蝶愛されし彼女が愛を知るまで

字見(あざみ)さんは何も悪くありません。これは、私が望んだことです」

 悠真様が作り出す静寂を破るように声を発して、勝手な行動を起こした無礼を詫びた。

「申し訳ございません……。屋敷で待っていろと言われていたのに……」
「そんな申し訳なさそうな顔されても、嬉しくはないな」

 自分だけが、紫純琥珀蝶(しじゅんこはくちょう)から逃げているという現実に頭が痛くなってくる。
 大切な人たちのために何かしたいと思っても、力がない現実はどう足掻いても変えることができない。

「……紫純琥珀蝶と言葉を交わすことができる唯一として、待つだけではいられないと判断しました」

 一匹の淡い紫色の蝶が、ふわりと舞い上がった。

「紫純琥珀蝶……ですよね?」

 私の言葉を聞き取ることができたのか、光の差し込む窓硝子へと向かう様子に目を丸くしてしまった。

「最近の研究……いや、違うな。ここで飼い慣らされた蝶は、昼夜問わず活動ができるらしい」

 一瞬、言葉を交わすことも忘れてしまいそうになった。
 蝶は部屋の中にいる私と彼の記憶を奪うことなく、優雅に自由を求めて飛び回る。
 自然の中を美しく飛ぶ姿と、なんら変わりない蝶の姿に心を奪われてしまいそうになる。

「ここは、蝶の研究をするための場所なのですね」
「そんな大それたものじゃない。人間の身勝手で、蝶を閉じ込めている部屋に過ぎない」

 辺りを見渡すと、悠真様の傍にある大きな書斎机に書類の類が置かれている。
 淡い紫色の蝶々が自由に飛び回る自然豊かな研究室のような場所で、私と彼は二人きりの時間に浸らせてもらう。

「……世界を守ってくれてありがとうございます、悠真様」
「見ての通り、この部屋には平和しか存在しないがな」
「それでも、です」

 この世のものとは思えない蝶の美しさに、胸が高鳴りそうになる。
 それでも、その一匹一匹は見るものを魅了しながらも不穏な気配を漂わせていく。

「あらためて礼を言われると……その、なんだ……照れるな」
「ふふっ」

 蝶の翅が一斉に煌いたような気がしたけれど、蝶が光を放つわけがない。
 それほど壮大な美しさが目の前に広がっているけれど、どこか得体の知れない恐怖を同時に感じてしまう。

「こんなにも蝶に囲まれていながら、悠真様がご無事で何よりです」

 息を吸い込むことすらも躊躇われる。
 深く息を吸い込むだけで、記憶を失ってしまうのではないかという不安に駆られるのに、彼は平生としていた。

「心配してくれるのはありがたいが、心配のし過ぎで婚約者が体調を崩すのは本意ではないな」
「悠真様のお顔を拝見できて、ようやく心が落ち着きました」

 ここに二人の人間がいることに気づいていないかのように、蝶が優雅に旋回していく。

「確かに……ここにいる蝶たちは、悠真様を襲うつもりがありませんね」

 まるで、ここには自分たちにとっての脅威が存在しないと、蝶が理解しているようにも思えた。

「興味深い話だな」
「むしろ好いているように思えます」

 人の記憶を奪うと呼ばれている紫純琥珀蝶から、敵意むき出しの感情を感じたことはない。
 私が今までの人生で紫純琥珀蝶を有害な存在だと思わなかったのは、それが理由でもある。

「この研究室にいる蝶たちは、自然界を飛び交う紫純琥珀蝶よりも落ち着いていますね」

 蝶の感情が穏やかであることを感じ取ったため、それを包み隠すことなく悠真様に伝える。

「君と同じで、閉じられた環境で育てた蝶々たちだ」
「……育てた?」
「蝶を狩るというのは本当の話だ。だが、蝶を捕まえて研究にも使っている」

 私と同じで、閉じられた空間を生きてきた紫純琥珀蝶。
 天井を見上げたところで、蝶たちは閉じられた環境で育ててもらったことを不満に思っていない。

「野生の蝶……ですよね?」
「孵化はしないらしい。野生の蝶を捕まえて、飼い慣らすことしかできない」

 外の世界を知っているはずの蝶々。
 外の世界で自由に飛び回る幸福を知っているはずなのに、紫純琥珀蝶は狩り人である悠真様に懐いているように感じる。

「ここにいれば、人に殺されることはないから……ですね」
「そう言っているのか?」
「いえ、蝶はそこまでお喋りではありませんよ」

 でも、察することはできる。
 そんな言葉を付け加えると、彼の瞳は更に蝶への興味深さが増したように見えた。

「でも、ここは安全だと、蝶は学習しているみたいですね」

 私は屋敷の外を飛び交う蝶との会話しか知らないけれど、その際に蝶は言っていた。
 また、多くの仲間たちが殺されたと。

「蝶が人の記憶を奪うから、俺たちは蝶を殺す」

 残酷な現実が悠真様の口から紡がれるけれど、その言葉を発した彼の瞳が曇りを帯びていないことを確認する。

「蝶が記憶を奪うのは、人に抗うためなのでしょうか」

 蝶に、人間のような豊かな表情は見られない。
 それでも、この部屋で生きる蝶々たちは生きていてもいいと許可をもらえたことに笑みを浮かべているような気がした。