「……(うい)さんとお話することができて、とても嬉しいです」
「お気遣いありがとうございます」

 時折笑みを浮かべてくれる悠真様とは違って、初さんは基本的に笑みを絶やすことがない人だということを知る。
 私が素直に喜びを表現すると、初さんはより一層美しい笑みを浮かべてくれた。

「何かあったら遠慮なく話しかけてほしいのですが……」
「ありがとうございます、初さ……」
「あまり頼りにされてなくて、舐められることも大変多いんだよね」

 丁寧な口調で喋っていた初さんの口調が変わる。
 年上の男性であることに変わりはないだろうけど、初さんの不服そうな顔を見ることができて思わず口角を上げてしまった。

「何かありましたか? 悠真くんとの生活で」
「何か、ですか」

 これから楽しく言葉を交わすことができそうだと安堵している中、初さんの話し方は元の丁寧な口調へと戻っていった。

「もっと悠真様のお役に立ちたいと思うのですが、人の役に立つというのは想像していたよりも難しいものですね」

 北白川の家に多額のお金が送られていることは間違いないだろうけど、その多額の額に見合うだけの働きを私はまだできていない。

「まだ十六なんだから無理しなくていいよなんて、そんな投げやりな言葉は求めていませんよね」

 初さんは沈黙を作ることなく言葉を交わしてくれるけど、その言葉の向こう側でいろいろなことを思案されているんだろうなという配慮を感じた。

「年下だからこそ、甘えてもいいのでは?」

 初さんの思考を読み取ることなんてできないのに、彼が私のための言葉を探しているような視線や仕草。
 やはり私よりも人生を長く生きていて、人生経験が豊富な方が他人のために生きられるのだと痛感させられる。

「そもそも、結葵様は無理をされていませんか」

 真っすぐな視線を向けられ、自分が初さんに大きな心配をかけていることが分かる。

「とても良くしていただいているのに、無理なんて……」
「男を立てたいというお気持ちは否定しませんが、そこに遠慮があっては悠真くんが寂しいだけなのではないかと」

 笑顔を崩すことなくいたいと思っても、正直、それを難しいと感じていた。
 私よりも年上の初さんは、年下の私を救うための言葉を与えてくれる。

「結葵様は、無理に笑うのがお得意そうですね」

 心配そうな眼差しから、いつもの安心感を抱くような笑みを浮かべてくれる初さんの配慮。

「悠真くんに嫌われないように必死なのかと」

 悠真様は初さんの、この優しさに何度も助けられているのかもしれない。

「悠真くんは、些細な変化に気づかないほど鈍感な方ではありませんよ」

 北白川の外に出たときから、悔しいという気持ちを抱いていた。
 私は閉ざされた部屋で人生のほとんどを過ごしてきたのに、外を生きる人たちは私よりも何十倍も何百倍も豊かな経験を積まれてきたということに。

「悠真くんは、結葵様が悲しみを抱いていたことに気づいたと思いますよ」

 北白川の外へと追い出された私は人前に出ることもなくなり、孤独を生きる生活が当たり前になった。
 それを言い訳にするなんて格好悪いけど、その、たった独りで生きていく生活は私に新たな経験をもたらすことはなかった。

「嫉妬した」

 私が憧れる立派な人生経験を手に入れるには、どれだけの年月がかかるのか分からない。

「それだけで、十分かなと」

 悠真様の婚約者として生きていくための経験が欲しい。
 それなのに、私が彼から別れを告げられる日の方が早いのではないかという予感が走っていた。

「なんでも話してください。お二人は、恋仲なのですから」

 知識も経験もないくせに、悠真様を幸せにしたい。
 そんな感情を抱く自分を愚かだと思うこともあったけれど、幸せにしたいという気持ちが本物なら何があっても歩み寄るべきだと初さんに教えてもらう。

「男は、格好つけたがりですから」
「そうなのですか?」
「はい、悠真くんに恰好をつけさせてあげてください」

 一方的に抱いている感情なんて、無意味なもので終わってしまうかもしれない。
 でも、政略結婚で結ばれた期間だけでも、その無意味さを取り払いたい。
あたらめて、彼を幸せにしたいと思った。

(悠真様には、少しでも安心して家に帰ってきてほしい)

 もしも悠真様が苦しみを抱えているというのなら、終わらない苦しみはないということを伝えたい。

「結葵っ」

 恋焦がれる男性の声が、私の名を呼ぶ。

「では、俺は、このへんで」

 初さんは静かに姿を消し、代わりに傘を差した悠真様が私の元へと駆けつけた。

「悪かった、独りにして」

 私の表情を気にかけ、彼は少し心配そうに声をかけてくれた。
 そんな彼に、心配をかけないような笑みを作り込む。

「謝らないでください。旦那様の帰りを待つのは、未来の妻である私の役割ですから」

 控えめな言い回しをすることで、私は気にしていないと彼に安心をしてもらう。
 胸の中に広がっていく嫉妬心なんてなかったことにして、この場をやり過ごすため良き妻を演じていく。

(妾の女性に対して、何かを口にしてはならない)

 心にのしかかった重みを少しでも軽くするために、無理にでも口角を上げる。

「まだ至らぬところが多々あると思いますが、誠心誠意、筒路森の嫁として……」
「表情を作り込んだところは褒めてやりたいが、肩が重そうだぞ」
「え」
「肩が重そうに下がって、いかにも悩んでますって体が訴えてる」

 彼を見上げると、彼の優しい瞳が私を包み込むように見つめていた。
 そして、何の前触れもなく彼はぽんと私の頭を撫でた。

「努力はしてもいい。だが、一人で抱え込んで、どうにもなくなるところまで追いつめられるのは努力とは言わない」

 彼の言葉が、深く響く。
 傘を持たない方の手で、彼の手のひらが私の髪に触れてくる。
 目を見開いて驚きの感情を露わにしたけれど、彼はお構いもなしに私の心を解きほぐしにかかる。

「あ……の……」
「ん?」

 彼の手が優しく髪の上を通り、まるで私に安心感を与えるような触れ方をしてくる。

「妾を取るという文化に慣れていないもので……」
「……ん?」

 あまりに彼の優しさが心に染み入るため、涙を溢れさせてしまいそうになる。
 でも、ここで涙を溢れさせてしまうのは、益々、筒路森の婚約者として相応しくないと思って涙を堪える。

「それで……筒路森の嫁として、しっかりあらなければいけないなと気を引き締めていたところで……」
「待て。口数が増えたのは嬉しい。君の努力も伝わった。だが、なんで、いきなり妾の話が出てきた……?」

 彼の温かさが遠ざかっていくと同時に、彼は深い溜め息を溢れさせた。