「君の人生は、努力をすることだらけだな」

 柔らかい笑みを向けてくださる悠真様を見て、世間から恐れられていた冷酷冷淡な筒路森の当主という設定はどこへいったのかと思ってしまう。

「中途半端な生き方をしてしまったもので……」

 紫純琥珀蝶(しじゅんこはくちょう)と言葉を交わす前の幼少期は、華族との政略結婚を成立させるための教育を受けてきた。
 けれど、紫純琥珀蝶と喋ることができると判明してからは、北白川の残された財産が私につぎ込まれることはなくなった。
 私に注いできたお金はすべて、妹が美しく生きるために使われてきた。

「中途半端な教育しか、受けていないと言えばいいのでしょうか……」

 華族と政略結婚するのに相応しいのは、蝶と話せる私ではない。
 普通の生き方ができる妹の美怜だと、父は判断した。
 北白川という名を守りたいという両親は、いらなくなった私を殺すことができなかった。
 生かしたくもないけれど、殺人に手を染めるくらいなら仕方なく生かす。
 それが、両親の決めた教育方針だった。

「私が、筒路森様に相応しい妻になれるのか……」
「自信がないか?」

 言葉を選びながら話をしている私を、悠真様は咎めることも急かすこともなかった。
 私なりの速度で言葉を選べるように、彼は待ってくれる。
 その気持ちを感じられるからこそ、心が彼へと懐いていくのが分かる。

「政略結婚から始まる関係だ」

 悠真様の言葉には棘のようなものを感じてしまうのに、私の髪に触れる際の手つきは優しい。

「互いに得るものさえあれば、そこまでかしこまる必要はないだろ」

 私を美しく着飾ろうとしてくれているのが分かるからこそ、彼の声で奏でられる言葉たちの冷たさに戸惑ってしまう。

「金が欲しければ、いくらでも言ってくれ」

 この時代に、契約結婚は珍しいものではない。
 筒路森と北白川を存続させるために結婚する私たちに、心なんてものは必要ない。
 あらためて告げられる現実に、私は彼の言葉を肯定することすら忘れてしまった。

「遠慮するな。俺たちの関係は政略結婚から始まったんだ。なんでも要求してほしい」
「……努力しま……」

 何度、努力しますという言葉を繰り返すつもりなのか。
 私の言葉遣いに笑いが堪えきれなくなった悠真様は、声を出して笑いを溢れさせた。

「変に難しく考えるから、結葵の人生は努力だらけになるんだと、よ~く理解した」

 彼が笑った瞬間、障子の向こう側にある庭園で色褪せた落ち葉が風で舞った。
 世間は薄暗さを知る時間帯になってきているはずなのに、筒路森の庭園は夜という時間を演出する工夫が施されているらしい。
 いつ、どんなことがあっても、美しい生き方をしなければいけないという華族としての誇りのようなものを感じた。

「何も考えていないときの方が、素直に名前を呼べるらしいぞ」
「……いつ、私が筒路森(つつじもり)様の名前を呼んだのか記憶にないのですが」
「それは秘密にさせてくれ」

 心で、彼を名前で呼んでいることに気づかれたのか。
 筒路森には特殊な能力が授けられているのかと焦りやら羞恥やら、様々な感情が混ざりすぎて可笑しくなりそう。
 障子の隙間から見える季節の移り変わりに目を向け、心を落ち着けようと意識したときのことだった。

「ああ、外の景色が気になるのか」

 悠真様は些細な変化に、とても敏感だった。

「空気を入れ換えるために少し開けていたんだが……全開にすると、さすがに身体に堪えると思ってな」

 空気が澄み渡り、朝晩の冷え込みが一層厳しくなってきた今日この頃。
 息が白くなることで冬の訪れを感じられるようになって、ああ、手足の先が凍える毎日が始まるのかと恐れを抱いていた。

「病み上がりに無理をさせたくないんだ。これくらいの隙間で我慢してくれ」

 でも、今年は久しぶりに暖を取ることができる。
 凍てつくほどの冷たい空気に怯え、手足の感覚がなくなることもない。
 彼の優しい微笑みは、私のことを守ってくれる。
 そんな自惚れに酔いしれながら、赤らめた頬の熱が早く引くように両手で頬を覆った。

「身支度ができたら、庭に出るか」
「どこへでもお供いたします」
「ははっ、いちいち堅苦しいな」

 せっかく私の相手をしてくれるのだから、私と接してくれる方にも心地のよい時を過ごしてもらいたい。
 欲を出すのなら、悠真様を大きな優しさで包み込んであげられるような人間でありたい。
 そうは思っていても、彼は私よりも大きな愛をくださるから困ってしまう。

「先程、中途半端な生き方と言ったが……」
「はい」
「綺麗な髪だ」
「……ありがとうございます」

 私の髪が綺麗なのは、筒路森家に来てから、とても良くしてもらっているからだと思う。
 外の世界には、こんなにも大きな贅沢が待っていたのかと驚かされるほど、筒路森家の財力の高さには感謝をしている。

「痛くないか?」
「こんなの、痛みのうちに入りません」

 悠真様の手がそっと伸び、私の髪へと触れた。
 綺麗な髪とおっしゃってくれたものの、筒路森のご当主様に触れてもらうほどの価値があるとは思えない。

「この髪を、もっと引き立てるには……」

 私の髪に触れている間、彼は一人きりの世界に没頭されていた。
 ときどき発せられる言葉に何かを返したいと思っても、何を返していいのかさえ分からない。
 でも、彼の声で伝わってくる言葉の数々に勇気づけられていく。
 その言葉の数々を受け入れると、自分の口角が上がっていくのが感じてしまって恥ずかしい。

(今なら、勇気を出せるかもしれない……)

 たとえこの婚約に何か裏があったとしても、自分が大切にされていることに変わりはない。
 悠真様が与えてくれる優しさに、応えられる人間でありたい。
 そんな小さな夢を実現させるために、閉じたままだった唇を動かすことを私は選んだ。

「悠真様の手の温もりが、とても心地よいです」

 優しく穏やかな彼の熱が、髪の上で動きを止める。

「……悠真、様?」

 心の中で呟くだけで、肝心の言葉が出てこなかった。
 彼の名前を呼びたいのに、緊張で声が出ない。
 心の中では何度も練習をしていて、それをやっと自分の声に乗せることができたのに、彼の返事はなかった。

「あ……やはり突然、お名前でお呼びして失礼……」
「違う、そうじゃなくて……」

 鏡越しに映る彼の表情だけでは満足いかなかったらしくて、私は後ろを振り返りたい気持ちに駆られる。でも、髪が乱れることを恐れて、それができない。

「悠真さ……」
「想像していたよりも、嬉しいものだな……」
「……何、が……」
「結葵に名を呼んでもらうことだよ」

 悠真様が丁寧に私の髪を梳かすことで、私の髪には艶やかさが増していく。
 悠真様の手には、魔法みたいな力が宿っているのかもしれない。