「気を遣いすぎると、肩が凝るからな」
「では、気を遣いません」
「ん?」
「緊張で、食事が喉を通りません」

 遠慮することなく言葉を発すると、彼は私が愛する優しい笑みを浮かべてくれた。
 堪えきれない声が溢れ出すという、おまけも付いてきたけれど。

「待ってろ、いま人を呼ぶ……」
「……遠慮します」
「だったら、頑張って食べてくれ」
「……いただきます」

 悠真様を慕う方が、どれだけ存在するのか分からない。
 彼交友関係を把握できていない段階ではあるけれど、紫純琥珀蝶を狩る力を持つ彼の時間を私が独占していいわけがない。
 それくらいのことは、彼の優しさを通して感じ取ることができる。

(悠真様の優しさから解放してもらうためにも、私は蝶を……)

 北白川家の娘だから、優しくしてくれる。
 このまま紫蝶琥珀蝶(しじゅんこはくちょう)を絶やすことができなければ妻になる存在だから、優しくしてくれる。
 外面を良くしたいから、優しくしてくれる。
 紫蝶琥珀蝶と言葉を交わすことができるから、優しくしてくれる。

「始めは、不慣れなことが多くて嫌になるな」
「ご当主様にも、不慣れなことがあるのですか」
「だから、不慣れと告白してくれた君の気持ちは理解しているつもりだ」

 きっと、どれもが正解。
 だからこそ、私に割いてくれている優しさを、ほかの誰かのために活かしてほしいと思ってしまう。

「時間なんて、いくらでもかければいい」
「少しずつ、馴染んでいってくれ」
「……ありがとうございます」

 私は悠真様の優しさがなくても生きていける強い人間だということを知ってもらって、彼には安心して世界の平穏のために時間を費やしてほしい。

「結葵は、人を頼らなそう……いや、人を頼ることを知らなそうだからな」
「……ご心配をおかけして申し訳ございません」
「心配させることを、悪と言っているんじゃない」

 食事を摂ることの大切さと難しさを同時に感じることに苦戦している私に対して、彼は変わらぬ優しさを与えてくれる。

「俺は、これから結葵のことを利用していく。こっちも利用してもらわないと割に合わないだろ」
「悠真様には、十分なものをいただいていますよ」

 筒路森家から、北白川家には多額の金を。
 北白川家から、筒路森家には紫蝶琥珀蝶と対話する力を。
 そんな契約を成り立たせる関係とは思えないほど、彼は優しい。

(紫純琥珀蝶のお墓を建てる際に、恐らく多くの反対があった……)

 その反対を押し切った方とは思えないほど、彼は優しすぎる。
 それ以上の優しさを、私に与えないでほしい。

「いつか……」

 自惚れてしまいそうになるから。
 自分にも役立てることがあるんじゃないか。
 世界を救うための力になれるんじゃないかという自信にすり替えてしまいそうになるから。

「いつか紫純琥珀蝶が飛ばなくなる日が来たら……昔の男のことなんて、さっさと忘れて自由になってくれ」

 交わし合う言葉の中にも、自分の無力さを感じる瞬間があるのだと気づいた。
 契約で結ばれた関係のはずなのに、自由になってくれ。
 矛盾した言葉の掛け合いに、どうしようもない優しさを感じる。
 それなのに、私は悠真様の優しさに応えるための言葉を持たない。

「蝶が飛ばない日が来るよう、尽力させていただきます」
「相変わらず、だな」
「ふふっ」

 蝶と言葉を交わすことしかできない私に、なんて言葉をかけるのだろう。

「私は……」

 心が揺らぐ。
 悠真様を知るための時間を、もっともっと欲してしまう。

「忘れなくてもいいですか」

 叶わない願いごと。
 もっとという言葉を付け加えたところで、私には自分の中に生まれた願いを叶えることができない。

「私は悠真様に助けてもらったことを、忘れたくありません」

 私は、幸せになってはいけない。
 幸せになっていいのは、私の手を取ってくださった悠真様だけ。
 幸せになる権利を持っているのは、国を良くするために生きている悠真様だけ。
 だから、私は欲することをやめなければいけない。

「君の性格は、欠点だらけだな」
「頑固なところでしょうか」
「自覚があるところが面白い」
「ありがとうございます」

 日本語のやりとりとしては、不正解なのかもしれない。
 でも、私も悠真様も、楽しい食事時間を過ごすことができた。
 もちろん彼が心の底から楽しかったかどうかなんて分からないけれど、彼は無理にでも私に笑顔を向けることを選んでくれたのなら大丈夫だと思いたい。信じてみたいと思った。

「……すみません、あの、本当に……」
「そんなに緊張するな。悪いようにはしない」

 世間にとっては、存在してもしなくてもどうでもいい存在だった北白川家。
 身支度を整えてくれる侍女を控えるなんて贅沢をする余裕もなく、北白川家が見栄を張るための僅かなお金は筒路森家と祝言を成立させる妹につぎ込まれた。
 一畳分の部屋に閉じ込められてきた私は、お洒落というものにも疎かった。

「あの……でも、恥ずかしいので……」
「その羞恥を取り払ってくれるか」

 送られる言葉はいつだって真摯さが込められていて、自分だけが取り乱しそうになるから恥ずかしい。

「っ、努力いたします……」

 髪に、優しく触れる人がいる。
 繊細であり、陶器のように美しくもある、その手。

「こんなご時世じゃなかったら、人々を美しく着飾る職を目指していたくらい美容への関心は高いつもりだ」
「こんなご時世……」
「紫純琥珀蝶が飛び交う世でなければ、という意味だ」

 私に触れたところで、私は壊れたりなんかしない。
 それなのに、まるで割れ物を取り扱うときのような優しさで触れてくれる。

「ご当主様は……」
「悠真」

 心の中では、筒路森のご当主様のことを名前で呼んでいることを見透かされたのかと思って焦った。

「君も、そのうち筒路森の姓になるんだぞ。いつまでも当主と呼ばれてもな」
「……申し訳ございません」

 筒路森悠真様のことは幼い頃から存じ上げていたけれど、その存じ上げるというのは名前を見聞きしたことがある程度のもの。

「呼び方を強制するつもりはないが、いつまでも強情を張っていると……」
「…………?」
「そのうち言い間違えるからな」
「……滑らかに名乗ることができるように努力します」

 こうして言葉を交わし合うのは、初めてのことのはずなのに。
 私は、彼と過ごす時間を心地よいと感じるようになってきてしまった。