「蝶が飛ぶ時間に、迎えに来る」
「いってらっしゃいませ」
筒路森に勤める侍女の方々は、必要最低限のことしかしない。
そう悠真様に命じられていることもあって、私は必要以上に婚約者としての顔を向けなくてもいいようになっている。
(これも、悠真様の気遣い……?)
彼を見送ったあと、私は屋敷の中から庭先に佇む一本の大きな桜の木へと目を向けた。
季節外れの桜の木は、なんとも寂しい空気をまとっているかのように視界に映る。
(世界がこんなにも平和なのは、狩り人のおかげ)
悠真様を見送った後の屋敷は、静寂そのもの。
炊事も洗濯も使用人たちが淡々と進めてくれるため、日常の喧騒に追われることもない。
洋風の長椅子に身を沈めながら、紅茶が注がれたティーカップから立ち上る湯気を見つめる。
(私はまだ、警戒されているということなのかもしれない)
孤独と向き合う時間の中で思うことは、紫純粋琥珀蝶の脅威にさらされている世界のこと。
自分一人でどうこうできる問題ではないと分かっていても、蝶の言葉が理解できるのなら助力できることはあるのではないかと夢を見る。
(でも、まだ、そのときではない)
静寂に包まれたまま時が流れるものだと諦めていたときに、扉の向こうから聞こえてくる声が静けさを破ってくれた。
(初さんの声……)
朗らかな笑みと声が初さんの特徴でもあるため、私の護衛に付いてくれているのが初さんだとすぐに分かった。
その声に耳を傾けてはみるものの、もちろん会話の内容を盗み聞きできるほど扉は薄く造られていない。
(初さんが、何を話しているか)
筒路森悠真の妻となる予定の私が体を休めている部屋の前で、初さんが護衛のために待機しているのは理解できる。
気がかりなのは、私が体を休めている部屋の前で何を話しているのかということ。
(わざわざ、部屋の前で会話する必要性)
私に、わざわざ聞かせたい話があるのだと悟る。
それは筒路森の事業に関する話でも、筒路森の妻としての役割を果たせということでもない。
内容は、紫純琥珀蝶に関する話のはず。それに気づくことができた私は、初さんが待つ扉向こうへと歩を進めていく。
「結葵様?」
扉向こうに待っていたのは、初さんただ一人。
彼が大きな独り言を話していたとは考えにくく、話し相手が消え去ったということは私に聞かせたくない話でもあるのかもしれない。
でも、何かしらに気づいてほしいという気持ちがあるからこそ、初さんは部屋の前で話をしていた。
「どうかなさいましたか?」
それに気づいた私は大きく息を吸い込んで、自身の決意を固める。
「悠真様に、付いていきたいという願いを叶えてもらうことはできますか」
私を屋敷に置いていく予定だったこともあり、初さんは少しだけ目を大きく見開いた。そして、ほんの少し考えごとを済ませてから私と視線を交える。
「その問いに関しては、可能ですとお答えします」
「ありがとうございます」
自分は人々から記憶を奪う蝶と言葉を交わすことができるだけで、それ以外の力は何も持たない無力な人間だとは思う。
「ただ、俺に付いてくると、確実に蝶は死にますよ」
周囲に希望や勇気を与えるような初さんの笑みが消えた。
笑顔の奥に深い思いが隠されているからこそ、初さんは笑みを浮かべることができるのだと悟った。
「俺でなくても、悠真くんが蝶を手にかけるかもしれません」
初さんの行動には、意味があると踏んだ。
だから、どんなに彼からに冷たい言葉を浴びせられたとしても、それに応じるだけの強い気持ちを持ち続けたい。
「悠真様が、蝶を殺害するところなんて見たくない……」
「たとえ一時だとしても、私は筒路森の人間に選んでもらえましたから」
立派な言葉を並べているように見えるかもしれないけど、心臓の動きは忙しない。
自分の心を曝け出すのなら、彼の無事を確信したい。
ただそれだけのこと。
世界の命運なんて大それたものを背負う覚悟なんて、最近まで閉じられた部屋で育った私にあるはずもない。
「私の力を、世界を平穏に導くために利用してください」
一瞬だけ、躊躇ったような表情を浮かべた初さん。
でも、彼はやはり笑顔が似合う人。
深呼吸をして、いつもの調子を整えてから初さんは口を開いた。
「……申し訳ございませんでした、覚悟を試すような言い回しをして」
「謝らないでください。お金目当ての婚約者なんて、怪しい以外の何者でもないですから」
「いえ、きちんと謝罪を……」
「悠真様を守るために行動してくださって、ありがとうございます」
悠真様や初さんたち狩り人にとっては、紫純琥珀蝶との戦いは日常茶飯事。
一方の私は呑気に障子戸越しに蝶と会話をして、蝶だけが私の話し相手になってくれた。
私が蝶に愛情を抱いていることを知っているからこそ、初さんは覚悟を尋ねてくれたのだと思った。
「いってらっしゃいませ」
筒路森に勤める侍女の方々は、必要最低限のことしかしない。
そう悠真様に命じられていることもあって、私は必要以上に婚約者としての顔を向けなくてもいいようになっている。
(これも、悠真様の気遣い……?)
彼を見送ったあと、私は屋敷の中から庭先に佇む一本の大きな桜の木へと目を向けた。
季節外れの桜の木は、なんとも寂しい空気をまとっているかのように視界に映る。
(世界がこんなにも平和なのは、狩り人のおかげ)
悠真様を見送った後の屋敷は、静寂そのもの。
炊事も洗濯も使用人たちが淡々と進めてくれるため、日常の喧騒に追われることもない。
洋風の長椅子に身を沈めながら、紅茶が注がれたティーカップから立ち上る湯気を見つめる。
(私はまだ、警戒されているということなのかもしれない)
孤独と向き合う時間の中で思うことは、紫純粋琥珀蝶の脅威にさらされている世界のこと。
自分一人でどうこうできる問題ではないと分かっていても、蝶の言葉が理解できるのなら助力できることはあるのではないかと夢を見る。
(でも、まだ、そのときではない)
静寂に包まれたまま時が流れるものだと諦めていたときに、扉の向こうから聞こえてくる声が静けさを破ってくれた。
(初さんの声……)
朗らかな笑みと声が初さんの特徴でもあるため、私の護衛に付いてくれているのが初さんだとすぐに分かった。
その声に耳を傾けてはみるものの、もちろん会話の内容を盗み聞きできるほど扉は薄く造られていない。
(初さんが、何を話しているか)
筒路森悠真の妻となる予定の私が体を休めている部屋の前で、初さんが護衛のために待機しているのは理解できる。
気がかりなのは、私が体を休めている部屋の前で何を話しているのかということ。
(わざわざ、部屋の前で会話する必要性)
私に、わざわざ聞かせたい話があるのだと悟る。
それは筒路森の事業に関する話でも、筒路森の妻としての役割を果たせということでもない。
内容は、紫純琥珀蝶に関する話のはず。それに気づくことができた私は、初さんが待つ扉向こうへと歩を進めていく。
「結葵様?」
扉向こうに待っていたのは、初さんただ一人。
彼が大きな独り言を話していたとは考えにくく、話し相手が消え去ったということは私に聞かせたくない話でもあるのかもしれない。
でも、何かしらに気づいてほしいという気持ちがあるからこそ、初さんは部屋の前で話をしていた。
「どうかなさいましたか?」
それに気づいた私は大きく息を吸い込んで、自身の決意を固める。
「悠真様に、付いていきたいという願いを叶えてもらうことはできますか」
私を屋敷に置いていく予定だったこともあり、初さんは少しだけ目を大きく見開いた。そして、ほんの少し考えごとを済ませてから私と視線を交える。
「その問いに関しては、可能ですとお答えします」
「ありがとうございます」
自分は人々から記憶を奪う蝶と言葉を交わすことができるだけで、それ以外の力は何も持たない無力な人間だとは思う。
「ただ、俺に付いてくると、確実に蝶は死にますよ」
周囲に希望や勇気を与えるような初さんの笑みが消えた。
笑顔の奥に深い思いが隠されているからこそ、初さんは笑みを浮かべることができるのだと悟った。
「俺でなくても、悠真くんが蝶を手にかけるかもしれません」
初さんの行動には、意味があると踏んだ。
だから、どんなに彼からに冷たい言葉を浴びせられたとしても、それに応じるだけの強い気持ちを持ち続けたい。
「悠真様が、蝶を殺害するところなんて見たくない……」
「たとえ一時だとしても、私は筒路森の人間に選んでもらえましたから」
立派な言葉を並べているように見えるかもしれないけど、心臓の動きは忙しない。
自分の心を曝け出すのなら、彼の無事を確信したい。
ただそれだけのこと。
世界の命運なんて大それたものを背負う覚悟なんて、最近まで閉じられた部屋で育った私にあるはずもない。
「私の力を、世界を平穏に導くために利用してください」
一瞬だけ、躊躇ったような表情を浮かべた初さん。
でも、彼はやはり笑顔が似合う人。
深呼吸をして、いつもの調子を整えてから初さんは口を開いた。
「……申し訳ございませんでした、覚悟を試すような言い回しをして」
「謝らないでください。お金目当ての婚約者なんて、怪しい以外の何者でもないですから」
「いえ、きちんと謝罪を……」
「悠真様を守るために行動してくださって、ありがとうございます」
悠真様や初さんたち狩り人にとっては、紫純琥珀蝶との戦いは日常茶飯事。
一方の私は呑気に障子戸越しに蝶と会話をして、蝶だけが私の話し相手になってくれた。
私が蝶に愛情を抱いていることを知っているからこそ、初さんは覚悟を尋ねてくれたのだと思った。



