蝶愛されし彼女が愛を知るまで

「……行きましょうか」

 (うい)さんは謝罪の言葉を紡ぐことなく、先へ進むための言葉をくれた。

(これでいい)

 悪意があっての言葉ではなく、優しさがあったからこその言葉と気づくことができたから。
 これから私が生きる世界は、死と対峙するという厳しさを初さんが教えてくれた。

(私は……あの平和に浸りきった時間を、一時でも愛してしまった)

 狩り人のみなさんと過ごす時間が増えれば増えるほど、過去のいとおしい時間たちに、どう言葉を向けたらいいのか分からなくなっていく。

「結葵様、もうすぐです」

 自動車に乗るのは人生で二度目のことで、流れゆく景色を見ながら世間の変わりように想いを馳せた。
 私が北白川の家に閉じ込められている間に、随分と時が経過していたことを思い知らされる。
 西洋の文化が溶け込んだ街並みは、時の流れは止めることができないと私に訴えかけてくるかのようで心の温度が急激に下がったような感覚を受ける。

「私だけ、時代に取り残されたみたいですね……」

 北白川の家を出てからは、洋装を好む方々との交流が始まった。
 和装姿なのは私くらいで、優雅に見えるはずの着物は時代の流れに逆行しているかのように見られてしまうかもしれない。

「そのお召し物は、悠真くんが?」
「あ……はい……。北白川にいたときと変わらぬ和装を用意してくださって……」

 筒路森の人間になる予定の者が、時代遅れの装いをしているのは恥じるべきことかもしれない。恥知らずの娘を初さんに曝け出す前に、私は彼から視線を逸らした。

「だったら、何も問題はないかと」
「……えっと」
「悠真くんは、結葵様のために着物を用意されたんだと思います。結葵様に、それを着てもらいたいという気持ちが込められているんですよ」

 自分のために用意してもらっているお召し物が着物ということなら、その着物に恥じない人間になることが大事だと初さんは伝えてくれる。

「結葵様に与えられたのは、新しい時代の風を感じさせながらも、日本の古き良き時代の美しさを体現することですよ」

 下を俯くばかりが得意だったけれど、ここには顔を上げることを咎める人がいないと気づいた。
 だからこそ、少しでも上の方に視線を向けられるようになりたいと思った。

(世界は、こんなにも美しくできているから……)

 少し視線を上げるだけで、視界に映る景色が変わる。
 この美しい世界を守るためにも、紫純琥珀蝶との関係も改めなければいけない時が訪れたということかもしれない。

「……ありがとうございます、初さん」
「ですね。謝られるよりは、そっちの言葉の方が嬉しいです」

 初さんの朗らかな笑みに視線を向けて、自分が発した言葉が間違っていないと強い確信を持つことができた。

「着きました」

 筒路森の屋敷と同じく、大きな窓には繊細な装飾が施されている洋館へと案内された。

(また、綺麗な色硝子の断片……)

 色硝子の断片を繋ぎ合わせた窓硝子が出迎えてくれ、注ぎ込まれる太陽の光は窓硝子を通すことで更に豊かな色彩を表現していく。

「お疲れ様です、字見様」
「お疲れ」

 悠真様が待っている部屋に着くまでの間に、多くの人たちとすれ違った。
 みなさんが初さんに『お疲れ様です』と丁寧な言葉遣いをされているのに気がついて、世界が狩り人の力を必要としていると肌で感じることができた。

(やっぱり、悠真様は相当な高い立場におられる方……)

 いくら婚約者という立場にいるからといって、やはり私が彼の時間を独占していてはいけないと自分に言い聞かせる。
 そんな心で呟いた言い聞かせすら余計と言わんばかりに、初さんが扉を叩く音で弱音はかき消されてしまった。

「悠真くん」

 悠真様がいらっしゃる部屋に辿り着いたらしく、私は密やかに深呼吸を繰り返した。
 心臓の鼓動が耳元で響き渡るような感覚に緊張が高まっていたのに、その緊張を打ち破るかのように初さんは掌をぎゅっと握って扉を勢いよく叩いた。

「っ」

 心臓の音を整えるどころの話ではなくなり、意を決して扉の向こうから声が届くのを待った。

「悠真くん、用があったら呼んでー」

 廊下全体に響き渡るような初さんの快活な声。
 でも、彼から声が返ってくる気配はない。

「行ってください」

 まずは初さんが部屋の中へと入るものだと思っていたら、私は初さんに背中を押されて部屋の中へ入るよう指示される。
 戸惑う私が声を発してしまわないように、初さんは口に人差し指を置いて声を出さないように身振りで伝えてくれる。

「あのな、用があるから呼んだ……」
「お疲れ様、です……」
「結葵……」

 小さな生態系が広がっているような気がしてしまうくらい、自然豊かな環境が整えられた部屋。
 入口以外の壁一面が硝子窓になっていて、外からの光をたっぷりと浴びることができる造りは外にいるのではないかと錯覚してしまうほど。

字見(あざみ)さんに、連れてきてもらいました」

 悠真様は眼鏡の奥でゆっくりと瞬きをされて、目の前にいるのが誰だかということを確認する。