「先程の女性は……」
「彼女は、狩り人(かりびと)の専門医だ」

 その答えを受けて、言葉を発することができなくなった。
 専門医だからといって、妾ではないという否定にはならない。
 それでも、彼の口調に冷めたものを感じ、彼と女性の間に特別な感情はないのだと気づかされる。

「なるほど、悪くないな。嫉妬という感情も」

 悠真様は、楽しそうに笑った。
 でも、私からすれば、あまりにも思い込みの激しい自分を恥じてしまう。
 穴があったら入りたいという言葉は、こういうときに使うのだと思うほど顔が熱い。

「申し訳ございません……」
「謝る必要はない」

 たかが、四という年の差とも言える。
 でも、十六の私からすれば、彼はとても大人びた世界を生きる男性。

「結葵が本音を話せるようになっただけで、こちらは幸運に思っているくらいだからな」

 私が間違いを犯してしまっても、彼なら私を救いに現れてくれるのではないか。
 それほどまでの懐の深さで、彼は四つ離れた私のことを気遣ってくれる。

「すべてを曝け出す必要はないが、結葵が背負っている負担を背負えるくらい信頼ある男を目指すか」

 世間から恐れられているという噂は、いつ、どこへ消えてしまったのか。
 何度も何度も、そんなことを考える。
 たくさんの愛情と優しさで包み込んでくれる彼のことを、とても冷酷冷淡な筒路森の血筋だと思うことはできない。

(彼の優しさに応えるには……)

 私は首を振って、素直な気持ちを表情に浮かべるように心がける。

「ほんの少しお別れしただけなのに……」

 秋の終わりに咲く花の種類は少ないけれど、雨の雫に濡れながらも鮮やかな色を誇っていた。
 花のような美しさをまとうことはできないけれど、私も彼に鮮やかな世界を見せたいという願いが私を強くする。

「こんなにも寂しい気持ちに駆られるものなのですね」

 素直な気持ちを溢すという、普段しないようなことをしようとしたからかもしれない。
 私の言葉を阻むように、突然、秋の終わりを告げる風が吹き抜けた。
 まるで嵐が吹き抜けたような力を持つ風に、手にしていた傘が軽々と舞い上がった。

「あ」

 傘の布が張り詰めて音を鳴らし、風に乗って傘が攫われてしまう。
 傘を追うために手を伸ばしたけれど、その手はそっと引き留められた。

「結葵」

 雨は遠慮という言葉を知らずに降り注いでくるため、瞬く間に私は体を濡らしてしまうはずだった。

「濡れるだろ」

 傍らにいた悠真様が傘をさっと差し出し、私の体を覆ってくれた。
 傘を失った私を咎めることなく、彼は穏やかに笑った。
 冷酷冷淡な筒路森という噂は、なんだったのか。
 そう思ってしまうほどの優しさで、私は悠真様の傘の中へと招かれた。

「こういうのを、相合傘と言うんだったか」
「っ」

 私は彼の近くに寄り添うだけで戸惑っているのに、彼は余裕ある態度で私をからかってくる。
 不意に訪れたこの距離感に心を揺らしているのは自分だけだと思うと、顔に熱が籠りそうになる。

「やはり、傘を取って……」

 肩が、触れ合う。
 ここまで近い距離で、彼と顔を見合わせる状況に私は耐えることができない。

「結葵、少し落ち着け」

 彼の優しい声が、耳元で響く。
 彼は私の腕をそっと掴み、私は一歩、踏み出すことを諦めた。

「山茶花が好きと言っていたな」

 私の緊張を察してくれたのか、彼は私をからかうことをやめた。
 彼の温もりが、雨の冷たさを忘れさせてくれる。

「こっちだ」

 彼の強い手のひらの感触が腕に残り、彼に対して凝り固まった感情が溶き解れていくのを感じる。

「これは……お見事ですね」

 冷たい雨が静かに降りしきる中、私たち小さな傘の下に身を寄せ合って庭を歩いた。
 そして、風情を感じさせるほどの山茶花が咲き誇る場所へと案内された。

「庭師の腕がいいんだろうな」
「庭園の完成度の高さは、筒路森の権力を表現する手段の一つですよね」
「……確かに、な」

 彼は静かに呟きながら、傘を持たない方の手で私の冷たい指を優しく包み込んでくれた。

「なんだか、結葵と山茶花の観賞をするのは不思議な気持ちだな」
「私も同じことを思っていました。ここに来るのは初めてなはずなのに、誰かと一緒に観賞したことがあるような……そんな、懐かしい感じがします」

 まるで、誰かとこうして山茶花を見ていたことがあるような気がしてくる。
 本当に遠い記憶の中で、悠真様と会ったことがあるのではないか。
 そんなお伽話を妄想していると、繋がれた手にぎゅっと力が込められたことに気づく。

「妬けるな」

 彼の声は優しいものだったが、その響きは私の胸に微かな痛みを残す。

「あ……そんな、嫉妬されるような話ではありませんよ! そもそも、誰と山茶花を見たかも思い出せないくらいで……」

 まるで紫純琥珀蝶(しじゅんこはくちょう)に、記憶を食われてしまったような。
 それくらいぼんやりとした記憶に、嫉妬という感情を抱いてもらうことすら勿体ない。そう思って、私も繋がれた手に力を込めた。

「その相手が、俺だったらいいのにな」

 彼の瞳が、揺らいだ。
 でも、すぐに、ふっと微笑みを浮かべて、悠真様は場に漂う感傷的な空気を入れ換えた。

「私も」

 言葉以上の何かが流れていくのを感じるけど、それを言葉にするには覚悟も自信もない。
 でも、色鮮やかな花びらが散りばめられた庭園を前に、嘘という濁った色を残したくないと思った。

「悠真様の運命の相手が、私だったらいいなと思っていたところです」

 冷たい雨の音が庭先に落ちる中、山茶花はしっとりと濡れて艶やかさで私たちを魅了してくる。私たちはただ寄り添って、その情景を共に眺めた。