「着きました」

 筒路森(つつじもり)の屋敷と同じく、大きな窓には繊細な装飾が施されている洋館へと案内された。

(また、綺麗な色硝子の断片……)

 色硝子の断片を繋ぎ合わせた窓硝子が出迎えてくれ、注ぎ込まれる太陽の光は窓硝子を通すことで更に豊かな色彩を表現していく。

「お疲れ様です、字見(あざみ)様」
「お疲れ」

 悠真(ゆうま)様が待っている部屋に着くまでの間に、多くの人たちとすれ違った。
 みなさんが初さんに《《『お疲れ様です』》》と丁寧な言葉遣いをされているのに気がついて、世界が狩り人(かりびと)の力を必要としていると肌で感じることができた。

(やっぱり、悠真様は相当な高い立場におられる方……)

 いくら婚約者という立場にいるからといって、やはり私が悠真様の時間を独占していてはいけないと自分に言い聞かせる。
 そんな心で呟いた言い聞かせすら余計と言わんばかりに、(うい)さんが扉を叩く音で弱音はかき消されてしまった。

「悠真くん」

 悠真様がいらっしゃる部屋に辿り着いたらしく、私は密やかに深呼吸を繰り返した。
 心臓の鼓動が耳元で響き渡るような感覚に緊張が高まっていたのに、その緊張を打ち破るかのように初さんは掌をぎゅっと握って扉を勢いよく叩いた。

「っ」

 心臓の音を整えるどころの話ではなくなり、意を決して扉の向こうから声が届くのを待った。

「……?」
「悠真くん、用があったら呼んでー」

 廊下全体に響き渡るような初さんの快活な声。
 でも、悠真様から声が返ってくる気配はない。

「行ってください」

 まずは(うい)さんが部屋の中へと入るものだと思っていたら、私は初さんに背中を押されて部屋の中へ入るよう指示される。
 戸惑う私が声を発してしまわないように、初さんは口に人差し指を置いて声を出さないように身振りで伝えてくれる。

「あのな、用があるから呼んだ……」
「お疲れ様、です……」
「結葵……」

 小さな生態系が広がっているような気がしてしまうくらい、自然豊かな環境が整えられた部屋。
 入口以外の壁一面が硝子窓になっていて、外からの光をたっぷりと浴びることができる造りは外にいるのではないかと錯覚してしまうほど。

字見(あざみ)さんに、連れてきてもらいました」

 悠真様はゆっくりと瞬きをされて、目の前にいるのが誰だかということを確認する。

字見(あざみ)さんは何も悪くありません。これは、私が望んだことです」

 悠真様が作り出す静寂を破るように声を発して、勝手な行動を起こした無礼を詫びた。

「申し訳ございません……。屋敷で待っていろと言われていたのに……」
「そんな申し訳なさそうな顔されても、嬉しくはないな」

 自分だけが、紫純琥珀蝶(しじゅんこはくちょう)から逃げているという現実に頭が痛くなってくる。
 大切な人たちのために何かしたいと思っても、力がない現実はどう足掻いても変えることができない。

「……紫純琥珀蝶(しじゅんこはくちょう)と言葉を交わすことができる唯一として、待つだけではいられないと判断しました」

 一匹の淡い紫色の蝶が、ふわりと舞い上がった。

紫純琥珀蝶(しじゅんこはくちょう)……ですよね?」

 私の言葉を聞き取ることができたのか、光の差し込む窓硝子へと向かう様子に目を丸くしてしまった。

「最近の研究……いや、違うな。ここで飼い慣らされた蝶は、昼夜問わず活動ができるらしい」

 一瞬、言葉を交わすことも忘れてしまいそうになった。
 蝶は部屋の中にいる私と悠真様の記憶を奪うことなく、優雅に自由を求めて飛び回る。
 自然の中を美しく飛ぶ姿と、なんら変わりない蝶の姿に心を奪われてしまいそうになる。

「ここは、蝶の研究をするための場所なのですね」
「そんな大それたものじゃない。人間の身勝手で、蝶を閉じ込めている部屋に過ぎない」

 辺りを見渡すと、悠真様の傍にある大きな机に書類の類が置かれている。
 淡い紫色の蝶々が自由に飛び回る自然豊かな研究室のような場所で、私と悠真様は今朝と同じく二人きりの時間に浸らせてもらった。

「……世界を守ってくれてありがとうございます、悠真様」
「見ての通り、この部屋には平和しか存在しないがな」
「それでも、です」

 昔は互いに、婚約者の名前しか知らないような生活を送っていた。

「でも……」

 それなのに、今ではこうして偽物の恋仲同士として言葉を交わすようになるのだから不思議ささえ感じる。

「そう改めて礼を言われると……その、なんだ……照れるな」
「ふふっ」

 勝手に、未来の旦那様の言いつけを破るような妻候補なんて見捨ててしまってもいいのに。
 それをしない悠真様は、拒絶という言葉を知らないのかとすら思ってしまう。