。
これで悠真様の熱を感じなくなったはずなのに、私の額には悠真様の熱が残ったまま。逃げていかない。自分の体温に戻りたいのに、悠真様の熱の逃がし方が分からない。
「悠真様」
「結葵?」
「名前を呼ぶことができる幸福を、ありがとうございます」
私が恋仲である男性の名を呼ぶと、悠真様は私を見てくれた。
私を視界に入れてくれた。
これが、いつもの日常。
そう言葉にしなくても、悠真様の瞳がそう言ってくれているかのようで安心する。
「初さんを、探しにいきましょう」
いつもの日常が、繰り返される。
そう思っていた。
どんなに紫純琥珀蝶が飛び交う世界だとしても、私たちの日常は変わらないまま過ぎていくと思っていた。
だけど、変わらないことはないのだと思い知らされる。
同じ毎日は繰り返されない。
同じ日々は、二度と訪れないということを教えられた。
「っ!」
静寂という言葉で覆われた世界に、突如けたたましい音が鳴り響いた。
「ああ、不安にさせて悪い。この音は、初からの連絡だ」
狩り人のみなさんが持ち歩いているという端末が、初さんからの連絡を知らせる。
「初か? どこにいる……」
悠真様は端末を使いながら、初さんとの会話を進めていく。
端末の向こう側にいる初さんの声が私に聞こえないのは当たり前のことなのに、初さんがどうして連絡を寄こしたのかという点が私の不安を益々煽っていく。
「落ち着いて、説明しろ」
私たちは、悠真様の言葉を待った。
ただ言葉を待つだけなのに、心は何かを訴えかけるように窮屈な苦しみを受けていた。
「…………」
「悠真くん?」
悠真様は初さんとの会話を終えると、神妙な顔つきで何か考えごとをしていた。
悠真様の表情からは、普段の明るさというものが消えていた。
「どうか、なさいましたか……」
その問いかけは、とても弱々しい声だったかもしれない。
でも、端末を切った悠真様は私を無視することなく、真っすぐな視線を向けてくれた。
「結葵、落ち着いてくれ」
いつもの日常なんて、繰り返されるわけがない。
平和な日々なんて、いつまでも続かない。
月明かりが優しく照らす夜、心が不安に覆われていったときのことを私は忘れることができないと思う。
「北白川の第二令嬢が、記憶を失って発見された」
どこかの夜空を飛び交っている紫純琥珀蝶が、まるで私たちを嘲笑っているかのような気がした。
私を絶望に落とす残酷な言葉が、頭の中をぐるぐると回る。