(しっかり眠ったはずなのに、眠った気がしない)

 ずっと暮らしてきた北白川の家は、古い和風の屋敷だった。
 木目の柱や畳の香りが特徴的で、縁側では季節の花々を愛でるのが幼い頃の日常だった。

(悠真様との生活が始まる……沈んだ顔は見せられない)

 紫純琥珀蝶(しじゅんこはくちょう)と言葉を交わせることを理由に、その日常は終わりを告げた。
 そして、今日を境に、北白川にも別れを告げなければいけない。

(これが、筒路森(つつじもり)の邸宅……)

 日本と西洋の文化が交錯する雰囲気の屋敷に肩身を狭くしながら、朝食を食べるための部屋に歩を進めていく。
 日本人の身長の遥か上回る高い天井に飾られた照明器具にすら怯えを抱いてしまって、こんな醜態を将来の旦那様にさらすわけにはいかないと握る手に力を込める。

(こんなにも綺麗な硝子を見るのは、初めて)

 色を含んだ硝子を目にするのも初めてで、その鮮やかな輝きを放つ色硝子の断片を繋ぎ合わせた窓硝子は芸術品としか呼べなくなるくらいの感動を与えてくる。
 恐怖と感動が入り混じりながら廊下を歩くという体験に戸惑いながらも、私は事前に指定された部屋へと辿り着く。

「おはようございます」
「おはよう、迷わずに来られたな」

 大きな窓を背景にした、屋敷の主人へと挨拶する。
 金縁の眼鏡は彼の高貴さを表していて、書類を確認する仕草すら魅入ってしまう。
 窓の向こうには風が吹くたびに、地面へと落ちた葉たちが再び空へと舞い上がる様子が映し出されている。
 数を減らした枝の葉すら背景に溶け込んでしまっていて、まるで彼が季節の移ろいを操作しているのではないかと、馬鹿みたいなお伽話を妄想する。

「まだ結葵の好き嫌いが把握できていないから、食べられる物だけ口にしてくれ」

 生命活動を維持するために必要な栄養素がきちんと考えられた、そんな豪勢な朝食が私を出迎えに驚いて言葉を失う。
 品数の多さにも驚かされるけれど、こんなにも色鮮やかな食卓に感銘を受けたのは人生で初めてのことだった。

「あと、病み上がりなんだから、無理して食べるなよ」
「はい、気をつけます……」

 日本と西洋の文化が混ざり合った筒路森の屋敷でさえ不慣れだというのに、そこに更に不慣れな食事が提供される。

「あの、こちらは……」

 炊き立ての白米が湯気を立てている様子と、味噌の香りが漂ってくる味噌汁の椀に目を奪われる。
 紫純琥珀蝶と言葉を交わす前の私が口にしていた懐かしい食事に込み上げてくるものがありながらも、私は見慣れぬ食事に視線を注いだ。

「ああ、北白川では和食しか提供されないか」
「あ……えっと、では、これが洋食ですか?」
「一応、そう呼ばれているらしいな」

 自分で椅子を引いて、座りやすい位置へと椅子を移動させて腰を下ろした。
 より近い距離で、絵画のような彩の豊かさをもった食事へと注目する。

「好きなだけ悩んでくれて構わないが、悩んでいるうちに食事が冷めるぞ」
「うっ……」

 初めての洋食を口にしたい気持ちはあっても、炊き立ての白米を口にするのは三年ぶりくらいのこと。どちらの気持ちを優先させるべきか決めかねている私に対して、彼は優しい声をかけてくれる。

「腹に余裕さえあるなら、どちらも口にしてみたらいい」
「でも……」
「この場には二人しかいない。食事の作法や礼儀は気にせず、結葵が楽しいと思える食事時間を優先すればいいんじゃないか」

 この優しさに、どう応えたらいいのか。
 私は十六で、筒路森の当主様はまだ二十歳になられたばかり。
 四という年齢の差なんて気にするほどのものではないと思ってはいたけれど、やはり彼と私では経験の差がありすぎて、その差を埋めるのに気の遠くなるほどのものを感じる。

「まあ、病み上がりの人間に食べさせる量ではないとは思うんだが……」
「ありがたく、お気持ちをちょうだいいたします」

 今朝の食事風景を通して穏やかな時間を取り戻そうとしていたはずなのに、彼との歳の差や経験の差を意識すればするほど心に更なる悲しみが乗っかったような気がして気が重くなる。

「……洋食がお好きなのですか」

 小鳥のさえずりが聞こえてきそうなほどの静寂に耐えきれなくなった私は、食事に手をつける前に世間話的なものを間に挟んだ。

「あー、その日の気分次第だな」

 銀の皿に注がれた、柔らかで滑らかそうなスープを口に運んだ彼を見る。
 彼は、どんなものを口にしても優雅に食事ができてしまうのだと気落ちしてしまった。
 提供した話題が特に盛り上がるわけでもなく、これでは自分の気持ちが益々沈んでいってしまうだけ。
 なんとか食事を口にして元気を取り戻そうと、彼を真似てスープから食事を始めようとしたときのことだった。

「結葵は、好みが見つかるといいな」

 異国の地にいるかのような不安定さを抱えていたのに、彼の声を聴くだけで心が元気を取り戻してしまう。いかに自分が現金な人間かということを思い知らされる。

「自分の好きを知らない人生は、きっと退屈だろうからな」

 でも、私の心は綺麗な感情を取り戻していくのに、私の声と言葉は、彼に綺麗な感情を届けられているのかと疑問に思う。

「……に食べて」
「ん?」

 自分の声のか細さに情けなさを抱くけれど、それで声を閉ざしてしまったら意味がない。
 どんなに小さな声だとしても声を出し続けなければ、私を大切にしてくれる人に自分の声は届かなくなってしまう。

「一緒に食べて……」

 テーブルの上に置かれた食事たちとにらめっこしているのかと勘違いしてしまうほど下へ下へと向けていた視線を上げる。

「好きや、嫌いを見つけていきたいです」

 悠真様と視線を交えると、彼は私が大好きと思う優しくて柔らかな笑みを浮かべてくれた。

「結葵の好きを増やせと言ったのは、俺だったな」
「ご当主様の好きも、私と共に増やしていってください」
「っていっても、本当に好き嫌いがないんだよな……」
「それを一緒に見つけていきましょう」

 小鳥のさえずりだけでなく、風で木々が揺れる音も繊細に運ばれてくる朝の時間。
 自然界を生きる命の音しか聞こえてこなくなったけれど、湯呑に注がれた茶だけはゆらゆら揺らいで、そこだけは唯一の騒がしさを感じられたかもしれない。
 けれど、音も立てない茶であることに変わりはなく、二人きりの空間に何も音は響かない。