「こほっ、こほっ」
寒さが体に堪えるような季節に入った頃から、咳が止まらなくなった。
呼吸を繰り返すことすら難しいくらいの苦しさに襲われているのに、その苦しさを和らげる方法を選ぶことができない。
「はぁ、はぁ」
一畳分の広さしかない部屋の中で、なるべく体を安静にしようと寝転がる。
その、寝転がるという行為ひとつすら、今の私には苦しい。
瞼を下げて、深く眠りの世界に向かいたい。
死の世界に誘われても構わないと覚悟があるのに、心臓だけは止まってくれない。
ただただ、苦しい。
(お医者様……)
貧民は、自由に医療の力を借りることができない。
貧しい人にも差別なく治療を行うための施設や制度が整いつつあると蝶から伺ったこともあるけれど、その施設や制度がどこまで行き届いているものなのかが分からない。
(私は、お医者様を利用してはいけない……)
恐らく、私は季節外れの風邪を引いただけ。
世の中には私よりも、医療に力を必要としている人たちがいる。
より貧しい人たちに医療が行き渡るように、今日も襲いかかる苦しみを我慢する。
「お父様、お母様、見てっ」
近くの部屋から、妹の華やかな声が聞こえてくる。
今日は妹の美怜と、筒路森家との縁談がまとまる日らしい。
「こんなにも美しいお召し物、久しぶりっ」
祖父が立ち上げた事業を父が引き継いだけれど、その事業は軌道に乗らなかった。
没落した北白川家と揶揄される中、生まれてきたのが父と母の美貌を受け継いだ双子。
「あの、筒路森悠真様から贈り物をいただけるなんて」
でも、双子の片割れは不出来な娘だった。
私は紫純琥珀蝶と呼ばれる、人の記憶を喰らう蝶と言葉を交わすことができる。気味悪がられた。呪われた子だと言われた。生きる資格すらないと言われた。
それなのに、私を殺してくれる人は現れない。
みんながみんな、人を殺すことは罪だと理解しているから。
「これなら、ご当主様に気に入ってもらえるかしら」
不出来な娘を殺すことで、罪を背負いたくない。
みんなの意見は一致して、今日も私は一畳分の部屋で生かされている。
誰にも存在を認めてもらえないけれど、今日も私は一畳分の部屋で呼吸をすることを許されている。
「よく似合っているよ、美怜」
「ありがとうございます、お父様」
顔だけが美しいことが功を奏したのか、没落した北白川家に縁談の話が持ち込まれた。
北白川と祝言を迎えたい人間などいるはずもないのに、顔の美しさに惹かれた多くの華族から声が上がった。
「ずっと、ご当主様に好かれるかどうか不安だったの」
その中でも、もっとも多くの金を北白川家に注いでくれる華族に娘の美怜を差し出そう。
父の策略に乗っかった華族の中で、もっとも多額の額をつぎ込んできたのが筒路森家。
「この家には、あの子がいるでしょう。蝶と話ができる子が身内にいたら、私は悠真様から嫌われてしまうと思っていて……」
筒路森家に妹が嫁ぐことで、北白川家には多額のお金が入る。
筒路森家は美しい娘を手に入れ、あとは妹の血を引く世継ぎの誕生を待つだけ。
「すまない、おまえの姉が不出来なばかりに……」
「私が嫁ぐことで、北白川家を救うことができるのなら本望ですわ」
「美怜……ありがとう」
ありあまる財力だけでなく、人々を魅了するほどの美貌を筒路森家は手に入れたかったということらしい。
「筒路森家では、不自由なく生きることができるわ」
「私はお母様とお父様も不自由なく生活してもらうために、この縁談をお受けしますの」
「美怜、幸せになるのよ」
「お母様、泣かないでください」
人々の記憶を奪うと言われている一匹の紫純琥珀蝶が、北白川家の屋敷を訪れた。
蝶に話しかけられた私は言葉を返し、その様子を見たお母様とお父様は私を気味悪がった。
(すべては、私が悪い……)
蝶と会話ができるのは異常なことだって、初めて知った。
蝶と会話ができるのは私だけということを、初めて知った。
私が遭遇した『初めて』は、私の未来を変えてしまうことに繋がった。
「はぁ」
母の様子を気遣うために差し伸べた手は振り払われ、私は赤みを帯びた手の甲を擦り合わせる。
(風邪を拗らせれば、私はもうすぐ死ぬことができる……)
お客様を出迎えるための部屋は筒路森家から贈られたガスストーブの暖かさに包まれているけれど、私に与えられた部屋には空気を暖める類のものは存在しない。冬の寒さを乗り切るには、あまりにも心もとない。
(でも、もうすぐ楽になれる……)
私が、蝶に言葉を返さなければ良かった。
私が蝶に言葉を返さなければ、私はまだ家族の輪の中へと置いてもらえた。
今頃は私もどこかの華族に嫁ぐことで、父と母の役に立てたかもしれない。
でも、そんな絵空事を描いてしまう自分に、嫌悪感を抱いてしまう。
「大嫌い……」
筒路森家と妹の縁談がまとまることを祝福するかのような、晴れやかな空が広がる時間帯。
私の話し相手になってくれる蝶が飛ぶ時間ではないため、私の話し相手は一向に現れない。
「こんなときばかり……独りにしないで……」
紫純琥珀蝶が飛ぶ時刻は決まっている。
そんな、蝶が飛び交う時間を知っている自分のことを、自分でも気味が悪いと思ってしまう。
「きゃぁぁぁぁ」
あまりの寒さで体が凍りつきそうになるような感覚を恐れたのか、私はいつの間にか深い眠りに陥っていたらしい。
母の叫びで目を覚まし、障子戸の向こう側に広がる蒼い空を見た。
寒さが体に堪えるような季節に入った頃から、咳が止まらなくなった。
呼吸を繰り返すことすら難しいくらいの苦しさに襲われているのに、その苦しさを和らげる方法を選ぶことができない。
「はぁ、はぁ」
一畳分の広さしかない部屋の中で、なるべく体を安静にしようと寝転がる。
その、寝転がるという行為ひとつすら、今の私には苦しい。
瞼を下げて、深く眠りの世界に向かいたい。
死の世界に誘われても構わないと覚悟があるのに、心臓だけは止まってくれない。
ただただ、苦しい。
(お医者様……)
貧民は、自由に医療の力を借りることができない。
貧しい人にも差別なく治療を行うための施設や制度が整いつつあると蝶から伺ったこともあるけれど、その施設や制度がどこまで行き届いているものなのかが分からない。
(私は、お医者様を利用してはいけない……)
恐らく、私は季節外れの風邪を引いただけ。
世の中には私よりも、医療に力を必要としている人たちがいる。
より貧しい人たちに医療が行き渡るように、今日も襲いかかる苦しみを我慢する。
「お父様、お母様、見てっ」
近くの部屋から、妹の華やかな声が聞こえてくる。
今日は妹の美怜と、筒路森家との縁談がまとまる日らしい。
「こんなにも美しいお召し物、久しぶりっ」
祖父が立ち上げた事業を父が引き継いだけれど、その事業は軌道に乗らなかった。
没落した北白川家と揶揄される中、生まれてきたのが父と母の美貌を受け継いだ双子。
「あの、筒路森悠真様から贈り物をいただけるなんて」
でも、双子の片割れは不出来な娘だった。
私は紫純琥珀蝶と呼ばれる、人の記憶を喰らう蝶と言葉を交わすことができる。気味悪がられた。呪われた子だと言われた。生きる資格すらないと言われた。
それなのに、私を殺してくれる人は現れない。
みんながみんな、人を殺すことは罪だと理解しているから。
「これなら、ご当主様に気に入ってもらえるかしら」
不出来な娘を殺すことで、罪を背負いたくない。
みんなの意見は一致して、今日も私は一畳分の部屋で生かされている。
誰にも存在を認めてもらえないけれど、今日も私は一畳分の部屋で呼吸をすることを許されている。
「よく似合っているよ、美怜」
「ありがとうございます、お父様」
顔だけが美しいことが功を奏したのか、没落した北白川家に縁談の話が持ち込まれた。
北白川と祝言を迎えたい人間などいるはずもないのに、顔の美しさに惹かれた多くの華族から声が上がった。
「ずっと、ご当主様に好かれるかどうか不安だったの」
その中でも、もっとも多くの金を北白川家に注いでくれる華族に娘の美怜を差し出そう。
父の策略に乗っかった華族の中で、もっとも多額の額をつぎ込んできたのが筒路森家。
「この家には、あの子がいるでしょう。蝶と話ができる子が身内にいたら、私は悠真様から嫌われてしまうと思っていて……」
筒路森家に妹が嫁ぐことで、北白川家には多額のお金が入る。
筒路森家は美しい娘を手に入れ、あとは妹の血を引く世継ぎの誕生を待つだけ。
「すまない、おまえの姉が不出来なばかりに……」
「私が嫁ぐことで、北白川家を救うことができるのなら本望ですわ」
「美怜……ありがとう」
ありあまる財力だけでなく、人々を魅了するほどの美貌を筒路森家は手に入れたかったということらしい。
「筒路森家では、不自由なく生きることができるわ」
「私はお母様とお父様も不自由なく生活してもらうために、この縁談をお受けしますの」
「美怜、幸せになるのよ」
「お母様、泣かないでください」
人々の記憶を奪うと言われている一匹の紫純琥珀蝶が、北白川家の屋敷を訪れた。
蝶に話しかけられた私は言葉を返し、その様子を見たお母様とお父様は私を気味悪がった。
(すべては、私が悪い……)
蝶と会話ができるのは異常なことだって、初めて知った。
蝶と会話ができるのは私だけということを、初めて知った。
私が遭遇した『初めて』は、私の未来を変えてしまうことに繋がった。
「はぁ」
母の様子を気遣うために差し伸べた手は振り払われ、私は赤みを帯びた手の甲を擦り合わせる。
(風邪を拗らせれば、私はもうすぐ死ぬことができる……)
お客様を出迎えるための部屋は筒路森家から贈られたガスストーブの暖かさに包まれているけれど、私に与えられた部屋には空気を暖める類のものは存在しない。冬の寒さを乗り切るには、あまりにも心もとない。
(でも、もうすぐ楽になれる……)
私が、蝶に言葉を返さなければ良かった。
私が蝶に言葉を返さなければ、私はまだ家族の輪の中へと置いてもらえた。
今頃は私もどこかの華族に嫁ぐことで、父と母の役に立てたかもしれない。
でも、そんな絵空事を描いてしまう自分に、嫌悪感を抱いてしまう。
「大嫌い……」
筒路森家と妹の縁談がまとまることを祝福するかのような、晴れやかな空が広がる時間帯。
私の話し相手になってくれる蝶が飛ぶ時間ではないため、私の話し相手は一向に現れない。
「こんなときばかり……独りにしないで……」
紫純琥珀蝶が飛ぶ時刻は決まっている。
そんな、蝶が飛び交う時間を知っている自分のことを、自分でも気味が悪いと思ってしまう。
「きゃぁぁぁぁ」
あまりの寒さで体が凍りつきそうになるような感覚を恐れたのか、私はいつの間にか深い眠りに陥っていたらしい。
母の叫びで目を覚まし、障子戸の向こう側に広がる蒼い空を見た。